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カラカラ浴場【中編】―― 灰色に霞む薔薇と、前代未聞の縁談 [ローマ編]

『老いたる跳ね馬亭』の賑やかな扉を背にして俺たちが足を踏み入れた北への街道は、歩を進めるごとに、その異様さを増していった。


頭上に広がる空は、本来の瑞々しい青を完全に失い、まるで出来の悪い灰色の絵の具を何度も塗り潰したかのように、重苦しく淀んでいる。


風が吹くたびに、大気中に漂う微細な魔力の塵がギラギラと不快な燐光を放ち、鼻腔の奥をツンと刺すような、嫌な鉄錆の臭いを運んできた。


俺は万能スキル【画家ピクチャー】を脳内で発動させ、世界の色彩を極限まで削ぎ落としたモノクローム・トーン――すなわち素描デッサンの世界に深く沈み込ませていた。


こうして世界の陰影キアロスクーロだけに焦点を絞っていなければ、大気中に満ちた歪んだ魔力の乱反射によって、たちまち網膜から脳へ過剰な情報が流れ込み、焼き切られてしまう。


「レオナルド、あまりぼんやりとするなよ。この辺りの地面は、数日前から奇妙な変質を始めていると報告が入っている」


そう言って俺のすぐ隣で、銀色に輝く甲冑の音をカシャカシャと規則正しく響かせながら歩を進めるのは、騎士団のフランチェスカだ。


世間では凛烈なる氷の女騎士などと噂される彼女だが、この『老いたる跳ね馬亭』の周辺においては、俺の型破りな推理を最も近くで支え、泥にまみれる汚れ仕事も嫌わずにこなす優秀な『探偵助手』に他ならない。


「心配するな、フランチェスカ。俺の目には、この泥道が砂利のように白くサラサラと風化していく『陰影の狂い』がはっきりと見えているよ」


俺は肩のコートを少し揺らしながら、街道の表面に不自然に浮き出た黒い筋を指差した。


「おじさん! 早く来てよ! こっちに、トビーが言っていた変な馬車があるんだ!」


前方を走っていた少年探偵団のリーダー、トビーが、泥塗れの帽子を激しく振り回しながら叫んだ。

彼のすぐ後ろからは、ハーフエルフの少女リリィが小走りで続き、大柄なオークの少年ガウルが用心深く周囲の臭いを嗅ぎながら歩いている。


俺たちがトビーのもとへ駆け寄ると、そこには街道の脇の深い泥濘に、車輪の半分以上を埋もれさせて完全に身動きが取れなくなっている巨大な木製馬車があった。


「おお、誰かと思えば『老いたる跳ね馬亭』のダ・ヴィンチのおじさんじゃねえか! 頼む、手を貸してくれよ!」


御者台で太い手綱を力任せに引っ張り、角を苛立たしげに振り回して冷や汗をかいていたのは、牛の頭部を持つ獣人の商人・グズマだった。

彼の自慢である二本の立派な角には、焦ったせいか泥水がびっしょりと張り付いている。


「どうしたんだい、グズマさん。積荷がそんなに重いのか?」


リリィが馬車に近寄り、荷台に積まれた麻袋の山を不思議そうに眺めた。


「そんなはずはねえんだよ! 積んでいるのはただの乾燥小麦粉と、隣町から安く仕入れた真鍮の燭台がいくつかだけだ! なのに、数分前から急に、馬車全体がまるで鉄の塊にでも変わっちまったみたいに重くなりやがったんだ!」


グズマは、泥の上で激しく泡を吹いて倒れ込んでいる二頭の『魔力馬マナ・ホース』を指差した。

その足元を見た瞬間、俺たちの間に緊張が走った。


馬たちの足に取り付けられていた鉄製の蹄鉄が、まるで熱した炉の中に放り込まれたかのように赤黒い熱を帯び、ドロドロと粘土のように溶け落ちて泥水に消えようとしていたのだ。


「ルカ、これに触れてみろ」


俺が促すと、結晶族の少年ルカが、静かに馬の足元へ近づいた。

ルカが自身の結晶でできた、透き通るような美しい右手を融解した鉄に近づけると、彼の皮膚の内部でキチキチと不穏な放電現象が起きる。


「……間違いないよ、ダ・ヴィンチ。これは普通の熱で溶けたんじゃない。地中深くにあるはずの『魔鉛石』の、極めて強力な磁場が、馬車の車軸や蹄鉄の魔力を一瞬で全て吸い尽くしたんだ。この世界において、魔力を完全に奪われた金属は、物理的な結合のバランスを失って質量が何倍にも膨れ上がった『死んだ超高密度重金属』に変質する。その歪みに耐えきれなくなった金属組織が、自重と摩擦で熱を持って融解したんだよ」


「なるほどな。これが旅人たちの間で噂になっていた『重量変化』と『蹄鉄の融解』という、一見オカルトじみた怪現象の物理的真実というわけだ」


俺は顎をさすりながら、【画家】のモノクローム視界をさらに研ぎ澄ました。

周囲の地面を注意深く観察すると、この沈んだ馬車の周りだけでなく、街道の至る所に、直径数メートルに及ぶ規則的な『円形の窪み』が点在しているのがデッサンのように浮かび上がってくる。


それはまるで、巨大な鉄のスタンプで地面を何度も押し潰したかのような不気味な光景だった。


「ただの自然現象ではないな、レオナルド」


フランチェスカが腰の長剣の柄に細い指をかけ、冷徹な視線でその窪みを睨みつけた。


「この窪みからは、魔力が急激に圧縮されて弾けた時の、特有の焦げ臭い残り香がする。これは何だ?」


「これは『魔力排圧ブロー』の衝撃波の跡だ。誰かがカラカラ浴場の豊富な温泉源の熱と水圧を利用して、不法に魔鉛石を精錬している。その炉の中に溜まった不要な『残留磁気エネルギー』を、この街道に向けて定期的に放出しているんだ。その目に見えない破壊的な波動が地面を叩き、この窪みを作り、同時に付近を通る旅人たちの金属装備を蝕んでいるというわけさ」


「なんて勝手なことを……。じゃあ、ぷに太郎だけじゃなくて、ここで一生懸命商売をしている人たちや、旅をしている人たちみんなが、その誰かの悪事のせいで命を危険に晒されているっていうの?」


ガウルが大きな拳を強く握りしめ、悔しそうに声を震わせた。


「事件の全体像が、ようやく一本の明確なデッサンとして繋がってきたな。だが、キャンバスに描かれた複数の怪しい『歪み』を一つずつ精査しなければ、真犯人という完成画にはたどり着けない」


俺は、今回の捜索状況から浮かび上がってきた、極めて怪しい動きを見せる『五人の容疑者』について、頭の中でパレットのように整理を始めた。


一人目は、今ここで馬車を立ち往生させている、ミノタウロスの行商人『グズマ』。

彼は最近、不自然なほど安い価格で「高品質な金属製食器」を市場に大量に流し、怪しい利益を得ていた。

その金属の仕入れ先はカラカラ浴場の裏手にある廃鉱山だという。


二人目は、カラカラ浴場専属の温泉管理責任者である、気難しい人間の男『アルド』。

彼はここ数週間、「源泉の魔力調整」という名目を掲げ、一般の冒険者や他の浴場職員を源泉区画へ一切立ち入らせていない。


そのくせ、彼の衣服からはいつも、温泉の硫黄臭とは異なる、煤けた油と薬品の臭いが漂っている。

三人目は、浴場への参道に新しく怪しげな露店を構え、新発売の「お肌がツルツルになる魔力泥パック」を売り捌いている、ラミア(蛇人)の薬売り『シビル』。


彼女が販売する泥パックを使用した客の一部から、皮膚が一時的に「結晶のように硬化して動かなくなる」という奇妙な苦情が寄せられていた。


四人目は、カラカラ浴場の裏山一帯の土地を「新種の魔鉱石発掘 of 権利を得た」と主張し、武装した私兵を使って完全に封鎖している、成金の人間の貴族『バルドゥール男爵』。

彼は以前から、国禁とされている「自動魔導兵器」の密造に手を染めているという噂が絶えない男だった。


五人目は、カラカラ浴場の受付と番台を務める、一見おとなしそうなハーピー(鳥人)の少女『ミナ』。

彼女は最近、羽毛を不自然な灰色に染めた奇妙な野生スライムを隠し持っており、夜な夜な源泉の裏口から「怪しい黒い液体」を排水溝に流している姿が、近隣の住民に目撃されていた。


「フッ、実に見事な容疑者たちじゃないか。まるで、一枚の混沌とした寓意画を見ているようだ」


俺は薄く笑みを浮かべた。


「レオナルド、感心している場合か。これほどの背景が絡んでいるとなると、単なる密猟の枠には収まらない。最悪の場合、この領地全体を揺るがす軍事的な陰謀の可能性すらあるのだぞ」


フランチェスカが俺の肩を強く掴み、その冷たい瞳に焦燥の色を浮かべた。


「だからこそ、助手であるお前の出番なんだよ、フランチェスカ。俺が真実をスケッチする間、絵の具を奪いに来る暴漢を追い払う役目が必要だ。お前の剣と盾は、そのためにあるんだろう?」


「……相変わらず、人を人使いの荒い絵の具の筆のように扱う男だな。だが、お前のその不遜な態度が、今は妙に頼もしく思えるのが癪だがね。行くぞ、これ以上の被害を拡大させるわけにはいかない」


「おじさん! 僕たちも行く! 少年探偵団の力、見せてやるんだから!」


トビーが胸を叩き、リリィとガウルも力強く頷いた。


俺たちはまず、立ち往生しているグズマの馬車を救い出すため、ルカの結晶魔法による『一時的な魔力遮断シールド』を車輪と馬の足元に施し、馬車を近くの安全な一時避難所へと退避させた。


これによって、街道の通行を妨げていた小さな事件は解決へと向かった。

しかし、これはまだ長い捜索のプロローグに過ぎない。


「おじさん、足元を見て!」


トビーが地面を指差した。


そこには、温泉の排水口から漏れ出たと思われる、濁った灰色の液体が、細い川のように街道の脇を流れていた。

その液体に触れた草花は、一瞬にして生命力を奪われ、まるで粘土の彫刻のようにカチカチに固まっている。


「これが、魔鉛石の排水か……。スライムたちが硬化するのも、無理はないな」


ルカが悲しそうに呟いた。


「ただの汚染じゃない」


俺は【画家】の目で、流れる灰色の液体の『構図』を追いかけた。


「この液体の流れは、カラカラ浴場の地下水路へと直接繋がっている。つまり、浴場そのものが、すでにこの魔鉛石の毒に深く侵されているということだ」


「急がなければならないな」


フランチェスカが剣を引き抜き、切っ先を前に向けた。


「浴場には、今も多くの一般客や亜人たちがいる。彼らにも被害が及ぶ前に、源泉を突き止め、この元凶を叩き潰さねばならん」


「ああ、行こう。カラカラ浴場に隠された、すべての秘密のベールを剥ぎ取ってやるさ」


俺は静かに歩みを進めた。

街道を少し進むと、温泉街の入り口が見えてきた。


しかし、いつもなら観光客や旅人で賑わっているはずの街並みは、どこか不気味なほどに静まり返っている。

開いている店は数えるほどしかなく、行き交う人々も皆、一様に顔を青ざめさせ、足早に通り過ぎていく。


「おじさん、あそこ!」


リリィが、街の広場にある大きな石造りの噴水を指差した。

その噴水から湧き出ているはずの温水は、今や完全に濁った灰色に染まり、噴水口 of 周囲の石彫は、まるで酸を浴びたように激しく融解し、醜く変形していた。


「ここも、すでに侵されているのか……」


ガウルが呟いた。

「おい、そこの者たち! ここで何をしている!」


突然、鋭い声が響いた。

振り返ると、そこには豪華な外套を羽織った、恰幅の良い人間の男が、数人の武装した私兵を従えて立っていた。

彼こそが、容疑者の一人であるバルドゥール男爵だ。


「ここは私の領地の一部であり、現在、原因不明の魔力災害により立ち入りを禁じている。速やかに立ち去れ」


「男爵、私たちは騎士団の調査隊だ。この災害の原因を調査しに来た」


フランチェスカが毅然とした態度で一歩前に出た。


「騎士団だと? フン、国家の犬どもが、私の領地に口を出すな。この災害はただの地殻変動による魔力の乱れだ。すでに私の抱える学者たちが調査を進めている。余計な手出しは無用だ」


男爵は冷酷な笑みを浮かべ、私兵たちに手招きをした。


「立ち去らぬというなら、力ずくでも排除せねばならんな」


「待て、男爵」


俺は【画家】の視線で、男爵の衣服の袖口を凝視した。


「お前の袖口に付着しているその『黒い粉末』……。それはただの泥ではないな。魔鉛石を精錬する際に出る、特殊な煤だ」


男爵の顔が一瞬、硬直した。


「な、何を馬鹿なことを! これは私の庭園の土だ!」


「言い訳は墓場で聞こう。フランチェスカ、ここは任せていいか?」


「ああ。レオナルド、お前たちは先に行け。こいつらは私が引き受ける」


フランチェスカが長剣を構え、男爵の私兵たちと対峙する。

「恩に着る、助手殿」


俺はトビーたちを促し、男爵の私兵たちの脇をすり抜けて、カラカラ浴場の本館へと走り出した。

浴場の内部に入ると、そこは息もできないほどの濃い灰色の湯煙に満ちていた。


視界は最悪だ。


しかし、俺の【画家】の目には、その湯煙の奥で蠢く、様々な魔力のラインがはっきりと見えていた。


「おじさん、あっちから変な音がするよ!」


ガウルが耳を澄ませた。


浴場の最深部、源泉へと続く重厚な扉の前に、一人の男が立ち塞がっていた。

彼こそが、管理責任者のアルドだ。

彼の衣服は、男爵と同じ黒い煤で真っ黒に汚れていた。


「ここから先は通さん……。これは、新しい世界の創造なのだ……」


アルドは虚ろな目で呟き、手にした魔導杖を構えた。


「アルドさん、目を覚まして! あなたは魔鉛石の毒に狂わされているんだ!」


ルカが叫んだ。

しかし、アルドの耳には届かない。

彼は杖を振り上げ、強力な重力魔法を放ってきた。


「トビー、ガウル、リリィ! 私の影に隠れろ!」


ルカが自身の結晶の身体から、眩い光の防壁を展開し、重力波をギリギリで受け止める。


「くっ……! 強い……! このままじゃ、防壁が持たないよ!」


「ルカ、その防壁の角度を左に3度傾けろ!」


俺は【画家】の目で、アルドの魔法の『光の構図』を瞬時に分析した。


「重力波の収束点がそこにある。防壁を傾けて屈折させれば、魔法は自壊する!」


ルカが俺の指示通りに防壁を傾けると、アルドの放った重力波は不自然に捻じ曲がり、彼自身の足元の床を激しく粉砕した。


「な、何だと……!?」


アルドが驚愕した瞬間、ガウルが突進し、彼の杖を強力なタックルで弾き飛ばした。

杖は床に転がり、アルドはその場にへたり込んだ。


「これで一人目だ」


俺はアルドの身柄を確保し、壊れた扉の先にある、カラカラ浴場の本当の『源泉』へと足を踏み入れた。

そこに待っていたのは、想像を絶する、巨大な『灰色の精錬炉』だった。

温泉の湧き出る湯口を塞ぐように設置されたその異形の機械は、大地の魔力を吸い上げ、絶え間なく不気味な魔鉛石のインゴットを吐き出していた。


実に見事な大仕掛けだが、ここにはもう一つの「不自然な影」が落ちている。

精錬炉の傍らには、信じられないことに、残る容疑者たち――シビル、ミナ、そして先ほどフランチェスカが相手をしていたはずのバルドゥール男爵の姿があった。


彼らは皆、何かに取り憑かれたような不気味な笑みを浮かべ、精錬炉のメーターを見つめていた。

「ようこそ、ダ・ヴィンチ。そして少年探偵団諸君」


男爵が振り返り、両手を広げた。


「君たちがここまでたどり着くとはな。だが、もう遅い。この『魔鉛の王』が完成すれば、この領地のすべての金属、すべてのスライム、すべての生命は、私の意のままに硬化し、崩れ去るのだ!」


男爵の背後で、精錬炉が凄まじい音を立てて駆動し始め、浴場全体が激しく揺れ動いた。

「事件のパズルのピースは、すべて揃ったな」


俺は懐から一本の炭筆を取り出した。


「男爵。お前たちの描いた醜いシナリオは、ここで俺が全て、白紙に描き直してやるさ」


俺は【画家】の視界を最大に広げ、目の前の巨大な魔導精錬炉の、たった一つの『構造的弱点(パースペクティブの崩壊点)』を見定めた。


この戦いの結末、そしてすべての謎の解明は、すぐ目の前まで迫っていた。

みなさま、どんな風に感じてもらったのでしょうか?

少しでも面白いかもと思って頂けましたら幸いです。

励みになりますので、☆☆☆☆☆をチェックしてもらえると嬉しく存じます。

これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

パラレルワールドで魔法と多種族の住む異世界でスキル無しで探偵します。

ローマ編追加しています。

よろしくお願いします。

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