第2話 読めない報告書と、出ない散歩
朝、倉橋は散歩に出ていた。
相棒の姿はなかった。
いつもの時間、いつものコース。
そこにいない彼女の歩調に合わせて、散歩は続く。
いつも通り。
だが、
朝の冷たい空気も、湿った草の匂いも、今朝は退屈なだけだった。
何かが、体に重さを残していく。
自宅前。
散歩が終わる。
玄関に、壁にかかったままの首輪があった。
首輪に触れる。
金属部分がひんやりしていた。
犬は散歩に行かなかった。
俺は散歩に行っていた。
犬が居間から顔を出して、こちらを見つめていた。
ーーー
軽自動車を走らせ、職場に向かう。
後部シートには犬がいる。
信号で止まり、また走る。
建物は低く、目立たない。
倉橋の職場は、そういう場所にある。
デスクに着くと、書類が置かれていた。
異世界案件・対応要求書。
分類は曖昧。
異世界帰還者――未満。
倉橋は、先に別の報告書を開いた。
異世界技術回収部門の報告書だ。
今後の送還をするために。
そういった理由で申請は済んでいる。
読む資格はある。
一行目。
「対象世界において、被験者は――」
そこから先に進めない。
文字は読める。
意味も分かるはずだ。
だが、頭に入らない。
同じ行を、もう一度読む。
結果は変わらない。
内容が悪いわけではない。
そう、思った。
倉橋はページを閉じた。
そのまま、要求書の方に手を伸ばした。
ーーー
面談室に通された男は、三十代だった。
職業、会社員。
表情は落ち着いている。
取り乱してはいない。
「転生したんです」
男はそう言った。
倉橋は、頷きもしない。
「向こうでは……別の人生でした。
気づいたら子供で、成長して…」
「こちらに転生したと気付いたのは、いつですか」
「ここ最近です」
「何故、転生だと?」
「前の人生の記憶がありますし、こことは違う世界でした。僕、調べたんです」
「他には? 例えば力とか?」
「ありません」
即答だった。
「魔法も、特別な力も?」
「ないです」
倉橋は資料に目を落とす。
異世界由来の能力反応は検出されていない。
身体にも異常はない。
「知識は?」
男は少し考えた。
「……あります。
でも、使えるかどうかは分かりません」
それで十分だった。
「あなたは、異世界から転生していません」
男の眉がわずかに動く。
「でも――」
「していない」
倉橋は繰り返した。
「ただし、
異世界の誰かと、夢を介して混線しています」
説明はそれだけ。
男は理解した様子を見せなかった。
それでいい。
処理室。
倉橋は、帰還紋に触れた。
この案件は、送還ではない。
帰還でもない。
記憶の接続を切るだけだ。
詠唱は短い。
いつも通り。
空気が、わずかに揺れた。
男が、息を呑む。
「……あ」
それだけだった。
数秒後、男の表情から何かが抜け落ちる。
安堵でも、喪失でもない。
「……長い夢を見てた気がします」
異世界の人生は、夢に戻された。
処理後、倉橋はデスクに戻った。
先ほど閉じた報告書を、もう一度開く。
一行目。
二行目。
今度は、読める。
倉橋は、ほんの一瞬だけ手を止めた。
朝の自分を思い出そうとする。
なぜ読めなかったのか。
答えは出ない。
しばらく、そのまま座っていた。
足元に、犬が来て座った。
帰宅後、犬は側を離れなかった。
テレビをつけたまま、倉橋は眠っていた。
いつのまにか、部屋は暗くなっていた。
翌朝。
犬は首輪の前に座っていた。
散歩に行く時間だ。




