迷子の始まり
【迷子の始まり】
トイレの中は電車の揺れと車輪が一定の間隔で枕木叩いていく音がダイレクトに伝わってくる。それは拓郎の孤独感を増幅させた。拓郎はトイレから出てもと来た通路を足早に戻った。
しかし車両に入って10番のベッドを覗くと一郎が眠っているはずのベッドには知らない男が横になっていた。
え?間違えた…
拓郎は慌ててもう1つ先の車両に向かった。そして隣の車両の10番ベッドに到着した。すると今度は誰もいない。しかもベッドはまだ誰も使った跡がなく綺麗なままである。
向かいのベッドはカーテンが閉まっていて中から鼾が聞こえて来た。その鼾は拓郎には不気味に感じたが、ひょっとしたら一郎のイタズラかもと思い少しだけカーテンを開いてみた。
違った…
更に先の車両に行くとまた知らない人が眠っている。拓郎は迷子になってしまった。
車両の中で聞こえてくるのは、やはり電車が枕木を踏みつけてゆくガタンゴトンという音と、何処かのベッドから聞こえてくる幾つかの鼾、そして時々寝返りをうつ時に聞こえてくるミシミシという音だけである。この夜行列車の中で起きているのは拓郎1人。一郎の名前を呼びたいが大声は出せない。不安と焦りで胸の鼓動が速くなる拓郎は泣きたいのを必死にこらえた。
電車の揺れに合わせ体も揺られながら拓郎は再び隣の車両に移動した。
この車両も寝台車両で車内に入ると長い通路があった。そのちょうど真ん中辺りのベッドから二本の足が車両の揺れに合わせて宙でブラブラしている。よっぽど大柄な人が眠っているのだろうか。殆どのものが動かない車両で唯一動いている足がまるで何かの生き物のようで不思議に感じた。拓郎がゆっくりと近づいてゆくとそれはカーテンからはみ出した黒いズボンに黒い厚手の靴下だった。しかも片方の靴下には穴が空いていて親指が覗いている。
その親指は拓郎が近づいていくとぴくぴく動いて手招きをしているように見えた。
「やぁ、冒険ですか?」
「ひっ!?」
いきなり声が聞こえてきて拓郎はビクっと体を硬直させた。辺りを見回すが誰もいない。拓郎はきっと男が起きているのだと思い、更に近づいてベッドの奥を見た。
そこには黒いセーターを着た大柄の髭の中年男が仰向けになって目を閉じていた。
「冒険ですか?」
再び声が聞こえてきた。
拓郎は男の顔を覗き込んだ。
「違いますよ。」
声の聞こえる方向は男の足である。
じっと見ていると再び声が聞こえた。しかも靴下から飛び出た親指がぴくぴく動いている。
「冒険ですか?」
「あっ!」
「しぃー、驚かないで下さい。」
拓郎は呆気にとられその親指を見た。
「足の指はみんな喋ります。」
拓郎は心の中で「嘘だ」と呟いた。
「嘘じゃあないですよ。」
拓郎は更に驚いた。この親指は拓郎の心の声まで分かるのだ。
「じゃあ目を閉じて耳を澄ましてごらんなさい。」
びっくりして親指を見つめたままでいた。
「さぁさぁ、目をつぶって。」
拓郎は我に帰り、急かされたとおりに瞼を閉じた。
しかしガタンガタンという電車の走行音だけしか聞こえてこない。
拓郎は瞼を開いて親指を見た。
「何にも聞こえない…」
「よーく、耳を澄ましてもう一度。さぁ!」
拓郎は仕方なくもう一度瞼を閉じた。それから30秒ほど過ぎたくらいだった。走行音に混じってボソボソ小さな音が聞こえてくる。それはあちこちから聞こえ、次第にはっきり話し声だと判るようになってきた。ただあまりにも沢山のひそひそ話なので何を話しているのかは判らなかった。
拓郎は驚いて瞼を開いて周りを見回した。
「ねっ、聞こえるでしょ。」
「聞こえる…でも何処から?」
「この車両で横たわっている全ての親指が話してます。毎晩のように。」
「でも何を話しているのか判らないよ。」
「全く骨の折れる人ですね。それはこうです。私たち足は縁の下の力持ちなのです。足は体全部を支えているでしょ。今日はこれくらい歩いたとか、このくらい重い荷物を持ったとかを自分で自分を誉めたり、また足同士で愚痴を言ったりしているんですよ。」
「どうして?」
「だって誰も誉めてくれないからです。」
「誉めてくれない?」
「そうです。大昔は人間は4本足で歩いていたんです。あなただって動物たちの手足のことは4本足だとか前足と後ろ足って呼ぶでしょ。昔は同じ足だったんです。しかしある時人間は後ろ足だけで歩くことが出来るようになった。すると体の重さが全部私たち後ろ足に掛かるようになったんです。つまり貧乏くじを引いてしまったんですね。」
「へぇ、じゃあ僕の…」
「そう、あなたの足だって毎晩話してますよ。」
「嘘だ。」
「本当です。例えば冬に布団に潜り込んだ時に、あなただって足の指を動かすでしょ?その時足の指は「冷たい、冷たい」って言ってますよ。夏に砂浜で裸足だったら足踏みをするでしょ?その時足の裏は「熱い、熱い」って言ってますよ。」
「でも何も聞こえないよ。」
「それはあなたが聞こうとしないからです。もっと体の言葉に耳を傾けてご覧なさい。きっと聞こえる筈ですよ。」
拓郎にはよくわからなかった。そして拓郎はちょっと面倒くさくなってきた。
「僕もう戻らなくっちゃ。」
「そうですか…せっかくお知り合いになれたのに残念です。」
そう言うと親指はゆっくりうなだれた。その様子を見た拓郎はちょっぴり可哀想だと思った。
「今度足の指と話してみます。」
「本当ですか!有り難うございます。」
「それじゃあ、さよなら。」
「さよう…」
「あっ、僕迷子になっちゃったんだ!どっちの方向に行けばいいんだろう?」
「さっきあなたを見た時、後ろの車両からやって来て前の車両の方へ歩いて行きましたよ。だからきっとあなたの寝台車両はあっちです。」
足の指は一生懸命に後部車両を指差した。
「有り難う。さようなら。」
拓郎は急いで後部ドアに向かった。そしてドアノブを引こうとした瞬間あちこちから話し声は聞こえて振り返った。今では話し声の一つ一つがはっきり分かった。皆が動きながら「さようなら」と言っている。
そして10番目のベッドから出ていたあの足を見た。すると親指がこちょこちょ動いているのが目に入り、まるで手を振っているように見えた。
拓郎はその手に向かって手を振った。
その瞬間拓郎は靴の中で自分の両足がこちょこちょ動くのを感じた。




