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じゃんけん

朝の空気は、少し冷たくて、静かで、

家の中とはまるで違う世界みたいだった。


足元に伸びる自分の影を見ながら、

私はゆっくり歩く。


急ぐ理由もなかったし、

立ち止まる理由もなかった。


ただ、学校へ向かうその時間が、

大切だった。


前を歩く同級生たちの背中。

同じようにランドセルを背負って、


同じ方向へ歩いていく。

その中に混ざっているだけで、

少し安心できた。


「自分も同じなんだ」って、思えたから。

でも同時に、

少しだけ苦しくもなった。


この子たちは毎日こうやって学校に通って、

当たり前に授業を受けて、

当たり前に帰っていく。


私には、その当たり前がなかった。

だから、思っていた。

「いいな」って。

「私も毎日行きたいな」って。


そして、もうひとつ。

「今日は、誰が休んでるんだろう」


私がここにいるということは、

誰かが家に残っているということだから。


妹か、弟か。


もしかしたら、

どちらかが泣いているかもしれない。


そんなことを考えながら、

私は学校へ向かって歩いていた。


それでも――

学校の門が見えてくると、

少しだけ足が軽くなる。

今日も、

ただの小学生になれるから。


校門をくぐると、

少しだけ肩の力が抜けた。


校庭にはもう何人かいて、

ボールの音や、笑い声が聞こえていた。


その中を通り抜けて、

靴箱へ向かう。

上履きに履き替えて、

廊下を歩く。


足音が響くたびに、

家とは違う場所にいるんだって思えた。


教室のドアを開けると、

もう何人かが席についていた。


窓が少し開いていて、

外の空気がゆっくり入ってくる。


自分の席にランドセルを置く。


ガタン、って音がして、

それだけで少し安心した。


前の席の子が振り返って、

「おはよう」って言った。

少し遅れて、

「おはよう」って返す。


ちゃんと返せたことに、

少しだけほっとした。


机の中からノートを出して、

鉛筆を持つ。


まだ何も書いていないページを開くと、

白い紙がまっすぐに広がっていた。


何を書いても怒られない場所。

間違えても、

破られることもない。


それだけで、

手が少し軽くなった。


出席を取る声がして、

名前が順番に呼ばれていく。


自分の名前が呼ばれて、

「はい」って答える。


ちゃんと聞いてもらえる声で。

ちゃんとそこにいるって、

思ってもらえるように。


「はい」って言えるだけで、

少しだけ、安心した。


そのまま、何事もなく時間が過ぎていく。


黒板の文字を書き写して、

消して、また書いて。

鉛筆の音と、先生の声が重なって、

教室の中は静かに流れていく。


分からないところがあっても、

すぐに怒鳴られることはなかった。


ただ、「ここ違うよ」って言われるだけ。

それが、少し不思議だった。


気づいたら、

窓の外の光がやわらかくなっていた。


「これで今日の授業は終わりです」


その一言で、

教室の空気が少しだけ変わる。


椅子を引く音や、

ランドセルを開ける音が重なる。


みんなが帰る準備を始める。


私も同じように、

ノートをしまって、教科書を重ねる。


ランドセルの中に入れていくたびに、

少しずつ、その重さが戻ってくる気がした。


朝とは違う重さ。


「帰らなきゃいけない」重さ。


帰りの会が始まって、

先生の話が続く。


でも、その言葉はあまり頭に入ってこなかった。


ただ、

早く終わらないでほしいと思っていた。


もう少しだけ、ここにいたかった。


ただの小学生でいられる時間を、

もう少しだけ。



「さようなら」


教室のあちこちで声が重なって、

みんなが外へ出ていく。


私もその流れに混ざって、

靴箱へ向かった。


上履きを脱いで、

外履きに履き替える。


それだけのことなのに、

少しだけ手が止まった。


外に出たら、

もう学校の中じゃない。


少し深く息を吸ってから、

外に出る。


校門を出ると、

さっきまで一緒にいた子たちが、

それぞれの方向に分かれていく。


笑いながら帰っていく子、

誰かと約束をしている子。


私はその中を通り抜けて、

いつもの道を歩く。


少し歩いたところで、

妹と弟と合流する約束をしていた。


「ここに何時ね」って決めていた場所。


先に着いて待つ日もあれば、

逆に待たれている日もあった。


三人そろった時だけ、

少しだけ気持ちが軽くなる。

「今日、給食どうだった?」


そんな話をしながら、

同じ道を歩く。


笑ってる時間は、

ほんの少しだったけど、

それでも楽しかった。


でも、

家に近づくにつれて、

だんだん会話が減っていく。


誰からともなく、

口数が少なくなる。


見慣れた道なのに、

足が少し重くなる。


玄関が見えてくると、

さっきまでの空気が、

どこかへ消えていく気がした。


ドアを開ける。


すると、

ハイハイしながら、

姪がこっちに向かってきた。


何も知らないみたいに、

ただ笑っていた。


その姿を見ると、

少しだけ、ほっとした。


「ただいま」って言葉は、

誰に向けてなのか分からなかったけど、

とりあえず口に出した。


姪を抱き上げる。

小さくて、あったかくて、

やわらかい体。


その重さは、

嫌じゃなかった。

むしろ、

少し安心できた。


でも、それと同時に、

もう学校には戻れないっていう現実も、

ちゃんとそこにあった。


ランドセルを下ろして、

部屋の隅に置く。


朝はあんなに好きだった重さが、

ただの荷物になる。


妹と弟も、それぞれの場所で

何かをしていた。


誰が何をやるか、

言わなくてもなんとなく分かっていた。


私はそのまま、

姪をあやしながら、

いつもの時間に戻っていく。


さっきまでの学校のことは、

少しづつ遠くなっていった。


台所の方から、

かすかな水の音がしていた。


でも、誰かがちゃんとごはんを作っている音ではなかった。


シンクには、洗われていない食器がそのまま残っていて、

テーブルの上にも、朝のままのものが置いてあった。


奥の部屋からは、テレビの音だけが聞こえていた。

誰かいるはずなのに、

誰もここにはいないみたいだった。


何からやるか、考えるまでもなかった。

「じゃんけんしよ」


妹がそう言って、

私たちは手を出す。

勝った順に、やりたいことを選んでいく。


洗濯を干す人、

洗い物をする人、

掃除機をかける人。


本当はどれもやりたいわけじゃないけど、

何もしないわけにはいかなかった。


私は姪を抱いたまま、

片手でできることを選ぶ。


小さな体が腕の中で動くたびに、

作業の手が少し止まる。


それでも、やるしかなかった。


妹と弟も、黙ってそれぞれのことを始める。


誰も文句は言わなかった。


言っても変わらないって、

分かっていたから。


テレビの音だけが、

奥の部屋から流れ続けていた。


その音を聞きながら、

私たちは自分たちで家を回していた。


外が暗くなっていくにつれて、

家の中の空気も、少しずつ変わっていく




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