36. 精霊殿の司
窓をコツコツと叩く音で、セラは目を覚ました。まだ朝になったばかりなのか部屋の中は薄暗い。ぺたりと素足のまま寝台から降りて、音がした窓に近寄った。
「レーレ……! あなた来るの遅いわよ、ユーリもう行っちゃったよ?」
窓辺には薄灰色の小さな鷹がちょこんと止まっていた。椅子に掛けておいたショールを腕に巻きつけてから窓を開け「おいで」と声をかけるとレーレは少し考え込む様に固まってから、ばさりばさりと翼を広げてセラの腕に飛び移った。
「ちょっと……考え込むのやめてくれる? 私は胡桃をあげてるでしょ」
だから脳味噌どんぐりとか言われるのよ、と心の中で愚痴ってからはたと立ち止まった。
「あ、いま胡桃ないんだった。鳥にクッキーあげても平気かな……」
セラは昨夜のお茶うけの残りをそーっとレーレの嘴のところに持っていく。小さな頭で食べ物だと認識したのかパクッと食いついた。
「エマの手作りだから良く味わうのよ」
「おはようございます、セラ様」
「おはようエマ、起こしちゃってごめんね」
起きだしてきたエマに謝りながら小さな鷹の足についている金属製の小さな筒から小さく折り畳んだ紙を取り出した。中身はユリシーズからの伝言で「今日中に義勇軍と合流する。本陣にマルセルがいるかも知れないから伝言よろしく」とある。もう一枚の紙には「任務達成で特別俸給確約。ぬかるなよ。U」とあった。
「不思議ね。呼んでないのにやってきたわよ、この子」
「アキムさんが言い聞かせたのかも知れませんわね。元々笛なしで操ってましたから」
「えー、すごい! 今度見せてもらおう」
セラは椅子にレーレを止まらせるとさっそく返事を書くことにした。「これから本陣に出発します。伝言は任せて。気をつけてね」と、いささかそっけない文面になってしまったが紙の大きさを考えると仕方ない。綺麗に折り畳んでから軽くキスして筒にいれた。
「レーレ、戦場は怖いのがいっぱいだから気をつけていくのよ? 帰ってきたら胡桃を鼻血が出るほどあげるからね」
両手でもふっとした胴体を包み込む様に抱っこして、セラは窓辺に立つと桟に小さな鷹をそっと置いた。上着のポケットに入れておいた金色の小さな笛を取り出すと、ふっと息を吹き入れた。はっと頭を上げたレーレは頷くように首を上げ下げしてから、開け放った窓から飛び立っていった。
「鳥って鼻血出ますかね……」
「さぁ、私も見たことがないわ」
飛び立っていく小鷹を見送りながら、エマは女主人に呟く。きっぱり言い切ったセラの声を合図にハンナが起き上り、顔を二人は見合わせて笑いあった。雲一つない秋空は今日も快晴を約束してくれていた。
今日のセラの出で立ちは昨日と同じ、濃紺の厚手のコルセと黒いケープ。髪型は後ろ頭で結い上げてふわっとした乳白色のリボンで結んだ。真顔のエマに「リボンくらい結ばせてください」と言われて断れなかった。
支度を終えて一階に降りると、驚いたことにもう朝食が用意されていた。柔らかそうな焼き立ての丸パンが籠に盛られ、浅い丸型のお鍋からはホカホカと根菜入りミルクスープの湯気が立っている。採れたばかりの季節の果物まであった。
「あれ、もう朝ごはんが出来てる。自分達でやるのかと思ってたわ」
「少し離れたところに市場があって、そこの人達がメイユ軍のために食事を用意してくれているそうですよ」
セラはぱっちりした瞳を丸くした。今は朝の七時になったばかりだ。確かこの駐留地にはおよそ三百からの兵が詰めていると聞いた。その人数分を用意するのならいつから起き出して準備をしたのだろう。
メイユ公の一声で手練れの傭兵が一時間もしないうちに集まったり、公子のジューリオが駐留している間、領民達が毎日毎日食事の用意をしてくれたり。彼らの絆の深さが伺えた。
「すごいね……」
「いまお茶の用意をしますね」
侍女達がお茶と配膳の用意をする間、セラは食器棚から人数分のお皿を出した。セラ達三人と、同じ建物にいる女傭兵のメディア、それからサイモンの分だ。ボーっと座っているのも何なので、階段のところまでトコトコ歩いて行って「サイモンさーん、メディアさーん、朝ごはんですよー」と大きな声で叫んだ。簡素な造りの木造の家だから良く声が響く。バタンとドアが開いて、短い髪の襟足が跳ねたままの女傭兵が慌てて降りてきた。
「なんだいなんだい、お嬢様はゆっくり寝てるもんだと思ったよ」
やや蓮っ葉な言葉遣いで男勝りだが、気風の良い姐さん肌で頼れる人だ。強面ばかりの傭兵団の中堅で、素早さを活かした軽戦士型で双剣使い。エマと戦い方が良く似ていた。
「メディアさん、後ろが大変なことになってるよ」
「あー、これ? 額当てするから平気平気」
セラは「ちょっと待ってて」と言い置いて二階まで上がった。入り口そばの部屋はサイモンが詰めてくれていたはずだが、そこはもぬけの殻だった。ひとまず部屋から小さい起毛布とコーム、香油を取って急いで戻った。ちょっとお湯をもらって起毛布を蒸して、それをメディアの後ろ髪にそっとあてた。
「よくユーリの寝癖を直してあげてるから、私得意なの」
「はいはいごちそうさま。もうユリシーズ様と同居してんの?」
「し、してない! 朝ごはんは私が今いるおじい様の館で一緒に食べるから、自分の館から寝起きのまま来るの」
「へぇ、タカビーそうなのに意外だねぇ。顔がいいだけに髪型とかうるさそうじゃん」
「いくらメディアさんでも聞き捨てならないわ」
「メディアさん、わざとに決まってるじゃないですか。お忙しくて朝晩しかゆっくり話せないから」
お茶をおいたハンナに「ありがと」と礼を言ってからケラケラ声を立ててメディアは笑い出した。
「あーそー。イチャイチャしたいから寝癖だらけで敷地をうろついてんのね。連中に教えてやろうっと」
「なんで?!」
「あたしらがセラ様をおもちゃにするためさ。道中退屈しなくてすむだろ?」
「お願いだからやめてください……。はい、終わりましたよ」
「ありがとさん。わ、綺麗になってる。髪がサラッサラ」
メディアは笑いながら後ろ頭を撫でている。出来ばえにセラも満足の笑みを浮かべた。
「はい、どうぞセラ様。サイモンさんはどうしたんですか?」
エマからお茶を受け取って肩をすくめた。
「さっき見たらいなかったわ」
「ここ女ばっかだから遠慮してるんだよ。自分は隣の家にいるから、女性陣で朝ごはんはゆっくり食べてくれって言って出てったよ。八時に申し送りだとさ」
「わかったわ。エマ、ハンナ、二人とも座って座って」
四人は食卓を囲んで母なる精霊への祈りを捧げると、メイユの民からの心づくしの朝食を頂いた。
予定の八時になる少し前、ジューリオ達が逗留している家屋までやって来た。どうやら元は学校だったようで、広い庭に遊具まである。それらを眺めながら入り口を潜り、元教室と思しき部屋に入ると、すでにヘクターとサイモンがジューリオと何事か話し合っている最中だった。
セラは開かれた扉を軽く叩いて「おはようございます」と声をかけた。
「これはセラフィナ様、おはようございます」
「おはよう、セラフィナ様! どうぞ中へ。じき、精霊騎士団が到着しますよ」
「よかったな姫様。知り合いが来るんだろ?」
ニヤリと笑ったヘクターにセラは笑顔で頷いた。ウルリーカとは王都で別れた以来で、再会できるのは純粋に嬉しい。
「はい。私の親代わりだった恩師の友人です。それにしても早かったですね」
「あっちも急いでるみたいだぞ。何があったのかは知らねえがな」
急いでいる、ということが気にはなったがセラはクレヴァの名代としてやるべきことに専念した。進軍は精霊騎士団到着後の昼前に出発と決まり、セラはエマとハンナを連れて村の入り口までやってきた。すぐそこまでだというのにヘクターがついてきたので、セラは半目で振り返った。
「ねぇねぇ、ヘクターさんは傭兵団のお仕事があるんでしょ? 戻ったら?」
「ひでぇ扱い。言っとくが俺は姫様の護衛も兼ねてんだぞ」
「えぇ〜嘘だぁ。だって私のことおちょくってばかりじゃない」
「あ、来ましたよ」
ハンナの指さす方向にはいくつかの馬影が見えてきた。先頭にいるのは懐かしい紫色の軍服姿の黒髪の騎士だ。
「えっ、トゥーリ様?!」
「セラ?! どうしてここに?!」
馬から降りて駆け寄って来たトゥーリがセラの目の前までやってきて、ふわりと優しく微笑んだ。
「ちょっと色々ありまして。お久しぶりです」
「えーっセラ?! あなたトラウゼンにいるんじゃなかったの!」
続いて駆け寄って来たウルリーカに頬を両手でむにゅっと挟まれる。その後はぎゅうぎゅうに抱きしめられた。
「ああ、良かった! 元気そうで本当に良かった! 帰りに寄らせてもらおうと思ってたんだけど、会えてうれしいよ。ウィスタリアも来たがってたんだけど、あの人も忙しいから」
「えへへ、でもお式には来てくれるって」
「あったりまえでしょ。あっ、これは大変失礼を。私は北方精霊騎士団、第四師団を率いるウルリーカ・ユンバリと申します。クレヴァ・エーラース卿からのご要請で馳せ参じました」
セラを解放して居住まいを正したウルリーカは開いた手を左胸に置く精霊騎士団風の礼で、深々と一礼した。
「私はジューリオ・メイユ。南部方面軍の統括を任されています。こちらはエーラース騎士団の長サイモン殿と傭兵団の長、ヘクター殿です」
「お初にお目にかかります、ジューリオ殿」
ジューリオとサイモンと握手を交わし、ウルリーカは背後に控える頭巾を被った白いローブ姿の人物をチラリと見た。その表情はものすごく憂鬱そうだ。
「できれば人払いを願えますか。我々のこれからの予定をお話ししたいのですが、込み入った事情がございまして」
ウルリーカがそういうと、ジューリオは「ではこちらへ」と先ほどまで話していた建物へと案内した。ウルリーカは部下達に待機を命じて、ローブ姿の人物の背をそっと押して歩きだした。セラはトゥーリのマントをつんつんと引いて「あの方はどなた?」と耳打ちした。
「……言いたくない。すぐわかるよ」
口中に苦虫を詰め込まれたような顔でそう答えると、はぁ、とため息をつきながら歩き出した。セラは頭の上に疑問符を浮かべながら後に続く。二人の様子が気になった。
部屋に通されたトゥーリが扉や窓に手を置いて何事か呟いている。風の精霊に頼んで人の声を部屋からもれないようにしているのだ。
準備ができたとばかりにウルリーカに頷くと、フードの人物がぱさりとフードを落とした。腰まである、癖ひとつない絹糸のような黒髪が零れ落ちる。上げた顔は息をのむような美女で、長い睫に縁取られた晴れ渡る青空のような瞳。艶やかな唇には華やかな赤い紅を差し、額には花弁のような赤い印があった。その姿を見たセラは「わっ」と思わず声が出た。
「私はシビル。ウルリーカの上司の上司ね」
「……?」
キョトンとした顔のジューリオにトゥーリは「言語能力が残念ですまない」と真顔で謝ると、集った面々の顔を見回した。
「……こちらは当代の精霊殿女神官長です。西方大陸にいる間はただの女神官と思ってください。この人に何かあれば、僕とウルリーカの首が文字通り飛びますので、彼女のことはくれぐれも内密に願います」
「な、なんでまた、そんなお方が。女神官長って、精霊殿から出られないんじゃ……?」
ややひきつった顔のジューリオがそう言うと、シビルは慈悲深い表情を浮かべておっとりと微笑んだ。
「私はこの西方大陸の穢れを払いに来ただけですわ。もう二度と亜生物に脅かされることがないように」
その嫋やかな姿に元精霊騎士団領所属のセラを含め、精霊騎士団の面々は黙りこくった。西方の皆さんは「尊い方がわざわざ来てくれた」と感涙にむせんでいるが、彼女の本性は「アネキ」というより「アニキ」で、曲者ぞろいと言われる精霊殿の長老たちが本気で頭を抱える破天荒な人で有史以来の切れ者だ。
「元凶一派の掃討に協力する代わりに、彼らの潜伏先を調査させていただく。けして悪いようにはしない。我ら精霊騎士団と精霊殿の名において、西方大陸の民達の安寧を守ると誓おう」
「俺に異論はないが、他の連中が何と言うか。とくに正軍師は調査内容とか、そういうのを気にする性質だ」
ウルリーカの言葉にジューリオは渋った。
「私としては教えてもいいとは思ってるわ。だけど、知った事実を死ぬまで黙っていると誓えるかしら? それも知らなければ良かったと一生後悔しながらね」
静かな声で空色の瞳に一切の感情を写さずに淡々と話す女神官長の様子に、ジューリオとサイモンは互いに目配せしあって首を振った。
精霊殿の役目は精霊信仰を守り、人と精霊の架け橋になる存在。その司が暗に知らない方がいいと言っていることを、無理に聞くつもりはないらしい。
「お分かりいただけて良かったよ。そんなに気にされるのなら、僕から正軍師殿にお伝えしよう」
トゥーリが場を取り持つように口を挟むとジューリオがホッとした顔を浮かべた。内容の明かせない調査に、女神官長が西方大陸までわざわざやってくるような事態とは何なのか。ようやく本当の意味で西方大陸の動乱が治まると思った矢先に何が起きたのか。
セラは言い様のない不安がずしりと圧し掛かってくる気がした。つい縋る腕を探してしまう自分に苦笑して、深呼吸してから真っ直ぐ前を向いた。




