2話
数ある作品の中から本作をお選びいただき、ありがとうございます。
拙い部分もあるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ嬉しいです。
先輩がいないと私は何もできない。
オフィスには、怒号に近い課長の声と、キーボードを激しく叩く音だけが響いている。定時を過ぎて三時間。周囲の席は誰も私と目を合わせようとせず、私のデスクの上には、見たこともない複雑な計算式が並んだ書類の山が築かれていた。
どうして、こうなったんだろう。
数週間前までの私は、この職場の主役だった。
23歳、新卒二年目。ちょっと愛想よくして、大変でーす、って可愛く言えば、周りの男の先輩や課長はみんな鼻の下を伸ばして助けてくれた。
特に、私の教育係の美咲先輩(26歳)。彼女は本当に都合のいい存在だった。
真面目で、地味で、要領が悪くて、私が仕事をため込んで、
「先輩、私もう手一杯で。これ、どうすればいいか分かんなくて……」
と泣きつくふりをすれば、絶対に「分かった、私がやっておくから」と引き受けてくれた。
だから私は、先輩が残業して仕上げたデータを自分の手元に引き寄せ、翌朝一番に課長のもとへ走るだけでよかった。
「課長、昨日のあのデータ入力、本当に大変だったんですけど、私、どうしても昨日中に終わらせたくて。夜遅くまで残って全部一人でやりきりました!」
そう言って満面の笑みを浮かべれば、課長は「おお、加代子さん、頑張ってくれたんだね」と私をベタ褒めしてくれた。
美咲先輩の手柄を横取りしている自覚? そんなの、あるわけない。だって、要領よく立ち回って上司に気に入られるのも実力のうちだし、断れずに仕事を引き受ける先輩がバカなだけ。二人分の仕事を抱えて、彼氏とギクシャクして別れそうなんて噂も聞いたけど、私には関係ない。仕事ができない奴が割を食う、それが社会のリアルだと思っていた。
あの日、美咲先輩が会議室で倒れて、そのまま救急車で運ばれるまでは。
「ドクターストップで入院だって。しばらく戻れないそうだ」
課長からその一報を聞いた時、私は正直、少しイラッとした。
(えー、先輩がいないと、私の仕事の帳尻を合わせてくれる人がいないじゃん。めんどくさいな)
その程度の感想だった。課長から「美咲さんの穴を埋めてくれ」と言われた時も、いつもの調子で「わかりました、先輩の分まで頑張ります」と笑顔で返した。
だけど、それが地獄の始まりだった。
翌日、デスクに置かれたA社の見積書。作り方が、全く分からない。
いつもは私が「これ、やっといてください」と先輩の机に放り投げておけば、翌朝には完璧な形で仕上がっていた書類。どこに何の数値を入力すればいいのか、システムの見方すら知らない。
「加代子さん、A社の見積書はできたかね」
「え、あ、はい。今、確認しています。ちょっと、パソコンの調子が悪くて……」
言い訳をして時間を稼ごうとしたけれど、パソコンの調子が戻るわけがない。
さらに次の日には、他部署の部長が直接私のデスクに怒鳴り込んできた。
「お宅の加代子さんに頼んでいたデータの共有が、三日前から止まっているんだが、どうなっているんだ!」
私はパニックになりながら、課長の前で叫んだ。
「だって、美咲先輩がいつもそのデータを処理してくれていたんです! 私はやり方を聞いていません! 先輩が教えてくれなかったんです!」
その瞬間、課長の顔から笑顔が完全に消えた。
「何を言っているんだ。あのデータ処理は、君が自分で全部やりましたと私に報告したはずだろう」
「それは、その……先輩が手伝ってくれるって言うから……」
嘘、嘘、嘘。
積み重ねてきた私の「実績」が、音を立てて崩れていくのが分かった。
美咲先輩がいないオフィスは、私にとって完全に「敵地」となった。
これまで私が「やりました」と言っていた仕事が、何一つ私にはできない。書類の不備、データの未入力、取引先からのクレームが、毎日毎日、すべてダイレクトに私の元へ降ってくる。
防波堤だった美咲先輩は、もういない。
「加代子さん、この書類の不備はなんだ。君は二年目だろう。なぜこんな基本的なことができないんだ」
課長の声は、かつての甘やかすようなトーンではなく、冷徹で、軽蔑に満ちていた。
「すいません、私、美咲先輩がいないと何もわからなくて……」
「じゃあ、今まで君が自分でやったと言っていた報告は、すべて嘘だったんだな」
反論できなかった。
周囲の社員たちの視線が、痛いほど突き刺さる。かつては「明るくて可愛い若手」としてチヤホヤしてくれていた男の先輩たちも、今や私を「他人の手柄を盗んで職場を引っかき回した嘘つき」としてしか見ていない。
「あの、これ、どうやればいいですか……」
勇気を出して隣の席の先輩に聞いても、
「今忙しいから、マニュアル見て。美咲さんみたいに優しく手取り足取り教えてくれる人は、もうここにはいないよ」
と冷たくあしらわれるだけだった。
誰も私を助けてくれない。
仕事は溜まる一方。毎日、朝から晩まで叱責され、詰められる日々。
可愛く笑っても、泣き真似をしても、誰も騙されてくれない。
そして一週間後、追い打ちをかけるように、美咲先輩が退職代行を使って会社を辞めたという噂が流れた。
先輩は二度と戻ってこない。私の代わりに泥を被ってくれる身代わりは、完全に消えたのだ。
月曜日。朝、目が覚めると、会社の最寄り駅に向かう足がどうしても動かなかった。
お腹が痛い。吐き気がする。
スマートフォンを握りしめ、会社への連絡を入れないまま、私はベッドの中に潜り込んだ。
もう無理。あんな場所、行けるわけがない。
私がどれだけ仕事ができないか、どれだけ嘘をついていたか、あの職場の全員が知っている。あそこには、私の「化けの皮」が剥がれた後の、惨めな姿しか残されていない。
そのまま私は、一度も会社に行くことなく、郵送で退職届を送りつけた。
他人の努力を横取りして、口先だけで要領よく生きていく。その生き方が、こんなにも簡単に、破滅に繋がるなんて思ってもみなかった。
失った信用は、もう二度と戻らない。
昼過ぎの薄暗い部屋で、私はただ、スマートフォンの画面を見つめながら、これからどうやって生きていけばいいのか分からずに、震える手で膝を抱えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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