17. 奥方様(仮)はさびしんぼ
セラは透かし細工のネックレスを身に着けると、そっと起き上がって窓際のカーテンを開けた。まだ明けきらない深い青の空には細い三日月が浮かんでいる。北方大陸は精霊信仰の深い地、そこで生まれ育ったから多少の不可思議なことには慣れている。だけど実際に自分の身に不思議なことが起こると、未知への好奇心よりも畏怖の念が浮かんだ。
「お父さん……」
父と祖母にありえない形で逢えたのは切なさと嬉しさの半々だ。できれば二人の願いを叶えてあげたかったが、セラには「両の手の平にすっぽりおさまる大きさの何か」としか伝わらなかった。今日は王宮に呼ばれているから、その時バハルト将軍に祖母の遺品で心当たりがないか聞こう。ふぅ、と小さく息をついて身支度を始めた。
「あら? ユーリは?」
セラとユリシーズの逗留している客室は続き部屋で、お互いの寝室が居室でつながっている。まるでセラの言葉が聞こえていたかのようにユリシーズ側の扉が開かれて、スラリとした長身が姿を現した。
「寝坊ですよ。冷めないうちに召し上がってくださいね。今日の支度は時間がかかって大変でしょう?」
アキムがふわりと微笑んで手に持っていた書類をエマに手渡した。セラとユリシーズは夜の舞踏会まで別行動なので、従者同士で色々連携を取らねばならないらしい。簡単に打ち合わせをしてアキムは団長を起こしに戻り、エマもハンナも登城と夜の舞踏会の準備におおわらわ。迎賓館の給仕が流れるような動作で朝食の準備をして下がっていくとセラは広い客室にぽつーんと一人だ。向かいの席が空席なのがちょっと寂しかったが、母なる精霊に祈りを捧げて朝食に手を付けた。
焼き立てのパンケーキの上にはふわふわに練った白いバターと金色に輝く蜂蜜がかかっていて、バターと蜂蜜がよく染みたところをぱくりと食べると濃厚なミルクの風味のなかにほんのり塩気があって、とろりとした蜂蜜の甘さがじゅわっと口中に広がった。生クリームの入ったとろとろ半熟オムレツの中には軽くソテーしたキノコがたっぷり入っているし、摘みたての柔らかな葉野菜のサラダにかかっているのはフィア・シリスでしか採れない、優しい黄緑色をした木の実『オリーブ』の採れたて油だ。酢漬けにしたオリーブをスライスしたものと軽く炒って砕いた胡桃が散らされていて、歯ごたえも楽しい。質素なメニューなのにそのどれもが最高級の品質で、とても美味しくてあっという間に平らげてしまった。
ハンナが元気よく部屋を横切るのを眺めつつ、自分で注いだおかわりの紅茶を一口飲む。ミルクで煮出された紅茶はお茶の甘味とミルクの濃厚さが合わさって美味しい。皆が忙しくしているのにのんびりお茶を飲むことに妙な罪悪感を感じるので、今日着るドレスに合わせる靴や手袋の試着をすることにした。部屋に据え置きのトルソーが着ているドレスは、淡い青だが淡灰に寄せた色味なので秋でも浮かない。柔らかな織の生地は身体の線にそってゆるやかに落ちていく仕立てになっていて、胸元は透かし編みの白いレースでしっかり覆われている。昼のドレスはとても上品な印象だった。
「うーん。この色味なら靴はやっぱり青かな? 秋なのに青一色ってのも寒い感じかしら」
「そうですね。一応宮殿に上がるわけだから踵のある靴で、となるとー」
「ねぇハンナ。今日って女王陛下にドレスを賜るじゃない? 装飾品とか靴とかどうするの?」
「マリーさんが事前にすごく細かい採寸表を預かってたから、たぶん上から下まで全部用意されていると思いますよ」
「なんでそこまでしてくれるんだろう……」
「何でなんでしょうね。私には見当もつかないです」
セラは女王陛下が何かと力になってくれることが不思議だった。父がウィグリド帝国の先帝の落胤で、長らくこの国に守ってもらったことが関係しているのだろうか。何となく気になったが今は目の前の「奥方様同士の初顔合わせ」に注力するべきだ。ここでセラが何か失敗したら、それがそのままユリシーズに跳ね返ってくる。どんくさい嫁を貰って気の毒に、と言われない様にしなければ。
ああでもないこうでもないとハンナと額を突き合わせているうちに、仕度を始める時間になった。エマが手に持つかっちりコルセットを見て、セラはげんなりした顔になる。
「コルセットデスネ? ゆるめでお願いします……」
「いいですよ。でも夜の舞踏会はきっつきつにしますからね。動き回るから緩まない様にしないと」
「あぁ、ごはんが食べられなくなっちゃう……」
「セラ様が心配するのそこですか? ユリシーズ様の足を踏んだらどうしようとかないんですか」
「あ、それは大丈夫。ユーリはすごくリードが上手なのよ。まるで背中に羽が生えたみたいに踊れちゃうんだから」
「おお〜」
「私達は控えの部屋から見物させてもらいますね。楽しみですわ」
ニッコリ笑いながらセラをぎゅうぎゅう締め付けるエマは実に楽しそうだ。普段あまり着飾らないセラを目いっぱい着飾れるとあって、朝からかなり気合が入っている。トラウゼンの侍女達は全員が大貴族のクレヴァに仕える元帝国女官からきっちり教えを受けていて、元貴族の母を持つエマはその中でも抜きんでた着付けの腕と審美眼を持っている。ハンナはまだ修業中だが良いセンスをしていると義祖母からお墨付きを頂いているのだ。とても頼もしい彼女達のおかげで、セラはどこに出しても恥ずかしくない貴婦人になれる。
今日は緩く波打つセラの髪を生かしたかわいらしい感じにまとめてもらった。耳上で結い上げてから編んだ髪を後ろ頭にピンで留めて、後ろ髪はよく梳いて甘く香る髪油を馴染ませて艶やかに流した。
「エマさん、昨日町でみたお人形さんがこんな髪型でしたけど? 主を着せ替え人形にするの、どうかと思いますぅ」
「ふふふふふ。セラ様はかわいい系だから、やっぱりこういう髪型似合いますわねぇ」
「二人も王都見物に行けたの? よかったぁ。二人もついてきてくれると思ったのにバタバタ帰っちゃったから、どうしたのかなって思ってた」
「セラ様がお出かけの間にアキムさんに連れて行ってもらったんですよ。アルノーさん達からお土産頼まれてたし」
「そっか。ユーリの側近は警護で王都見物できないもんね。随行の皆はどうなんだろう」
「皆も交代で出かけてましたよ。迎賓館にいるとひっきりなしに”たのもー!”って手合せの申し込みが来るから」
「あはは! 休む暇がなくなっちゃうね」
ココン! と特徴のあるノックがしてセラは顔を上げて「どうぞ、ユーリ」と応えた。
「何で俺だってわかった」
「ノックの音よ。ココン! って早く二回叩くのクセでしょ。もう出かける時間?」
「マジか。習慣って怖いな。ちょっと用ができたから俺だけ先に行くよ」
「えー、一緒に行かないの?」
「悪い。あとで迎えに行くから。エマ、ハンナ、準備を頼む」
呼ばれた侍女達は軽く一礼してユリシーズ側の部屋に入っていく。それを横目で眺めつつセラは残念な気持ちを隠して笑顔を浮かべた。
「わかったわ」
「ったく……。寂しそうな顔すんなよ」
「そ、そんなことないわよ?」
「俺の目を見て言えるかな」
大きな手の平で両頬を包まれて、セラはどぎまぎしながらじっと蒼い瞳を見ながら努めて明るい声を出した。
「同じ王宮の中にいるから平気だし」
「人は嘘つくときに目が右に泳ぐんだぜ?」
「えっ」
慌てて瞼を閉じるとおかしそうに笑う気配がして柔らかな感触が唇に降りて来た。してやられたような感じがしないでもないが、大人しく腕の中に納まってキスを受ける。寝坊して朝食を一緒に食べてくれなかったことも、セラを置いて先に行ってしまうことも許せる気がしてくるのが不思議だった。
「目を閉じたりするから思わずしちまった。口紅ついてない?」
「つ、ついてない」
「よし。それじゃまた後でな」
ふっと笑ってセラの両頬をふにっとつまんでから、颯爽と出かけて行った。それを見送ったセラは「不意打ち反対……」と真っ赤な頬を抑えて呟いた。いつもは大きな悪戯っ子みたいにニカっと笑うくせに、こういう時だけ思わず見とれてしまう笑みを浮かべるのだから。
セラは侍女達と一緒に馬車に乗り込んで王宮に向かう。迎賓館から王宮まで馬車なら十分とかからない距離だ。それなのにアルノー達は騎乗して、まるで王侯貴族を守るように一列縦隊で馬車の左右についている。
「何だか重要人物になった気分がするわ」
「重要ですよ? わがトラウゼンの奥方様なんですから」
「そうですよー。あ、アルノーさん達がセラ様の護衛についてますけど、ユリシーズ様には側役の二人がついてますからご安心を!」
「正直、あの二人だけで事足りるんですけれどね。化け物以外を相手にして負けたことがないですし」
「何だかカッコいいね」
「アキムさんはほんっとにカッコいいですよ。見た目もだけど戦い方が」
「?」
「暗器使いだから、拳で勝負のハンナは憧れているんです」
「そうなんだ。リオンは色々な武器が扱えるんだから教えてもらったらいいのに」
「何度かおししょー様に手裏剣とか苦無とか当ててしまったので、一切の暗器使用を禁じられました」
「え、リオンに当てる方が難しくない?」
「なんでだかわからないけど……投げた方におししょー様が避けるので」
ハンナが言いづらそうに言うと、馬車の中は静かになった。セラが「リオンっておふざけが好きだから、わざとじゃない?」と呟くと、エマも「ウケると思ってるんですよ、実際ユーリ様達、地面に転がって笑っていたし」と乗っかった。
「修業ですよ? 私はいたって真面目にやってました」
「そうだよね……。ふざけたりしてごめんなさい……」
しょげたハンナの背中をよしよしと撫でて、セラはエマと顔を見合わせて必死で笑いを堪えた。段々馬車の速度が落ちて王宮の正面玄関の前に着けられた。アルノーの手を借りて馬車から降り立つと、宮殿入り口に立っていた枯草色の髪の青年が深々と一礼した。セブラン王子の筆頭護衛官リベラートだ。
「セラフィナ様、お迎えに上がりました」
「お久しぶりですね、リベラート殿」
「呼び捨てになさっていただいて構いませんよ。さ、こちらへどうぞ」
セラと側近達は広々とした廊下をリベラートの案内で進む。王太子宮は王宮の左翼にあって、政が行われる正殿の奥に女王が住まう奥の宮がある。右翼は昨日セラ達が会食をした大広間や要人を持て成すための建物になっているらしい。ユリシーズが臨む諸侯会談もそこで行われているはずだ。
「お茶会は陛下も少しだけ参加されるとのことで、レディ達には正殿中庭のサンルームをご用意いたしました」
「まぁ、光栄ですわ。きっと参加される皆様もお喜びになるでしょう。今日はとても良いお天気だからお茶会にはぴったりですわね」
「さようでございますね。我々護衛官とお付きの方々は東屋で待機させて頂きます」
「わかりました」
「セラ! こっちだ!」
「でっ殿下! お部屋にいてくださいとあれほど申しましたのに!」
左翼に通じる通路からサラサラの茶髪をなびかせてセブランが駆けて来た。廊下は走らない、という作法を綺麗に無視して元気よく走る姿に衛兵達が笑いを堪えている。
「うるさいぞリベラート。ユリシーズがいない時は私がエスコートするのだ」
「それではお願いいたします、セブラン様」
リベラートは慣れっこなのかお辞儀をして一歩後ろに下がる。ご機嫌のセブランに手を引かれて、セラはドレスの裾を踏まない様に歩き出した。エマとハンナ、アルノー達黒騎士も苦笑しながら後に続く。
「エスコートといってもおばあ様の私室までだがな。さすがにレディがドレスを試着する場には居られん。ユリシーズにお尻が四つになるまでぶたれてしまう」
後ろを歩くアルノー達が何度も咳払いをして笑いを誤魔化している。小声で「やりかねない」とマルセルが呟いて、とうとうハンナも咽た。
「美しく着飾った姿だけを見てもらいたいのが女心というものですわ、セブラン様」
「なるほど、それもそうだな。心に留めておくとしよう」
正殿の入り口に来るとアルノー達は屯所でそのまま待つことになった。彼らを置いてきぼりいうのも何だか気が引けるが仕方ない。女王陛下の私室に入れてもらえること自体が特殊なのだ。
「ごめんね、皆」
「お気になさらず、デイム」
彼らの折り目正しい正統派騎士の姿に、セラも自然と背筋が伸びる。彼らの忠誠を受ける者として、黒騎士団の象徴として。そしてユリシーズの隣に立つデイムとして、恥ずかしくない様に振舞いたいと心から思った。
 




