第17話 なくしたことにされるやつが、いちばん困る
なくし物というのは、なくした本人がいちばん悪いことになりやすい。
もちろん、本当に本人が悪い場合もある。うっかり机に置きっぱなしにしたとか、提出期限を勘違いしたまま鞄の底で眠らせていたとか、人類はそういうしょうもないミスでだいたい日々を構成している。だから、なくし物が出た時に最初に疑われるのが本人の不注意なのは、ある意味では自然だ。
自然だし、合理的でもある。
だが問題は、その“自然で合理的”という便利な言葉が、ときどき雑に使われすぎることだ。
本人が悪いことにしておけば話が早い。
それ以上考えなくて済む。
空気も止まらない。
誰も面倒な立場にならない。
だから、人はすぐそこへ逃げる。
そして教室という場所は、その逃げ道がやたらよくできている。
朝の一時間目が始まる前、A組の空気はいつもより少しだけ落ち着かなかった。
理由は単純だ。提出物の日だったからである。
先生という生き物は、どうしてこう提出物を“朝いちで回収します”みたいな形にしたがるのだろう。人類に必要なのは、朝いちの緊張感ではなく、もう少しゆるやかな目覚めだと思う。少なくとも僕はそう思う。
「神代くん」
木乃実が振り向いた。
「何」
「ちゃんと持ってきた?」
「失礼だな。持ってきたよ」
「いやでも、神代くんって完璧そうでたまに変なところ抜けそうじゃん」
「褒めてるのか貶してるのかはっきりしてくれ」
「六対四で褒めてる」
「微妙だな」
「でも持ってきたんだ」
「持ってきた」
僕は鞄のクリアファイルを少しだけ見せる。
「ほら」
「うわ」
木乃実が笑う。
「整理がきれい」
「そこはいいだろ」
「いいけど、やっぱ神代くんってこういうの妙に隙ないよね」
「そのために前日に確認してるから」
「出た、前日確認」
「普通じゃない?」
「普通はするけど」
佐伯が後ろから口を挟む。
「そこまで“確認した自分”まで含めて確認しない」
「どういう意味」
「神代って、確認したあとに“確認したな、よし”ってもう一回心の中で確認してそう」
「……」
「図星?」
「言われると少しだけ腹が立つ」
「当たってるんだ」
「全部じゃないけど」
「だいぶ当たってるじゃん」
そんなやり取りをしている間に、遠山先生が教室へ入ってきた。
「はい、おはよう。では最初に昨日言ってた提出物、前から回してね」
紙を持つ音が、教室のあちこちで重なる。
その、ごく普通の朝だった。
ごく普通の朝のはずだった。
「……あれ?」
小さな声だった。
でも、その“あれ?”には、分かりやすい嫌な気配が入っていた。見つからない時の声だ。探しているのに、そこにあるはずのものがない時の声。
前から二列目、窓側寄り。三田村だった。
机の中を見て、鞄を開けて、また机の中を見ている。手の動きが少しだけ速い。焦りを隠そうとしているやつだ。隠せていないけれど、本人だけはまだ“隠せていることにしたい”段階の動きだった。
「どうした?」
近くの男子が聞く。
「いや、その……」
三田村はプリントの束を見返す。
「連絡用紙、ここに入れてたはずなんだけど」
「なくした?」
「え、いや、たぶん入れたと思うんだけど」
「たぶん」
その言葉を拾ったのは、黒崎だった。
嫌な拾い方をするな、と思う。
黒崎は自分の席から少し身体をひねって、いかにも“何気なく聞こえたから乗りました”みたいな顔で言う。
「三田村って、そういうの多くね?」
「いや」
「いや、前もプリントどっかやってなかった?」
「あれは、あとで見つかったやつで」
「でもなくしたんじゃん」
黒崎は笑った。
「今回もそれじゃね?」
声は軽い。
軽いのに、妙に周囲へ広がる。
何人かがそちらを見る。木乃実の顔が曇る。佐伯が小さく眉を寄せる。けれど、まだ誰も何かを言うほどの空気ではない。
それがまた、嫌だった。
「提出物ないとまずいんだっけ」
「うん、たぶん」
三田村は机の中へもう一度手を入れる。
「ちゃんと昨日、ファイルに入れたと思うんだけど……」
「“思う”」
黒崎がまた繰り返した。
「その“思う”がいちばん危ないんだよな」
「……」
「いや別に責めてないって」
黒崎は笑う。
「でも三田村って、そういう“ちゃんとやったつもり”多いじゃん」
近くで、小さな笑いが起きた。
嫌な笑いだ。
本人が笑っていないのに、空気だけが勝手に軽くなるあれだ。
「どうしよう……」
三田村は本気で困っていた。
そこにはもう、“またおまえ?”と軽くいじられてるだけの雰囲気ではない。本人の中ではちゃんと問題になっている。でも周囲はまだ問題として扱いきれていない。だから空気がずれる。
そのずれを、黒崎はたぶん知っていて使っている。
「あなた」
少し離れた席から、静かな声が飛んできた。
「何」
「もう疑っていますわね」
エヴァだった。
この人は本当に、人の表情だけで会話を始める。特殊能力か何かだろうか。いや、能力というより執念に近い気もするが。
「そんな顔してる?」
「かなり」
「最近みんなそれ言うな」
「皆さんの観察眼が正常なだけです」
「僕が異常みたいに言うなよ」
「少なくとも、今はかなり分かりやすいですわ」
「……」
「違いますの?」
「違わなくはない」
「曖昧ですわね」
「証拠がないから」
「ふうん」
エヴァは教科書の端を指先で揃えながら言った。
「そこを区別できるなら、まだ大丈夫そうですわね」
「まだ大丈夫、ってどういう基準だ」
「感情だけで飛び出さないかどうか、です」
「飛び出してるように見える?」
「少しは」
「やめてくれ、その評価」
後ろから、朱音がすっと近づいてきた。
「黒崎くんでしょ」
「……」
「今、たぶんそういう顔してた」
「みんなほんとによく見てるな」
「だって分かるし」
朱音は平然と言う。
「三田村くん、本当に困ってる顔してる」
「うん」
「黒崎くん、また見てるね」
「見てる?」
「うん。三田村くんじゃなくて、恒一くんの方」
「……」
そこまで言われて、僕は一度だけ黒崎の方を見る。
たしかに、視線が合った。
黒崎はすぐに、何でもないふうに笑った。
ああいう笑い方ができるやつはだいたい面倒だ。やましいことがない人間の笑いじゃなくて、“こっちがどこまで気にしてるか見てる”時の笑い方だ。
「神代くん」
木乃実が小声で呼ぶ。
「何」
「私も、ちょっと変だと思う」
「何が」
「三田村くんのやつ」
「……」
「だってさ、三田村くんってたしかにちょっと抜けてるけど、ああいう提出系は意外とちゃんとしてる方じゃない?」
「うん」
佐伯も頷く。
「前に見つかったって言ってたやつも、たしか結局プリントの束に紛れてただけだし」
「“また三田村がやった”って空気に持ってくの、ちょっと早いんだよな」
「そう」
木乃実が真顔になる。
「早いし、なんか都合よすぎる」
「……」
「神代くん?」
「同じこと考えてた」
「だよね」
でも、そこで終わる。
変だと思う。
でも、まだ断定はできない。
誰かが隠したとか、すり替えたとか、そんなことまで言える材料はない。今あるのは、ただの違和感だけだ。
違和感は大事だ。
でも違和感だけでは、人を止めるには弱い。
その理屈を、今はもう僕も分かってしまっている。
遠山先生が回収用の籠を持って教室を回り始めた。
「はい、ない人はあとで職員室まで持ってきてねー」
先生はそれだけ言う。
三田村は「すみません」と小さく頭を下げた。
黒崎はそのやり取りを見て、小さく肩をすくめる。
「また怒られるじゃん」
「いや、別に怒られては」
「でも三田村って、ほんとそういうの多いよな」
「……」
「気をつけろよ」
言い方だけは親切だ。
親切の顔をした厄介さほど、教室で処理しにくいものはない。
休み時間になっても、三田村はしばらく鞄と机を見直していた。
本気で見つからないらしい。
僕は自分の席から動かず、その様子を見ていた。見ているだけで済ませるのが正しいのかどうか、まだ決めきれなかったからだ。
「……探す?」
と僕が聞くと、三田村は少し驚いた顔をした。
「え」
「その紙」
「あ、いや……」
「一人で探すよりはましだろ」
「でも」
「でも?」
「なんか、悪いし」
「それはもう今さらだ」
「今さら?」
「僕、たぶんもうだいぶ気にしてる顔してるから」
「……」
三田村は少しだけ困ったように笑って、それから小さく頷いた。
「じゃあ……少しだけ」
そこへ黒崎の声が飛ぶ。
「神代、やさし」
軽い。
軽すぎる。
「正義感強いよな、ほんと」
「……」
「また何か言われそうだから先にフォロー入ってる感じ?」
周囲の何人かが、気まずそうに笑う。
前よりは、その笑いが弱い。
それがせめてもの救いだった。
「別にフォローじゃない」
僕は静かに言った。
「本人が困ってるから探すだけ」
「へえ」
黒崎は笑ったままだ。
「そういうの、やっぱ神代っぽいわ」
「どういう意味」
「いや、いい意味で?」
「疑問符つけるなよ」
「気にしすぎじゃね?」
会話としては軽い。
でも、その軽さの中に“おまえ面倒なやつだよな”を混ぜてくる。しかも周囲にも聞こえる程度に。
ああ、と思う。
これか。
第四章の最後に感じたものの正体は、たぶんこれだ。僕へ直接ぶつかるほどではない。けれど、空気の中へ僕の立ち位置を混ぜ込む。“神代って正義感強いよな”“また何か言われそう”みたいな言葉で、じわじわと周囲の認識へ手を入れる。
雑だ。
でも雑なぶん、広がる。
「始まりましたわね」
エヴァが、ほんとうに小さな声で言った。
「何が」
「こういうやり方です」
「……」
「直接ではない」
「うん」
「でも確実に、あなたを“面倒な側”へ寄せていく」
「……うん」
「だから、始まりですわ」
その横で、朱音は驚きもしなかった。
最初から分かっていた人間の顔だった。
「まあ、そうなるよね」
「朱音」
「なに?」
「そこ、もっと驚いてくれてもよくない?」
「だって黒崎くん、そういうタイプだし」
「分かってたんだ」
「うん」
朱音は本当に普通に答える。
「恒一くんに見せるようになった時点で、その次は“恒一くんを面倒な人にする”方へ行くかなって」
「先読みが物騒だな」
「そう?」
「そうだよ」
「でも外してないでしょ?」
「……それはそう」
結局、見つからなかった紙の代わりは、先生に事情を話して再配布してもらうことになった。
大事にはならない。
ならないのだが、そこで終わりでもない。
三田村の中には、“また自分がやらかしたのかもしれない”が残る。
周囲には、“まあ三田村ってちょっと抜けてるしな”が残る。
黒崎の中には、“神代が動いた”が残る。
そして僕の中には、これが偶然だけで済むかどうかへの疑いが残る。
放課後、教室に残ったのは数人だけだった。
木乃実が、今日の空気を振り返るように言う。
「なんかさ」
「うん」
「黒崎くん、前よりやだ」
「ストレートだな」
「だってやだもん」
「分かる」
佐伯も頷く。
「しかも最近、神代に向けて言う時だけちょっと声の温度変わるよな」
「変わる」
「それを本人が分かってやってる感じがまた嫌」
「嫌なやつの解像度だけ上がっていくの嫌だな」
僕が言うと、木乃実は少しだけ笑った。
「でも神代くん、そういうのちゃんと嫌がるからまだいい」
「まだいい?」
「うん。慣れた顔してる方が怖い」
「慣れたくはないなあ」
そこで、教室の出入口の方から黒崎の声がした。
「神代」
まただ。
また、軽い。
軽いのに、妙に響く。
「何」
僕が振り返ると、黒崎は笑っていた。
笑っている。けれど、その笑顔の中身はたぶん午前中よりさらに薄い。
「最近、忙しそうだなって」
「前にも言ってたな」
「そうだっけ?」
「言ってた」
「そっか」
黒崎は肩をすくめる。
「まあ、気をつけろよ」
「何に」
「いろいろ?」
そこで少しだけ笑みが深くなる。
「ほら、気にすること増えすぎると疲れるじゃん」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
言葉だけ見れば、本当に気遣いだ。
でも、その“気をつけろよ”は、たぶんただの忠告じゃない。
“次はもっと面倒になるかもな”の匂いがした。
黒崎はそのまま教室を出ていく。
取り巻きっぽい男子が二人、あとを追う。
僕はその背中を見送りながら思う。
冗談の顔をした悪意は、放っておくと増える。
そして増えたものは、今度は“誰が悪いか分からない空気”を作り始める。
その中心に僕まで入ってしまった以上、たぶん次は、もう少しだけ面倒だ。
そしてたぶん、もう引き返す方が難しい。




