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二人分の仕事を押し付けられて倒れた私は、退職代行で人生をリセットします  作者: たま


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1話

数ある作品の中から本作をお選びいただき、ありがとうございます。

拙い部分もあるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ嬉しいです。

オフィスには、キーボードを叩く音と、低く唸るエアコンの雑音だけが響いている。定時を過ぎて一時間。周囲の席は次々と空になり、残されているのは私と、私の二つ隣の席に座る加代子だけだった。

加代子は23歳。新卒で入社して二年目の、いわゆる若手社員だ。そして26歳の私は、彼女の教育係を命じられている。

加代子はとても煩い。物理的な声の大きさもさることながら、とにかくその口が止まらない。仕事の進捗を確認すれば、「はい、今やっています、」と返す。しかしその手元を見ると、スマートフォンの画面が明るくなっていたり、推しのアイドルのSNSをチェックしていたりする。

彼女の仕事の効率は、破滅的に悪かった。

ひとつのタスクを終えるのに、通常の三倍の時間がかかる。当然のように仕事は溜まる。そして、その溜まったシワ寄せはすべて、教育係である私に回ってくる。

「加代子、その案件のデータ入力、今日中に終わらせてって頼んでおいたよね。」

私が自分の作業を止め、声をかけると、加代子はわざとらしいほど大きなため息をついた。

「ええ、やろうと思っているんですけど。先輩、私、今すごく手一杯で。他の部署からの問い合わせの電話も多くて、全然集中できないんですよ。」

彼女が今日取った電話は三本だけだ。それもすべて、取り次ぎだけで終わる短いものだった。それを私は知っている。しかし、ここで反論しても時間の無駄だった。彼女の言い訳を聞いている時間があるなら、自分で手を動かした方が圧倒的に早い。

「わかった。じゃあ、その入力は私が引き受けるから、加代子はこっちの資料のファイリングだけ終わらせて。」

「え、本当ですか。ありがとうございます。先輩って本当に頼りになります。」

加代子は満面の笑みを浮かべ、自分のデスクに山積みにされていた書類の束を、私の机の上にスライドさせてきた。その足取りは軽く、自分の仕事が減った喜びを隠そうともしない。

私は自分の仕事に加え、加代子が残した大量のデータ入力を始める。画面に向かってひたすら数字を打ち込み、計算を確認し、システムに反映させる。時計の針は21時を回っていた。

翌朝、私は少し早めに出社した。昨夜遅くまでかかって終わらせた資料を、上司である課長に提出するためだ。しかし、課長のデスクに向かうと、そこにはすでに加代子の姿があった。

加代子は身振りを交えながら、楽しげに課長と話している。

「そうなんです、課長。昨日のあのデータ入力、本当に大変で。でも、私、どうしても昨日中に終わらせたくて、夜遅くまで残って全部一人でやりきりました。」

加代子の通る声が、まだ人の少ないフロアに響き渡る。

「おお、加代子さん、頑張ってくれたんだね。あの量は骨が折れただろう。ありがとう、助かったよ。」

課長は目を細めて加代子を褒めちぎっている。加代子は、「えへへ、」と可愛らしく笑い、自分の手柄であるかのように胸を張った。

私が全部やりましたと、彼女は平然と嘘をつく。それが一度や二度ではなかった。私が徹夜同然で仕上げた企画書も、私が修正した取引先への謝罪文も、すべて課長への報告の段階で加代子の実績へとすり替えられていた。

私はその光景を遠くから見つめることしかできなかった。ここで、それは私がやりました、と割り込むエネルギーすら、今の私には残っていなかった。

私の心と体は、すでに限界を迎えつつあった。

二人分の仕事を毎日こなす日々は、私の私生活を確実に侵食していった。

付き合って三年になる恋人の直樹とは、ここ二ヶ月ほどまともにデートもできていなかった。せっかくの休日も、私は疲労のあまり泥のように眠り続けるだけで、直樹からの連絡に気づかないことも増えていた。

たまに会えても、私の口から出るのは仕事の愚痴か、あるいは疲れたという言葉だけ。

その日も、久しぶりに駅前のカフェで直樹と会う約束をしていたが、加代子が突発的に引き起こしたミスの処理に追われ、私は約束の時間を一時間も遅刻してしまった。

走ってカフェに飛び込むと、直樹は冷めたコーヒーを前に、暗い顔で座っていた。

「直樹、ごめん。本当にごめん。仕事がどうしても終わらなくて。」

謝る私に、直樹は怒るわけでもなく、ただ静かに首を振った。

「もういいよ、美咲。いつもこれだよね。」

直樹のトーンは冷え切っていた。

「仕事が大変なのはわかる。でも、美咲の会社、おかしくないか。なんで美咲だけがそんなに遅くまで働かなきゃいけないの。俺といる時も、ずっと上の空だし、疲れた顔しか見せないし。」

「違うの、私の後輩が、全然仕事を奢らなくて、私がその分の穴埋めを。」

言い訳をしようとする私を、直樹の視線が遮った。

「その話、もう何回も聞いたよ。でも、美咲がそれを断れないなら、結局同じことだよ。俺、美咲の仕事の愚痴を聞くために付き合ってるわけじゃない。……もう、疲れたよ。お互いのために、少し距離を置いた方がいいと思う。」

距離を置く。それは事実上の別れの宣告だった。

直樹は立ち上がり、伝票を持ってレジへ向かった。私は彼を引き留める言葉さえ思い浮かばなかった。頭が痛い。視界がぐにゃりと歪む。悲しいはずなのに、涙すら出てこないほど、私の脳は疲弊しきっていた。

翌週からの私は、ただの動く死体だった。

直樹との別れは、私の精神的な支柱を完全に叩き折った。しかし、仕事は待ってくれない。加代子は相変わらず、私の席に自分の仕事を積み上げては、定時になると、お疲れ様でーす、と軽快に帰っていく。

私の睡眠時間は毎日三時間を切っていた。食事ものどを通らず、コンビニのゼリー飲料でかろうじて命を繋いでいる状態だった。

その日は、四半期に一度の重要な社内会議の日だった。

私は朝から猛烈なめまいに襲われていた。足元がおぼつかず、視界の端がチカチカと点滅している。それでも、私が休めば加代子の仕事が完全にストップし、部署全体に迷惑がかかる。その恐怖心だけで、私は無理やり体を動かしていた。

会議室で、プロジェクターの光を見つめながら、私はノートにペンを走らせようとした。しかし、指先に力が入らない。

「美咲さん、次の議題の資料なんだけど。」

課長の声が、まるで水の中から聞こえるように遠く感じられた。

はい、ただいま。

立ち上がろうとした瞬間、世界が激しく回転した。

床が急速に近づいてくる。周囲の悲鳴のような声が聞こえた気がしたが、それを認識する前に、私の意識は深い闇へと落ちていった。

目を覚ますと、そこは白い天井だった。

消毒液の匂いが鼻を突く。腕には点滴の管が繋がれていた。

気がつきましたか。

看護師が覗き込んできた。その後ろから、厳しい表情をした医師が現れる。

医師から告げられた診断は、極度の過労と栄養失調、そして自律神経の著しい乱れだった。

「数値が異常です。よくここまで動けていましたね。体からのSOSを無視し続けた結果です。最低でも二週間の絶対安静、入院が必要です。仕事は完全にストップしてください。これはドクターストップです。」

ドクターストップ。その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

もう、働かなくていいんだ。

涙が次から次へと溢れて止まらなかった。失った恋人のこと、理不尽な毎日のこと、すべてが混ざり合って、私は病室のベッドで声を上げて泣いた。携帯電話は会社に置いたままで、外部との連絡は完全に遮断された。

私が強制的に戦線離脱したことで、残されたオフィスでは、静かに、しかし確実に崩壊が始まっていた。

美咲が倒れて入院した。その一報は、翌朝の部署内に激震を走らせた。

課長は困惑していた。美咲はいつも定時過ぎまで残っていたが、有能な彼女のことだから、少し無理をさせてしまったのだろう程度にしか思っていなかった。

しかし、真の問題はそこではなかった。美咲という、部署の全業務の潤滑油であり、加代子のブラックホールのような業務をすべて処理していた存在が消えたのだ。

課長は加代子を自席に呼んだ。

「加代子さん、美咲さんが入院してしまった。申し訳ないが、美咲さんが持っていた案件の一部と、君の本来の業務をしっかり進めてもらう必要がある。」

加代子は、いつものように愛想よく微笑んだ。

「わかりました。先輩の分まで頑張ります。私、やります。」

その言葉に、課長は安心した。加代子はこれまで、多くの大仕事を進んでやり遂げたと報告してきていたからだ。彼女なら、美咲の穴を埋めることができるだろうと信じていた。

しかし、それは大きな間違いだった。

美咲が不在となって二日目。加代子のデスクの上には、処理されることのない書類がみるみると積み上がっていった。

「加代子さん、あのA社の見積書はできたかね。今日の午前中が締め切りのはずだが。」

課長が催促すると、加代子はあからさまにうろたえた。

「え、あ、はい。今、確認しています。ちょっとシステムの調子が悪くて。」

システムのせいではなかった。加代子は見積書の作成方法すら知らなかったのだ。これまでは、加代子が、やっときました、と課長に提出していた書類は、すべて美咲が裏で作ったものだった。

三日目。他部署からのクレームの電話が鳴り響いた。

「お宅の加代子さんに頼んでいたデータの共有が、三日前から止まっているんだが、どうなっているんだ。」

課長が加代子を問い詰めると、彼女は泣きそうな顔で言い訳を始めた。

「だって、美咲先輩がいつもそのデータを処理してくれていたんです。私はやり方を聞いていません。先輩が教えてくれなかったんです。」

課長は耳を疑った。

「何を言っているんだ。あのデータ処理は、君が自分で全部やりましたと私に報告したはずだろう。」

「それは、その。先輩が手伝ってくれるって言うから。」

加代子の言葉はしどろもどろになり、声のトーンもいつものハキハキとしたものから、ただの身勝手な子供の言い訳へと変わっていった。

四日目、五日目と日が経つにつれ、加代子の化けの皮は完全に剥がれ落ちた。

彼女は、仕事の進捗を聞かれるたびに、体調が悪い、頭が痛い、と主張し、給湯室やトイレにこもるようになった。かつての賑やかで煩い加代子はどこへやら、今やフロアの隅で怯えるようにスマートフォンをいじるだけの、ただの役立たずと化していた。

彼女がこれまで誇らしげに報告してきた手柄のすべてが、美咲の労働を盗んだだけの砂上の楼閣だったことが、誰の目にも明らかになった。

美咲さんが二人分の仕事をしていたんだ。

部署の人間は気づき始めた。加代子が溜め込み、放置し、美咲が夜遅くまでかかって片付けていた膨大なタスクの山が、美咲の不在によって一気に噴出したのだ。

課長は、自分が加代子の口先だけの報告を鵜呑みにし、真面目に働いていた美咲を追い詰めてしまった事実に気づき、青ざめた。

二週間の入院生活は、私にとって天国のような時間だった。

最初の数日は、ただひたすらに眠った。起きている時間は、窓の外の景色を眺めたり、出される病院食をゆっくりと味わったりした。

一週間が過ぎる頃には、肌のツヤが戻り、目の下のひどいクマも消えていた。頭がクリアになり、自分がどれほど異常な環境にいたのかを、客観的に見つめ直すことができるようになった。

私はもう、あの職場に戻るつもりはなかった。

入院中に、私はスマートフォンの電源を入れ、退職代行サービスの業者に連絡を取った。有給休暇は消化しきれないほど残っている。それをすべて使い、二度とあの会社には足を踏まえないように手続きを進めてもらった。

退職の手続きが完了したという通知を受け取った日、私の心は驚くほど軽かった。直樹を失った悲しみは消えないけれど、これからは自分のために生きようと、素直に思えた。

私が退職届を代行経由で提出したという報せは、会社側に決定的な打撃を与えた。

特に課長は頭を抱えた。美咲という優秀な人材を完全に失い、残されたのは、仕事が全くできない上に嘘つきの加代子だけ。

加代子の日常は、一変して地獄へと変わっていた。

これまでは美咲が防波堤となり、彼女のミスを裏で処理していたが、今はその防波堤がない。加代子がミスをすれば、それはダイレクトに業務の遅延として現れ、他部署や取引先からの怒号となって彼女に降り注いだ。

「加代子さん、この書類の不備はなんだ。君は二年目だろう。なぜこんな基本的なことができないんだ。」

課長の声には、かつての優しさは微塵もなかった。冷徹で、失望に満ちた視線が加代子を射抜く。

すいません、私、美咲先輩がいないと何もわからなくて。

「じゃあ、今まで君が自分でやったと言っていた報告は、すべて嘘だったんだな。」

課長の一言に、加代子は言葉を詰まらせた。

周囲の社員たちの目も冷ややかだった。かつては、明るくて可愛い若手、としてチヤホヤされていた加代子だが、今や、他人の手柄を盗んで職場を引っかき回した元凶、として完全に孤立していた。

加代子が何か話しかけようとしても、周りの人間は、今忙しいから、と冷たくあしらい、誰も彼女を助けようとはしなかった。

仕事は溜まる一方。毎日、叱責され、詰められる日々。加代子の顔からは生気が消え、かつての煩さは見る影もなくなっていた。

結局、加代子は美咲が辞めてから一ヶ月も経たないうちに、精神的な限界を迎えて無断欠勤するようになり、そのまま依願退職という形で会社を去っていった。

彼女には、自力で仕事を覚える根性も、自分の非を認めて出直すプライドもなかったのだ。

数ヶ月後。

私は新しい職場で働いていた。

今度の職場は、業務のタスク管理が徹底されており、誰がどれだけの仕事を持っているかが一目でわかるシステムになっていた。残業はほとんどなく、定時になると全員が速やかに退社する。

「美咲さん、今日の分の進捗、バッチリだね。いつも丁寧な仕事をしてくれてありがとう。」

新しい上司が、私の提出した資料を見て笑顔で声をかけてくれた。

ありがとうございます。お疲れ様でした。

私は微笑み、荷物をまとめて席を立つ。

外に出ると、心地よい夕方の風が頬を撫でた。

あの苦しかった日々、失ったものは多かった。直樹との関係は戻らないかもしれない。けれど、私は自分自身の足で再び歩き始めている。

他人の努力を奪い、口先だけで生きようとした加代子は、今どこで何をしているのだろうか。そんなことを考える価値すら、今の私にはもうなかった。

私は、自分のために用意された穏やかな夜に向かって、軽やかな足取りで歩き出した。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

誤字脱字のご連絡ありがとうございます。

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