第50話 教室の外で作られる空気の方が、少し厄介だ
教室の中で作られる空気は、まだ見える。
誰が笑ったか。
誰が黙ったか。
誰が困った顔をしたか。
少なくとも、その場にいれば分かる。
でも教室の外で作られる空気は、少し違う。
廊下ですれ違う一言。
階段の踊り場で置かれる軽口。
昇降口で混ざる雑談。
それはその場で強く残らないくせに、あとからじわじわ広がる。
しかも教師の目は薄い。
誰かが明確に止める理由も、教室の中よりずっと弱い。
だから、そっちの方が少し厄介だ。
そのことを、僕はその週の月曜の朝から嫌というほど意識していた。
班発表が終わって、表向きには一段落したはずなのに、黒崎のやり方は消えていなかった。
消えるどころか、場を変えて残っている。
教室の中で軽口を減らし、そのかわり教室の外で“最近あのへん面倒だよな”を混ぜる。
それは前よりも曖昧で、前よりも止めにくい。
嫌な進化だな、としか言いようがない。
「神代くん」
木乃実が、朝の挨拶くらい自然に僕を呼ぶ。
「何」
「今日もまた、廊下とか階段とか考えてる」
「最近おまえ、ほんとに人の顔から情報取りすぎだろ」
「だって分かるし」
木乃実はけろっと言う。
「しかも今日は“教室の中だけ見てても足りない”って顔してる」
「……」
「図星」
「ほんと、最近図星以外の返事の仕方が分からなくなってきた」
「それは神代くんが悪い」
「僕なのか」
「うん。分かりやすすぎるから」
「それ、もう今月の標語にしていいくらい聞いたな」
後ろから佐伯が笑う。
「でも実際そうだろ」
「何が」
「黒崎のやり方」
佐伯は眠そうな目を少しだけ開いた。
「教室の中がやりにくくなったから、外にずらしてる」
「……」
「たしかに」
木乃実が頷く。
「しかも外の方が、“ただ話してただけだけど?”で逃げやすい」
「そう」
僕は小さく答えた。
「そこなんだよ」
「で、どうするの?」
木乃実が聞く。
「どうするって」
「見るしかない?」
「……」
「嫌な確認だな」
「かなり」
僕は苦笑した。
「でも、たぶんそう」
「うわあ」
木乃実は露骨に顔をしかめた。
「普通の高校生活って、そんなに廊下の会話まで警戒するもの?」
「しないと思う」
「だよね」
「でも最近は必要かも」
「嬉しくない必要だな」
少し離れた席から、エヴァの声が入る。
「ようやく教室だけの話ではなくなりましたわね」
その言い方が、いかにもこの人らしかった。
「朝から結論が早いな」
僕が言うと、エヴァは平然としている。
「昨日までの流れを見れば当然です」
「当然、か」
「ええ」
エヴァは少しだけ目を細めた。
「教室内での軽口は、遠山先生にも少しずつ引っかかり始めた」
「うん」
「なら、次は教師の目が薄い場所へずらす」
「うん」
「単純な話です」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少し息を吐いた。
「君がそう言うと、嫌なくらい腑に落ちるなって」
「嫌なら聞かなければいいのでは?」
「それができないくらい当たってるから困る」
「なら結構です」
「そこ、今日も強いな」
朱音は、今日は教室へ入るなり黒崎ではなく廊下の方を見た。
完全に同じことを考えているな、と思う。
「おはよう」
「おはよう」
「今日から見る場所増やす?」
「……」
「図星」
「おまえもほんと鋭いな」
「長いからね」
「またそれか」
「便利なんだよ」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
朱音は笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「でも本当に」
「何」
「黒崎くん、教室の中でやるより外の方が得意かも」
「何でそう思う」
「だって、目がないところだと」
朱音はさらっと言う。
「“ただ話してるだけ”でかなり作れるもん」
「……」
「それに」
「それに?」
「恒一くんって、教室の中ならすぐ見えるけど」
「うん」
「外だと一個遅れる」
「……」
「何だよその顔」
「いや」
僕は苦笑した。
「それ、かなり痛いところだなって」
「でしょ?」
「うん」
「だから今日からそこ意識した方がいい」
「……」
「分かった」
「うん」
一時間目と二時間目のあいだの休み時間。
僕はトイレへ行くふりをして、少しゆっくり廊下を歩いた。
別に尾行しているわけではない。
そこまでやると本当に探偵じみてくるし、自分でも嫌だ。
ただ、どこでどういう言葉が混ざるのかを、前より少しだけ意識して見る。
すると、分かることがある。
教室の中では何でもない顔をしていた黒崎が、廊下の窓際で別のクラスの男子と話している。
内容は本当に大したことじゃない。部活の話、昼休みの話、購買の新作パンがどうとか。そういう、どこにでもある雑談。
でもその途中で、黒崎がふっと言う。
「最近A組、ちょっとだるいんだよな」
その一言だけが、妙に残る。
「何で?」
相手が聞く。
「何か、いちいち止まるし」
「へえ」
「前もっと気楽だったのに」
名前は出していない。
出していないのに、僕には分かる。
それはたぶん、僕や三田村を含んだ“あのへん”のことだ。
しかもこの言い方だと、個人攻撃ではない。ただクラスの空気の話に見える。
うまい。
嫌になるくらいに。
教室へ戻ると、木乃実が小声で聞いてきた。
「どうだった」
「何が」
「今の顔」
「……」
「見たんでしょ?」
「少しだけ」
「何かあった?」
「黒崎が」
僕は声を落とす。
「廊下で、“最近A組ちょっとだるい”って」
「うわ」
木乃実が本気で顔をしかめる。
「それ、最悪寄り」
「かなりな」
「しかも名前出さないやつでしょ」
「そう」
「止めづら……」
「だろ」
「うん」
木乃実は小さく息を吐く。
「教室の中ならまだ、その場で違うって言えるのに」
「外だと、ただの雑談っぽくなる」
「ほんとに嫌なやつだなあ」
昼休み。
今度は昇降口の近くで、似たような場面があった。
佐伯が先に気づいた。
「神代」
「何」
「下、黒崎いる」
「……」
「また何か話してる」
「誰と」
「サッカー部っぽいの二人」
「……」
僕たちは、わざわざ近づきすぎない位置で止まった。
そこまでやると逆に不自然だし、今はまだ聞こえる範囲にいるだけでいい。
「いや、うちのクラス最近ちょっと面倒でさ」
またその言い方だ。
黒崎は笑っている。
「何か、変に細かいやついると空気止まるんだよ」
「へえ」
「だるくね?」
「まあ分からんでもない」
「だろ?」
“細かいやつ”。
そこまで来ると、もうだいぶ僕のことだろう。
でも、それでも名前は出していない。
だから、“違うだろ”と割って入るにも角度が難しい。
「……ほんとやだ」
木乃実が言う。
「うん」
僕は短く答える。
「今の、教室外だから余計にやだ」
「しかも」
佐伯が続く。
「相手が別クラスだと、事情知らないから“あー、そういうやついるよな”で乗りやすい」
「……」
「そこまで込みでやってるなら、かなり面倒」
「かなりな」
その会話を、あとでエヴァへ伝えると、彼女は迷いなく言った。
「ようやく場まで意識するようになりましたのね」
「何だよその評価」
僕が言うと、エヴァは平然としている。
「必要だからです」
「便利な言い方だな」
「あなた方ほどではありません」
「で?」
「で、とは何ですの」
「今の黒崎」
「ええ」
エヴァはほんの少しだけ目を細めた。
「教室内では、もう“神代恒一を細かい側へ置く”をやりにくい」
「うん」
「だから、教室の外で“クラスがだるい”“細かいやつがいる”という広い言い方へ変えている」
「……」
「その方が」
「うん」
「聞いた相手も、特定の誰かを責めていると認識しにくい」
「うん」
「しかも後から“ただの雑談だけど?”で逃げられる」
「……」
「そこが、教室の中より厄介です」
「かなりな」
「ええ」
エヴァは頷いた。
「かなりです」
朱音は、同じ話をするとすぐに言った。
「じゃあ、次から廊下と階段の時間も少し見る」
「そこまでやるのか」
僕が聞くと、朱音はあっさり答えた。
「だって今そこが主戦場でしょ?」
「主戦場って言い方やめろ」
「でも本当じゃん」
「……」
「何」
「いや」
僕は少し苦笑した。
「おまえ、こういう時だけ妙に言い切るな」
「こういう時だからだよ」
「……」
「恒一くん、教室の中で見えることには強くなった」
「うん」
「でも外はまだ少し遅れる」
「うん」
「なら埋める」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
朱音は少しだけ真顔になる。
「でも必要」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
「そこ本当にぶれないな」
放課後。
昇降口で靴を履き替えている時、黒崎がまた小さく声をかけてきた。
「神代」
「何」
「最近さ」
「うん」
「教室の外でもわりといろいろ見てるだろ」
「……」
「何が言いたい」
「別に」
黒崎は笑う。
「そこまで気にしてると、普通にだるくね?」
「そうかもな」
僕は静かに答えた。
「でも」
「でも?」
「おまえが場をずらしただけだろ」
「は?」
「教室の中でやりにくくなったから」
「……」
「今度は廊下とか昇降口とかで、“クラスだるい”にして混ぜてる」
「考えすぎ」
「そうかも」
僕は頷く。
「でも、その“考えすぎ”って言葉」
「……」
「最近ほんと便利だな」
「……」
「教室の中でも外でも使えるし」
「神代」
黒崎の笑顔が少しだけ薄くなる。
「最近ほんと面倒」
「知ってる」
「自覚あるんだ」
「かなりな」
「……」
「でも、場を変えたくらいで見なくなると思ってるなら」
僕は少しだけ顔を上げた。
「それは違う」
黒崎はそこで何も言わなかった。
何も言わず、ほんの少しだけ目を細めてから、先に昇降口を出ていった。
教室の外で作られる空気の方が、少し厄介だ。
でも、厄介だと分かったなら、見る場所を変えればいい。
最近の僕は、そういう面倒な学習ばかりしている気がする。




