第48話 先生は、ようやく“少しだけ”引っかかる
人が何かに気づく瞬間というのは、案外地味だ。
劇的に顔色が変わるわけでもない。
急に態度が硬くなるわけでもない。
ましてや、「なるほど、そういうことか」と分かりやすく言ってくれることなんて、まずない。
むしろ逆だ。
少しだけ間が増える。
ひとつ前なら流していた場面で、ほんの少しだけ止まる。
そのくらいの変化しかない。
でも、その“ほんの少し”があるかどうかで、教室の空気は意外と変わる。
班発表の翌日。
朝のホームルーム前、教室はいつもよりゆるい空気に包まれていた。大きな行事がひとつ終わった翌日というのは、だいたいみんな少しだけ息が抜ける。終わったこと自体に安心するやつもいれば、単に昨日までの緊張を引きずって眠そうなやつもいる。
木乃実は前者だった。
「終わったあー」
と朝いちで机に突っ伏している。
「そんなにか」
僕が言うと、木乃実は顔だけ上げた。
「そんなにだよ」
「そこまで大変だったか?」
「大変っていうか」
木乃実は頬を机につけたまま言う。
「最近、発表そのものより発表までの空気の方が疲れる」
「……」
「神代くん?」
「いや」
僕は少し苦笑した。
「それ、かなり正確だなって」
「でしょ?」
「嬉しくない精度だな」
「最近のこのクラス、そこだけ無駄に育ってる気がする」
後ろから佐伯も会話に入る。
「神代」
「何」
「昨日のやつ、やっぱり地味に効いてたな」
「何が」
「先生」
佐伯は椅子を少し鳴らして座り直した。
「おまえが“何をしてて、誰が困ってなくて、何が足されたか”まで言ったやつ」
「……」
「遠山先生、前よりちょっと引っかかってた」
「……そう見えた?」
「見えた」
「俺も」
木乃実がすぐ言う。
「今までは“気をつけてね”で流してたのに、昨日はちゃんと“班の確認中なら変じゃない”って言ったし」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「そこ、僕も思ってた」
「だよね」
「うん」
「で、どう?」
木乃実が聞く。
「何が」
「少しは楽?」
「……」
僕は少しだけ考えた。
「ゼロじゃなくなった感じはある」
「ゼロじゃなくなった」
「うん」
「うわ」
木乃実が笑う。
「神代くんっぽい言い方」
「そうか?」
「かなり」
「嬉しくないな」
「でも分かるよ」
木乃実は頷いた。
「味方になった、じゃなくて“前よりは引っかかる先生になった”ってことだよね」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は苦笑する。
「最近の木乃実、たまに整理の仕方がやけに上手い」
「でしょ?」
「自分で言うんだ」
「便利だから」
「ほんとその言葉好きだな」
少し離れた席から、エヴァの声が届いた。
「遅いですが、前進ですわね」
あまりにもらしい評価だった。
「遅いって、そこは容赦ないな」
僕が返すと、エヴァは平然としている。
「事実です」
「便利な言葉だな」
「あなた方が乱用しているだけです」
「で?」
「で、とは何ですの」
「昨日の先生」
僕が言うと、エヴァは少しだけ視線を上げた。
「完全に見えたわけではありません」
「うん」
「でも、“また神代恒一が気にしすぎているだけ”では処理しなかった」
「……」
「そこは小さくありません」
「小さくない、か」
「ええ」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ肩をすくめた。
「最近の君、そういう“まだ足りないけど、ゼロじゃない”の言い方が上手いなって」
「褒めても何も出ませんわよ」
「今のはかなり褒めてる」
「……」
「何で黙るんだよ」
「困るからです」
「最近それ認めるな」
「認めないと面倒だからです」
「また人のせいにした」
「事実です」
朱音は今日、珍しく少し遅れて来た。
席へ着く前に僕の机の横で止まり、何でもない顔で言う。
「今日、先生ちょっと見ると思う」
「何を」
「黒崎くん」
「……」
「昨日、引っかかったから」
「そこまで分かる?」
「分かるよ」
朱音はさらっと言う。
「先生って、一回“あれ?”ってなると、その次の一回だけはちゃんと見るもん」
「その次の一回だけ、か」
「うん」
「ずいぶん限定的だな」
「だって先生だし」
「それ、ひどいようでわりと当たってるな」
「でしょ?」
「うん」
ホームルームが終わって一時間目。
遠山先生は教室に入ってきて、いつも通りに出欠を取った。いつも通りの声、いつも通りの間合い。何も変わっていないように見える。
けれど、たぶん少しだけ違った。
違ったのは、黒崎を見た時の目線の止まり方だ。
ほんの一拍。
本当にそれだけ。
でも今までの遠山先生なら、黒崎の表情や姿勢をざっと見てそのまま流していたところで、一瞬だけ長く見た。たぶん本人に自覚はないだろうし、教室のほとんども気づいていないかもしれない。
でも最近の僕は、そういう“一拍”を拾う側になってしまっていた。
そしてその“一拍”が、午前中にもう一度あった。
二時間目の終わり。
プリント回収の時だった。
「黒崎くん、まだ?」
遠山先生が言う。
「あ、今出します」
黒崎が笑う。
いつもの感じだ。感じはいい。少し遅れたが、別に大ごとではない。
でも先生は、そこで流さなかった。
「最近ちょっとギリギリ多いね」
「え?」
黒崎が少しだけ目を上げる。
「昨日の班の確認もそうだけど」
「……」
「間に合ってるからいい、じゃなくて」
先生は言葉を選ぶように言った。
「周りがどこで困るかも考えてね」
「……はーい」
言い方はやわらかい。
でも、前ならそこまで言わなかった。
ほんの少しだけ、踏み込んでいる。
「……今の」
木乃実が小声で言った。
「うん」
僕も小さく返す。
「きたね」
「うん」
「めちゃくちゃちょっとだけど」
「かなりちょっとだけ」
「でも前よりはっきりしてた」
「してたな」
後ろで佐伯も頷く。
「“周りがどこで困るかも考えて”って、黒崎には初めて聞いた気がする」
「うん」
「そこ、やっぱ昨日のやつ効いてるかも」
「……」
「何だよ」
「いや」
僕は少しだけ息を吐く。
「ようやく“少しだけ”って感じだなって」
「それ」
木乃実が笑う。
「まさに神代くんの言い方」
「そうか?」
「うん。で、今のたぶん正しい」
昼休み。
三田村が今日は前より少しだけ顔を上げていた。
「神代くん」
「うん?」
「今の先生」
「うん」
「ちょっと変わった?」
「少しだけ」
僕が答えると、三田村は小さく頷いた。
「俺もそう思った」
「……」
「前なら、黒崎くんにあそこまで言わなかった気がする」
「うん」
「だから」
「だから?」
「何か、ちょっとだけ安心した」
「……」
「何」
「いや」
僕は少しだけ苦笑する。
「その“ちょっとだけ”って言い方、最近みんな使うな」
「便利だから」
三田村が言う。
「おまえまでか」
「だって本当にそうだし」
「そのクラス、だいぶ統一感出てきたな」
その時、黒崎が前の方で誰かと笑っていた。
でも今日は、その笑い方がほんの少しだけ硬く見えた。
たぶん向こうも気づいているのだ。
先生の温度が、昨日までと少し違うことに。
「気づかれたと分かったやつは、少しやり方を変えますわね」
エヴァが静かに言った。
「何だよそれ」
僕が聞くと、
「そのままの意味です」
と彼女は答えた。
「黒崎蓮司」
「うん」
「今朝から、少し軽口が少ない」
「……」
「先生の前での感じの良さは変わらない」
「うん」
「でも、“冗談で押す”の量が少し減っている」
「……」
「つまり」
「つまり?」
「引っかかり始めたことを、あちらも感じた」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は小さく息を吐いた。
「そこまで見てるの、ほんとすごいな」
「あなたが遅いだけです」
「はっきり言うな」
「必要なので」
「便利な理屈だ」
「あなた方ほどではありません」
午後の授業中、僕は何度か黒崎を見た。
露骨には見ない。
でも、前より少しだけ視界に入れる。
やっぱり、変わっている。
劇的じゃない。だが、たしかに。
先生が近くにいる時の態度はそのまま。
でも、いない時に混ぜる一言が薄い。
今までは“また?”とか“細かいよな”とか、そういう軽い棘をさりげなく置いていたのに、今日はそれが少ない。
やり方を変えようとしているのだろう。
それはたぶん、こっちにとって悪いことばかりじゃない。
少なくとも、“同じやり方は通りにくくなった”と向こうが理解した証拠ではある。
放課後、朱音が言った。
「ほらね」
「何が」
僕が聞くと、朱音は少し得意げに笑う。
「先生、一回だけちゃんと見た」
「……」
「で、黒崎くんも気づいた」
「うん」
「だから次は、たぶんまた別のやり方になる」
「……」
「何その顔」
「いや」
僕は苦笑する。
「相変わらず嫌な方向に勘がいいなって」
「ひどくない?」
「ひどくないけど」
「でも当たってるでしょ?」
「かなりな」
「じゃあいいじゃん」
木乃実がその会話に入ってくる。
「でもさ」
「うん?」
「先生が少しでも引っかかり始めたの、地味に大きいよね」
「大きい」
僕は頷く。
「たぶん、今までよりは“神代くんが気にしすぎてるだけ”に見えにくくなった」
「……」
「うん」
「何だよ」
「いや」
木乃実は少しだけ笑った。
「昨日まで、正直そこがちょっと怖かったから」
「怖かった?」
「うん」
木乃実は頷く。
「神代くん、間違ってないのに、見え方だけで損してる感じあったし」
「……」
「でも今日、先生ちょっと引っかかった」
「うん」
「そこ、けっこう安心した」
「……」
「何」
「やっぱり、みんな同じとこ見てたんだなって」
「見てたよ」
木乃実はあっさり言う。
「最近は特に」
窓の外は、もう夕方の色だった。
先生は、ようやく“少しだけ”引っかかる。
その少しだけは、遅い。
でも、ゼロよりはずっと大きい。
たぶん次から、黒崎のやり方も少し変わる。
こっちの返し方も、また少し変わる。
そうやって教室の中の見えない線は、少しずつ位置を変えていくのだろう。




