29. 願い
夜も更け、下弦の月が頭上に来る頃。
南下する亜生物の群れを発見して北西部にある辺境地帯への調査を中断し、進路を変更して街道上にあるすべての村や町に「敵襲来」の避難勧告を出し、念のためにと持って来ていた爆薬で橋を落としたり、倒木や廃村を使って罠をしかけたりと二十騎にも満たない手勢で出来得ることをしたが効果は芳しくなかった。
日が暮れてからは小高い丘にある崩れかけた砦を野営地にして、わざと目立つように団旗を掲げるよう指示を出しひとまず休むことにした。ユリシーズは交替で見張りを立てることにして、手勢を四つに分けた。アルノーと一番隊の隊員二人、エーリヒと槍騎兵二人の班。フーゴの率いていた斥候部隊六人とマルセルが残した弓兵六人の班。辺境の調査が主な任務だったから斥候と索敵に重点を置いたので兵力不足は否めなかった。
「おし、見張りは公平にくじで決めるぞ。赤いの引いた奴が一番目、次で引いた奴が二番目。その次が三番目。残りの班が最後」
ユリシーズは帳面を破って作った紙縒りの先を朱墨で染めたものを右手に持って、仲間に向かって差し出した。
「せーの」
一番手はエーリヒ。二番手はアルノーの班だった。一番最後の見張り番になった斥候部隊の面々は自分から「交代で周辺の索敵に出ます!」とやる気に満ちた表情で砦から出て行った。
「ユーリ様が一番きついじゃん。徹夜は良くないよ」
「いーんだよ。途中で仮眠するから勘弁してくれ」
あえてくじを引かず交替で見張りに立つ彼らからの報告を受けることにしたので、リオンは仕方なさそうなため息をついて「ちょっと散歩」と周囲の索敵に出かけて行った。
亜生物は深淵の森周辺と北部に集中していたから、こんな中部地帯の端にまで到達しているとは思わなかった。周辺には友軍がいくつも陣を敷いて、精霊騎士団の到着を待ちながら監視をしていたはず。彼らはいったいどうしているのか、無事なのか。それも気になった。
小競り合いが長く続くと傭兵や義勇兵も消耗してだれてくる。そうなる前に、できれば年内にけりをつける。そのことはフィア・シリス王国での諸侯会談で満場一致で決まった。先鋒はヴィルーズ、次がメイユ。元凶一派が潜伏する西部地域に近い場所を治める諸侯達が率先して兵をあげる算段がついてからのこの事態。未だに良くない影がぴったりと付きまとっているように思えた。
王国滞在中には得体の知れない尾行がついたり、馬車に苦無を投げつけられたり、色々あったが何とかセラには気づかせずに済んだ。ぽやんとした顔の割にかなり勘が良いから、あまり妙な事態が起こると感づかれる。それだけは避けたかった。
「大丈夫かな……ま、クレヴァ様がついてりゃ心配ないか。養い親だし」
ユリシーズとの婚約が正式に整ってから、祖父はセラの後見から外れた。ずっと亡き親友の遺児を案じ続けていたクレヴァに花を持たせてやりたい気持ちからだが、これからは伴侶たる自分が生涯守れということでもあるのだろう。不気味な唸りをあげる闇の中の深い森を眺めながら、最愛の人の無事を祈った。
翌朝。
セラは身支度を整え、昨日夕食を頂いた食堂へとやって来た。エマとハンナが給仕の元へ行ってしまうとセラは何となく窓際に寄って外を眺める。今日もすっきりと良く晴れた、よい秋空だ。館の裏手に当たるここからは裏庭が良く見え、エーラース軍の騎士と昨夜の傭兵団が合同で朝の鍛錬をしていた。黒い騎士が一人もいないのが変な感じだ。
「おはよう、セラ。早いですね」
「おはようございます、クレヴァ様」
片手にいくつも風聞紙と何かの冊子を持ったクレヴァがやってくると、ゆうべと同じ席に掛けた。セラも同じ所に掛けると、音もなくやって来た給仕が優雅な所作で紅茶を注いでくれた。何かを察した給仕が珈琲を注ぐ前に動作を止める。
「私にも紅茶を。ああ、食後は珈琲を頼みますよ」
「かしこまりました」
「紅茶でよろしいのですか?」
「ええ。たまにはね。ところでそんなに紅茶にミルクを入れるんですか? 別の飲み物になりますよ」
「だ、ダメですか?」
「いえ。ダメということはありませんが。よくそれをマダム・アドリーヌが許しましたね」
「最初は”あーたって子は!”って叱られました。公の場では絶対におやめなさい! と言われましたが、おうちでは構わないって」
「ははっ!」
「笑うところでしょうか」
「物まねがうまいですねぇ。そうそう、朝食が来るまでこちらでもいかがかな?」
「あ、精霊騎士団の紋章……! ウルリーカ様からだ」
「今朝ほど早馬で届いたそうです。明日には西方大陸に着くようですね。間に合って本当に良かった」
「はい! ユーリもきっと喜びます!」
読み進めるととんでもない一文が目にはいった。第四師団の師団長ウルリーカと親衛隊の隊長トゥーリが二人揃って西方大陸に来るとある。師団長は基本的に精霊騎士団領から離れることはない。しかもウルリーカは団長の副官。そんな人が本拠地を離れていいのだろうか。手紙には「誰が来ようが冷静に」と結んである。冷静でいなければならない人が来るのだろうか。一抹の不安がよぎった。
「どうしました、変な顔をして」
「ひどいクレヴァ様。師団長のウルリーカ様がこちらに来るそうなので、何でかなって」
「師団長は確か北方大陸から出られないのですよね? スヴェン殿は任務の特殊性から認められているそうですが」
「はい。スヴェン様は師団長ですけど、時には内海近辺まで討伐に出るから……。本当なら親衛隊も精霊殿から離れられないんですけど、トゥーリ様は元傭兵で他の大陸の事情にも詳しいし、お姉様の女神官長様が直々に長老会と王国議会を説き伏せたので許可が下りたそうです。今回も同じなら、あちらでどんな取り決めがあったのかと」
「さすがにそのあたりの事情は、シーグバーン殿からの書状には書かれていませんでしたね。深淵の森周辺の浄化もするそうですから、その絡みでは?」
「そうかもしれませんね」
セラはもう精霊騎士団領の民ではなくトラウゼンの民になった。他国の人には精霊騎士団の詳しい事情は語れないとわかってはいても、やはり少し寂しい気持ちになる。話の区切りを見極めていたように、給仕によって運ばれて来た朝摘みの葉野菜のサラダと濃い卵色のオムレツがテーブルに置かれると、クレヴァも風聞紙を横に置いて食前の祈りを捧げた。柔らかい声音の祈りの言葉を聞きながら、セラは「ユーリ、ちゃんと朝ご飯食べたかな……」と全然違うことを考えながら祈った。
朝食を終えると九時頃に宿泊地を発つことになった。セラはお気に入りのミルクティー色のワンピースから厚手の深緑色のコルセに着替えることにして、内着は淡い卵色の柔らかい生地を選んだ。馬車の旅を少しでも楽に過ごせるように、足元も布製で内貼りがふかふかした生地の暖かいものにした。髪は二つに分け、ゆるく変わり編みにしたお下げを胸元にたらす楽ちんな髪型だ。何となく侍女時代を思い出しながら準備を整え、エマとハンナと連れ立って階下に降りると傭兵団と騎士が慌ただしく駆け込んでくるのが見えた。
「姫様は外に出るな! おい、クレヴァ様をお呼びしろ! 武器庫から矢をありったけ、いや、弩もってこい!」
「な、何かあったんですか?!」
「竜が来た! 矢を射かけても何度も降りて来ようとしてる!」
「だ、ダメ! 襲ってきたわけじゃないんでしょ!?」
「あ、こら!」
セラは玄関先でひしめく騎士達の間をすり抜けて、パッと走り出した。わざとちょこまか走り回ってハンナが傭兵達を引きつけ、エマもセラの後を追って駆け出した。あちこちに矢が落ちている。それが朝の光に湯気を立ち上らせているのに気づいて足を止めた。足元から冷やりとした、秋の空気とは思えない冷気が立ち上ってくる。上着も羽織らずお仕着せだけで来たエマが両腕をさすりながら周りを見渡した。
「さむ……。あの矢、凍っていませんか?」
「ホントだ、氷室から出した氷菓子みたい……。あっ、こっちに気づいた!」
上空を旋回していた黒い大きな影がみるみるうちに近づいてくる。セラ達の頭上で何度か音もなく羽ばたいて、十歩ほど離れた場所に竜が舞い降りた。朝の陽ざしを群青色の鱗がキラキラと弾いている。確かに遠目で見れば黒い竜に見えなくもないだろう。こちらをじっと見つめる冬の朝のような瞳にはこちらを害そうとする気配は感じない。セラの父がその身を借りていた竜よりも一回り以上小さく、尻尾の先に棘もなく、全体的に柔和な印象を受けた。
「こ、こんにちは……」
父の時とは違う畏れを感じながらも、セラは美しい夜空のような竜に話しかけた。
『ああ、やっと見つけた。そなたであろ? 竜の魂を継ぐ者よ』
「竜の魂を継ぐ者……?」
「始祖の異称ですよ。驚きましたね、なぜセラが皇帝一族の血を引いているとわかるのですか?」
いつの間にかセラの背後にやってきていたクレヴァが気負いなく声をかけると、竜がそちらをチラリと見てからセラに話しかけてきた。
『魂の色、じゃ。すまぬ、私の術が不完全でそなた以外とは話すことができぬのだ。つがいが前に繋げた糸を辿って、そなたにだけ声を届けておる。人と交わることは禁じられているのだが、一族の掟に逆らってでも、どうしても助けを請いたくて、ずっとそなたを探しておった……』
「私の魂の色でわかるそうです。私をお探しになられていたとは、どんなことでしょうか?」
『そなたの父の魂を身の内に匿ったのは私のつがい。その奇縁あるそなたに頼みたい。どうか私の児を取り返してはくれなんだか? もちろん私にできる礼ならなんでもする』
「そ、そんな、お礼なんていりません。あの、心当たりはあったりしますか?」
『わからぬ……。あやつらが潜んでおった場所をすべて虱潰しにあたったが見つからぬ。古代の術法とやらで巧妙に隠されておるようだ……母であるのになんと情けない。つがいにあわせる顔がない……』
はらはらと大きな薄水色の瞳から涙がこぼれてセラは胸が痛くなった。子を思う母の気持ちは、きっと人も竜も同じだ。元はと言えばウィグリド帝国の動乱が発端だし、竜はそれに巻き込まれただけ。父とあの黒い竜にどんな縁があったのかは当事者にしかわからないが、二十年もの間、大きな犠牲を払って助けてくれた恩はかえさなければならない。
「きっと、深淵の森のあたりにあると思う! これから精霊騎士団も来るし、絶対絶対取り返しましょう!」
『何と礼を言えば……。そなたら父娘には夫婦で世話になりっぱなしであるな……。本当に、本当にありがとう』
竜が首を垂れて、まるで深々とお辞儀をするように前脚を折って地に伏せた。戦闘態勢で見守っていた傭兵や騎士達はそのやりとりを棒立ちで見ていた。傭兵団は帝都での攻防戦では後方支援に回っていたので、実際に竜と『最後の皇女』が話しているのを見るのは初めてだった。ウィグリド帝国の始祖は「竜」と縁が深く、その由縁があって紋章も『輪廻のリンドヴルム』という、永遠を体現するかのように自分で自分の尾を飲みこむ翼なき竜だ。まるで何かの伝承の再現のような光景に誰もが口を開けずにいた。
「セラ様、完全に行く気ですね……辺境に」
「そうみたいね。ハンナ、あなたお止めしてみる?」
「いいえ。私の主はセラ様ですから!」
「言うと思ったわ。お仕着せだと動きづらいから急いで着替えましょう」
「はい!」
ひと段落したのを見計らいエマはセラに目配せしてハンナと共に館へと駆け戻っていった。それを見送り、クレヴァはセラの背中に話しかけた。
「セラ、何を話しているのかはわかりませんが、その御仁に協力しましょう。竜が戦力になってくれれば亜生物を一気に掃討できますよ」
「クレヴァ様、こちらの方はレディですよ。大切な卵が奪われたので取り返して欲しいそうです。群青色の竜様、私達も一緒に探します、亜生物退治を手伝ってもらえませんか?」
『あいわかった。生憎つがいと違って私は凍てつく水の術しか使えぬが……よいか?』
「もちろんです。あの、畏れ多いのですがお名前を伺っても? 私はセラフィナと申します」
『私はモーネという』
「モーネ様、ですね。月の精霊様と同じお名前なのですね。お美しいお姿にぴったりです」
『ほほ、我らの世界ではありふれた名じゃ。だが美しいと言われれば悪い気はしないのぅ』
「旦那様のお加減はいかがですか? 帝都を飛び立っていったと聞いておりますが」
『我らの里で傷を癒している。魂にまで深い傷を負っているからしばし目を覚まさぬであろ。長き間を生きる我らであっても、人の子にこの身を丸ごと貸し与える無茶をしたのはつがいが最初で最後であろうなぁ……ほんに無茶をする。だがそうすべきであると判断したのであろう。この世界を守るためにな。すまぬが私の口からはここまでしか言えぬ。そなたらの世界の禁忌に触れるので許してたもれ』
「はい。ご無事で何よりです」
竜のご婦人の言うことは非常に気になったが、何となく師には伝えない方がいい気がしてセラは笑顔で応えた。
「仕方ありませんね。セラは竜のレディをお連れして私の兵と一緒にメイユ領まで行きなさい。そこで精霊騎士団の到着を待ってジューリオの兵と合流し、ヴィルーズ軍との挟撃に備えてください。ルッツを軍師として派遣していますから、セラは副軍師として共に指揮を執りなさい。基本的に騎士団のデイムに命令権はありませんが、私の名代として行かせますからしっかり頼みますよ。私は援軍を率いてすぐに戻ります」
一瞬でこれからの指針を立てると、クレヴァの背後に控えていた全員がセラとクレヴァに一礼して「仰せのままに」と各自の持ち場に散っていった。クレヴァは腕に嵌めていた細い銀のブレスレットを外して、セラの手首にパチンと嵌めてくれた。
「帝国軍時代の正軍師の証ですが、まぁいいでしょう。納得しない子にはこれを見せてあげなさい。だいたいひれ伏しますからね」
「ひえぇ、そんな、畏れ多いです」
「一応、帝国軍右将軍だった”ジュスト皇子”からの賜りものです。あとでちゃんと返してもらいますからなくさないように」
厳しい声音でそこまで言うと、クレヴァはポンとセラの両肩を叩くと柔和な笑みを浮かべて「頑張りなさい」と叱咤し、さっと踵を返して館へ慌ただしく戻っていった。入れ違いに男装に近い姿で侍女達が戻って来た。二人とも黒騎士と同じ生地で出来た上着を着て、動き易そうな膝丈の黒い内着と細身のズボン、膝まである黒い革の長靴を身に着けていた。
「わぁ、二人ともカッコいい!」
「えへへ、黒騎士と同じ生地で誂えた旅装です」
ハンナは幅広の黒いスカーフでカチューシャのように髪をまとめ、上着の下に手甲を嵌めていた。エマは太ももに愛用の短剣を巻き、長剣と短剣の間くらいの長さの剣を佩いていた。いつものお仕着せ姿とまた違って、それが良く似合っていた。
『ほう、近頃の女人は戦うのだな。なかなかに強そうじゃ。時代は変わったのぅ……』
モーネが何度か瞬きをして興味深そうに侍女達の出で立ちを眺めた。唸り声は雌雄で違うのか、エマもハンナも顔を見合わせて「何だかとても可愛らしいお声」と微笑んだ。
「モーネ様が女人も戦うのか、って感心されているわよ。いいとこ見せなきゃね。あのね、私クレヴァ様の名代としてメイユ領に行くことになったから!」
「おお、クレヴァ様がよく許してくれましたね。ハンナも精一杯お力添えしますね!」
「ぱっちりお目目が使命感で輝いていましたから、止めても無駄だと思われたのでしょう。さ、それではセラ様は馬車へ。モーネ様は我らにゆっくりついてきてくださいませ」
『心得た』
音もなく翼をうつとその巨体がふわりと舞い上がっていく。そのまま上空で緩く弧を描いて旋回を始めた。黒い竜とは一風違う優雅でゆったりとした舞い方はとても美しかった。




