第14話 雨の日の留守番電話
今日は朝から雨が降り続いていた。
空は低く、雲が街の輪郭をぼかしている。
倉橋は雨ガッパを着込み、ハーネスをもって玄関に立つ。
いつもの手順だ。金具の冷たさだけが、朝の現実を確かめさせる。
足音がして、犬が部屋から歩いて出てきた。
倉橋は一瞬、視界が揺れた気がした。
いつまでも犬、では味気ないな。そう思った。
雨の日の散歩は、人間には嫌なものだ。
雨ガッパの袖から、水が落ちる。
靴の中が冷たい。
しかし、犬にとっては違うようだった。今日は歩調が軽い。
いつもより尻尾が揺れている気がする。
いつもの散歩。いつものリズム。
犬の耳が、わずかに動いた。
遠くで車が水を弾く音。
誰かの傘が風に煽られる音。
犬はそれらを聞き分けている。
倉橋はただ、隣を歩く。
雨が止む。
空気が急に軽くなる。
濡れたアスファルトが薄く光り、街が少しだけ別の顔を見せた。
倉橋は雨ガッパのフードをあげ、少し遠くに目をやった。
帰り道の先に、虹が掛かって見えた。
犬は立ち止まらない。倉橋も立ち止まらない。
家に帰り着き、玄関先で犬をタオルで拭く。
犬はおとなしくしている。濡れた毛が指に絡む。
ハーネスを外し、足を拭き終わると、犬は先に部屋へと帰っていく。
倉橋は雨ガッパを脱ぎ、玄関内に干しておいた。
水滴がぽたりと落ちる音が、家の静けさを強調した。
珍しく、留守番電話のランプが点滅していた。
急ぎの用件なら携帯にかかってくるはずだ。
この番号を知っている者は限られている。
犬が留守番電話の横に座っている。
倉橋は再生ボタンを押した。
「俺は…また、帰ってきたぞ」
それだけだった。
短い。息が混じっている。
雑音の向こうに、どこか遠い空気がある。
「帰ってきた…」
倉橋はそれ以上、声にしなかった。
犬は倉橋をじっと見つめていた。
留守番電話のランプは、消えていた。
今日の職場は、珍しく騒がしかった。普段見ない職員も多い。
廊下に立つ人間の数が違う。声がひとつ高い。
喧騒というのか。
上司に挨拶をして、自分の席につく。
犬が椅子の隣に座る。
誰もそれを咎めない。ここでは、それが当たり前になっている。
空気が少し乾いている気がした。
PCには付箋が貼ってあった。
「報告書」
自分が貼ったものではない。
出していない報告書もない。
倉橋はゆっくりと電源をいれて、メールを確認する。
報告書が、そこにはあった。
マウスを持つ手が止まった。
日付けが明後日のものだ。
送還の記録。初見世界への送還。
世界名:未登録。
対象:有森優希。女性。
メールの差出人は自分…
それ以外の情報も書いてはいるが頭に入ってこない。
文字が並んでいる。意味だけが遅れてくる。
もちろんこんな報告書やメールは書いた記憶がない。
犬がつと立ち上がった。
その動きで、倉橋は現実に戻る。
山岸が近づいてきた。
「先輩、どうかされたんですか?」
コーヒーを差し出す。湯気が立っている。
倉橋は受け取った。
「なにも……それより、フロアが騒がしいですね」
「調査班が戻ってきたみたいですよ。久しぶりに帰ってきたので浮き足立ってるみたいで」
「そうですか…報告書が楽しみです」
その言葉は半分仕事で、半分は別のものだった。
倉橋は、そっとPCのモニターを切った。
騒がしさの中心を遠目で見る。
誰かが笑っている。誰かが肩を叩いている。
通り過ぎる存在。戻れる側の人間。
腕の帰還紋が、熱を帯びていた。
条件は満たしている。だが…。
犬が再び足元に座った。
倉橋は席を立たない。
ただ、熱が引くのを待っていた。
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