第3話 入学式の日に、こいつだけ空気が違う
体育館という場所には、教室とは別の種類の緊張がある。
床に引かれた白線、規則正しく並べられたパイプ椅子、壇上の校旗と演台、無駄に広く感じる空間。入学式のような行事になると、その空気はさらに独特だ。静かで、少しだけ厳かで、何となく背筋を伸ばさなければならない気分にさせられる。
問題は、その“何となく”が僕には通じないことだった。
僕は通路を進みながら、何度も自分に言い聞かせていた。
やりすぎるな。
姿勢を整えすぎるな。
返事を響かせすぎるな。
いかにも慣れているような顔をするな。
普通の高校一年生として、普通に、自然に、少しだけ緊張している感じでいろ。
頭では分かっている。分かっているのだが、こういう場の空気に触れると、体の方が勝手に動いてしまう。
「神代くん、そこ、もうちょっと力抜いていいと思う」
僕のすぐ前を歩いていた木乃実が、半分振り返りながら小声で言った。
「そんなに分かる?」
「分かるよ。なんか、こう……」
「こう?」
「入学する側っていうより、見学しに来た来賓みたい」
「やめて」
的確すぎてつらい。
隣を歩くエヴァが、それを聞いてわずかにため息をついた。
「言い得て妙ですわね」
「賛同しなくていい」
「現実を見なさい、という話です」
「見てるよ。見てるから困ってる」
「困っている方の態度には見えませんでしたわ」
「それが問題なんだよ」
後ろから、くすっと笑う気配がした。朱音だ。
「恒一くん、さっきから呼吸まで整えようとしてるでしょ」
「してない」
「してるよ」
「してない」
「してる」
「どっちでもいいから助けて」
「じゃあ助言するね」
朱音はさらりと言う。
「式中は、少しくらいぼーっとしてても大丈夫だから」
「それができたら苦労しないんだ」
「できない顔してるもんねえ」
「幼馴染が他人事みたいに言う」
前方で先生が列を止め、クラスごとに席へ誘導していく。A組の生徒たちも順番に体育館の中央列へ入っていった。僕は自分の席を確認し、静かに腰を下ろす。
下ろした瞬間、しまった、と思った。
音がほとんどしなかった。
椅子を引く角度、重心の落とし方、制服の整え方、その全部が無意識に滑らかすぎた。隣の席のエヴァが、もの言いたげな視線を寄越してくる。前の席の男子まで、ちらっとこっちを振り返った。
もう帰りたい。
「今のも駄目?」
僕は前を向いたまま、小さく聞いた。
「ええ」
エヴァが即答する。
「座るだけで完成度が高いのは問題ですわ」
「座る完成度って何」
「少なくとも、今のあなたを見て“初めての入学式で緊張してる新入生だな”とは思いません」
「……」
「“場慣れしている”のです」
「その表現、刺さるなあ」
「刺さるように言っていますもの」
本当に容赦がない。
けれど、彼女の指摘が的確なのもまた事実だった。
周囲の新入生たちは、少しそわそわしている。手元の式次第を見たり、友達と小声を交わしたり、落ち着かない様子で足を動かしたり。その不安定さが、むしろ年相応の自然さとして場に溶け込んでいる。
その中で僕だけが、変に静かすぎるのだ。
落ち着いているのではない。落ち着いて見えてしまう。そこが厄介だった。
壇上では先生たちが最終確認をしていて、保護者席にも人が入り始めている。校長、教頭、来賓席、職員席。そういう配置を視界の端で追いかけた瞬間、自分で自分に駄目出ししたくなった。
普通の高校生は、入学式会場の視線の置き方まで整っていない。
「神代くん」
木乃実がまた前から小声で話しかけてくる。
「何?」
「式って、こういうの慣れてる?」
「え?」
「なんかさ、妙に落ち着いてるから」
「そんなことないよ」
「いやあるでしょ」
「あるね」
今度は斜め前の男子まで混ざった。
「さっきから一人だけ姿勢のレベル違うもん」
「そう?」
「そうだよ」
「神代くんだけ、“ちゃんとやらなきゃ”じゃなくて“ちゃんとやるのが当たり前”って感じ」
「やめてくれ」
「褒めてるつもりなんだけど」
「その褒め方は危険なんだ」
すると木乃実が、あっと思い出したように言った。
「でも分かる。さっき教室で返事した時も、声すごかったもん」
「蒸し返さないで」
「ごめんごめん、でもちょっと面白くて」
「それは分かる」
前の男子が笑う。
「悪いやつじゃないんだけど、なんかいちいち変なんだよな、神代」
「いちいち変ってひどくない?」
「褒めてる」
「今日、その“褒めてる”何回聞いただろう」
「五回くらい?」
「そんなに?」
体育館の中だというのに、周囲の空気が少しだけ和らいだ。
助かる。こうやって軽く笑いになるなら、まだいい。変だと思われるだけならいいのだ。問題は“変”が“何かある”へ進むことだ。
その境目だけは、絶対に越えたくない。
――なのに。
「新入生、起立」
号令がかかった瞬間、僕の体はほとんど反射で動いていた。
椅子が一斉に鳴る。けれど僕は、その音が鳴るより先に立ち上がってしまった。しかも無駄なく真っ直ぐに。
ああ、駄目だ。
僕は前を向いたまま、心の中でうめく。
隣から、またもやエヴァの気配が冷たく寄った。
「……一人だけ早いですわよ」
「今のは仕方ない」
「仕方ないで済ませるには、あまりにも自然すぎましたわ」
「君はよくそんなに細かく見てるね」
「あなたが粗いのです」
いや、その理屈はおかしい。
式はそのまま進んでいった。国歌、校歌、校長式辞。校長の声が体育館に響き、長い話が始まる。たいていの新入生にとっては、ここからが少し退屈になる時間だろう。
実際、前の方では気配が緩み始めていた。足を組み替える音、紙をいじる音、小さなあくびを噛み殺す気配。
だが僕は、こういう場で気を抜く癖がない。
校長の話を聞きながら、自分の視線がやけに定まっていることに気づいて、また嫌になる。やめろ、もっとこう、ぼんやりしろ。高校生らしく、少し心ここにあらずでいろ。
そう思っても、できない。
校長の式辞は長かった。学校の伝統、地域とのつながり、つくばという街の特色、自ら学ぶ姿勢の大切さ。内容自体はよくあるものだが、僕はその中に混ざる言葉遣いや間の置き方にまで意識が向いてしまう。
だから、前方の来賓席にいる人物の反応も、つい目に入った。
同時に、その中の一人がこちらを見ていないかを確認しそうになって、慌てて視線を戻す。
危ない。今日はそういうことをしてはいけない日だ。
「神代くんって、ほんとに式慣れしてる感じあるよね」
小さな声で、また木乃実が言った。
今度は振り向けない。前を向いたまま、口だけ動かす。
「慣れてない」
「いや、慣れてない人は、そんなに校長先生の話ちゃんと聞けないよ」
「聞いてないと逆に不安にならない?」
「ならないかなあ」
「ならないね」
前の男子も同意した。
「俺もう三分くらい前から半分飛んでるし」
「それが普通なんだよ」
「え、じゃあ神代くんが普通じゃないってこと?」
「……そういう言い方はやめよう」
エヴァが本当に小さく息を吐いた。
「もう手遅れだと思いますけれど」
「助けてくれる気、まるでないよね」
「ありませんもの」
「清々しいな」
式辞が終わり、新入生代表挨拶へ移る。その短い間のざわめきの中で、小さなトラブルが起きた。
列の端にいた男子生徒の鞄が、誰かの足に引っかかって通路へ落ちたのだ。
「うわ、ごめん」
落としたのは、少し柄の悪そうな男子だった。入学初日から周囲を値踏みしているような目をしている、あの黒崎だ。教室でも少しだけ目立っていた。親の影響力を当然のように使いそうな顔つき、とでも言えばいいのか。今も、自分が悪いのに謝り方が軽い。
鞄を落とされた相手は、気弱そうな新入生だった。慌てて拾おうとしたところへ、黒崎は足先でわずかに鞄を押し返す。
「ちゃんと持っとけよ」
「いや、今の……」
「何?」
黒崎が薄く笑う。
声を荒げているわけではない。けれど、ああいう軽さの中には妙な圧がある。やり返しにくい、見過ごされやすい種類の嫌な空気だ。
周囲の何人かが気づいていた。でも、入学式の最中だ。しかも初日。誰もすぐには口を挟まない。
僕も、挟むべきではないと思った。
目立ちたくない。ここで余計なことをして、また“空気の違うやつ”と思われるのは避けたい。
なのに。
その気弱そうな生徒が、何も言い返せずに鞄へ手を伸ばした瞬間、体が先に動いた。
僕は半歩だけ前に出て、通路へ転がった鞄を拾い上げる。
そのまま持ち主へ返しながら、黒崎に視線を向けた。
「踏まれなくてよかった」
大きな声ではない。式の邪魔にもならない程度の音量だ。
でも、自分でも分かる。こういう時の声だけは、抑えても妙に通る。
「人が多いから、少し危ないよ」
言い方は柔らかい。責めているようにも聞こえない。聞こえないようにした。……つもりだ。
黒崎は一瞬だけ笑みを止めた。
「……別に、わざとじゃねえし」
「そうだろうね」
僕は答える。
「だったら、なおさらそこで終わりでいいと思う」
たったそれだけだ。
なのに、その場の空気がすっと変わったのが分かった。
黒崎はすぐに何か言い返すでもなく、舌打ちもせず、ただ視線を逸らした。隣の席の生徒が気まずそうに座り直す。鞄を受け取った男子は、小さく「ありがとう」と言った。
僕もそれ以上は何も言わず、自分の席へ戻った。
戻ってから、猛烈に後悔した。
やってしまった。
絶対に、目立ちたくない新入生の動きではなかった。
「……今の」
木乃実が、前を向いたまま、少し驚いたような声を漏らす。
「神代くん、すごかったね」
「別に」
「いや、別にじゃないでしょ」
前の男子も言う。
「なんか、怒ってるわけでもないのに、あいつ普通に引いてたし」
「そう?」
「そうだよ」
「おまえ、普段からああいう感じ?」
「どういう感じ」
「静かなのに逆らいづらい感じ」
「そんなつもりはないんだけど」
「ない方がこわいな」
隣で、エヴァが本気で呆れたように目を閉じた。
「隠す気があるなら、もう少し下手になさってくださいません?」
「今のは仕方ないだろ」
「あなた、何かあるとすぐ“仕方ない”で押し切ろうとしますのね」
「実際、見過ごしづらかったし」
「そういうところですわよ」
朱音はと言えば、僕の斜め後ろの席から少し身を乗り出して、小さな声で囁いた。
「今の、ちょっとだけかっこよかった」
「褒めないで」
「褒めてる」
「だから、それが問題なんだって」
「でも、あれ放っておかなかったの、恒一くんらしいよ」
「らしさとか今はいらない」
らしさは隠したい。できることなら全部。
けれど、朱音は少しだけ嬉しそうだった。そういうところが厄介だ。僕が目立たないように苦労している横で、彼女は僕の“そういうところ”が好きだと顔に出してしまう。
式はそのまま続いた。
新入生代表挨拶、担任紹介、諸連絡。けれど僕の頭の中では、さっきの短いやり取りだけが何度も反芻されていた。
何がまずかったのか。声か。視線か。間の取り方か。黒崎が引いた理由は何だ。やはり言い方に、無意識の“上に立つ側の静けさ”みたいなものが出てしまったのか。
そんなふうに考えている時点で、たぶんもう普通ではない。
ようやく式が終わり、退場のために列が動き出す。体育館の緊張がほどけ、新入生たちも保護者たちも少しずつ話し声を取り戻していく。
僕は席を立ちながら、心の中でだけ深いため息をついた。
疲れた。
まだ半日も経っていないのに、もう一週間くらい高校生をやった気分だ。
体育館を出て、廊下へ戻る流れの中で、エヴァが横へ並んだ。
「あなた」
「何」
「今のは、庇ったのですか」
「見れば分かるだろ」
「ええ、分かりますわ」
彼女はまっすぐ前を見たまま続ける。
「でも、普通の新入生は、初日の入学式でああいう止め方をしません」
「今日はその評価ばかりだな」
「当然ですもの」
少しの沈黙の後、彼女が言った。
「あなた、“普通の高校生”ではありませんわね」
足が止まりかけた。
廊下のざわめきの中で、その一言だけが妙にはっきり聞こえる。
僕は歩調を保ったまま、横目でエヴァを見る。青い瞳は揺れていない。疑っているというより、確認している目だった。
「……君こそ」
僕は静かに返す。
「普通の留学生じゃないだろ」
エヴァの目が、ほんのわずかに見開かれた。
「何のことですの?」
「初対面の相手の違和感を、そこまで正確に拾う人は少ないよ」
「観察しているだけですわ」
「それにしては、見すぎだ」
「あなたほどではありません」
「そうかな」
「そうです」
また少しだけ、沈黙。
その時、後ろから朱音がするりと僕たちの間へ入ってきた。
「ふたりとも、仲いいね」
「どこが」
僕とエヴァの声がぴたりと重なった。
木乃実が、少し前を歩きながら振り返る。
「今のは息合ってたよ」
「合ってませんわ」
「合ってない」
「いや、めっちゃ合ってたって」
「それはそうかも」
前の男子まで笑っている。
もうだめだ。完全に、クラスの中で変な立ち位置になりつつある。
朱音はそんな僕の疲労など意に介さず、楽しそうに続けた。
「恒一くん、さっきもそうだったけど、困ってる人見ると放っておけないから」
「朱音」
「いいことだよ?」
「今は目立たないことが大事なんだ」
「でも、放っておいたら後で気にするでしょ」
「……それはそうだけど」
言い返せなくて黙ると、朱音は少しだけ柔らかい声で言った。
「だったら、よかったんじゃないかな」
その言い方は、たぶん本心だった。
僕が普通でいようとして無理をしていることも、でも結局そういう場面では動いてしまうことも、朱音は全部知っている。そのうえで言われると、少しだけ肩の力が抜けるから困る。
「甘いですわね」
エヴァがぼそりと挟む。
「何が?」
朱音がにこやかに返す。
「褒めてばかりでは、本人のためになりません」
「じゃあエヴァさんは厳しくしてあげるつもり?」
「必要なら」
「へえ」
「何ですの」
「別に?」
また始まった。
僕は心の中で天を仰いだ。なぜ入学式初日から、こんなに火花が散っているのか。
しかも、その火花の真ん中にいるのが自分だというのが、さらに疲れる。
教室へ戻る途中、廊下の窓からつくばの空が見えた。朝見た時と変わらず高く、どこか乾いた春の青だった。
静かな青春をしたい。
その願いは、別に今も変わっていない。
でも、今日だけでなんとなく分かってしまった。
たぶん僕は、静かにしていようとするほど、逆に変な方向で目立つ。
そしてエヴァは、そのたびに見逃さない。
朱音は、そのたびに嬉しそうにする。
木乃実たちクラスメイトは、それを面白がる。
平穏とは、ずいぶん遠い。
「神代くん」
木乃実が教室の前で言った。
「さっきの、ちょっとよかったよ」
「何が?」
「黒崎くんのとこ」
「たいしたことはしてないよ」
「そういう言い方するところも、なんかそれっぽい」
「それっぽいって何」
「うーん……」
木乃実は少し考えて、笑った。
「なんか、こいつだけ空気違うなって感じ」
「うれしくない」
「でも悪くないよ」
「君は軽いなあ」
「楽しい方がいいじゃん」
教室の中へ戻る。
その一歩ごとに、今日一日で積み上がった“変な印象”が確実にクラスへ残っているのを感じた。
礼が綺麗。
返事が通る。
雑談が下手。
落ち着きすぎている。
静かなのに、ときどき妙に怖い。
そして、美少女ふたりに挟まれている。
ひどい。客観的に見て、かなりひどい立ち位置だ。
席へ着く直前、エヴァが最後にもう一度だけこちらへ視線を寄越した。
「神代恒一」
「何」
「まだ断定はしませんけれど」
「何を」
「あなたが隠しているもの、たぶんわたくしは嫌いではありませんわ」
言うだけ言って、彼女は何事もなかったように席へ着く。
僕はその場で一瞬だけ立ち尽くした。
嫌いではない。今のは、どういう意味だ。
「恒一くん」
今度は朱音が、にこやかに僕の袖を引いた。
「ぼーっとしてる」
「してない」
「してるよ」
「してないって」
「……ふうん」
笑顔のままなのに、少しだけ目が細い。
危険信号だった。
僕は席へ座り直し、静かに思う。
入学式の日に、こいつだけ空気が違う。
クラスメイトたちがそんなふうに感じているのだとしたら、それはたぶん間違っていない。
ただ、その“違い”の中身までは、まだ誰にも知られたくなかった。
少なくとも、今日の時点では。




