第38話 家の力を知ってるやつは、先生の顔色より先を見ている
先生を怖がらないやつ、というのがいる。
もちろん、ただ鈍いだけのやつもいる。怒られても気にしない、反省しているふりすら面倒、そういう種類の人間なら別に珍しくもない。
でも黒崎蓮司は、そういう雑なタイプとは少し違う。
あいつは先生に逆らわない。
むしろ感じがいい。
返事もきれいだし、表面上の態度だけ見れば“要領のいい生徒”ですらある。
なのに、どこかで先生の顔色のさらに先を見ている感じがある。
怒られるかどうかではなく、怒られてもどこまで大ごとにならないか。
担任がどう受け取るかではなく、その先で何が起きるか起きないか。
そういうところまで、少しだけ知っている人間の余裕。
最近の僕は、それが妙に気になっていた。
朝の教室。
四月の終わりに近づいて、最初の頃よりみんなの席の座り方が“自分の場所”っぽくなってきた。木乃実は相変わらず机へ少し斜めに座るし、佐伯は朝からやる気のない顔が板についている。三田村は前より机の上を整えすぎるくらい整えているし、小坂は相変わらず静かだ。
黒崎は、今日も笑っていた。
それも、何でもない顔で。
何でもない朝みたいな顔で。
「神代くん」
木乃実が振り向いた。
「何」
「今日、また黒崎くん見てた」
「……」
「図星」
「最近おまえ、本当に人の視線の動きまで拾うな」
「だって分かりやすいし」
「それ、最近の僕の周りで流行ってるな」
「神代くんが分かりやすすぎるの」
木乃実は頬杖をつく。
「で、今日は何が気になるの?」
「何が、って」
「黒崎くん」
「……」
「また先生の見え方の話?」
「半分」
「半分なんだ」
「もう半分は」
僕は少しだけ考える。
「先生の見え方の、その先」
「……」
「うわ」
木乃実が小さく言った。
「今日ちょっと重いな」
「朝からそれ言うなよ」
「だってほんとだし」
「便利な言葉だな」
「かなりね」
後ろから佐伯も入る。
「いやでも、分かるわ」
「何が」
「黒崎ってさ」
佐伯は少し声を落とした。
「先生に怒られること自体は、そこまで怖がってない感じあるよな」
「……」
「なんか“このくらいなら平気”を知ってるやつの顔してる」
「……」
「何だその顔」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「今の、かなり近いかも」
「だろ?」
「うん」
「俺もたまに思う」
木乃実が言う。
「先生に見つかった時の顔が、普通の人とちょっと違う」
「どう違う」
「怒られるの嫌っていうより、“はいはいそこまでね”って分かってる感じ」
「……」
「それ」
僕が小さく言う。
「たぶんいちばん嫌なやつだな」
「だよねえ」
少し離れた席から、エヴァの声が届いた。
「知っている人間の余裕ですわね」
相変わらず、必要な時だけ会話に入ってくるのがうまい。
「何を知ってるんだろうな」
僕が言うと、
「少なくとも、教師一人の機嫌で全部が決まるわけではない、ということでは?」
とエヴァは返した。
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少し苦笑した。
「君、そのへん本当に言葉が早いな」
「遅いよりはましでしょう」
「正しいけど」
「それに」
エヴァは視線を黒崎へやった。
「遠山先生にだけ良く見られればいい、という顔でもありませんもの」
「うん」
「もう少し外側を知っている感じがします」
「……外側、か」
「ええ」
エヴァは頷く。
「学校の中だけで完結しない何か、です」
「朝からその解像度出せるのすごいな」
「あなた方が遅いだけです」
「ひど」
木乃実が言う。
「でも分かるのが嫌」
朱音は少し遅れて教室へ入ってきた。
入るなり、僕を見る。
次に黒崎を見る。
そして珍しく、今日は先生のいない教卓の方も見た。
ああ、この人も同じこと考えてるのかもしれない、と思った。
「おはよう」
「おはよう」
「今日、また面倒なこと考えてるね」
「最近の僕、それしか言われてない気がする」
「だってそうなんだもん」
朱音は僕の机の横で止まる。
「でも今日はちょっと違う」
「何が」
「黒崎くん本人っていうより」
朱音は声を落とした。
「その後ろ」
「……」
「図星」
「おまえまでそこ読むのか」
「読むよ」
「何で」
「最近の流れ見てれば」
朱音は肩をすくめた。
「先生に怒られるかどうか、って感じじゃないでしょ」
「……」
「もっと、“怒られてもその先で困らない”って顔してる」
「……」
「うわ」
木乃実が言う。
「朱音さんも同じこと言った」
「でしょ?」
「何その自信」
「だってそう見えるし」
「みんな最近、ほんとそこだけ妙に鋭いな」
一時間目の前、配布物の回収があった。
ごく普通の提出物だ。英語の小課題。締切もそこまで厳しくないし、忘れたところで成績が即死するようなものではない。だからこそ、教室の空気も軽い。
でも、その軽い場面で、黒崎はまた少しだけ引っかかった。
「黒崎くん、課題出して」
英語の先生が言う。
「まだです」
黒崎は笑った。
「家に置いてきました」
「もう」
先生が苦笑する。
「今日中に職員室ね」
「はいはい」
その返事が、妙に軽い。
軽いのだが、先生は強くは言わない。
それ自体は別に珍しくない。課題忘れなんて、どのクラスにもある。だが問題は、そのあとだ。
「うち、朝バタバタするんで」
黒崎が何でもない顔で言う。
「親も出るの早いし」
「ああ、そうなんだ」
先生が少しだけ表情を和らげる。
「じゃあ今日中ね」
「はい」
それで終わる。
けれど、その“うち、朝バタバタするんで”が妙に耳に残った。
言い訳としては弱い。
でも、先生に“家庭の事情もあるのかな”と思わせるには十分な軽さだった。
しかもそのあと、黒崎は僕の方を一瞬だけ見た。
ほんの一瞬。
でも、“このくらいは通る”と確認している顔に見えた。
「……神代くん」
木乃実が小さく言う。
「何」
「今の見た?」
「見た」
「黒崎くん、ちょっと先生の反応見てたよね」
「うん」
「やだなあ」
「かなりな」
佐伯が低く言う。
「今の課題忘れ、怒られても平気って感じだったし」
「しかも」
木乃実が続ける。
「言い訳っていうより、“うちそうなんで”ってさらっと混ぜた感じ」
「……」
「そこ、ちょっと嫌だよね」
「うん」
僕は短く答えた。
エヴァが静かに言う。
「ようやく、少し見えてきましたわね」
「何が」
僕が聞くと、エヴァは視線を逸らさない。
「黒崎蓮司の余裕の出どころです」
「……」
「教師一人にどう思われるか、ではなく」
「うん」
「その先まで大ごとにならない、と知っている人間の余裕」
「……」
「それ、まだ断定はできません」
「うん」
「でも、疑うには十分です」
「……」
「何ですの」
「いや」
僕は少しだけ苦笑した。
「君のその“断定しないけど疑うには十分”って感じ、最近だいぶ好きだな」
「……」
「そこで黙るのやめてくれない?」
「困ります」
「またそれか」
「今のは本当に困ります」
「何で」
「あなたがたまに真っ直ぐすぎるからです」
「また人のせいにした」
「今回は事実です」
二時間目と三時間目の間、廊下で小さな会話が聞こえた。
黒崎と、別の男子二人。
内容は大したことではない。放課後どこ行くとか、テストだるいとか、そういう普通の話だ。
でもその中に、ひとつだけ引っかかる言葉があった。
「うち、そういうの別に平気だし」
黒崎が笑いながら言ったのだ。
「何が?」
男子の一人が聞く。
「学校から家に連絡とか」
「え」
「親そういうの気にしねえから」
黒崎は軽く肩をすくめた。
「むしろ“学校も大変だな”で終わるし」
その言い方が、妙にこなれていた。
ただの強がりではない。
一回二回じゃない感じがある。
“そういうの”を知っていて、使い方まで知っているやつの口ぶり。
僕は廊下の角を曲がるふりをしながら、その一言だけをちゃんと拾った。
「……神代くん」
少し後ろにいた朱音が小さく言う。
「聞いた?」
「聞いた」
「うん」
朱音はまっすぐ黒崎の背中を見る。
「やっぱりだね」
「何が」
「黒崎くん」
朱音は静かに言った。
「親の話、普通にカードとして持ってる」
「……」
「まだ切ってないけど、使えるって分かってる顔」
「……」
「嫌だな」
「かなり」
僕が答えると、朱音は小さく頷いた。
「だよね」
昼休み、三田村が珍しく自分から僕のところへ来た。
「神代くん」
「うん?」
「さっき」
「うん」
「黒崎くんの“うちそういうの平気”ってやつ」
「聞いてた?」
「少しだけ」
「……」
「なんか」
三田村は言いにくそうに言う。
「課題忘れても余裕ある人の言い方じゃなくて」
「うん」
「慣れてる人の言い方だった」
「……」
そこまで感じていたのか、と少し驚いた。
いや、驚くべきではないのかもしれない。今まで押される側にいた人間の方が、そういう温度差には敏い時がある。
「分かる」
僕は答える。
「俺もそう思った」
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、俺の気のせいじゃないんだ」
「たぶん、気のせいではない」
「……」
「でも」
「でも?」
「まだ、断定はしない」
三田村は少しだけ笑った。
「それ、最近の神代くんっぽい」
「嬉しくないな」
「でも、前よりちょっと安心する」
「……」
「何」
「いや」
僕は少しだけ肩をすくめた。
「最近、そういう意味での安心を求められる側になってるんだなって」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「うん」
「でも、その分ちゃんと見ないとなって思う」
「……」
「そこが面倒」
「面倒だね」
「だろ」
「うん」
三田村は頷いた。
「でも、神代くんそういうの放っとけないし」
「最近みんな、そこだけ妙に断定するよな」
「だってそうだし」
「便利な言葉だな」
「便利だよ」
三田村が言うと、思わず少し笑ってしまった。
放課後、エヴァと短く話す時間があった。
「今日の黒崎蓮司、かなり分かりやすかったですわね」
彼女は開口一番そう言った。
「何が」
「家庭です」
「……」
「課題忘れそのものではなく」
「うん」
「“家に連絡が行っても大ごとにならない”を知っている感じ」
「……」
「それが教師に対する余裕にも繋がっている」
「……」
「どうしましたの」
「いや」
僕は少しだけ息を吐いた。
「やっぱり、ただの嫌な同級生では済まなくなってきたなって」
「当然でしょう」
エヴァは平然としている。
「今さらですか?」
「今さらかも」
「遅いです」
「そこは優しくないな」
「必要ありませんもの」
「でも」
「でも?」
「君も、前よりそこをはっきり言うようになったな」
「……」
「何だよ」
「今のは」
エヴァが少しだけ視線を外す。
「たぶん、前よりわたくしも確信が増しているからです」
「……」
「だから、はっきり言います」
「……そうか」
「ええ」
「今の、ちょっといいな」
「何がですの」
「君がちゃんと自分の変化認めるとこ」
「……困りますわね」
「またそれだ」
「今日はかなりそれです」
窓の外は、夕方へ向かう光だった。
黒崎は教室の後ろで笑っている。
相変わらず何でもない顔で。
でも、もう前みたいには見えない。
ただ感じの悪いやつ。
それだけでは足りない。
家の力を知っていて、使い方まで分かっているやつ。
そういう輪郭が、少しずつ見え始めていた。
そしてそれが見えた時点で、たぶん次の戦い方も少し変わる。




