第11話 普通の顔で止めるのが、一番怖い
人が何かを押しつけられる瞬間というのは、案外静かだ。
怒鳴り声が飛ぶわけでもない。机を叩く音がするわけでもない。ドラマみたいに露骨な悪意が教室じゅうへ響くことなんて、そうそうない。むしろ逆だ。押しつけは、たいてい日常の顔をしてやってくる。
ちょっと頼むわ。
悪いけど、これお願い。
おまえの方が得意そうだし。
別に嫌ならいいけど。
その“別に嫌ならいいけど”が、いちばん厄介だ。
本当に嫌なら断っていいのなら、最初からこんなに面倒にはならない。断れない相手に、断りづらい空気で言うから成立する。なのに言った側だけは、あとでいくらでも退路がある。“いや、強制はしてないし”で終わる。
便利だ。腹が立つくらいに便利だ。
そして今日もまた、その便利なやり口が、教室の隅で静かに使われていた。
放課後前の最後のホームルームだった。
遠山先生が、教卓の上に何枚かの封筒を並べて言う。
「はい、これ、各係の確認用ね。来週までに先生室に出しておいてください。学級委員と、それから……そうだ、美化と保健、それから図書も一回提出あるから」
はい、と数人が返事をする。
僕もその中にいた。美化係である。こうして改めて言葉にすると、どうにも目立たなさそうで目立たない、実に中途半端なポジションだなと思う。だが少なくとも学級委員よりは静かだ。静かであれば今の僕には十分価値がある。
先生は続けた。
「今日はもう時間ないから、係ごとに適当に確認して、出す人だけ決めといてね。じゃ、解散」
いつものように教室がざわつき始める。
帰り支度の気配。椅子の音。鞄のファスナー。誰と帰るか、部活はどうするか、週末は何をするか。そういう普通の放課後のざわめきの中で、小さな雑務はたいてい小さなまま処理される。
処理される、はずだった。
「三田村、これ出しといて」
黒崎が、あまりにも何でもないことみたいに言った。
前の方の列。三田村はちょうど立ち上がりかけたところで、黒崎が差し出した封筒を見た。学級委員関係の確認書類だろうか。いや、違う。黒崎の席の近くにいる男子が持っている紙と見比べると、どうやら何種類かある。その中の一つを、黒崎は三田村へ当然のように押しつけていた。
「え、でもそれ、黒崎くんの係のやつじゃ」
「そうだけど」
黒崎は笑う。
「俺、ちょっと先生に用事あるんだよね」
「用事?」
「ちょっとな」
「……」
三田村が言葉に詰まる。
その一拍が、嫌だった。
断りたいわけじゃない。いや、断りたいのかもしれない。でも断っていいのか分からない。しかも周囲には何人か見ているやつがいる。こういう時、人は変に気を遣う。“ここで自分だけ渋ったら空気悪いかな”みたいなことを考えてしまう。
その迷いごと込みで、黒崎は話している。
「すぐ終わるって」
黒崎は軽く言う。
「先生室まで持ってくだけだし。別に大したことじゃないじゃん」
「いや、まあ……」
「な?」
笑ったまま、封筒をさらに少しだけ押し出す。
「三田村、こういうのちゃんとしてそうだし」
「……」
またその言い方だ。
こういうのちゃんとしてそう。
頼んでるみたいで、押しつけている。
相手を立てているみたいで、立てていない。
木乃実が少しだけ眉をひそめたのが見えた。
佐伯も何か言いたそうにしている。
でも、そこで止まる。
止まるよな、とも思う。まだ、止める側の言葉の方が難しいからだ。
「どうした?」
黒崎が首をかしげる。
「嫌なら別にいいけど」
出た。
嫌なら別にいいけど。
それを本当に嫌だと言えるなら、三田村はそもそもこんな顔をしていない。
「……いや」
三田村が、ようやく声を出す。
「できるけど」
「ほら」
黒崎が笑った。
「じゃ、頼むわ」
その“ほら”に、僕の中で何かが切り替わった気がした。
大きな音はしない。
劇的な覚悟もない。
正義感、みたいな大仰なものでもたぶんない。
ただ、ああ、これは見過ごしたくないな、と思った。
それだけだ。
それだけなのに、立ち上がるには十分だった。
「それ」
自分の声が思ったより静かだった。
でも教室のざわめきの中で、その一言だけはちゃんと通った。
黒崎がこっちを見る。三田村も見る。木乃実も、佐伯も、近くにいた何人かも見る。エヴァは、見たというより、もう見ていた。朱音はたぶん、僕が立ち上がる前から分かっていた顔をしていた。
僕は席を立つ。
別に歩み寄る必要もない距離だったが、その場に座ったまま言うのは違う気がした。数歩だけ近づく。近づきながら、変に感情的にならないよう意識する。怒鳴らない。責め立てない。押し切ろうとしない。
ただ、逃げ道を作りながら、逃がしすぎないように言う。
難しい。難しいが、たぶん今の僕にできるのはそれだけだ。
「それ、本人が引き受けたわけじゃないだろ」
黒崎の笑みが、ほんの少しだけ止まった。
「は?」
「今の」
僕は三田村ではなく、黒崎を見る。
「頼んだっていうより、断りづらい形で渡したように見えた」
「……いや、別に」
「冗談で済ませるなら、断っても問題ないはずだ」
「は?」
黒崎の声が少しだけ低くなる。
「何、急に」
「急にじゃないよ」
僕はできるだけ平坦に言う。
「嫌なら嫌って言っていいんじゃないかって話をしてるだけだ」
「……」
「三田村が自分でやるって決めたなら、それで終わりでいい。でも、今のが“断ってもいい頼み方”だったかって言われると、違うだろ」
木乃実が小さく息を呑む音がした。
教室が静かになっていく。
全員が聞いているわけじゃない。けれど、近くの空気が確実に変わる。ざわついていたものが、じわっとこちらへ寄ってくる感じ。
黒崎はそれを感じたのか、わざとらしく笑った。
「いや、神代さ」
「うん」
「別にそんな重い話にしてなくね?」
「重くしたいわけじゃない」
「じゃあ何」
「軽く済ませるなら、なおさら本人が選べる形にしといた方がいいってだけ」
僕は怒っていない。
少なくとも怒鳴ってはいない。
でも、だからこそ黒崎はやりづらそうだった。
たぶん、こういう空気には慣れていないのだと思う。正面から喧嘩を売られるのではなく、落ち着いた顔で“そこ、ちゃんと本人に選ばせた?”と確認される感じに。
怒鳴り返せば、黒崎の方が子供っぽく見える。
笑い飛ばすには、こっちがあまりにも真顔すぎる。
強引に押し切るには、周囲の目が集まり始めている。
つまり今の黒崎には、いつもの“冗談じゃん”が少し使いづらい。
「……別に、押しつけたつもりはねえよ」
「ならいい」
僕は頷いた。
「じゃあ、今ここで三田村が“やっぱり今日はやめとく”って言っても問題ないよな」
「は?」
「冗談で済む話なら、断ったって空気は悪くならないはずだ」
「……」
「違う?」
黒崎が僕を見る。
その目が、明らかにさっきまでと違っていた。
笑っていない。けれど露骨に敵意を見せるほどでもない。むしろ、どう返すのがいちばん損をしないかを測っている目だった。
その間に、三田村がようやく小さく言った。
「……あの、俺、今日ちょっとそのあと用事あるから」
声は小さい。でも、ちゃんと聞こえた。
「だから、黒崎くんが無理なら、明日でも」
それで十分だった。
黒崎は封筒を受け取るしかない。
「……ああ、分かったよ」
声の調子はまだ軽い。
「別にそこまで嫌ならいいって。神代もいちいち大げさなんだよ」
言いながらも、封筒は自分で持った。
そこでようやく、教室の空気がわずかに緩む。
僕はそれを確認してから、少しだけ肩の力を抜いた。
だが緩んだのはこっちだけだったかもしれない。黒崎はまだこちらを見ていた。笑っていない目で、でも露骨には何も言わない顔で。
ああ、と思う。
これはたぶん、気に食わないと思われたな。
分かりやすい敵意ではない。
でも、ちゃんと残るやつだ。
「神代くん」
木乃実が、半分呆れて半分感心したような声を出す。
「え、何」
「何って……」
木乃実は言葉を探した。
「今、普通に行ったね」
「普通に?」
「うん。もっとこう、怒るのかと思った」
「怒ってたよ、一応」
「いや、あれで?」
佐伯が割り込んでくる。
「俺、逆にああいう方が怖いんだけど」
「怖い?」
「静かすぎて」
佐伯は本気でそう言った。
「なんか、最初から相手の逃げ道まで計算してる感じするし」
「そんなつもりは」
「いや、あったよね」
木乃実が言う。
「“冗談なら断っても大丈夫だよね”って、あれ言われたらきついって」
「……」
「神代くんって、やっぱりただの変なやつじゃないよね」
「“ただの変なやつ”って前提だったんだ」
「そこはもう今さらでしょ」
「今さらなのか」
隣で、エヴァが小さく息を吐いた。
「やっぱりそうするのね」
その一言には、驚きよりも確認が多かった。
「やっぱり、って」
「ええ」
彼女は机の上のペンを静かに揃えながら言う。
「結局、見て見ぬふりはできないのだろうと思っていました」
「……できないわけじゃない」
「でも、しなかった」
「しなかったね」
「でしょう?」
そこでようやく、エヴァが少しだけ僕を見る。
「だから言ったではありませんか。あなたは、そういう方だと」
「あんまり嬉しくない断言だな」
「でも、間違ってはいないでしょう」
「それは……」
「図星ですわね」
「否定しづらい」
朱音は、少し離れた場所からその会話を聞いていた。
聞いていて、にこっと笑う。
今日の笑顔はやわらかかった。昼休みの黒崎に向けたやつとは違う。あれは危険人物確認の笑顔だったが、今のは、ああ、そうだよね、みたいな、妙に納得の入った笑顔だ。
「やっぱり、かっこいいね」
朱音が言った。
「やめて」
「なんで?」
「今そういう評価いらない」
「でも本当だし」
「本当でも」
「恒一くん、ああいう時だけ変に静かになるよね」
「変に、って何だよ」
「怒鳴らないのに引かせるっていうか」
「それ褒めてる?」
「すごく褒めてる」
「やめてくれ」
「えー」
そこで黒崎が、ようやく口を開いた。
「……神代ってさ」
教室の空気が、また少しだけ止まる。
黒崎はもう笑っていなかった。
でも怒鳴りもしない。そこはさすがに崩さないらしい。
「なんか、そういうの好きなの?」
「そういうの?」
「正しいこと言って場を仕切る感じ」
「仕切ったつもりはない」
「でも、そう見えたけど」
黒崎は肩をすくめた。
「まあいいや。三田村がいいならそれで」
表面上は引いた。
ちゃんと引いた。
でも、その引き方が、引き下がったというより“今はここまでにしとく”に見えたのは、たぶん僕の気のせいじゃない。
「それでいいと思う」
僕は静かに返す。
「今は、それで」
“今は”。
自分で言っておいて、少しだけ嫌な予感がした。
黒崎も、たぶんそこを聞いていた。聞いていて、ほんの少しだけ口の端を歪める。
「へえ」
短い声だった。
それ以上は何も言わず、黒崎は鞄を持って教室を出ていった。取り巻きみたいに近くにいた男子たちも、その後をなんとなく追う。
やがて教室の空気が、ようやく本当にほどける。
「いやー……」
木乃実が大きく息を吐いた。
「緊張した」
「木乃実が?」
「するよ! 見てるこっちがするって」
「俺も」
佐伯が頷く。
「黒崎、絶対あれ気に食わなかったろ」
「だろうね」
「神代くん」
木乃実が少しだけ真面目な顔になる。
「大丈夫?」
「何が」
「いや、黒崎くんのこと」
「大丈夫だと思う」
「“と思う”なんだ」
「まだ何も起きてないし」
「でも、なんか起きそうな言い方」
「それは……」
否定しようとして、やめた。
「起きたら、その時考える」
「うわ」
木乃実が顔をしかめる。
「それ、エヴァさんに怒られるやつ」
「なぜわたくしが基準なんですの」
エヴァが言う。
「いやだって、今ぜったい“その時考えるのは遅いですわ”って顔してる」
「……」
「してるよね?」
「していますけれど」
「ほら!」
少しだけ笑いが戻る。
その笑いの中で、僕は教室の空気がちゃんと変わったのを感じていた。
さっきまでの“神代って変だよな”“でもいいやつだよな”だけじゃない。そこへ、もう一つ別の評価が混ざった。
神代って、ああいう時に動くんだ。
しかも静かに。
しかもやり方が妙に逃げ道込みで怖い。
たぶん、そういうやつとして見られ始めた。
目立ちたくない、という意味では最悪に近い。
でも、見過ごしたままよりは、ましだとも思った。
その時点で、たぶん僕もだいぶ手遅れなのだろう。
「帰ろうか」
朱音が言う。
「今日は途中で何も拾わなくていい?」
「何を」
「面倒ごと」
「落とし物みたいに言うなよ」
「でも拾ったでしょ、さっき」
「……」
「図星?」
「言い返しづらい」
エヴァが席を立ちながら、小さく言った。
「静かな顔で止める方が、よほど面倒ですわね」
「それ、褒めてる?」
「まさか」
「じゃあ何」
「観察結果です」
「その言い換え便利だな」
「便利ではなく正確です」
「言い方だけで人を追い詰めるの、君も大概だよ」
「あなたにだけは言われたくありません」
その会話の横で、木乃実がしみじみ呟く。
「神代くん、やっぱりただの変なやつじゃないんだなあ」
「その“ただの変なやつ”をそろそろ卒業させてくれない?」
「でも変なのは変だし」
「ひどい」
「ひどくないって」
木乃実が笑う。
「むしろ今日ので、変だけど信用できるやつ、くらいには上がったよ」
「格付けかな」
「だいたいそう」
「高校って思ってたより厳しいな」
「今さら?」
笑いながらも、僕の頭の片隅には黒崎の最後の“へえ”が残っていた。
表面上、彼は引いた。
でも、気に食わないと思われたのは確実だ。
それが次にどう転ぶのかは分からない。分からないけれど、たぶんこれで終わりではない。
そしてそれを、僕だけじゃなく、たぶん向こうもちゃんと分かっている。
教室を出る前に、僕は一度だけ後ろを振り返った。
さっきまで何もなかったみたいな顔でざわついている教室。机と椅子と、放課後の光。そこにまだ、黒崎の嫌な笑いの残り香みたいなものが少しだけある気がした。
普通の顔で止めるのが、一番怖い。
もしそうだとしたら、たぶんいちばん怖がっているのは、止めた僕自身なのかもしれなかった。




