第5話 覚えられない人
待ち合わせ場所は、駅から少し離れた喫茶店だった。
古い建物で、外から見ると営業しているのか分からない。
倉橋は、入口の前で一度立ち止まり、腕時計を見た。
指定された時間より、五分ほど早い。
犬は、当然のように隣にいた。
リードを引かなくても、勝手に離れない。
「ここだな」
そう言って、扉を押す。
店内には客が一人だけいた。
窓際の席に座り、コーヒーを前にして、落ち着かない様子で周囲を見回している。
倉橋は、まっすぐその席へ向かった。
「……あの」
男が先に声をかけてきた。
三十代半ばくらい。
スーツだが、どこか着慣れていない。
目の下に、薄く隈がある。
「倉橋です」
名乗ると、男は一瞬だけ首を傾げた。
「……すみません、もう一度」
「倉橋」
男は、曖昧に笑った。
「ですよね。はい。ええと……」
男は、テーブルの上の紙を見た。
そこには、待ち合わせの場所と時間、そして名前が書いてある。
――倉橋。
「……倉橋さん」
発音を確かめるように、ゆっくり言う。
倉橋は、椅子に座った。
犬は足元で伏せる。
「状況は、どこまで分かっていますか」
男は、少し安心したように息を吐いた。
「夢……だと思ってたんです。最初は」
そう言って、カップに手を伸ばすが、途中で止める。
「でも、夢にしては……現実に影響が出すぎてて」
異世界案件だ。
正確には、帰還者――あるいは、帰還しきれていない存在。
「向こうで、何をしていました?」
男は、少し考えた。
「……勇者、だったと思います」
思います、という言い方だった。
「はっきりしない?」
「はい。役割は覚えてるんです。でも……細かいことが抜けてて」
倉橋は、頷いた。
珍しくはない。
記憶の摩耗は、帰還時によく起きる。
「能力は?」
「……ない、と思います」
男は自分の手を見た。
「前みたいに、力が入らない」
前みたいに、という言葉に、倉橋は反応しなかった。
「処理をします」
男は、驚いたように目を見開いた。
「え? もう、ですか?」
「歪みが残っている」
倉橋は、淡々と説明した。
「このままだと、あなたの記憶が混線を起こし続ける」
男は、しばらく黙っていた。
「……倉橋さん」
「はい」
「さっきから、変なことを聞くかもしれませんが」
「どうぞ」
男は、困ったように笑った。
「……さっきから、あなたの名前、すぐに抜けるんです」
倉橋は、瞬きを一つした。
「今も、紙を見ないと思い出せない」
男は、紙を指さした。
「失礼ですよね。すみません」
「いえ」
倉橋は、即答した。
「そういう症状です」
嘘ではない。
ただ、少しだけ違う。
通常は、送還対象の記憶が削れる。
だが今、削れているのは――。
倉橋は、立ち上がった。
「立てますか」
男も立ち上がる。
「はい……大丈夫、です」
犬が、わずかに顔を上げた。
倉橋は、袖をまくる。
腕の内側、帰還紋。
いつも通りだ。
違和感は、ない。
「処理は、すぐ終わります」
倉橋が手を伸ばすと、男は反射的に目を閉じた。
その瞬間。
「……あれ?」
男が、目を開ける。
「……すみません」
「?」
「今、誰かが立ってた気がしたんですが」
倉橋は、何も言わなかった。
帰還紋が、淡く光る。
いつもより、ほんの少しだけ、遅い。
男の肩から、力が抜けた。
「……ああ」
小さく息を吐く。
「楽になった……気がします」
それで、終わりだった。
倉橋は、腕を下ろす。
男は、ぼんやりと倉橋を見た。
「……ありがとうございました」
一拍、間があった。
「……ええと」
男は、視線を泳がせる。
「すみません。お名前、もう一度」
倉橋は、答えなかった。
「処理は、完了です」
男は、戸惑いながらも頷いた。
倉橋は、席を離れる。
犬が、すぐについてくる。
店を出る直前、男がもう一度声をかけた。
「あの」
倉橋は、振り返らなかった。
「……さっき、犬、いましたっけ?」
答えずに、扉を閉める。
外の空気は、変わらない。
犬は、何事もなかったように歩き出した。
倉橋は、少し遅れて、それに続いた。




