第61話 憎悪と矛盾
どこまでも深く、彼女の瞳の中は闇に染まっている。
いつもと、何一つ変わらない。
常に感情を読み取れず、死んだようにも見えてしまう。
そんな、彼女の目を見てきた。
何を言っても笑いもせず、相手をただ遠ざけようとして。
なのに、どこかおせっかいで、どこか優しいところを残している。
何が目的なのかも、なぜ生きているのかすらもわからない。
俺の目には、それが中途半端に見えていた。
縋るように、呪われたように、何かになり切ろうとしているのに、なり切れていない。
そういう風に感じ取れた。
だが、それに反して彼女は決断も早く、迷いもほとんどない。
それこそ、決意が固まっているかのように。
それだからこそ、今はそのわずかな優しさすらも演じられていたものだと思えてしまう。
誰にも当てはまらず、誰にも似ることのなく、それでいて何かを真似しているような彼女。
何も、わからない。
ーーレイナ、お前は何なんだ?
教えてくれ。
ーーお前は、何者だ?
それを言葉にしていないのにも関わらず、光のない彼女の瞳がわずかに揺らいだ。
そこに垣間見えたのは、まぎれもなく『憎悪』だ。
怒り、恨み、嫌悪、怨み、憎み、忌み、ーー
その、どれにも当てはまらず、その全てを含んでいる。
そして、確かな感情を宿したその瞳には、初めて光が宿った。
そして、それが深い闇の底を見せないようにしているかのように反射している。
映し出されるのはーー俺が彼女の瞳の中に見えるのは、短剣を力なく握った俺の姿だ。
腕の周りを明るい液体で濡らした、俺の姿だ。
ーーお前は、何者だ?
途端に、そう聞かれた気がして、後ずさりする。
今まで聞こえていた音がーー彼らの奮闘の軌跡が突如として消え、その質問だけが繰り返し頭に響いていた。
ーーお前は、何者だ?
ーーお前は、何者だ?
それに、その繰り返される問いに、うまく答えを見つけることができない。
ただ、持っているものを見つめなおし、その鮮やかさに目を奪われる。
手に、短剣に、そして彼女の腹部から流れ出て、今も服を汚しているものは、どう見ても血液だ。
彼女の血が、あらゆる物を赤く染め上げている。
俺は、人を刺した……のか?
殺人鬼ーーになるのか……?
ーー違う、
違う、違う!!
これは……!
これは、仕方が無かったからでーー
これしか、選択肢がーー
ーーそれ以外に、選択肢なんて無かった。
あの言葉が、また重なる。
どこまでも、先回りしていたように付いてくる。
これで、俺も同じのなのか?
レイナと……
彼女に向けてはなった言葉は、いつの間にか自身へと帰ってきた。
そして、蝕んでいく。
あんなに目障りだと思った存在が。
あんなに鬱陶しいと思った人物が。
あんなに殺したいと願った彼女がーー
俺と重なり、もうその感情の行き先がどちらなのかもわからなくなってしまった。
いつも気づいた時にはもう遅く、取り返しのつかないことになっている。
しかし、残酷にも時間が戻ってくることはない。
赤く染まった短剣も、瞳に憎悪を宿しながら傷口を押さえる彼女も、全て現実で今この瞬間での出来事だ。
血を地面に滴らせながら、後ずさりする俺のペースに合わせて、ゆっくりと前に向かってくる。
下がっても距離が変わらず、下を向いたまま。
傷を治療するでもなく、背中に付けた長い槍に手を伸ばすこともしない。
俺が後ろに行くにつれ、彼女は前へ歩く。
ーーしかし、その動きが止まった。
傷口から手を離し、力なく体の横に垂らす。
下を向いた顔がうまい具合に影を作り、表情が見えない。
今すぐにでも、この後悔と憎悪の墓場から抜け出したい。
……なのに、彼女の行動の不自然さが恐怖へと変わり、自然と行動を制限する。
目を放した時点で、次はもうない気がした。
取り返しのつかないことをした返しが、こんな訳がーー
「ーーまた、」
ぽつりと放たれたその言葉が、思考を止める。
変わらず、彼女の表情は窺えない。
「ーーまた……」
その声からは感情すらも灯っておらず、魂の籠っていない残骸のようだった。
ーーだが、次の瞬間、彼女がゆっくりと顔を上げた。
ひょうじょうが俺にも見えるように、見せつけるように。
「また…………またお前かぁぁぁぁっ!!」
その声が耳に入ってきた時、彼女の表情から目を逸らし、でたらめに短剣を振り回す。
止めていた足を動かし、安定しないまま後ろへと下がる。
聞いたことのあるような声。
あの無機質だった声からは想像できないような声。
それは間違いなく、憎悪に満ちた声だ。
俺と同じように、感情的で、そしてどこまでも深いーー
離れたい一心から、動く体に身を任せる。
少しでも近づけないように、体の正面は叶に向けたまま、短剣を右往左往に振り回す。
ただ、目は開けられない。
怖い。
彼女から感じられるのは殺気と憎悪だけであり、殺そうとかかるその姿は……とても視界に入れられなかった。
仲間は次第に消え、憎悪だけが関係をつなげていく。
常に殺しの緊張と、恐怖が隣り合わせだ。
俺も、彼女も、そうして最後の手段を取り、取っている。
どちらかが死ねば関係は終わり、恐怖から解放される。
じゃあ、殺せばいい。
どんな手段を使っても、俺の手で殺せばいい。
…………。
何度も、そう思った。
殺そうとして、体が動いて、殺そうとして……
それでも、殺せていない。
殺せなかった……。
ーー殺せていれば、良かった。
何も感じなければ……楽だったのに
中途半端で終わり、殺しきれなかった俺と、今殺そうとしてる彼女。
違いは、もう明白だ。
経験ではないが、経験からも来る。
憎悪ではないが、もっと深い。
それでいて、俺には無い。
ーー結局、俺には覚悟が無かった。
感情的になって、怒りに燃える体に身を任せ、ようやくやったと思ったら、こんな半端な結果に終わった。
もう、殺し合いたくない。
なんで、あんな偏った思考しか……
目の前に広がる現実から逃げ、瞼の裏でひたすらに考える。
自らの行動を、そして散らばっていたはずの可能性を。
いずれにしても、もう遅すぎる。
散らばっていた無数の選択肢も、今は完全に散ってしまった。
俺が、消したのだ。
恐怖というきっかけを、取り返しのつかない公開に変えてしまった。
そのせいで、刃を向け、向けられている。
何も変えられず、何もできないまま、終わりを迎える。
ーー他の何でもない、俺のせいで。
そのタイミングがあっても、俺はできなかった。
だが、彼女ならーーレイナなら、きっとやってしまう。
あの憎悪の声を聞いてしまえば、嫌でもそう思える。
彼女が、この失敗の果てにある戦いに、終止符を打ってくれる
俺とは違って……
なら、最後に一つ、
このまま終わってしまう前に、確かめないといけない。
このまま、終われるように。
終われせてくれるようにーー
「レイーー!!」
最後に残った、使い道のない勇気を振り絞り、閉じていた瞼を開く。
全てが消える直前に、声を出し、質問を投げかけようとする。
できるだけ憎悪を感じさせないように。
ーーだが、その微かな努力も虚しく、後ろへ進めていた足が空気を踏み抜いた。
それにつられ、引きずり込まれるように体も落下していく。
彼女へと向かっていた疑問も、一瞬感じた踏み外した時の驚きと共に消え去った。
そして、最後の最後まで残ったものは、後悔と罪悪感だ。
足を踏み外したこの坂が変な角度のせいで、体にぶつかって痛い。
後ろに倒れていったせいで背中を打ちつけ、転がっていくと思いきや浮かび上がり、次は足に衝撃が走った。
……せめて死ぬ時ぐらい、楽になりたかったな。
そんなことを思いながら、ただ次の衝撃を待つ。
当然できることは何もなく、重力という運命に従ってその時を待つ。
気づけば、強く握られていた短剣はもう手の中にあらず、こびりついた赤色だけが何もない手を鮮やかに飾っている。
ーーこれで最後に、頭でも打ったら。
それで、終わる。
…………。
思考を全て打ち切り、体の力を抜く。
ただ、その瞬間だけを身構える。
そして、来た。
予想通りに頭から何かに当たり、感じていた浮遊感が無くなる。
だが、思ったよりも衝撃はない。
まるで、包み込まれるようだ。
ーー死んだのか?
そうして、新しくできた疑問を確かめるべく、目を開く。
すると、目に入ってきたのは天使でもなく、雲でもなく、白い布地だった。
ーー?
予想外の事態に困惑するが、すぐにその疑問は払拭される。
「よ、少年! 助けはいるか?」
その、もはや耳に馴染むようになってしまった声によってーー




