25. 葛藤
黒い集団は白地に黒い有翼獅子の紋章の旗を掲げている。間違いなく黒き有翼獅子の騎士団だ。先頭にいるのはジェラルドとアルノーで、こわばった顔をしているのが見て取れた。
「アルノー! ジェラルド! みんなも、お疲れさま!」
ぶんぶんと元気よく手を振って、黒騎士達を迎える。皆が口々に「デイム、ご無事で何よりです!」「よかった!」と安堵の声を上げた。彼らにも要らぬ心配をかけたことだろう。申し訳なさで身が縮む思いがした。
「さっきのアレは何?! 二人とも大丈夫?!」
「若、いったい何事ですか! あれは大型の亜生物では?!」
「若っつったな、今。示しがつかないからちゃんと団長と呼べよ」
「も、申し訳ございません。動揺のあまり」
「あれは……味方だ。後で説明する。よし、全員無事到着したな。ご苦労だった。三日後、トラウゼンに帰還する。それまで休暇だ。ゆっくり休め。解散!」
「えっ、本当に?! 三日も! いいんスか!?」
黒騎士達の「よっしゃ」「やった!」という野太い歓声があちこちから沸き起こる。団長の個人的事情で無理を強いたので、詫びと労いを兼ねた休暇なのだが、全員が喜色満面で下馬して団長に敬礼した。デイムの護衛のためにアルノー達が残り、あとの黒騎士達はユリシーズに言われた通りに館へと向かった。セラの前を通り過ぎていく黒騎士達は口々に労わりや忠言を残して去っていく。
「団長が血相変えて飛び出していったから、皆で心配してたんですよ」
「団長もだけど、デイムも結構無茶しますね」
「本当に申し訳なかったわ。皆に心配と迷惑をかけないよう重々気を付けます。お疲れさまです。ゆっくり休んでくださいませ」
そうして全員を見送ると、アルノー達が自分の馬を引きながら、セラとユリシーズの所に集まってきた。
「それにしても、セラ様が無事に戻ってきて本当に良かったです」
「さっきのが竜か。ずっと唸り声が聞こえてて何事かと思った」
「あのね、驚かないで聞いてほしいんだけど。あの竜はちょっと普通じゃなくって、竜の中に私のお父さんの魂が入っているの」
「は?」
アルノーとジェラルドはポカンと口を開けたまま固まり、エーリヒは槍を持ったまま目が点になり、フーゴは首を傾げた。そんな彼らに、ユリシーズは「そうだよな……それが普通の反応だ」と呟いた。北方大陸は精霊魔術をはじめとした不可思議がまかり通る地だ。伝説の存在が空を飛んでいても、変わったトカゲが壁を這っているぐらいにしか思わないのだろう。
「ジェラルド、お父さんとお話ししたいわよね。後で呼ぶね。あ、でもフレデリクもいたほうがいいのかな」
「セラ様、お気遣いありがとうございます。それでは、フレデリクと一緒にお会いしたく思います……」
「そう? こんな所で立ち話なんてしてごめんなさい。みんな疲れてるわよね。館に参りましょ」
「賛成。皆、本当にお疲れ」
ユリシーズはいつものようにアルノーと片手同士を打ち鳴らし『盾の仲間』達と笑いあった。最愛の存在が戻り、背中を預ける仲間達が揃い、もう何の憂いも感じない。傍らで嬉しそうに笑うセラを見ていると心が解けていく。このかけがえのない存在を誰一人欠けることなく守ること。それが自分のするべきことだと強く思った。
夜になり、フィア・シリス女王からの親書が届いた。セラの無事を喜び西方諸侯達の尽力を労う内容で、好きなだけ離宮に滞在する許可と酒蔵の秘蔵葡萄酒を進呈すると書かれていた。これには全員が驚き、喜んだ。
フィア・シリス王国は西方大陸南部地帯に位置しており、南方大陸にも近いことから燦々と降り注ぐ陽の光と年中暖かい気候の恩恵を受けている。そのおかげで、食文化が非常に進んでいるのだ。そこで造られる葡萄酒は世界中で愛される銘酒揃い。王家御用達ともなれば滅多に口にできる代物ではない。警邏についている者以外は館の広間に集まり、セラの無事を喜びつつ葡萄酒品評会のような酒盛りが始まった。
「この色、この香り。本当にたまらないですね。コンスタンス様にお礼を申し上げねば」
「セラも飲んでみろよ。すごい美味いぞ、この葡萄酒」
「美味しいと思うけど、ちょっと苦い」
セラはユリシーズにグラスを返して、黄桃を絞ったジュースに手を伸ばした。正直なところ、セラには葡萄酒の良しあしがよくわからない。成人しても酒を飲むような機会はほとんどなかったし、友達と城下町の茶屋で果実酒を嗜む程度なのだ。
ぐいぐい杯を開けているユリシーズは酒に強い方ではないと言っていたが、それは周りと比較して、という意味に違いない。すでに彼は一人で一本空けていたが、顔色はほとんど変わっておらずいつも通りだ。
「ではこちらは? これは貴腐葡萄酒といって蜂蜜のように甘い葡萄酒です。本来は食後酒ですが、女性には好まれる味でしょう」
「甘いのですか? で、では少しだけ」
クレヴァに小さなグラスに注いでもらい、セラはぺろりと舐める様に飲んでみた。濃厚な、それこそ蜂蜜のような甘さと杏のような凝縮された香りが口腔を満たした。ふわっと鼻を抜けていく微かな酒精の風味で「これはお酒」と意識しないと、甘い甘い蜂蜜を飲んでいるような気分になる。
「甘い! 本当に蜂蜜みたいです」
「セラ様、あまり飲みすぎませんように。ジュースではありませんのよ」
「はい、マダム・アドリーヌ」
セラは悪戯をとがめられた子どものように肩を竦めて、もう一度グラスを傾けた。この葡萄酒ならとても好きになれそうだ。
マダム・アドリーヌが「淑女のたしなみを忘れずに!」と言いおいて引き揚げてからも、セラはちびちびと林檎の古酒を舐める様に飲んでいた。芳醇な林檎の香りと、喉をとろりと落ちていく蜜のような果実酒がたまらなく美味しかった。
隣のユリシーズは乳酪を酒肴に、クレヴァと領地運営についての難しい話をしている。税率の引き上げがもたらす影響が何とかを横で聞いていても、予備知識がないのでさっぱりわからない。とりあえず、トラウゼンの主産業が順調であることはわかった。頭がポーッとしていて身体が暖かい。とても気持ちが良かった。
「セラ、眠いのか? さっきから俺にもたれ掛ってるけど。クレヴァ様、そろそろお開きにしましょう」
「頃合いですね。セラ、グラスをこちらに」
「俺が担いでいくから。エマは部屋の用意を頼む」
「かしこまりました」
軽々とセラを横抱きにして、ユリシーズは黒騎士達の冷やかす声に見送られて広間を出た。腕の中のセラは大人しくおさまっていたかと思うと、首ったまにぎゅうっとしがみついてきた。
「こら、苦しい。落とすだろ」
「んー、だっこ」
「抱っこなら今してる。ったく、世話の焼ける。病み上がりのくせに飲みすぎ。果実酒は口当たりが良くても度数は高いんだぞ」
「そーなの?」
「そうなの。俺のいないところで絶対に飲むなよ、できれば一生」
「いっしょー」
「はぁ。こんなにセラが酒に弱かったとは……気を付けてやらないとダメだな」
すりすりと子猫のように身を寄せてくるセラに気が気じゃなかったが、ユリシーズはしっかりとセラを抱えたまま主寝室まで危なげない足取りで歩く。都合二本空けたが、良い酒は悪酔いしないのか気分も悪くない。セラの使っている部屋に着くと、寝台の傍に水差しとグラスが置かれていた。
「エマ、ありがとう。悪いけど水差しじゃ足りねーよ。デカンタで持って来てくれ。セラにガンガン飲ませて酔いを醒まさせろ」
「わ、わかりました。戻るまで、セラ様についていてくださいませ」
「うん、早くな」
俺の理性がもってる間に、と心の中で付け加える。広い寝台に下ろしても、いつかのようにシャツの胸元をしっかり握ったままだ。
「セラ、手を放してくれ。変な気分になりそうだ」
「変? どして?」
「……あのな。俺はセラが心底好きで、隙あらば狙ってる危険な男なんだよ。貞操を守りたかったら手を放して」
「私もユーリが好き。大好き」
ビシっと理性にヒビが入った。幸せそうに笑う顔も、酒精で桃色に染まった頬も、ふっと漂う果実酒の甘い匂いも、容赦なく理性を攻撃してくる。半開きの扉からは誰の気配もしない。セラの両手を優しくつかむと、指を絡ませるように握り込んで寝台に押し付けた。これ以上はまずいという自覚があったが、どうしても口づけたい衝動を抑えられなかった。
「ん……」
握り込んだ柔らかな手は、どんどん深くなっていくキスにも抵抗しなかった。甘く柔らかな唇の感触に思考が蕩けていく気がして、ふっくらした下唇をかぷりと食んで名残惜しげに唇を離した。潤む翡翠の瞳がじっと見つめてくる。
「何だよ……」
「葡萄酒の味がするね」
「ああ、もう! エマ、早く戻ってきて!」
ぴったりとくっついていた互いの身体を引き離すように、勢いよく身を起こした。ユリシーズの邪まな思いと対極の無邪気に笑うセラに、後ろめたさを感じていたたまれない。侍女が戻ってくることを切実に願った。
翌朝。セラはちょっとだけ頭が痛かった。それをエマに訴えると「二日酔いでしょう」と意味ありげに笑われた。林檎の果実酒を美味しくいただいてからの記憶がほとんどない。途中でふわふわと気持ち良かったことと、ユリシーズが低く掠れるような声で何か言っていたことは覚えている。その後、とんでもなく艶っぽい夢を見た気がする。思いだすと顔が熱くなってくる。赤い顔を見られたくなくて、セラは裸足で寝台から飛び降りると洗面台に駆け込んだ。
マダム・アドリーヌに「私のお部屋で朝食を」と招待されたので、セラはエマを伴って部屋を出た。廊下にあるはめ込みの大きな窓から、少し離れた所にある馬場が見える。そこではすでに騎士達が訓練中のようで、剣戟と歓声が聞こえてきた。
「私、また寝坊しちゃったのかしら。皆の訓練がもう始まってる」
「寝坊というほどでもないかと。まだ朝の九時を回ったところですし。」
「そ、そう? 私最近よく寝坊してる気がするんだけど」
「お勤めを辞めたからでは? 気候の違う北方から移ってこられて、お疲れが出てきたのかもしれませんわね」
「うん、そうかも。そういえば私とユーリって出会ってまだ半年も経ってないのね。もう何年もずっと一緒にいるような気がする」
「ふふっ、それだけ気持ちが通じていて、お二人の相性がぴったりだからですよ。朝から何だか熱いですわねぇ」
「ち、違う、ノロケたわけじゃ」
「うふふふふふ」
含み笑いが止まらないエマに、セラは真っ赤な顔で「ちがう」と言いつのった。館の三階にあるマダム・アドリーヌの部屋の前に着くと、エマは下がって行った。
「おはようございます、マダム・アドリーヌ」
「おはようございます、セラ様」
「失礼いたします、マダム・アドリーヌ」
朝のご挨拶をしていると、オルガの柔らかなアルトの声と、控えめなノックが響いた。マダム・アドリーヌは「来たわね」と挑戦的な顔で笑った。
「どうぞ、オルガ様」
「きゃあ、オルガ! 素敵!」
入室してきたオルガを見て、セラは思わず立ち上がって小さく拍手した。オルガのサラサラした銀髪は瞳の色に合わせた淡いミントグリーンのリボンでまとめられて、長いつけ毛が胸元に流れている。柳のような嫋やかな身体はリボンと同じ色の質素な意匠のドレスに包まれていた。何を着ても似合う幼馴染だったが、数年ぶりに見るオルガのドレス姿に感動すら覚えた。
「髪を伸ばしたら、オルガ。短いのも似合うけど、せっかく真っ直ぐで綺麗な髪なんだから」
「……最近はそれも悪くないかなって思ってる。マダム・アドリーヌ、ドレスをありがとうございます」
「お礼なら女王陛下に。あの方は服飾の専門家ですからね。あなたを見て、こちらのドレスを思いついたのだそうよ。本当によくお似合いだわ。侯爵家の姫があんな色気のない騎士服ばかりじゃ勿体なくてよ」
「本当にマダム・アドリーヌの仰る通りよ。オルガだって女の子なんだから、もっと素敵な服を着るべきよ」
「その前に私は騎士だよ。でも、これも悪くないね」
「私の助手も良い腕でしょう。その付け毛、淡い金髪を染めたのだけど、綺麗なプラチナブロンドになったわね。これは使えるわ」
「染め粉でオルガの地毛と同じ色にできるんですね。マダム・アドリーヌ達ってすごいわ」
「ホホホ! もっと褒めて頂いて構わなくてよ。今のリンディアには年頃の殿方がゴロゴロ、それこそ畑の芋のようにいるから好きなのを見繕って来たらいかが? オルガ様も伴侶を選ばれるには遅いくらいでしてよ」
「西方諸侯の方々ですか……私には勿体ないお方ばかりです」
「ホホホ! ま、朝食を召し上がったらお散歩に行ってらっしゃいな」
「あとでトゥーリ様に見せに行こうね」
にっこにっこ笑うセラに、オルガも笑みを浮かべて頷いた。話している間に離宮付の侍女達が運んできた朝食が並べられていく。女性だけでいただく朝食は久しぶりで、他愛のないおしゃべりをしながらしっかり食後のお茶まで頂いた。暇乞いをして、セラはオルガと一緒に離宮の周りを散歩することにした。
「気持ちいいね。湖のそばだからかな」
「閉じられてた淀みが消えてきたしね。私達も妙な息苦しい感じがしなくなった」
「そうだったの? 気づいてあげられなくてごめんね」
「ううん。弱みに見えるから黙ってだけ。実験結果としては、長老たちが言ってた通りになったけど」
「精霊の力、借りられないってこと?」
「西方大陸の精霊は、すごく存在が希薄になってるから無理。力を世界に循環させるので精いっぱいだったんじゃないかな。縁のない地での精霊魔術は使役不可だね」
「オルガ、精霊使いって北方大陸と東方大陸にしかいないって本当?」
「私達みたいに契約して使役する、っていう意味?」
「うん。リオンみたいに潜在的に精霊使いの素養がある人はいるみたいだけど」
「あの人は東方人の血が濃いからね。普通の人は『精霊の貴石』を持ってもせいぜい光らすだけ。初っ端から石の力を引き出して使いこなしたのはあの人が初。その話を聞いて長老たちが会いたがってたよ」
「あらまぁ」
「それと、アルノーは特殊能力者だよ。あの人の話聞いて、最初は怪談話かと思ったけど。斧で一刀両断なんて普通できない」
「……私を攫った獣人も言ってた。西方大陸では時々そういう人がいるんだって」
「無意識に制御してるから気づかれにくいだけか……」
「あのね、オルガ。私もそうなんだって。私は特殊能力者を産む因子を持ってるんだって」
「え?」
「私、怖い。私には何の力もないけど、私がこれから産む赤ちゃんは普通じゃなくなるかもしれないの」
「それ、ちゃんとユリシーズに話した? 私じゃなくて彼に話さなきゃ。セラの旦那様になる人なんだから」
「怖いの。ユーリに嫌われたらって思うと、言えない」
「でもセラとユリシーズ、二人の問題でしょう?」
「……うん……」
セラはちくりとまた胸が痛んだ。オルガにしか本音を言うことができない自分が少し嫌いになりそうだった。
館から五分ほど歩いた所にある広場では、騎士達が真剣を使った寸止めの打ち合いをしていた。彼らは訓練でも手を抜いている様子はなかった。
「朝からみんな元気だね。あ、セラ。ユリシーズがいたよ」
「二刀流、久しぶりに見た気がする」
ユリシーズは長剣とソードブレイカーと呼ばれる特殊な短剣で、西方諸侯達と複数対一人で打ち合っていた。次々と打ちかかっていく彼らを最低限の動きで躱しながら円の外へ蹴りだしていく。
「腰が引けてんぞ! 剣がもったいないか?!」
「あ、ったりまえだろ! これ折られたら帰り道で丸腰になるだろうが!」
「スキあり!」
ユリシーズの後ろにいたジューリオが素早く斬りかかる。振り返りざまにソードブレイカーの峰で受けて、ユリシーズはそのまま手首を返して剣を折り飛ばした。あたりに金属を打つような鋭く澄んだ音が響く。
「なんなんだよ! お前後ろに目がついてんのか!」
「負けたんだから円から出ろよ」
ジューリオの尻に蹴りを入れて、ユリシーズは別の諸侯に軽く踏み込んで打ち込んだ。
「すごいね、セラの旦那様。今見ないで受けて剣を折ったよ」
「うん。何度かユーリが戦うところを見たけど、やっぱりすごいね」
「あ、気づいた。手を振ってあげたら?」
「う、うん」
軽く手を振ると、ユリシーズはあからさまにセラから顔をそらした。普段だったら何とも思わないことなのに、ひどく胸が締め付けられた。嫌われたら本当にあんな風に避けられるのかも知れない。とてもじゃないけど耐えられない、とセラは悲しくなって俯いた。
「オルガ、行こう。私、することがあったの思い出しちゃった」
「いいけど。見ていかなくてもいいの?」
「うん。まだ西側見ていなかったでしょ? 窓から見た感じだと、青いお花が咲いてるのが見えたわ。ちょっと摘んでいきたいなぁ」
オルガのほっそりとした手を取ると、セラは今来た道とは別の、広場を大きく迂回して戻る道を選んだ。こちらの道なら彼らの声は館に遮られて届かない。後ろを一度も振り返らずに、ずんずん進む。離宮の西側は眩しい光が降り注ぎ、まるで光の庭だ。シャラシャラと小さな噴水が涼しい音を立てていた。
「セラ……」
「ごめんねオルガ。お花摘んで先に戻るね」
「私も戻るよ。トゥーリ様が心配だし」
「うん。皆に心配かけたくないから眠いって言ってるけど、本当は身体がろくに動かないんでしょ?」
「私はトゥーリ様に比べたら霊力が低いし、アキムさんは半分力が封じられてるからあれで済んだけどね……。どういう理屈で私達の力を殺いで、精霊をあちら側に押し込めたのかわからないけど」
「怖いね……」
西方大陸は戦乱で荒れているばかりか、得体の知れない錬金術師が跋扈する不毛の地だ。精霊使いでもある精霊騎士達は、あの獣人と戦ったらただでは済まない。もう遭遇しないことを祈るしかなかった。
花を摘んで戻ると、セラはオルガと別れて真っ直ぐハンナの部屋を訪ねた。足首を折られて、あちこち打撲を負ったと聞いていたが、思っていたより元気そうでセラは胸をなで下ろした。
「ね、何でリオンはハンナを三階から落としたの?」
「あのままいたら、両足とも折られて人質にされたから、じゃないですか。すぐにリオンさんも落っこちてきてびっくりしましたけど」
「助けてくれたんだ。ずいぶん荒っぽいけど」
「稽古の時も遠慮なくブッ飛ばしてくれます。いっつもです。お嫁に行けなくなったらどうしてくれるのって言いたいです」
「責任を取って、お嫁にもらってもらえば?」
「ゲー!」
「あはは!」
ハンナの嫌がりようが可笑しくて、セラはエマと声を上げて笑った。
「私そろそろ行くね。大人しくしててね、ハンナ。エマも私はいいからハンナについてて。これからクレヴァ様とお話があるから」
「かしこまりました」
二人の侍女に見送られて、セラは離宮へ歩き出した。リュシアンから受け取った見取り図は所々破れたり、線がにじんでしまったが、傷む前の状態はまだちゃんと頭の中にある。今は自分のやるべきことだけに集中する時だ。
「クレヴァ様、失礼いたします」
「どうしました、供もなしで」
「側近の方々もお揃いだったのですね。よかった。内通者から預かった情報について、お伝えしたいことがございます」
セラの言葉に、居並ぶ解放軍幹部達は顔を引き締めた。
「これを。帝都の地図だと思います」
「確かに、帝都中心街の地図ですね……しかも最新版か。これをなぜ、彼が」
「皇帝には開城の意志があるから中に入れると言っていました。元凶は皇帝ではなく、宰相と錬金術師だそうです」
「私達貴族やテオドール様を始めとする、解放軍に関わる諸侯達を全員失脚させて国外追放にしたのは皇帝陛下です。あの頃は混乱していたので、すべて皇帝陛下の差し金だとばかり思っていましたが……」
「父は自分が残れば解放軍には手出しをしない、と言われたそうです。でも、それは罠だったって」
「そんな……いったい、二十年前に何があったというんだ……」
愕然となる側近達を目線で抑えて、クレヴァはいつもと変わらない穏やかな声でセラに問うた。
「セラ、伝えたいこととは?」
「あ、はい。この正面の門は使えないそうです。元中央軍が待ち構えているとかで」
「元中央軍? 死人兵になった彼らが、ここに配置されているのか。よりによって……」
「元中央軍ってどういう構成の軍だったのですか?」
「ユリシーズの父、セドリックが率いていた精鋭部隊です。黒き有翼獅子の騎士団の一番隊、フェアバンクスの混成騎士団。フィア・シリス正規軍第一師団。西方諸侯が率いている主力で構成されていました。彼らが敵になるとは……」
「そんな、ユーリ、お父様と戦わないといけないんですか?」
「いえ、それはありません。ユリシーズとリオンが、彼の亡骸を回収してきましたから。この目で埋葬されたのを見ました」
「で、でも。黒騎士団の皆は自分の身内と戦うことになります。そうとわかれば絶対にこの門は使ってはなりません」
「……確か、建国当時の侵入口があったはず。まだ残っていればの話ですが」
少し考え込むクレヴァに遠慮しつつ、セラは指でその場所を指し示した。
「はい。破けてしまっていますけど、この三番目の柱の下に地下道の入り口が一つ。あとこちらの物見やぐらから見える、七本目の柱。ここにも入り口がありました」
「そうですか……ならば作戦の立てようがあるというものです」
「クレヴァ様、あともう一つあるんです。私が受け取った見取り図、この天守にも丸がついていました。ここから入って、東側にあるこの建物を抜けて、内側から門を開ければ伏兵を避けられませんか?」
「遊撃隊のように少人数なら行けそうですね」
クレヴァの長い指が、セラの指さす天守から東側にある塔を抜け、最後に東側にある門にたどり着く。トントン、とそこを叩いて地図の真ん中にある城を指した。がっちりとした武人然とした側近が、太い声でクレヴァに尋ねた。
「主力はどこから?」
「同じ東側からいけるでしょう。この東門、入り口は狭いですが騎馬も通れます」
クレヴァはセラを見て真剣な顔で頷いた。セラの提案は正軍師から見ても合格らしい。師に自分の策を見とめてもらえて、少し胸のつかえがとれた気がした。
「あちらも我々の動きを察知して守りを厚くするかもしれません。全軍に通達を。月が替わる前に動きます」
「はっ」
とうとう二回目の『大戦役』が始まる。結局、ユリシーズを守ることはできそうになかった。リュシアンが言った通り、ユリシーズの率いる黒き有翼獅子の騎士団が、先鋒として東門から突入することになるのだろう。ぎゅっとお腹のあたりを掴まれた感じがしてセラは目を伏せた。
クレヴァ達に辞去を伝えて、セラは解放軍幹部が集まる離宮の応接室を出ると裏口から外に出た。人気のない所まで来ると「お父さん!」と抑えめの声で叫んだ。目の前の地面がぱぁっと光って、竜の姿が一瞬で現れる。
『どうした』
「相談したいことがあるの。安全で、ここからあんまり離れてなくて、私の話が聞かれない所に連れてって」
『構わんが、一人でか? ユリシーズについてきてもらわなくっていいのか?』
「いいの」
『そっか。乗れ』
「セラ!」
離宮の表側から、ユリシーズがやってくるのが見えたが、聞こえなかった振りをして翼にしっかり捕まった。滑り台のように翼から滑って背中へ乗り移る。
『おー彼氏が来た。呼んでるけど、いいのか?』
「いいの! 早く、お父さん」
『ケンカでもしたかぁ?』
ふわっと浮かび上がる感じがして、一瞬で空の上に舞い上がった。あっという間に離宮の屋根が小さくなる。
「お父さん、始祖の因子って何なの?」
『んー、俺も良くは知らんが、そんなに怖がるものでもないだろ。俺の場合は死んだおふくろが楽師だったから、絶対音感ってやつがあったがな』
「私、何の力もないよ。とろいし、足も遅いし、そんなに賢くないし。しょっちゅう迷子になるし」
『力が発露しなかっただけ。よくあることだ。それに普通の子、大いに結構。俺はセラがどんな子だったとしても愛せるよ。愛するフェリシアと俺の大事な娘だからな』
「ありがと……」
『ははーん、子どもができた時、翡翠の瞳だったらどうしようとか思ってるな?』
「うん……」
『心配すんな。レーヴェ家の男はそんなことで好きな女を諦める奴らじゃない。俺はエリウが何度も何度もセディを振ったのを見たが、結局くっついたからな。結婚してすぐユリシーズが産まれたし』
「え、そうなの」
『そうだよ。悩んでいることをちゃんと奴に話してこい。お前のことを真剣に想ってくれてるんだから信じてやれよ』
「お父さん……」
『はい到着』
「ぎゃー! お父さんのバカー!」
ぽいっと背中から落とされて、思わずギュッと目を瞑った。いつまでたっても地面に落ちないばかりか、暖かい何かに抱き留められた。そろ〜っと目を開けると、蒼い瞳がじっと見下ろしていた。
「……お帰り」
セラはごくりと唾を飲みこんで、小さく小さく答えた。
「た、ただいま……」




