7.許された名
図書塔の静寂のなか、私は指先で紙をなぞるようにして、ゆっくりとページを繰っていた
「ヴァルグレイヴ嬢」
もう幾度となく耳にしてきたその声に、私は安堵にも似た感覚を覚え、顔を上げる
彼はいつもと変わらず、向かいの席に腰を下ろした
互いに深入りすることなく、それぞれの本を読み、折に触れて感想や疑問を言葉にする
今日もまた、そんな穏やかな時間が流れるはずだった
「……少々、よろしいでしょうか」
不意に改まった声音に、背筋が自然と伸びる
胸の奥で、小さな不安が揺れた
何か、気に障ることでもしてしまったのだろうか
「以前から、気になっていたことがございます」
彼の視線は私から外れ、書架に並ぶ背表紙のほうへと向けられる
言葉を選び、慎重に整えているのが、その沈黙から伝わってきた
「私があなたをお呼びする際の、名についてです
ヴァルグレイヴ嬢とお呼びするのが礼を失しないことは、重々承知しております」
淡々とした口調の奥に、ためらいが滲む
「ただ……私にとっては、少々、距離を感じるのです」
距離
そのひと言が、思いのほか深く、胸に落ちた
「もし、差し支えなければ」
ルーヴェンシュタイン様のアイスブルーの瞳が、静かにこちらを射抜く
「これからは、レティシアとお呼びしても、よろしいでしょうか」
あまりに率直で、それでいて決して押し付けがましくない言い方
拒むための余地が、きちんと残されている
「……わ、私を、ですか……」
「ええ」
短く
しかしはっきりと
その名で呼ばれる自分を思い描いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ
「無理にとは申しません
嫌であれば、今まで通りで」
逃げ道を示されているのに、なぜか選びたくなくなる
「……だ、だいじょうぶ、です……」
言葉を探しながら、私は小さく、けれど確かに頷いた
その瞬間、ルーヴェンシュタイン様の表情がほんのわずかに和らぐ
「ありがとうございます」
そう言ってから、まるで秘密を預けるように、低く囁く
「では、レティシア」
呼ばれた名は、静かな波紋となって胸に広がった
何かが劇的に変わったわけではない
けれど、もう以前と同じ距離には戻れない
そんな予感だけが、図書塔の静寂に溶けるように、そっと残っていた




