第60話 同じ場面を、先生が見ているとは限らない
同じ場所にいたからといって、同じ場面を見ているとは限らない。
最近、そのことばかり考えている気がする。
教室の中に先生がいる。
こっちもいる。
黒崎もいる。
だから“同じ場面”のはずだと思ってしまう。
でも実際には違う。
先生に先に届くのは、黒崎がプリントを拾うところだったりする。
こっちに強く残るのは、その直前か直後に混ざる一言だったりする。
同じ教室の中にいても、見えている順番がずれる。
そのずれが、最近のいちばん厄介な敵なのかもしれない。
朝の教室。
昨日、自分が焦っていると認めたせいか、今日は少しだけ頭が静かだった。静か、というより、無駄に先走らないように意識している感じかもしれない。
木乃実はそんな僕を見て、すぐに言った。
「神代くん」
「何」
「今日、昨日よりちょっと落ち着いた」
「それも分かるのか」
「分かるよ」
木乃実は頬杖をついた。
「昨日は“焦ってる”を自分で認めたあとだったから、今日はたぶんその分ちょっとだけ静か」
「……」
「図星」
「最近ほんと、僕の顔って便利な情報源だな」
「便利だよ」
「そこ即答するな」
「だって事実だし」
「便利な言葉だな」
「便利だからね」
「このクラス、ほんとそれ好きだな」
後ろから佐伯も入る。
「でもたぶん、今日の神代が考えてるのはそこだろ」
「どこ」
「先生が何を見てて、何を見てないか」
「……」
「何だその顔」
「いや」
僕は少し苦笑した。
「最近、おまえまで妙に核心早いなって」
「神代の周りいると嫌でも鍛えられる」
「嬉しくない成長だな」
「でも必要そうだし」
「そこなんだよな」
少し離れた席から、エヴァの声が届く。
「ようやく“同じ場所”と“同じ場面”の違いを本気で考え始めましたのね」
「朝からいきなり核心だな」
僕が言うと、エヴァは平然としている。
「当然です」
「何が当然なんだ」
「昨日の流れを受ければ、そこへ行くしかありませんもの」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は息を吐いた。
「ほんとに最近の君、整理の仕方が嫌なくらい正確だなって」
「嫌なら聞かなければいいのでは?」
「当たるから聞くんだよ」
「なら結構です」
朱音は少し遅れて来たが、席へ着く前に僕の机の横で止まった。
「今日、見るとこ変えるでしょ」
「おまえもか」
「読むよ」
朱音は肩をすくめる。
「だって昨日で分かったじゃん」
「何が」
「先生が教室にいても」
「うん」
「先生が見てる場面と、こっちが引っかかる場面はちょっとずれる」
「……」
「だから今日は、その“ずれ”を見ようとしてる」
「……」
「図星」
「ほんと逃げ場ないな」
「いらないでしょ」
「ひどいな」
「ひどくないよ」
朱音は小さく笑った。
「必要だから」
一時間目は現代文だった。
授業の内容自体は頭に入っていた。入っていたが、その半分くらいは別の方角へ意識を割いていた気がする。
遠山先生は、やっぱり前より少しだけ見るようになっている。
でもそれは万能ではない。
万能じゃないことは、もう分かっている。
問題は、その見え方の差をどう埋めるかだ。
二時間目の終わり頃、その“差”は思っていたより分かりやすい形で出た。
提出物の回収だった。
黒崎が後ろの列から回ってきたプリントの束を受け取って、前へ回そうとした時、三田村の一枚だけがひらっと落ちた。床へ落ちた紙を見て、黒崎がすぐに拾う。
ここまでは、またいつものやつだ。
でも今日は、その前後をかなり意識して見ていた。
「おっと」
黒崎が笑う。
「危ない危ない」
「ごめん」
三田村が反射で言う。
「またそういうのかよ」
黒崎が、小さく混ぜる。
小さい。
本当に小さい声だ。
でも、近くにいるこっちにはちゃんと聞こえる。
その直後、遠山先生がこっちを見る。
「どうした?」
「三田村の落ちました」
黒崎が言う。
「今拾いました」
「ありがと」
先生が言う。
「三田村くん、大丈夫?」
「……はい」
「気をつけてね」
「はい」
そこで終わる。
やっぱりそうだ、と思う。
先生は見ていた。
でも、先生が見た場面は、黒崎が拾って渡すところから始まっている。
こっちに引っかかるのは、その前の「またそういうのかよ」だ。
場所は同じ。
でも、見えている場面の切り取り方が違う。
「……今の」
木乃実が小声で言う。
「うん」
僕も返す。
「やっぱりそこだよね」
「うん」
「先生、今の一件ちゃんと見てた」
「見てた」
「でも、たぶん“拾った黒崎くん”しか残ってない」
「……」
「そう」
僕は頷く。
「そこが今のいちばん面倒なとこ」
「うわあ」
木乃実が顔をしかめる。
「ほんとに同じ場面見てないんだ」
「同じ教室にはいるけどな」
佐伯が低く言う。
「でも先生が振り向いた時点で、もうそこだけ」
「……」
「それ、結構きついな」
「かなりな」
昼休み、僕たちは自然と後ろの棚の近くへ集まっていた。
「先生が悪いわけじゃないんだよね」
木乃実が言う。
「うん」
「でも、見てる場所が違う」
「そう」
僕は短く答える。
「たぶんそこが一番大きい」
「それ」
三田村が小さく言った。
「昨日からちょっと思ってた」
「何を」
「先生って、ちゃんと見ようとしてくれてる」
「うん」
「でも、黒崎くんが先に“いい方”を見せると」
「……」
「そこから始まっちゃう」
「……」
「うん」
僕は頷いた。
「たぶんそう」
「じゃあ」
木乃実が聞く。
「どうすればいいの?」
「……」
「そこだよね」
佐伯が言う。
「先生に同じ場面を見てもらわないと、ずっと噛み合わない」
「……」
「そう」
僕は少し考えてから答えた。
「たぶん今、必要なのはそこ」
「同じ場面」
「うん」
「つまり?」
木乃実が首をかしげる。
「先生が振り向いた時にはもう終わってる、じゃなくて」
「うん」
「先生が見てる範囲の中で、前後ごと共有できる形」
「……」
「うわ」
「何」
「今の、かなり神代くんっぽい」
「褒めてる?」
「かなり」
「最近そこ割合なしだな」
「今日は本気でそう思った」
少し離れたところから、エヴァが静かに言った。
「ようやく、そこまで辿り着きましたのね」
「何だよその言い方」
僕が聞くと、エヴァは平然としている。
「そのままの意味です」
「先生が悪いんじゃなくて、場面がずれてるってやつか」
「ええ」
エヴァは頷いた。
「昨日までのあなたは、“先生に話せば少し変わるかもしれない”の段階」
「うん」
「でも今は違う」
「……」
「“先生と同じ場面を共有しないと、話だけではずれる”と理解した」
「……」
「そこは大きいです」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ息を吐く。
「今の、わりとちゃんと褒めたな」
「違います」
「早いな」
「違います」
「二回言った」
「必要だったのです」
「便利だな」
「あなた方ほどではありません」
朱音は、その会話を聞きながら少しだけ真面目な顔になった。
「じゃあ、次の方針決まったね」
「何が」
僕が聞くと、朱音はまっすぐ言った。
「黒崎くんが失敗するの待つんじゃなくて」
「うん」
「先生がちゃんと見る場面を揃える」
「……」
「そこだよ」
「……」
「何」
「いや」
僕は苦笑した。
「おまえ、そういう時ほんと実戦向きだなって」
「長いからね」
「またそれか」
「便利だよ」
「その便利、ほんと万能だな」
午後の授業が終わる頃には、僕の中で一つだけはっきりしていた。
同じ場面を、先生が見ているとは限らない。
だったら、見えるようにしないといけない。
つまり次は、黒崎が崩れるのを待つより、先生が前後ごと見える場面を作る方向へ行くべきなのだろう。
その考え方は、少し前の僕にはなかった。
だからたぶん、これは小さくない変化なのだと思う。




