第4話 呼ばれないひとの話
目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
倉橋は天井を見て、しばらくそのまま動かなかった。
布団の横に、犬が伏せている。
起きているようだったが、こちらを見ようとしない。
「……行くぞ」
声をかけても、反応はなかった。
首輪を手に取っても、犬は立ち上がらない。
散歩の時間は、犬が決めている。
倉橋が準備を終える前に、玄関で待っているのが常だった。
時計を見る。
いつもと同じ時刻だった。
「今日は、行かないのか」
犬は床を見たまま、動かない。
倉橋は首輪を戻し、洗面所へ向かった。
顔を洗い、歯を磨き、スーツに袖を通す。
背後で物音はしない。
玄関で一度だけ振り返ったが、
犬はその場から動かなかった。
鍵をかけ、外に出る。
車に乗り込み、エンジンをかける。
住宅街は静かで、空気は少し冷えていた。
信号が青に変わる。
アクセルを踏むまでに、ほんの一拍、間があった。
自分でも気づかない程度の遅れだった。
職場は郊外にある古い建物だ。
駐車場に車を停め、入り口をくぐる。
「おはようございます」
声をかけると、上司が軽く手を上げた。
「おはよう。……ああ、今日はいい」
「はい」
それ以上、何も言われなかった。
倉橋は自分の席に着く。
書類を広げ、形式的に目を通す。
書類をめくった拍子に、腕の内側がわずかに引きつった。
倉橋は一瞬だけ手を止め、それ以上は気にしなかった。
少し離れた場所で、別の職員が呼ばれていた。
名前が挙がる。
倉橋ではない。
それは一度きりではなかった。
電話が鳴り、別の人が応対する。
上司が声をかける。
倉橋の名前は出ない。
手が空いているのは、自分だけではない。
それでも、呼ばれなかった。
袖口から、帰還紋がわずかに覗いている。
倉橋は視線を落としかけて、やめた。
その日は、何も起きなかった。
帰還紋が反応することもなく、
倉橋が関わる案件もなかった。
定時になり、倉橋は席を立つ。
上司に一言告げると、特に引き止められなかった。
帰宅すると、犬は朝と同じ場所にいた。
姿勢も、向きも、ほとんど変わっていない。
「……ただいま」
犬は倉橋を見た。
それだけだった。
散歩には行かなかった。
食事を用意し、簡単に済ませる。
テレビをつけたまま、ソファに腰を下ろす。
いつの間にか、意識が落ちた。
目を開けると、部屋は暗かった。
テレビは消えている。
犬が足元に丸くなっていた。
倉橋は何も言わず、目を閉じた。




