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カラカラ浴場【前編】―― 灰色に霞む薔薇と、前代未聞の縁談 [ローマ編]

【前編】―― 灰色に霞む薔薇と、前代未聞の縁談 [ローマ編]


『老いたる跳ね馬亭』の一階最奥、薔薇の彫刻が精緻に細工された大きな石造りの暖炉の真横。


そこが、俺の『特等席』だ。


かつて地球で『万能の天才』と呼ばれた俺――レオナルド・ダ・ヴィンチは、この異世界において、酒場兼探偵事務所の主として日々をやり過ごしている。


この世界は魔力と生命力に満ち溢れているが、そのぶん、俺の網膜を刺激する色彩の情報量が多すぎる。


普通に生きていれば脳が焼き切れてしまうため、俺は常に万能スキル【画家ピクチャー】を発動させ、脳内で世界を白黒のトーン――すなわち素描デッサンの世界へと落とし込んでいた。


光と影、陰影キアロスクーロだけで構成されたモノクロームの視界こそが、脳のオーバーヒートを防ぎ、俺に静寂をもたらしてくれる。


「ふにゃあ」


足元から、甘えるような、だがどこか気品のある鳴き声が聞こえた。


俺の膝の上に飛び乗ってきたのは、真っ白なシャム猫の『ウララちゃん』だ。


サファイアのような青い瞳を細め、俺の服に額をこすりつけてくる。


「よしよし、ウララ。今日も一段と白いな」


俺は細くしなやかな指先で、彼女の柔らかな喉元を優しく撫で回した。


ウララちゃんは満足そうに喉をゴロゴロと鳴らし、俺の膝の上で丸くなる。


この穏やかな時間がいつまでも続けばいいのだが、この酒場兼探偵事務所にそんな贅沢が許されるはずもなかった。


ギイと、乾いた音を立てて店の重厚な木製扉が開け放たれた。


昼下がりの気だるい空気を一瞬で引き裂くように飛び込んできたのは、仕立ての古い、だが妙に豪奢なローブを翻した小柄な老女だった。


「大変だよ! おい! 起きておくれよ、おじさん! いや、万能の天才様!」


彼女の名はエルザ。


近郊のカラカラ浴場の近くに庵を構える、この界隈ではちょっとした名を知られた偏屈な召喚士の婆さんだ。


エルザはいつもなら気難しく他者を寄せ付けない雰囲気を漂わせているのだが、今日の慌てぶりは尋常ではない。


その目は血走り、息は激しく乱れ、額からは大粒の汗がボタボタと床に滴り落ちている。


彼女の両手には、震えるガラスの器が必死に抱えられていた。


「落ち着きなよ、エルザの婆さん。自慢の召喚獣が逃げ出しでもしたかい?」


カウンターの奥から、エプロンで手を拭きながら、マスターであるマルコ店長が声をかける。


「そんな生易しいものじゃないよ! 見ておくれ、このぷに太郎の姿を!」


エルザは俺の特等席までずいずいと、まるで突撃する戦車のような大股で歩み寄ると、手にしたガラスの器をテーブルの上に叩きつけた。


器の底で、青い召喚獣スライム――『ぷに太郎』が、力なく「ペシャリ」と不自然に潰れた形に変形したまま、震えている。


「数日前からだよ! 朝起きてもプルプルとも言わず、大好物の魔力シロップを目の前に出しても、見向きもしないんだ! それどころか、さっきなんて、かすかに『ふしゅるる……』なんて気味の悪い、まるでため息みたいな音を漏らしたんだよ! スライムがため息をつくなんて聞いたことがあるかい!? ないだろう! 私の心臓はもう止まりそうなんだ!」


エルザは自身の胸元を外から掻きむしるようにしながら、取り乱した声を上げ続ける。


「もうすぐ一歳になるっていうのに、こんなに元気がなくなるなんて! 私、ピンときたんだよ。これは絶対に恋病だ! ちょうど今の時期、カラカラ浴場には渡りの季節を迎えた野生のスライムたちがたくさん集まる。あの中に、ぷに太郎の心を奪った『運命の花嫁スライム』が絶対にいるはずなんだよ! おじさん、お願いだ、世界中を探してでも、うちのぷに太郎を元気にするお嫁さんを見つけておくれ!」


「おいおいおい! 聞いたかよお前ら!」


エルザの必死の剣幕をよそに、マルコ店長が愉快そうに身を乗り出した。


「スライムの嫁探しだってよ! 召喚獣だって恋をするんだ、お前らみたいな万年独り身の冒険者どもとは大違いだな!」


「へっ、余計なお世話だ、マルコ!」


最初に吠えたのは、ドワーフの鍛冶屋である常連のバラクだ。


すでにエールを五杯は煽っており、赤ら顔をさらに真っ赤に染め上げ、分厚い手のひらでテーブルを激しく叩いた。


「スライムの嫁つったら、そりゃあ火山地帯に棲む『情熱の赤スライム』に決まってんだろ! あの燃え盛るような弾力と熱さこそが、漢の魂を震わせるんだよ! ぷに太郎も、あの熱い抱擁を受ければ一発で目が覚めるに違いねえ!」


「はあ? 何をバカなことを言っているの、このドワーフは」


隣の席から、冷ややかな、しかし確実に酔っているエルフの薬草売り・セリアが絡みつくような視線を送る。


「スライムの真髄は、その高い浸透圧による洗浄力と、傷口を包み込んで癒やす『緑スライム』の優しさよ。ぷに太郎とかいう軟弱そうな青スライムには、母性溢れる緑がお似合いに決まっているわ。あんたの言っている赤スライムなんて、一日で蒸発して干からびるのがオチね。それとも、ぷに太郎を焼きスライムにでもしたいわけ?」


「なんだとお! セリア、お前、俺の鍛冶場の炉の熱さより赤スライムが劣るって言うのか! 焼きスライムとは何事だ!」


「事実を言ったまでよ。だいたい、あなたのその泥酔した頭こそ、一回ヒールスライムに包まれて冷やしてもらった方がいいんじゃないかしら」


「いやいや、二人とも分かってないっすねえ!」


その間に入り込んできたのは、犬の耳をパタパタと忙しなく動かす獣人の行商人・コップだ。


彼は仕入れてきたばかりの怪しげな魔導具をテーブルに並べながら、薄汚い手でもみ手をした。


「スライムの最先端は『黄色スライム』っすよ! あの触れた瞬間に全身を突き抜けるビリビリとした感触! あれこそが、退屈な日常に刺激を与える究極のパートナーっす! 試しにこの『自家発電式・雷針』を買っていけば、スライムの気持ちが分かるようになるかもしれないっすよ! 安くしとくっすよ!」


「うるせえ! 商売を始めるんじゃねえ、コップ! 誰がそんな怪しい針を買うか!」


マルコ店長がカウンター越しに、空のジョッキを投げつける真似をして一喝した。


店内の常連たち――亜人や人間の冒険者、荒くれ者たちが、それぞれの「理想のスライム像」を掲げて、あちこちで掴み合いの喧嘩を始め、酒が飛び散り、笑い声と罵声が入り乱れる。


これが『老いたる跳ね馬亭』の、いつものバカ騒ぎだ。


「静かにしておくれよ! 人のぷに太郎の生死がかかっているんだよ!」


エルザが杖を床にコツンと激しく突き立てて、常連たちを涙目で睨みつけるが、一度火がついた酔っ払いたちの議論は止まらない。


俺はウララを片手で抱き上げ、テーブルの上に置かれたガラス器の中の『ぷに太郎』をじっと見つめた。


脳内の【画家】の白黒フィルターを一時的に解除する。


世界がドクドクとした色を取り戻し、俺の視界に強烈な「情報」が突き刺さる。


「……やはり、ただの恋煩いなどではないな」


俺は呟いた。


スライムという魔物は、周囲の「環境(魔力と水質)」をそのまま肉体に反映する生態を持っている。


彼らは食物を食べるのではなく、体表から周囲の魔力や有機物を吸収して自己を維持する。


ぷに太郎の体から検出されるのは、極めて不自然な「鉛色」の魔力ラインだ。


これは、自然界に存在する通常の魔力汚染ではなく、何者かが人為的に調合した「触媒」の痕跡に他ならない。


「おじさん! 大変だよ!」


酒場の喧嘩騒ぎの雑音を突き破り、店内に飛び込んできたのは、少年探偵団の子供たちだった。


リーダー格の人間の少年トビーが、額に汗を浮かべて俺のテーブルへと突進してくる。


その後ろからは、ハーフエルフの少女リリィが弓を抱え、大柄なオークの少年ガウルが息を荒くして付いてきていた。


「どうした、トビー。そんなに慌てて」


俺は白黒の視界に戻し、子供たちの様子を観察した。


「街の北側の用水路で、また変なことが起きてるんだ! 今度はスライムが固まっただけじゃない。近所の農家のおじさんの畑のシャベルやクワが、急に『カチカチの石』みたいに変化しちゃったんだって!」


「鉄の農具が、石に変化した?」


俺は眉をひそめた。


「うん!」


リリィが言葉を継ぐ。


「それだけじゃないの。その畑の近くの草木も、全部色が抜けて、灰色になってポロポロ崩れてる。ガウルが触ろうとしたら、おじさんに止められたんだよね」


「すごく嫌な感じがした。身体が冷たくなるような、石の中に吸い込まれるような……」


ガウルが大きな体を震わせながら言った。


「それからね、おじさん!」


トビーがさらに身を乗り出す。


「さっき、その畑の近くを通った時に、変な足跡を見つけたんだ。すごく重たい靴を履いた人が、何かを引きずって歩いたみたいな跡。その足跡の周りだけ、土が真っ黒に変色して、変な臭いがしてたんだよ!」


「なるほど、複数の異なる現象が同時に発生しているわけか」


俺はウララの喉を指先で撫でながら、彼らの持ち込んだ情報を頭の中で素描として組み立てていった。


鉄器の変質、植物の枯死、そしてスライムの異常。


これらは決して個別の事件ではない。


スライムは周囲の環境を吸収する。


そのスライムが変色し、近くの金属や植物が急速に変質している。


つまり、環境そのものを根底から狂わせる強力な『何か』が、カラカラ浴場の方角から流れ出しているのだ。


「おじさん、これってやっぱり、カラカラ浴場の方で何かが起きてるんじゃないかな?」


トビーが目を輝かせながら俺の顔を覗き込んできた。


子供たちにとって、俺はただの「何でも知っている不思議なおじさん」だ。


彼らの純粋な信頼に応えるためにも、俺は腰を上げざるを得ない。


「そうだな。調査に行く価値はありそうだ」


「本当かい、天才様! ぷに太郎を助けてくれるんだね!」


エルザが俺の服の袖を掴み、すがるような目で訴えかける。


「ああ。だがエルザ、お前はここで待っていなさい。ぷに太郎は一度、この酒場の清潔な魔力水で休ませる必要がある。マルコ、店の奥の綺麗な水槽に、この子を移しておいてくれ」


「合点だ、ダ・ヴィンチ。しっかり休ませておくよ」


マルコがエルザからガラス器を受け取り、奥へと引っ込んでいく。


少し安心したのか、エルザは何度も俺に頭を下げながら、ふらつく足取りで店を出て行った。


俺がそう見送った瞬間、店の入り口の扉が、今度は非常に静かに、しかし威圧感を持って開かれた。


カシャ、カシャ、と洗練された金属鎧の擦れ合う音が店内に響き渡る。


バカ騒ぎしていた常連たちが、その冷徹な気配を感じ取って一瞬で静まり返った。


入ってきたのは、銀色の甲冑に身を包んだ美しい女性騎士――騎士団のフランチェスカだった。


彼女は腰に佩いた長剣の柄に手を当てたまま、まっすぐに俺の特等席へと歩み寄ってくる。


「レオナルド。お前の耳にも、あの噂は入っているな?」


フランチェスカの声は、氷のように冷たく、そして張り詰めていた。


「噂、とはどれのことだ? この店には、スライムの結婚相手に関する不毛な噂なら山ほど転がっているがね」


俺はウララを抱いたまま、軽口を叩いた。


「とぼけるな」


フランチェスカは凛とした眉をひそめ、俺の前のテーブルに、没収されたばかりとおぼしき「奇妙な金属片」を事も無げに置いた。


「カラカラ浴場の周辺警備を行っていた我が部隊の兵士たちが、相次いで体調不良を訴えている。彼らの鎧や武器は、まるで数百年も放置されたかのように脆く錆びつき、一部は石のように崩れ始めているのだ。そして、現場の近くで、これが見つかった」


テーブルの上の金属片は、ただの鉄ではない。


結晶のような輝きを持ちながら、鉛のような鈍い色を放っている。


「これは『魔鉛石』の精錬滓だな」


俺の隣で、ずっと静かに話を聞いていた結晶族の少年ルカが、その金属片を凝視して呟いた。


彼の透き通るような身体が、微かに不穏な光を明滅させている。


「ルカ、知っているのか?」


俺が尋ねると、ルカは小さく頷いた。


「魔鉛石は、強力な『魔力吸着性』を持つ極めて危険な鉱物だよ。通常は地中深くに封印されているはずなんだけど……これを不適切に精錬すると、周囲の魔力や物質の『結合力』を奪い取って、すべてを硬化・風化させてしまうんだ。たぶん、スライムたちが硬化しているのも、この鉱物の毒が原因だよ」


「なるほど」


俺は【画家】の視点から、その金属片の「光の歪み」を分析した。


「犯人は、魔鉛石を不法に採掘し、カラカラ浴場の豊富な熱源と魔力源を利用して、秘密裏に精錬を行っている。その過程で出た『魔鉛の毒水』が、浴場の排水に混ざり、周囲に流れ出しているというわけか。用水路の草木や、農具の変質も、すべてこの毒水が原因だな」


「その通りだ」


フランチェスカが頷く。


「我々騎士団も捜査を開始したが、浴場周辺の魔力汚染が酷く、不用意に近づけば兵たちの装備が使い物にならなくなる。そこで、この街で最も『変な知識』に富んでいるお前に、協力を要請しに来た」


「おじさん! 僕たちも行くよ!」


トビーが声を上げる。


「現場の近くで見つけた変な足跡、僕たちなら追跡できるもん!」


「足手まといになる」


フランチェスカが冷酷に言い放つが、トビーたちはへこたれない。


「そんなことないもん! 僕たちは裏道の抜け道も、カラカラ浴場の隠し排水口の場所も全部知ってるんだから!」


「……ふむ。子供たちの土地勘は、時に重装騎士の軍勢よりも役に立つぞ、フランチェスカ」


俺はウララをそっと椅子の上に下ろした。


ウララは「ふにゃん」と不満げな声を上げたが、俺の意図を察したのか、暖炉の横の特等席で大人しく丸くなった。


「よし、出発の準備をしよう。ルカ、お前の結晶の力で、一時的に魔鉛の汚染を防ぐシールドを作れるか?」


「うん、僕の身体の魔力を少し分ければ、みんなの武器や防具の周りに、保護膜を張ることはできると思う」


「頼もしいな。フランチェスカ、君の部下たちの鎧にも、ルカの加護を与えよう。ただし、俺たちの捜査の邪魔はしないでくれよ」


「……お前の不遜な態度は相変わらずだな、レオナルド。だが、背に腹は代えられん。案内しろ」


こうして、俺たちはそれぞれの思惑を抱えながら、不気味な灰色に染まりつつあるカラカラ浴場へと向けて、第一歩を踏み出すのだった。


俺はコートの襟を立て、特等席で丸くなるウララに小さく手を振った。


彼女のサファイアの瞳が、俺たちの旅路を静かに見送っていた。

みなさま、どんな風に感じてもらったのでしょうか?

少しでも面白いかもと思って頂けましたら幸いです。

励みになりますので、☆☆☆☆☆をチェックしてもらえると嬉しく存じます。

これからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

パラレルワールドで魔法と多種族の住む異世界でスキル無しで探偵します。

ローマ編追加します。

よろしくお願いします。

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