第4話 静かな青春、開幕一日で終了のお知らせ
入学式が終わったあとの教室には、独特の空気があった。
完全に気が緩んでいるわけではない。けれど、朝の張りつめた感じはもうない。生徒たちはそれぞれ椅子を鳴らし、机の向きを少し変え、近くの相手に声をかける。担任の遠山先生が配った書類の束を眺めて「うわ、多い」と顔をしかめる者もいれば、もう連絡先交換を始めている者もいる。
つまり、完全に“帰る前の教室”の空気だ。
そして僕は、その空気の中で静かに消耗していた。
朝からずっと気を張っていたせいだろう。頭の後ろがじんわり重い。校長と理事長の件、クラスでの雑談、入学式中の立ち居振る舞い、黒崎への一言、エヴァの観察、朱音の過剰なフォロー。ひとつひとつは短い出来事なのに、まとめて振り返ると一日が長すぎる。
まだ昼過ぎなのに。
「神代くん」
前から木乃実が机に肘をつかないぎりぎりの姿勢で身を乗り出してきた。
「ん?」
「疲れてる?」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、って顔じゃないよ」
「そんなに出てる?」
「出てる出てる。朝からずっと、“真面目にやらなきゃ”って顔してる」
「そうかな」
「そうだよね?」
と木乃実は、近くの男子へ話を振る。
前の席の男子――たしか佐伯だったか――が振り返って、うんうんと頷いた。
「いや、分かる。神代って、なんかずっとちゃんとしてるんだよ」
「それ褒めてる?」
「半分褒めてる」
「半分は?」
「見てるとちょっと落ち着かない」
「ひどくない?」
「ひどくないって。悪い意味じゃなくてさ」
佐伯は言いながら、少しだけ言葉を探した。
「なんていうんだろ。こう……“初日からそんなに完成されてるやついる?”みたいな」
「完成って何」
「礼儀とか返事とか姿勢とか」
木乃実が笑いながら数え出す。
「あと、困ってる人いたら自然に手ぇ出るとことか」
「それは別に普通じゃない?」
「普通の人も助けるけど、神代くんのはなんか……」
木乃実が首をひねる。
「もっと、“助けるのが当たり前ですけど?”みたいな空気ある」
「そんなつもりないよ」
「ないのに出てるから面白いんだって」
面白い、と言われてしまうと反論しづらい。
僕が返答に困っていると、隣からエヴァが淡々と口を挟んだ。
「それは面白がっていい類いのものではないと思いますけれど」
木乃実がぱちりと瞬く。
「え、そう?」
「少なくとも、本人はだいぶ困っていますわ」
「……あれ」
木乃実が僕を見る。
「もしかして本気で困ってる?」
「かなり」
「えっ、そっちだったの?」
「そっちだよ」
「ごめん、もっとこう、“いじられるの嫌じゃないけど恥ずかしい”くらいかと」
「恥ずかしいのもあるけど、それ以上に……」
「それ以上に?」
「普通の高校生活って難しいなって」
「えっ」
木乃実は、数秒だけ本気で意味が分からないという顔をしたあと、吹き出した。
「ごめん、そこなの?」
「そこだけど」
「神代くんさ、もしかして今日ずっと“普通の高校生っぽくしなきゃ”って考えてた?」
「考えてたよ」
「真面目すぎるよ!」
佐伯も笑いながら言う。
「そんなの、みんな自然にやってるだけだって」
「自然がいちばん難しいんだ」
「いやその台詞、入学初日の男子が言うには重いな」
教室のあちこちで笑いが起きる。
悪意のある笑いではなかった。それは分かる。むしろ好意的だ。変なやつだとは思われているが、少なくとも嫌われてはいない。
それだけで本来は十分なはずなのに、僕の中ではまだ“普通に見えていない”ことの方が気になってしまう。
「あなた、本当に変なところで真面目ですわね」
エヴァが、今度は少しだけトーンを落として言った。
いつもの刺す感じはある。あるけれど、ほんの少しだけ、さっきまでより柔らかかった。
「真面目っていうか……」
僕は曖昧に笑う。
「せっかくここに来たんだから、失敗したくないんだよ」
「たかが入学初日で?」
「たかが、じゃない」
少しだけ強く言ってしまってから、僕は自分で驚いた。
「……ごめん」
「どうして謝るんですの」
「なんとなく」
「そこですぐ謝る癖、あまりよくありませんわ」
「怒ってるように聞こえたかなって」
「聞こえていません」
エヴァは小さく肩をすくめた。
「ただ、今の方が自然でした」
「今のが?」
「ええ。少なくとも、“正解っぽい返事”を選んでいる時よりは」
不意にそう言われて、少しだけ言葉に詰まる。
僕はたぶん、今日ずっとそうだったのだろう。何を言えば自然か、何を言えば普通に見えるか、そればかり考えていた。だから会話が遅れるし、変なところで固くなる。
エヴァはそのことを見抜いている。
「……そんなに分かりやすい?」
「ええ」
「つらいなあ」
「かなり」
「そこは否定してくれないんだ」
「無理です」
そのやり取りを、朱音が少し離れた席からじっと見ていた。
目が合った瞬間、彼女はにっこり笑う。
にっこり笑ったのだが、幼馴染として長年付き合ってきた僕には分かる。あれは“今の会話、あとで詳しく聞かせてもらうね”の笑顔だ。
怖い。
「はいはい、みんな席ついてねー」
遠山先生が教壇を軽く叩き、教室のざわめきがゆるく収まる。
「今日は入学式だけだから、このあとは書類の説明して解散します。来週から本格的に授業も始まるので、忘れ物しないようにね。あと、校内はまだ迷う人いると思うから、無理して一人でうろうろしないこと」
先生の説明は、いかにも新学期らしい細かいものだった。健康診断の案内、提出書類、部活動紹介、来週の時間割。普通だ。本当に普通の高校だ。
僕はその“普通さ”に安心しながらも、配られたプリントの量に少しだけ圧倒された。思ったより多い。高校というのは入学初日からこんなに紙をもらうものなのか。
「神代くん」
木乃実が小声で言う。
「その顔、今度は何?」
「いや、思ったより紙が多いなって」
「そこ?」
「そこ」
「そんなに驚くこと?」
「ちょっとだけ」
「うわ、本当に新鮮なんだ」
「何が」
「高校生活そのものが」
「……そう見える?」
「見える」
朱音が、今度はかなり自然な動きで会話に入ってきた。
「恒一くん、昔からこういうの一枚ずつちゃんと読むタイプだもんね」
「読まないと分からないだろ」
「みんなそこまで真面目に読まないよ」
木乃実が言う。
「分からなくなったらその時聞くし」
「そういうものなの?」
「そういうもの」
「適応力が高いな」
「神代くんが慎重すぎるんだって」
遠山先生の説明が終わり、「はい、では今日はここまで」と解散が告げられた瞬間、教室は一気に放課後の顔になった。
椅子が鳴る。鞄のファスナーが閉まる。前後左右で「また来週ねー」「LINE交換しよ」「駅まで一緒に行く?」と声が飛ぶ。
僕も荷物をまとめながら、心の中で静かに安堵した。
なんとか終わった。
もちろん、思い描いていた“静かな初日”ではまったくなかったけれど、それでも致命的な何かが起きたわけではない。校長たちの件は危なかったし、エヴァにはかなり怪しまれているし、朱音はいつも通り近すぎる。でも、少なくとも今日一日を乗り切ったのは事実だ。
ここから帰って、ゆっくり反省すればいい。
そう思った矢先だった。
「恒一くん、帰ろ」
あまりにも自然な口調で、朱音が言った。
「……え?」
「え、じゃないよ。一緒に帰るでしょ?」
「どうして当然みたいに」
「幼馴染だから」
「その言葉、便利すぎない?」
「便利だよ?」
朱音はまったく悪びれずに言う。
「朝も一緒だったし、帰りも一緒でいいじゃん」
「よくはない時もある」
「なんで?」
「クラスメイトに見られてるから」
「幼馴染なんだから別に変じゃないでしょ」
「変じゃなくても、近いんだよ距離が」
「それは昔からだよ」
「高校では少し調整してほしい」
「やだ」
即答だった。
そこへ木乃実が、興味津々という顔で近寄ってくる。
「え、なにそのやり取り。毎日こんな感じ?」
「違うと信じたい」
「だいたいこんな感じだよ」
朱音がにこっと笑う。
「恒一くん、昔から放っておくと危なっかしいから」
「何が?」
「いろいろ」
「具体性がない」
「でも分かる気がする」
木乃実がうなずく。
「神代くんって、しっかりしてるのに変なところ抜けてそう」
「それは褒めてる?」
「半分くらい」
「今日はその比率ばっかりだな」
その時、教室の反対側から静かな声がした。
「別に、わたくしはご一緒するつもりはありませんけれど」
エヴァだった。
彼女は鞄を手にしたまま、いかにも関係ありませんという顔をしている。しているのだが、なぜかまだ教室から出ていない。
「帰るんだよね?」
木乃実が素直に聞く。
「ええ」
「じゃあ早く行けばいいのに」
「……」
エヴァはほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「廊下が混んでいますの」
「今そこまで混んでなくない?」
「少し待っているだけです」
「ふうん」
木乃実が面白そうに目を細める。
「じゃあ神代くんたちと一緒に行けば?」
「どうしてそうなりますの」
「同じクラスだし、方向同じかもしれないじゃん」
「知りませんわ」
「じゃあ聞けば?」
「……」
エヴァの無言が、だいぶ答えに近かった。
僕はものすごく嫌な予感がした。
「いや、別に無理に一緒じゃなくても」
「そうですわね」
エヴァがすぐに頷く。
「わたくしもそう思います」
「じゃあそうしよっか」
僕が話を畳もうとした、その時。
「でも途中まで同じなら、一緒の方が楽だよね」
木乃実が悪気なく追い打ちをかける。
「ね、神代くん?」
「そこで僕に振る?」
「振るでしょ、そりゃ」
「……駅までなら」
言いながら、なぜ自分がこんな役回りをしているのか分からなくなってくる。
「駅までなら、別に」
「ほら」
木乃実が嬉しそうに言う。
「決まり」
「決まっていませんわ」
「でも断る理由もなくない?」
「……」
エヴァは露骨に不服そうな顔をした。したのに、帰る気配はない。
朱音が、そんな彼女をにこにこしながら見つめる。
「エヴァさんも一緒なんだ?」
「違います」
「でも駅まででしょ?」
「結果的にそうなるだけです」
「へえ」
「何ですの、その“へえ”は」
「別に?」
またこれだ。
僕は肩の力を抜くどころか、もういっそ笑いたくなってきた。笑ったら負けな気もするけれど、少なくとも静かな青春ではないことだけはもう確定している。
教室を出るまでにも、クラスメイトたちと軽く言葉を交わした。
「神代、また来週な」
「うん、また」
「次はもうちょい肩の力抜いてこいよ」
「善処する」
「その“善処する”って返しがもうちょっと固いんだって」
「……努力する」
「悪化した!」
木乃実が笑う。
「神代くん、本当に面白いね」
「それ、今日何回目かな」
「褒めてるんだってば」
「たぶん、半分くらいね」
「そうそう、それ」
悪くない。
ふと、そう思う。
いじられている。変なやつだと思われている。でも、ちゃんと話しかけてもらえている。輪の外ではない。それは、僕がずっと欲しかった“普通”の入り口なのかもしれなかった。
校舎の外へ出ると、午後の光が少しだけ傾き始めていた。
春の風は朝よりやわらかく、つくばの空は相変わらず広い。校門の向こうには、帰り支度をした新入生や保護者たちが流れていく。駅へ向かう者、自転車置き場へ向かう者、家族と待ち合わせている者。どれも、今の僕には妙にまぶしい。
「ねえ」
木乃実が途中で立ち止まり、僕たち三人を見た。
「ここで私、友達と待ち合わせなんだ」
「そうなんだ」
「うん。だから駅まで一緒に行けないけど」
「別にそこまで一緒じゃなくても」
「いやいや、せっかく面白いメンバーなのに最後まで見たかったなって」
「見世物じゃないんだけど」
「神代くん、そういう言い方するとまたちょっと固い」
「もうどうしろと」
「そのままでいて」
木乃実は明るく手を振った。
「また来週ね、神代くん。エヴァさんも、朱音さんも」
「また」
朱音が柔らかく返す。
「はい、またね」
「……ええ」
エヴァは少し遅れて頷いた。
木乃実が去ると、急に空気が少し静かになった。
いや、静かというより、気まずい。さっきまで第三者がいたせいで中和されていたものが、一気に前へ出てきた感じだ。
僕は駅へ向かって歩き出す。
右に朱音。左にエヴァ。
どうしてこうなった。
歩幅まで微妙に意識してしまう。どちらか片方にだけ話しかけてもおかしい気がするし、かといって黙っているのも変だ。
結局、先に口を開いたのは朱音だった。
「恒一くん、今日ほんと頑張ったね」
「急にどうしたの」
「いや、だって朝からずっと“普通の高校生”頑張ってたじゃん」
「まだ継続中だけど」
「うん。でも、そろそろ疲れてるでしょ」
「まあ、それなりに」
「それなりどころじゃない顔してるよ」
「そんなに?」
「してる」
朱音は少し笑う。
「でも、入学式で倒れなかっただけ偉い」
「基準が低いな」
「低くないよ。恒一くん、こういう“絶対に失敗したくない日”って変に頑張りすぎるから」
言われて、ちょっとだけ苦笑した。
たしかにそうだ。僕は昔から、外せない場面ほど力を抜けない。だから今日も、普通に見せることばかり考えて、逆に不自然になった。
左側から、エヴァの冷静な声が入る。
「その割には、肝心なところで普通に動いていましたわね」
「肝心なところ?」
「入学式のあの件です」
彼女は前を向いたまま言う。
「見て見ぬふりもできたでしょうに」
「できたかもしれないけど」
「しなかった」
「……しなかったね」
「どうしてですの?」
問いかけは静かだった。詰問ではない。知りたいから聞いている声だった。
僕は少し考えてから答える。
「見てて気分が悪かったから」
「それだけ?」
「それだけ、って」
「もっと理屈がある方なのかと思いました」
「理屈もなくはないけど……」
僕は少しだけ空を見た。
「でも、ああいうのって理屈より先に嫌だなって思うだろ」
「……」
「思わない?」
「思いますわ」
エヴァはすぐに答えた。
「ええ。とても」
その“とても”にだけ、ほんの少し温度が乗った。
朱音がその会話を聞きながら、なぜか少しだけ唇を尖らせる。
「なんか、ふたりだけで分かり合ってる感じ出てない?」
「出してない」
僕は即答する。
「出てない」
エヴァも続けて言う。
「……」
朱音が足を止めかける。
「そこはそんなに息ぴったりなんだ」
「いや、今のは違うだろ」
「違わない気がするけど」
「朱音、機嫌悪い?」
「悪くないよ?」
「その“悪くない”は、だいぶ悪い時のやつじゃない?」
「そんなことないって」
声は柔らかい。けれど、幼馴染の長年の経験上、今の朱音は確実に面倒な方向へ片足を突っ込んでいる。
「ねえ恒一くん」
「何」
「今日、エヴァさんのこと、ちょっと気になってる?」
「何その質問」
「質問だよ」
「いや、それは分かるけど」
「気になってるのかなって」
「初日だよ?」
「初日でも気になる人は気になるでしょ」
「そういう話じゃなくて」
「どういう話?」
「どういう話って……」
返答に詰まる。
その間に、エヴァがごく静かに言った。
「答えづらそうですわよ」
「え?」
朱音がそちらを見る。
「庇ってるの?」
「庇ってなど」
「でも今、助けたよね?」
「見苦しいのを指摘しただけです」
「ふうん」
「何ですの、その反応は」
「別に?」
僕は額を押さえたくなった。
どうして、駅まで歩くだけでこんなに会話が発火するのか。
しかも困るのは、会話そのものが嫌なわけではないことだ。疲れるし、振り回されるし、静かではない。でも嫌ではない。そこがいちばん困る。
駅前のコンビニが見えてくる。
つくばらしい、広めの歩道と整った街路樹。その中にぽつんとあるコンビニの看板が、なぜか妙に魅力的に見えた。高校生の放課後といえば、こういうところへ寄るものなのかもしれない。
「……ちょっと寄ってもいいかな」
僕が言うと、朱音がすぐに頷く。
「いいよ。飲み物?」
「たぶん」
「たぶん?」
「何を買うのが正解か分からなくて」
「コンビニに正解とかある?」
エヴァが呆れたように言う。
「あるだろ」
「ありません」
「いや、あるって。高校生っぽい放課後の買い物って、たぶん何かある」
「そんなもの気にしてるんですの?」
「気にするよ」
「どうして」
「分からないけど、気にするんだよ」
「面倒な方ですわね」
「今日それ何回目かな」
「事実ですもの」
店内へ入る。
冷房の気配と、揚げ物の匂いと、明るい蛍光灯。これもまた、妙に新鮮だった。僕は飲料コーナーの前で立ち止まり、並んだペットボトルを見つめる。
お茶、炭酸、ジュース、コーヒー。どれが高校生っぽいのだろう。
「……そんなに真剣に選ぶことですの?」
エヴァが横に立って言う。
「真剣になるだろ」
「なりません」
「僕はなる」
「どうして」
「分からない」
「最悪の答えですわね」
「自分でもそう思う」
朱音は少し後ろで笑っていたが、やがて棚から一本のお茶を取ると、当然のように僕の前へ差し出した。
「はい。恒一くんならこれ」
「なんで分かるの」
「分かるよ。そのくらい」
「それが怖いんだよ」
「ひどい」
「褒めてる」
「半分?」
「今は八割くらい」
エヴァがそのやり取りを見て、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「ずいぶん把握していますのね」
「幼馴染だから」
朱音が微笑む。
「ずっと見てきたし」
「……そう」
その返しが、ほんの少しだけ短かった。
僕はなぜかそのことが気になって、でも何を言えばいいのか分からず、結局、朱音から渡されたお茶を手に取った。
「じゃあこれで」
「素直ですのね」
エヴァが言う。
「迷ってるよりいいだろ」
「まあ、それはそうですけれど」
「エヴァさんは?」
朱音が何気なく聞く。
「何を選ぶの?」
「別に、何でも」
「何でも、って言う人だいたい決まってるよね」
「……水でいいですわ」
「え、水?」
僕が思わず聞く。
「なんで驚くんですの」
「いや、もっとこう……」
「こう?」
「紅茶とか」
「どういう偏見ですの、それは」
「なんとなく」
「なんとなくで人を判断しないでくださる?」
その言い方が少しだけむっとしていて、僕は思わず笑いそうになる。
エヴァはすぐに気づいた。
「今、笑いましたわね」
「少しだけ」
「失礼です」
「ごめん」
「だから、すぐ謝らないでください」
「でも失礼だったし」
「……そこを認めるのも、ずるいですわね」
小さくそう言われて、今度は本当に少しだけ笑ってしまった。
レジを済ませ、店の外へ出る。
夕方まではいかない、でも昼の白さはもう抜け始めた光の中で、僕はお茶のキャップを開けた。冷たい。たったそれだけのことに、少しだけ安心する。
学校帰りにコンビニへ寄って、飲み物を買って、同級生の女の子と話しながら駅へ向かう。
それは、間違いなく僕がずっと憧れていた“普通”の一部だった。
もちろん、その中身はかなり想定と違う。隣の席の毒舌美少女は僕を怪しみ続けているし、幼馴染は近すぎるし、会話は全然静かじゃない。でも、それでも。
「……どうかしましたの?」
エヴァが聞いてくる。
「いや」
僕は小さく首を振った。
「ちょっとだけ、思ってたより悪くないなって」
「何がですの」
「今日」
「今さらですわね」
「そうかも」
「わたしは朝から散々だったと思いますけれど」
「それは僕も同意する」
「だったら」
「でも」
僕は少し笑う。
「楽しくなかったわけじゃない」
その言葉に、朱音が先に反応した。
「……うん」
彼女は、今度は本当に柔らかく笑った。
「それならよかった」
エヴァは少しだけ目を細め、何か言いかけて、結局やめた。
駅が近づく。
人の流れも少しずつ分かれていく。ここから先は、それぞれの帰り道だ。
たぶん本来なら、このあたりで解散して、「また来週」と言って終わる。それが普通だ。高校生らしい。静かな、一日の終わりだ。
でも僕にはもう分かっていた。
この二人は、そんなふうにあっさり終わる相手ではない。
「じゃあ、わたくしはここで」
エヴァが言う。
「え、こっちじゃないの?」
僕が聞くと、彼女は少しだけ視線を逸らした。
「……今日は、です」
「今日は?」
「たまたま少しだけ違うだけです」
「ふうん」
朱音がにこっとする。
「じゃあ、また月曜日ね」
「ええ」
エヴァは僕の方を見た。
「神代恒一」
「何」
「次はもう少し、自然にしてください」
「努力する」
「その答え方がもう固いんですの」
「難しいな」
「でしょうね」
それだけ言って、彼女は人の流れの中へ溶けていく。
金色の髪だけが、最後まで少し目立った。
僕はしばらくその背中を見ていたが、すぐ横から朱音の声が飛んできた。
「恒一くん」
「何」
「見送りすぎ」
「そんなに?」
「そんなに」
朱音は笑っていた。
笑っていたけれど、ほんの少しだけ拗ねているのも分かる。
「まあ、いいけど」
「よくない顔してる」
「よくないかも」
「正直だな」
「幼馴染だからね」
またその言葉だ。
でも、今は少しだけその便利さに助けられる。
駅前の風が吹く。春の匂いがした。
僕は鞄を持ち直して、朱音と並んで歩き出した。
つくば市の県立高校に入学した俺は、静かに青春するはずだった。
なのに隣の席の毒舌美少女と、距離感のおかしい世話焼き幼馴染は、どうやら最初から俺を放っておく気がないらしい。
たぶんもう、平穏な高校生活は無理だ。
でも――それを少しだけ惜しいと思えない自分がいる時点で、もう手遅れなのかもしれなかった。




