26. 逢引
父の背中から落とされたそこは離宮の裏庭だった。どうやら上空を旋回していただけらしい。適当に飛んで、裏庭で待っていたユリシーズの上に娘を振り落したのだ。
「え、えっと」
「お父さんと散歩、もういいのか?」
「うん……」
もの言いたげな蒼い瞳が気になったが、何となく聞きづらかった。さっきのように顔をそらされたら今度こそ泣いてしまいそうだ。差し伸べられた手を取り歩き始める。館までの数十歩の距離が重たかった。ユリシーズが扉の前で足を止めて、ゆっくりと振り返った。
「何か悩んでるなら話してよ。いつでも聞くからさ」
ちょっと笑って、小さな子どもにするように頭をポンポンと撫でてから背を向けた。その広い背中がどこか寂しそうで、セラは思わず呼び止めた。
「待って!」
「ん?」
「ユーリは、私が初代皇帝の因子を持っているって知ってる?」
「知ってる」
「私の子どもに因子が受け継がれることも?」
「うん、知ってる」
「私とユーリの子どもが、翡翠の瞳だったらどうする?」
「別にどうもしない」
「それじゃ、その子が普通じゃない力を持ってたら?」
「俺のまわり、元々普通じゃない奴ばっかりだぞ。俺達の子どもがフツーじゃなくても誰も気にしない。何だよ、そんなこと気にしてたのか?」
ユリシーズが苦笑する気配がして、セラは俯きかけていた顔を上げた。
「す、するわよ。受け入れるの無理だって言われたら立ち直れない。ユーリに、嫌われたくない……」
「……俺は、生半可な気持ちで『騎士の誓い』をしたわけじゃない。俺がセラを想う気持ちは死んでも変わらないよ。それだけは忘れないでくれ」
「ユーリ……」
「上空から凄まじい殺気を感じるから、ここで抱きしめたりキスしたりはやめとく」
「お父さんがね、レーヴェ家の男は好きな人を簡単に諦めないって言ってた……」
「そうだよ。蛇蝎のごとく嫌われても諦めきれないんだよ。女々しくてごめんな」
「さっきみたいに避けられたら悲しいのに、それでも好きでいてくれるの?」
「あー……。あれはあいつらに無茶苦茶冷やかされて、恥ずかしかったから、つい。ホントにごめん。それに俺ゆうべ……」
「ゆうべ?」
「酔いつぶれたセラに、我慢できなくてキスした。俺って奴は……愛するセラに何て不埒な真似を」
「あ、あれ、夢じゃなかったんだ……」
「夢だと思ってたから大人しかったのか……おわっ!」
握りこぶし大の小さな火球が少し離れた地面にバチッと音を立てて着弾してすぐに消えた。上空にいる義理の父からの的確すぎる牽制に戦いた。今の会話が聞こえていたらしい。セラは竜の姿が見える場所まで歩いていくと「びっくりさせないで!」と腰に手を当てて抗議した。遠くから「グオォ」と唸る声がする。
「やぁねぇ。鳥を獲ろうとして手が滑った、だって」
「そ、そっか。俺達の話、聞こえてたのかな」
「まさか。お父さん、あんなに遠くにいるのよ。聞こえっこないわ」
「……そういうことにしておこうか。俺、セラを遠乗りに誘おうと思ってたんだ。出かけられそうか? できれば町娘っぽい服に着替えてくれると助かる」
「う、私、普段着持って来てないの。ハンナにお洋服を借りれるか聞いてみる」
「それじゃ、十五分後にここで待ち合わせな」
「わかったわ!」
思ってもみなかった逢引の誘いにセラは満面の笑みで頷いた。お年頃の乙女としては、やはり恋人からのお誘いは嬉しいもの。弾む様に階段をあがり、侍女達の部屋へやってきた。
「ハンナ、悪いんだけどお洋服を貸してもらえない?」
ハンナはセラの貸してあげた恋愛小説から顔を上げて、ニコッと笑った。
「その顔。ユリシーズ様に逢引にでも誘われたんですか?」
「どうしてわかるの?」
「優しい目元がさらに垂れてる。ほっぺが桃色。私のトランクからお好きなのをどうぞ」
「ありがとう! お土産を買ってくるわね」
「そんな、お気になさらず。できればお菓子がいいです」
「ハンナったら。遠慮してるのかねだってるのかわからないわよ」
「寝たきりの私の身にもなってくださいよ。今だって添え木がかゆくてかゆくてぇ。あ、そっちの薄い青のワンピースなんかどうですか?」
「あ、いいかも。丈も丁度いいみたい」
「それじゃ、それにしましょう! 髪はそのままでいいと思います」
「うん。それじゃお借りするね」
セラはハンナのワンピースを借りて自室に戻ると、大急ぎで着替えはじめた。胸元の金細工の首飾りを外して、手巾に丁寧に包んで机の上に置いた。くるりと鏡の前で一回転して、身だしなみにおかしなところがないか確かめる。襟よし、腰のリボンよし。ちょっと乱れた毛先をちょいちょい、と整えて部屋を出た。気が急いてつい早足になってしまう。
「おや、セラちゃん。そんなに急いでどちらへ?」
通りかかったアキムは笑いを堪えながらセラに声をかけた。
「ユーリとお出かけしてくるね」
「お気をつけて。この近辺はフィア・シリス正規軍が派遣されてきましたから、安心してお出かけください」
「うん、ありがとう。行ってきます!」
側役に見送られて、セラは軽やかに階段を下りて館から飛び出した。
「そんなに急ぐと転ぶぞ」
「ユーリ!」
愛馬の手綱を持ったユリシーズは目立たない濃い茶色のズボンと、綾織の生成りのシャツを身に着けていた。腰に佩いている使い込まれた長剣のおかげで、休暇中の傭兵に見える。
「いい感じに小娘っぽいな。ハンナの服のせいかな?」
「それ、本人に言わないでね。大変無礼よ」
「無礼ですまん。ここから二十分くらいの所に町があるんだ。そこまで行って昼飯食って、ぶらぶらして帰ってこようぜ」
「いいわね。何があるの?」
「何にもねーよ。街道沿いだからそれなりに栄えてはいると思うけど」
ユリシーズは笑いながらセラを抱えて鞍の上に横座りさせると、その後ろに跨った。セラは何となく初めて会った時のことを思い出した。たった数か月前のことなのに、もうずいぶん前のことのような気がする。あの時は何となく怪しい傭兵だったのに、今は誰よりも愛しい存在になった。それが何だか可笑しかった。
「何笑ってんだよ」
「ううん、何でもない。参りましょ!」
後ろから抱きしめる様に伸ばされた腕が手綱を握る。セラは腕を回して、ユリシーズの身体に掴まった。
「そうやって掴まっててくれ。飛ばせば十分で着くぞ!」
「きゃあ!」
一気に駆けだした馬の動きに驚いて、一層腕に力が籠る。楽しそうに笑う声が耳に心地よく響いた。
「飛ばし過ぎよ! 怖い!」
「ちょっと早い並足だろ」
「キャー! スカートが!」
「足で挟め、足で。目の毒だ」
「何ですってぇ! 太くって悪かったわね!」
「んなこと言ってないだろ。大事なものはしまっといてくれ」
「もう! だったらもう少しゆっくり走って!」
「はいはい」
少しだけ手綱が緩められて、速度が落ちる。ホッと息を吐いて、思い切り握りしめていたシャツを離した。周りの景色を見る余裕がなかったが、街道は馬や馬車が走りやすい様に石畳で整えられていた。「モントリノまであと三千ファル」と、ご親切に看板まで立っている。内乱が続いている大陸なのに随所で豊かさを見かける。人が住む場所が限られている北方大陸と全然違っていた。
「西方大陸って本当に豊かよね。道もこんなに綺麗に舗装されてるし。トラウゼンも道がしっかり均されてたもの」
「南部地帯は特にな。でかい港町があって輸出入をバンバンやってるし、色んなところから商人が大勢来てるから裕福なんだ」
「うん、最初の町で大勢見たわ。移民ぽい人もいたし。見たことない食べ物がいっぱいだった」
「やっぱセラは食い物か。たまには食い気以外にも目をむけてくれ」
「食い気以外?」
「頭の中に疑問符いっぱいって顔で言うなよ」
「急に言われても困るわよぅ」
「ハハハ」
やいのやいの言いながら街道を進む。途中、私服姿の黒騎士達とすれ違う。皆「おっ」という顔で、素知らぬ顔をしたり軽く会釈したり、誰も話しかけてこなかった。
「ね、何でみんな知らん顔したり、お辞儀だけしてるの?」
「俺達が逢引中だから。邪魔したら馬に蹴られる。っていうか俺が蹴る」
「な、なるほど。やっぱり気を使ってくれてたのね」
「セラもあいつらの休暇を邪魔するなよ。主君から声かけられたら休んだ気がしないだろ」
「はぁい」
「馬屋はこちら、か。この町看板好きだよな」
「私はいいと思う」
「だよな。迷子にならずにすむ。セラは見てても迷子になりそうだけど」
「一言多くってよ」
「いてて、ごめんなさいつねらないで」
わき腹をつねると涙目で謝って来たのでセラは溜飲を下げた。余分なお肉がなくて掴みづらかったから、少し力が入りすぎたかもしれない。馬屋に着くと、ユリシーズは身軽に飛び降りてセラを降ろしてくれた。店番の少年が「いらっしゃい!」と明るい笑顔で近づいてくる。
「夕方まで頼む」
「半日で三ナルになります」
「マジか?! そんな安くていいの?」
「そこの馬場に放すのでそんなに人手がいらないからこの値段でやってます。昨日から騎士様や傭兵が大勢いらっしゃってて」
「儲かってるんだな。すげーいい顔しやがって。それじゃよろしく頼むよ」
「毎度!」
馬屋のホクホク顔の少年に見送られて、セラはユリシーズに手を引かれて「ようこそモントリノへ」と看板の掛かった門をくぐった。ざわざわと喧騒が馬屋でも聞こえていたが、こじんまりした町はかなりの賑わいを見せている。セラは繋がれた右手を軽く引くと左腕を絡めた。
「手を繋いでるだけだとはぐれちゃう」
「お、おう」
ぶっきらぼうな声に顔を上げると、耳が赤かった。
「あらあら。私の騎士様は照れ屋さんね」
「う、うるせ。不意打ちで腕を組んでくるからだ」
「え、私、ユーリの不意をつけたの? やったわ、勝ったのね」
「ったく。スカーフをしっかり被っとけよ。セラが日に焼けたらエマにブッ飛ばされる」
大きな手で頭に被っていたスカーフを直される。乱れた前髪を整えながら歩き出すと、また黒騎士団と西方諸侯の私兵らしき賑やか集団とすれ違った。「なんもねぇ」と遠い目になっていた彼らが楽しそうな顔をしていて、セラもうきうきした気分になってきた。
「ブッ飛ばされるユーリ、一度見てみたいわ」
「楽しそうに言うんじゃない。お前らもさっさと行けよ。見せもんじゃねぇんだ」
振り返るとさっきの彼らがこちらを見て親指を立てたり、両手を組んでシナを作ったり、明らかにユリシーズを冷やかしていた。セラと目が合うと笑顔で会釈をしてくれる。この温度差は何だろうと考えていると、ユリシーズに手でしっしと追い立てられて彼らは足早に去って行った。
「あちこちに皆がいるわね」
「行くところがここしかないからな。無視だ無視」
「あ、この通り、雑貨屋さんがいっぱいある。行こ!」
主要路から一つ向こうの通りは、小物から生活用品、異国風の織物を扱う店などが軒を連ねている。セラは好奇心に目を輝かせながら、店先の品物を一つ一つ眺めた。ふと髪留めを中心に扱う雑貨屋が目に入った。
「あ、これかわいい。お財布お財布」
「呼んだか?」
セラが小さな肩掛け鞄から小さなお財布を取り出して小銅貨を数えていると、良く通る低い声が耳元で聞こえて顔を上げた。
「お財布ってユーリのこと? 何言ってるのよ! おねえさん、この髪留め、色違いでくださいな」
「はい、いらっしゃいまし! 今日は大盛況でてんてこ舞いだよ」
「近くに解放軍が駐留しているからだと思うわ。皆、自分の良い人にお土産を買っているんじゃない?」
「だろうねぇ! そっちのお兄さんはいいの? 目の前の良い人に買ってやらなくって」
「んじゃ、こっからここまでをくれ」
「そんな買いかたしないで。ちゃんと選んでよ」
「アッハッハ! 娘さんの勝ちだね!」
「んじゃ、これとか?」
「黄色……」
「……桃色はないのか?」
「そっちの型はないねぇ。桃色だとこれだけど」
「うーん。猫ちゃんをつける年でもないし」
「だよな。子ども向けだよな。わかんねーから、また後でくるよ」
「毎度あり! またどうぞ! はい、いらっしゃいまし!」
お店のおねえさんは忙しそうに新しくやってきた客の元へ小走りで寄って行った。確かに、引っ切り無しに騎士らしき客がやってくる。これは忙しそうだ。セラはユリシーズの腕を引いて店を出る。次は向かいにある小物屋に行くことにした。
「エマとハンナにお土産。これなら受け取ってくれると思うの」
「あいつら妙に義理堅いからな。ハンナは食い物のほうがいいんじゃないのか。菓子とか」
「もちろんお菓子も買うわよ。お父さんにも買って行かなくっちゃ」
「菓子、食うんだ……」
「カナチョロじゃないんだから、虫は食べないわよ。人と同じものを食べるんですって」
「お、俺はカナチョロとか思ったことないからな」
「でも触った感じ、まさに超大型のカナチョロよ。硬質に見えるけど触るとほんのりあったかくて滑々してるの」
「そうなのか? 見た感じ鍛えこんだ鋼みたいなのに」
「鋼。鋼のカナチョロね」
「……それ、セラのお父さんに言うなよ。娘にそんな風に思われてたら悲しいだろ」
「マジかよーって笑ってくれそうな気がするんだけど」
「頼むから、俺のなかの英雄像を崩さないでくれ。お父さんは本当にそんな話し方なのか?」
「下町言葉っぽい感じなの。ユーリ、次はあそこのお店が見たい」
「棚買いしてやろうか?」
「もう! どれにしよう、って選ぶのがいいんじゃない」
「だから女の買い物は長いのか……ま、いいや。今日はセラにとことん付き合うと決めてるからな」
「本当? 嬉しい……!」
「喜んでもらえて俺も嬉しい」
「あ、あのねユーリ」
「ん?」
「また、こうやって二人だけで逢引しようね。普通の恋人同士みたいに」
「……うん」
蒼い瞳がふわりと優しい色になり、嬉しそうに細められる。セラはそれが嬉しくてたまらなかった。結婚しても、子どもができても、年をとっても、ずっとこの人と一緒に歩いていきたい。笑った顔がみたいし、喜んでもらいたい。悲しい時は一緒に悲しんで、時には励まして、立てなくなったら支えたい。こんな想いは今まで知らなかったのに、心に自然と浮かんでくる。それがくすぐったくて大切なもののように思えた。
何件もの雑貨屋と布屋をはしごして、ユリシーズが「腹減った……」と情けない声を上げるまで買い物に費やした。侍女達とトゥーリにつきっきりのオルガに焼き菓子を。父には流行りのお菓子を買った。卵白を思い切り泡立てたメレンゲをクッキー生地の上に乗せた焼き菓子だ。味見をしたら、口でしゅわっと蕩ける焼きメレンゲと香ばしいクッキー部分が初めての食感で大変美味だった。聞けば南部地帯で最近売れ始めたもので大きな商人連「ベラルディ商会」が出資者らしい。セラは久しぶりに達成感に包まれながら買い物を終え、見た目よりも良く食べる恋人のために、肉と飯類てんこ盛りの定食屋にあたりを付けた。
「俺はすげー嬉しいけど、いいのかよ。セラが食い切れる量のメニューが一個もないぞ?」
「だって女の子が行くようなお店じゃ、ユーリ絶対足りないでしょ」
「軽すぎて腹の足しにならねーからな。少なく盛ってもらおうか。それでも多かったら俺が食う。すみませーん、注文いい?!」
「はいよ!」
「鳥の焼き物と、角牛の焼き物。鳥は飯を少なめにしてくれ」
「鳥は少な目ね。そっちの娘さんの分かい? 鳥の焼き物、単品もあるけど? 割高になるからパンをおまけでつけるよ」
「助かる。それじゃ単品で頼むよ」
「あいよ、角牛と鳥単品ね。お代は前払いで、二人で銅貨二枚だよ」
「安い。この町は色んなものがお買い得だな」
「最近は化け物がなりを潜めて、物流が潤ってるんだよ。商人も昔みたいに大勢来てくれるようになったし。解放軍様様、女王陛下万歳ってもんさ!」
「そいつは良かった」
「兄さん達知ってるかい? 今一番新しい噂なんだけどね。ここから少し離れたトラウゼンの領主様がどこかのお姫様とご結婚なさるそうだよ。おととい吟遊詩人が配ってた詩にもそんなことが書いてあってさ、さっき来てた黒騎士様に聞いてみたら、本当だって言うじゃないか。めでたい事さね」
「素敵ね」
「四年前の『大戦役』で先代様が亡くなって、黒騎士団も壊滅でもう終わりだろうって皆言ってたけどね。すっかり立て直された今の領主様はお若いのにご立派なことだよ」
「……」
「おっと、つい話し込んじまったね。ちょっと待ってておくれな。アンタ! 鳥と角牛一丁!」
丸々した女将さんが大きなお尻をふりふり厨房へと戻っていく。それを見送って、セラは笑いを堪えきれない顔で隣に座るユリシーズを肘でつついた。
「立派だって」
「うるせ。俺だけの力じゃねーよ。リオンの奴が詩人に金貨を弾んだせいで、こんな離れた所でも噂されてるんだな……」
「うわぁ耳が真っ赤。かわいらしいわ」
「さ、触んな! 怒るぞもう」
両耳を抑えているユリシーズの姿に、余計に笑いが止まらなくなる。いつも余裕綽々、不敵な笑みを浮かべる恋人は存外照れ屋なのだ。すぐに運ばれて来た角牛の焼き肉大盛りと、艶々としたと鳥の照り焼きにセラは度肝を抜かれた。
ユリシーズが目を輝かせて「いただきます!」と早速手を付け始めたので、慌ててセラは彼の膝の上にナプキンを敷いてやった。滴る脂と豆醤で香ばしい匂いのするタレは、ズボンについたら絶対シミになる。セラも自分の膝にナプキンを置くと、さっそくフォークを片手に鳥の照り焼きを頂くことにした。
近くにあった公園で、まったりと食休みを取っていると、何やら先ほどから人々が色めきたっていた。セラは何があるのかとウズウズしていたのだが、膝に乗せたユリシーズの頭を落とすわけにもいかず、道行く人の様子を眺めていた。
「何か、さっきから誰か探してるみたいだけど。風聞屋かな」
「ホント。色んな人呼び止めて何してるのかな?」
往来に姿を現した濃紺のズボンと白い綾織のシャツを着た青年がこちらを振り返った。水色のたれ目が一瞬見開かれ、何気ない風を装い柵を一跨ぎしてこちらにやってきた。
「どうしたのアルノー、何かあった?」
「お楽しみ中のところ、ホントにごめん。風聞屋が黒騎士団の長が婚約者同伴でこの街にいるってネタを掴んだんだ。早く帰らないと囲まれるよ」
「ちっ。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られたらいいんだ。うちの軍馬とかに」
「気持ちはわかるけど、セラちゃんのこと、今はあんまり表に出したくないだろ。セラちゃん、トラウゼンだったらいっくらでも逢引できるからね」
「う、うん。ユーリ、仕方ないわ。帰りましょ」
「あーぁ。短い逢引だったぜ」
「俺達で攪乱してるから今のうちだよ。そっちの川沿いから馬屋に行けるから」
「ん。頼んだ」
アルノーを見送ってむくりと起き上がったユリシーズは、セラの後ろ頭に手を回すと軽く唇を合わせるだけのキスをした。悪戯っぽく笑う顔を見ているとどうにも憎めない。
「また行こうな、二人で」
「うん!」
指を絡めるようにしっかり手を繋ぎなおして、二人は川沿いの小道へと降りて行った。
翌朝。出立前に離宮に集う解放軍全員がクレヴァの招集で、離宮の広い庭に集まった。黒き有翼獅子の騎士団はこのまま帰還するので、全員が甲冑と黒い長衣姿で、自分の騎馬を引いていた。ユリシーズの愛馬は従騎士のカインがその手綱を預かっていた。側近二名を従えたクレヴァが半壊した離宮から出てくると、居並ぶ騎士達はまったく同時に騎士の礼を取った。
「これより黒き有翼獅子の騎士団はトラウゼンへ帰還、私達は南部地帯の解放軍の集結を待ってからエーラース領へ帰還します。すでに伝令を飛ばしたので、我々の到着に合わせ北部地帯、西部地帯に散る同志も集まるでしょう。世には流れがあり、戦いには時期があります。次に会いまみえる時が最後の戦いです! 各人、奮起せよ!」
騎士達はクレヴァがその場を辞すまで微動だにせず立っていた。セラは連合軍の体を成すはずの解放軍の士気の高さに驚いた。今ここにいる西方諸侯達がクレヴァの教え子ということもあるのだろうが、統率している指揮官達の優秀さが見て取れる。日傘を掲げてくれていたエマから「セラ様、ユリシーズ様がおよびですわ」と囁かれて我に返った。
慌てて淡い薄桃色のドレスの端を持って、黒騎士団の元へ移動する。エスコートするように伸ばされた右手を取ると、ユリシーズがいつものように不敵に笑った。何だろう、と目顔で尋ねると「前へなおれ」と小声で告げられた。皆の方に向き直ると一気に視線が集中した。いつもは強面ながらも気の良い騎士達は、総勢千騎の黒き有翼獅子の騎士団の、歴戦の猛者だ。緊張で手が汗をかいてきた。ユリシーズが白い手袋をしていてくれて助かった。
「黒き有翼獅子の騎士団よ! 我らがデイムに剣を捧げよ!」
ユリシーズの号令で、黒騎士達がジャッと音を立て己の剣を抜き放ち、まったく同じ動作で顔の前に捧げ持った。ギラギラと朝の光を反射して眩しいほどだ。
「皆が見た黒い竜は吉兆! 恐れることはない、我らが見据えるは勝利のみ!」
凛としたその声に、全員が剣を掲げた。セラも自然と姿勢を正す。ふと呼ばれた気がして上空を見上げると、優雅に旋回する大きな影が見えた。転移魔法ですぐに来られるのに、わざわざ見送りに来てくれたのだろう。セラの目線に気づいたユリシーズは、目線の先を見てフッと笑みを浮かべた。腰に佩いた長剣を片手で抜き放ち、天に掲げて合言葉を叫んだ。
「我らは一つ、剣の元に!」
団長の後に間髪入れずに黒騎士達が同じ言葉を繰り返した。その様子を厳しい目で睥睨しユリシーズは剣を納めた。ぱちりという唾鳴りと同時に、黒騎士達も剣を降ろして鞘へ納めていく。
「全員、騎乗! これよりトラウゼンに帰還する!」
トラウゼンへの帰還は嬉しかったが、必然的に意識してしまう。『二度目の大戦役』で最愛の人が出陣するのだということを。そっと傍らのユリシーズを見上げて、小さく憂鬱な息が漏れた。