第5話ヘタレ元婚約者と黒幕大臣を「ざまぁ」して大団円!
豪奢な装飾が施された城門は、すでに巨大な丸太によって打ち破られていた。
かつては塵一つ落ちていなかった大理石の床を、血と泥に塗れた荒野の戦士たちが容赦なく踏み荒らしていく。無数の松明が投げ込まれ、壁に掛けられた歴史あるタペストリーが次々と炎を上げて燃え盛る中、都市の命運はすでに決したかのように見えた。
城の最奥、玉座へと続く大広間。
そこには、王族たちを守る最後の壁として、都市が誇る精鋭である近衛兵たちが密集陣形を敷いていた。彼らの背後には、恐怖に震えながら身を寄せ合う王族や貴族たちの姿がある。
その群れの中に、ひと際目を引く可憐な少女がいた。セリアが実の妹のように可愛がっていた、若き姫君である。
姫は、広間になだれ込んでくる蛮族の群れを絶望的な瞳で見つめていた。しかし、屈強な戦士たちの先頭に立つ巨大な男の傍らに、信じられないものを見つけて息を呑む。
日に焼け、粗末な獣の皮を纏ってはいるが、その凛とした横顔は間違いなく、彼女が「お姉様」と慕い、その帰りを待ちわびていたセリアその人であった。
「セリア、お姉様……?」
姫の震える声は、喧騒の中に消えた。
生きていた。その事実は、姫の胸に一瞬の歓喜をもたらした。しかし、すぐに深い混乱がそれに取って代わる。なぜ、都市を護るはずの誇り高き女騎士団長が、故郷を火の海にする蛮族たちの先頭に立っているのか。なぜ、あのような野蛮な男に寄り添うように立っているのか。
姫の視線に気づいたのか、セリアは静かに目を伏せた。そこには僅かな哀愁が滲んでいたが、決して迷いはなかった。彼女はすでに、嵐を生き抜く部族の女としての覚悟を決めているのだ。
「そこまでだ、蛮族の長よ!」
その時、近衛兵の陣形を割って前に歩み出た男がいた。
黄金の意匠が施された美しい鎧を身に纏い、手には身の丈ほどもある大槍を握りしめている。彼こそは近衛団長であり、かつてセリアの許婚であった男だ。
近衛団長の目は、憎悪に燃えながらも、ある一点に釘付けになっていた。
それは、バルドの背後に立つセリアの姿だ。都市にいた頃は厚い白銀の甲冑に身を包んでいた彼女が、今は柔らかな肌を惜しげもなく晒し、獣の皮一枚という出立ちで立っている。その野性味を帯びた艶やかな姿に、彼は不謹慎にも腹の底が熱くなるような高揚を覚えた。
だが、次の瞬間、彼の顔から血の気が引く。
薄い布越しにでもわかるほど、彼女の腹部はふっくらと膨らみを帯びていたのだ。そして、彼女が巨大な蛮族の男に向ける、深い信頼と慈愛に満ちた眼差し。
全てを悟った近衛団長の顔が、屈辱と激しい嫉妬によって醜く歪んだ。
「貴様らに、一騎打ちを申し込む!」
近衛団長は大槍の切っ先をバルドへ向け、大音声で叫んだ。
本来、一騎打ちとは両軍の無用な消耗を避けるための神聖な儀式である。だが、彼の真の目的は違った。圧倒的な身体能力を持つ蛮族の集団とまともにぶつかれば、近衛兵とて全滅は免れない。しかし、所詮は野蛮な烏合の衆。頭目であるこの巨漢さえ討ち取れば、敵は浮き足立ち、戦局を一気に覆せるはずだという狡猾な算段であった。
バルドは立ち止まり、大槍を構える男を静かに見下ろした。
「麗しき我が婚約者を犯し、洗脳した下劣な蛮族め……! その穢れた命、我が槍で絶ってくれる!」
大義名分と私怨を入り交じらせた叫びと共に、近衛団長が地を蹴った。
都市の洗練された武技と、彼自身の才能が結実した見事な刺突。空気を裂く鋭い音と共に、大槍の切っ先がバルドの心臓を一直線に狙い澄まして放たれる。
だが、バルドは表情一つ変えなかった。
突き出された必殺の刃が深々と突き刺さる寸前、バルドはわずかに身をよじり、その切っ先を脇へと逸らした。そして、猛烈な勢いで突き進んできた大槍の柄を、鋼鉄のように硬い脇と腕で挟み込み、完全に固定してしまう。
「なっ……!?」
近衛団長が驚愕に目を剥き、渾身の力で槍を引き抜こうとする。しかし、巨漢の腕に挟まれた槍は、まるで岩に縫い付けられたかのように微動だにしない。
バルドはそのまま片腕で槍を無理やり奪い取ると、後方の壁に向かって無造作に放り投げた。ガシャァンという破壊音と共に、美しい装飾の施された壁が砕け散る。
さらにバルドは、自身が右手に持っていた血濡れた巨大な戦斧をも、床へ投げ捨てた。重い鉄の塊が、大理石の床に鈍い音を立てて転がる。
「……セリアの、許婚だと言ったな」
武器を持たない両腕をだらりと下げたまま、バルドは底知れぬ威圧感を放ちながら口を開いた。
「愛する女が死地へ赴くというのに、お前はずっとこの安全な城の奥底で、その立派な槍を抱えて震えて待っていたというわけか」
その言葉は、近衛団長の胸の一番痛いところを正確に抉り抜いた。
女騎士団が辺境へ向かった際、彼は城の護りを理由に自ら同行を拒んだのだ。所詮は蛮族討伐、負けるはずがないと高を括り、自らの手を汚すことを避けた。
「口先だけの覚悟など、たかが知れている」
バルドは獣のような笑みを浮かべ、空いた手でくい、と挑発するように手招きをした。
「来い。お前の本当の思いの丈を、見せてみろ」
腰の剣を抜こうとしていた近衛団長の手が止まる。
己の姑息な本性を見透かされた屈辱と、愛する者を奪われたという逆上。彼の頭の中で何かが弾け飛んだ。バルドの真意を汲み取った彼は、剣の柄から手を離し、獣のような雄叫びを上げてバルドへと飛びかかった。
武器を持たない、ただの拳の殴り合い。
近衛団長の拳が、バルドの顎を激しく打ち抜いた。骨が軋むような鈍い音が響き、バルドの口の端から鮮血が飛沫となって舞い散る。
だが、巨漢の体は岩のように揺るがない。
直後、バルドの丸太のような腕が振り抜かれた。その拳は容赦なく近衛団長の顔面を捉え、美しい黄金の兜ごと彼の顔を打ち砕いた。
「が、はっ……!」
重い肉の崩れる音が響き、近衛団長は白目を剥いて大理石の床に倒れ伏した。ピクリとも動かないその姿を見下ろし、バルドは口元の血を手の甲で無造作に拭い去る。
「……お前さん、最初からそれだけの思いがあれば、良かったんだ」
血反吐を吐きながらも、最期に己の拳だけで立ち向かってきた男へ。バルドが吐き捨てたその言葉には、嘲笑ではなく、戦士としての僅かな哀悼が含まれていた。
バルドが再び前を向くと、残された近衛兵たちは戦意を喪失し、次々と武器を取り落としていく。玉座の間に、重苦しい静寂が満ちていった。
---
床に倒れ伏した近衛兵たちの血が、大理石の紋様を赤黒く染め上げていく。城の最奥、豪奢なシャンデリアが照らし出す玉座の間には、もはや戦う力を持たない者たちだけが残されていた。
色を失った顔で身を寄せ合う王族や貴族たち。彼らの目は、玉座の前に立つ巨大な蛮族の男と、その傍らに寄り添うかつての守護者へと向けられ、絶望と恐怖に小刻みに震えている。
セリアは、静まり返った広間を見渡した。
祖国を裏切り、異文化の夫と共にこの城へ攻め入った自分たちに、どのような結末が待っているのか。この美しい都市が徹底的な略奪の果てに灰燼に帰すのか、それとも別の道を辿るのか、彼女自身にも都市の顛末は全く予想できていなかった。
だが、たった一つだけ。彼女の心の中で、絶対に揺るがない明確な結末だけは決まっていた。それだけを胸に秘め、セリアは夫の巨大な背中を静かに見つめていた。
趨勢は完全に決した。むせ返るような血の匂いと、圧倒的な暴力の余韻が支配する重苦しい空気の中、バルドがゆっくりと口を開いた。
「今日から、ここが俺たちの新たな故郷だ」
地鳴りのような声が広間に響き渡る。その堂々たる宣言は、都市の終焉と新たな時代の幕開けを告げる絶対の掟であった。王族たちが絶望に顔を覆おうとした、その時である。
「お、お待ちしておりましたぞ、偉大なる荒野の王よ!」
群衆を掻き分け、滑稽なほどに愛想笑いを浮かべた初老の男が進み出てきた。豪華な絹の法衣を身に纏い、丸々と太ったその男は、都市の政務を取り仕切り、常に権力闘争の暗躍に明け暮れていた大臣であった。
大臣は震える膝を必死に抑えながら、媚びへつらうようにバルドを見上げた。
「ああ、何という猛々しいお姿か。実は、あの誇り高き女騎士団をあなた様への貢ぎ物として献上する策を練ったのは、他でもないこの私なのです!」
男は自慢げに胸を張り、セリアの姿を指差した。
「その見事なお腹の膨らみ……女騎士団長はすっかりあなた様の種を宿し、荒野の生活に馴染んでおられるご様子。私の見立てに狂いはなかった。さぞやご満足いただけたことでしょう」
周囲の貴族たちが信じられないものを見るような目で大臣を見つめるが、男は意に介さず、さらに言葉をまくし立てる。
「ですが、あなた方の平和な故郷へ理不尽な侵攻を命じたのは、あそこにいる愚鈍な王なのです! 私は再三にわたり、あなた方のような強者に手を出せば破滅を招くと、身を挺して反対しておりました。あなた方の脅威を正確に見抜いていたのは私だけなのです。……どうか、賢明なる私めの命だけはお助けいただけないでしょうか?」
大臣は両手を揉み手のように擦り合わせ、じりじりとバルドへ歩み寄る。
「この巨大で複雑な都市を運営していくには、荒野の皆様の力だけでは到底叶いませんよ。私の頭脳と人脈があれば、明日からでも滞りなく政務を回してみせます。どうか、この私をあなた様の忠実な手足として……」
卑屈な笑みを浮かべ、大臣がバルドの足元へとすり寄ろうとした、その瞬間だった。
鋭い金属音が玉座の間に響き渡る。
瞬きをする暇すら与えない、神速の一閃。
「え……?」
大臣の首から上が、間の抜けた声を漏らした直後、ゴトリと音を立てて大理石の床に転がり落ちた。おびただしい血飛沫が噴き出し、首を失った太った胴体が、数秒遅れてドサリと崩れ落ちる。
静寂が凍りついた広間で、ただ一人、セリアだけが血濡れた剣を静かに振り下ろしていた。
これこそが、彼女が一つだけ明確に決めていたことであった。
確かに、この男の醜い陰謀がなければ、バルドと出会うことも、腹に宿る愛しい命を授かることもなかっただろう。自身の数奇な運命は、結果としてこの上ない幸福をもたらしてくれた。
だが、それとこれとは話が別だ。
祖国を己の保身と欲望のために売り渡し、多くの部下を死地に追いやったこの男の罪を、そして再び部族の平穏を脅かした元凶を、決して許すつもりはなかった。どれほど幸せを手に入れようとも、裏切られた者としての怨みは間違いなくそこにあったのだ。
夫の前に進み出て、独断で血を流した妻を、バルドは咎めるどころか、ひっそりと満足げな微笑みを浮かべて見つめていた。
彼は転がった大臣の首を一瞥すると、広間に響き渡る声で告げた。
「見ての通りだ。我々の怒りを買い、争いを引き起こした諸悪の根源は、この大臣であったようだな」
その言葉に、息を呑んで事態を見守っていた王族たちはハッとして顔を上げた。バルドは敢えてこの惨劇を利用し、全ての罪を死んだ大臣一人に被せたのだ。
「これ以上、抵抗する意志を持たぬ者から命を奪うような無粋な真似はしない。この都市の統治権と軍の指揮権は俺が握る。だが、それ以外の政務や生活、一切の決まり事はこれまで通りで構わない」
血に濡れた荒野の戦士たちと、怯える都市の民たちを交互に見据え、バルドは力強く宣言した。
「もし、この混乱に乗じて隣国が攻め入るようなことがあれば、俺たち部族が命を賭してこの都市を守り抜いてやる。安心しろ、お前たちは俺の庇護下に入ったのだ。……これにて、終戦だ!」
その絶対的な宣言が広間に木霊した瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、王族や貴族たちは次々と床にへたり込み、深い安堵の息を吐き出した。略奪と虐殺を覚悟していた彼らにとって、それは奇跡のような寛大な処置であった。
「お姉様……! セリアお姉様!」
すすり泣く声と共に、小さな影が駆け寄ってきた。恐怖を振り切るように飛び込んできた姫君を、セリアは血濡れた剣を捨て、優しくその両腕に抱きとめた。
「……ええ、ただいま戻りました」
かつての冷徹な騎士の顔ではなく、慈愛に満ちた柔らかな微笑みで、セリアは姫の背中を撫でた。獣の毛皮に身を包んだセリアと、美しい絹のドレスを着た姫が涙を流して抱き合う姿は、荒野と都市、全く異なる二つの世界が交わり、許し合った象徴のようであった。
燃え盛る炎が夜空を焦がし、破壊の残骸が燻る中、新たな歴史が産声を上げた。
大理石の玉座を見下ろすように立つ巨大な影。それは、野蛮と恐れられながらも、誰よりも気高く、強き心で全てを内包した男。
ここに、圧倒的な力と底知れぬ寛容をもって相反する二つの世界を統べる、新たな蛮族の王が誕生したのである。




