第3話 英雄だった人
倉橋がその名前を聞いたのは、午前の終わりだった。
「……英雄?」
書類を差し出しながら、後輩が小さく笑った。
別の課の女性で、倉橋より一回りほど年下だ。性格がいい、というのが一番しっくりくる。仕事に対しても、人に対しても。
「都市伝説みたいな話ですけど。異世界から帰ってきた英雄がいる、って」
倉橋は書類を受け取り、目を通すふりをした。
内容はどうでもいい。案件はもう把握している。
「噂話だ」
「ですよね」
後輩はあっさり引いた。
納得したというより、これ以上踏み込まないと決めた顔だった。
倉橋はそれを、少しだけありがたいと思った。
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英雄だった男は、倉橋より少し年上に見えた。
街外れの簡易面談室。
椅子に腰掛けたその男は、背筋が伸びている。軍人のようでも、スポーツマンのようでもない。ただ、無駄な動きがなかった。
「……もう、戦う必要はないんです」
男はそう言った。
異世界での話を、倉橋はすでに報告書で読んでいる。
魔王を倒した。
国を救った。
英雄として讃えられ、そして帰還した。
「こっちの世界は、静かでいい」
男は穏やかに笑った。
能力は、ほとんど残っていない。
剣も魔法もない。
だが、問題はそこではなかった。
英雄だった、という事実そのものが、この世界に滲み出ている。
近くにいる人間が、無意識に期待する。
頼る。
「この人なら何とかしてくれる」と思ってしまう。
それは歪みだ。
「送還対象です」
倉橋は、いつも通りに告げた。
男は驚かなかった。
「……そうですか」
少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
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廊下で、後輩に会った。
倉橋を見つけ、軽く会釈をする。
その視線が、面談室の方を一瞬だけ気にした。
「さっきの人」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「悪いこと、してませんよね」
倉橋は立ち止まらなかった。
「していない」
「英雄だったって……」
そこで、後輩は口を閉じた。
問いを投げきれなかったのではない。
投げてはいけないと、自分で判断した顔だった。
倉橋は歩きながら、短く言った。
「英雄だった。それが問題だ」
後輩は、それ以上何も言わなかった。
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送還は、いつも通りに行われた。
魔法陣。
帰還紋。
エネルギーの供給。
男は立ったまま、倉橋を見た。
「……また、誰かを助けられますか」
倉橋は答えなかった。
答えはない。
光が収束し、男の姿が消える。
英雄だった重みだけが、部屋から削り取られた。
静かだった。
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事後処理を終え、廊下に出る。
後輩が、まだそこにいた。
「あの……」
声をかけて、首をかしげる。
「さっきの人、誰でしたっけ?」
倉橋は、ほんの一瞬だけ考えた。
「案件だ」
後輩は、曖昧に笑った。
「ですよね。変なこと聞きました」
そう言って、去っていく。
歩きながら、彼女は何かを思い出そうとするように、眉を寄せていた。
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帰り道。
倉橋の足元には、犬がいる。
白くて、大きい。
今日は散歩に行けた。
空気は重くない。
ただ、どこかに、英雄だった人の居場所が消えた感覚だけが残っている。
倉橋はそれを、振り返らなかった。




