21. 虜囚
ユリシーズは望遠鏡で、青い薄闇に包まれる領境を見ていた。夜が明けて数刻。今朝も特に異常はなさそうだ。斥候で偵察に出ているフーゴが戻れば、変わり映えのない報告が聞けるだろう。陣に引き返そうと振り返ったとき、従騎士のカインが必死の形相で駆けてくるのが見えた。
「どうした、何かあったのか!」
「大変ですユリシーズ様! リンディアの離宮が襲撃にあって、負傷者多数って報告が!」
「何だと! セラとクレヴァ様は?! コンスタンス様は無事なのか!」
「女王陛下はご無事でしたが、クレヴァ様がお怪我をされたそうです。セ、セラ様は行方不明とのことです。一緒にいたリオン隊長とアキム隊長が意識不明で詳しいことがわからないと、フレデリク様から鳥で知らせがありました」
「セラが行方不明って……」
愕然となるユリシーズのもとに、第三師団長ジェラルドとユリシーズの愛馬アルタイルを連れたアルノーが駆け寄って来た。
「ユーリ様、我々に構わず先にリンディアへ。クレヴァ様が近くに展開してる友軍と黒騎士団を入れ替えてくださるそうです。友軍が到着後、すぐに追いかけます」
「ユーリ、気を付けて。マルセル達が一緒に行くけど構わず先に行けよ」
「ジェラルド、アルノー、ありがとう。みんなを頼む!」
信頼する側近達に後を任せて愛馬に素早くまたがると、思い切り馬の腹に拍車を当てた。陣の外に出ると背後から数騎が続く気配がしたので、肩越しに振り返ると一番隊を引き連れたマルセル達の姿があった。
「後ろは見なくていい! 俺達だって本気出してるお前に追いつけると思ってねーよ! でも頑張ってついてく!」
「すまん!」
マルセルの真剣な顔に頷いて再び向き直った。さらにアルタイルの腹に拍車を当て「頼むぞアルタイル!」と声をかける。ユリシーズの声に応える様に嘶くと、ぐぅんと地を蹴る力が強くなった。アルタイルが生まれた時からずっと世話をしているせいか、主人の意をまるで人の様に酌んでくれる。無理をさせすぎないように気を付けてやらないと限界まで走り続けてしまうに違いない。手綱を繰りながらセラのことを思う。側役をつけても、彼らが鍛え上げた部隊を連れていても、セラを守り切れなかった。ユリシーズは一番最悪な事態に歯噛みした。見送った時のあの不安感。「セラがいなくなったら」なんて、少しでも考えたことを心底後悔した。遠征地からリンディアまで約二日。休まず飛ばせば一日だ。
「セラ……!」
アルタイルの背に低く身を伏せながら、ひたすら馬の腹に拍車を当て続けた。セラの無事だけを祈りながら。
離宮自体の被害は小規模なもので、負傷者は多数だったが死んだ者はいなかった。クレヴァは椹木をした左腕を庇いながら、諸侯達へ次々と命令を下していた。セラフィナ姫捜索に志願してくれたのは、新諸侯派の諸侯達全員だ。わざわざ解放軍の象徴にならずとも、セラの心からの思いは彼らにしっかり届いた。よくやったと労ってやって、共に喜び合いたいのに、当の末弟子がいない。それがひどく悲しかった。あの子に何かあったら、ユリシーズに、ジュストに何と詫びればよいのだろう。子どものいない自分にとって実の娘の様に感じていただけに、何もできなかったのが悔しくて堪らなかった。
「クレヴァ様……そろそろお休みくださいませ。骨を折ると熱が出ますから」
燭台を手にしたエマが、開け放たれた扉の外からそっと声をかけてきた。夕方見た時よりも幾分ましな顔色になっている。意識を取り戻してからは、負傷した騎士達の手当や物資の調達、色々なことを手伝ってくれていた。
「エマこそきちんと休みなさい。頭を打っているのに歩き回っては、身体に障りますよ」
「申し訳ございません。とてもじゃないけれど寝ていられなくて……」
「……明日にはユリシーズも来るでしょうから、もう休みなさい。私も少ししたら休みます。さっきも側近達に怒られましたからね」
「はい、クレヴァ様。それでは、失礼させていただきます」
エマはずきりと額にはしる痛みをこらえながら、一礼してクレヴァの運び込まれた客室を辞去した。エマは皆の看護の傍ら、無事だった離宮の部屋を回って負傷者の面倒を見ていた。じっとしていると、連れ去られてしまった主を思い出して居ても立ってもいられなくなるからだ。リオンもアキムも失血が多すぎたせいか意識が混濁したままで、打撲と裂傷で高熱が出ているのに呻き声すら上げない。右足首が折れたハンナやひどい裂傷を負った他の騎士達は自分の力不足を嘆き続けていたのだが、やっと寝付いてくれた。こういう時、主ならきっと「大丈夫! 何とかなるわよ!」と皆を励ましてくれるのに。
「セラ様……」
静まり返った真っ暗な廊下の壁に背中をずるずると預け、エマは声もなく泣き続けた。
襲撃から一昼夜が過ぎた頃、ユリシーズは単騎で到着した。遠征中だった黒き有翼獅子の騎士団の長の到着に離宮中が騒然となった。すでに強硬派達は手勢を率いて周辺への警戒に当たっているのか、残っていたのは新諸侯派と穏健な中立の諸侯達ばかりだ。カツカツと長靴を鳴らしながら進んでいると「通してくれ!」とジューリオの声がして、集まって来た諸侯と騎士達をかき分けながら姿を現した。
「クレヴァ様は? 俺の側役達はどこだ。詳しい話が聞きたい」
「ユリシーズ、本当にすまん。俺達がいながら、セラフィナ様が……何と言って詫びたらいいか」
大きな体を縮こまらせるジューリオを一瞥して、ユリシーズは小さく息を吐いた。あちこち包帯だらけで、足を引きずっている様子を見れば奮戦してくれたことは一目瞭然だ。友人の満身創痍の姿に感謝こそすれ、責める必要などまったく感じられなかった。
「……襲撃は想定していた。まさか帝国軍のキメラ部隊が来るとは思わなかった。それだけだ。ジューリオも皆も、命があって良かったよ」
「ユリシーズ。思っていたより早かったですね……」
「ええ。気が急いて仕方なかったので。交代要員の手配ありがとうございます、クレヴァ様。セラがいなくなった時のことを知る者は、俺の側役だけですか?」
「ええ……私達は応戦するので手一杯でした」
「首謀者は。俺は二重諜報がいると睨んでいましたが」
「グリマルディ侯爵がご存知ですよ」
「では、グリマルディ侯爵に話を聞きましょう」
「そう言うと思いました。ついてきなさい」
埃で白っぽくなった黒い騎士服に構いもせず、師の後をついて歩くユリシーズは氷のように冷え切った眼差しをしていた。個人的に親しい諸侯達は声をかけたかったのだが、滅多に見ない激怒した姿に、一様に口を噤んだ。クレヴァはその様子に小さく嘆息した。怒りを内へ溜めこむ性質だから、その感情が発露すれば手が付けられない。最愛の存在が奪われたのだ。その怒りたるや推して知るべしだ。
グリマルディ侯爵は離宮の奥深く、窓すらない半地下の部屋に軟禁されていた。憔悴しきった様子で粗末な寝台に腰かけている。ユリシーズは両拳を力いっぱい握りしめて、殴りかかりたい衝動を必死でこらえた。思想の違いはあれど、尊敬すべき先人が薄汚い裏切り者にしか見えなかった。
「……ユリシーズ殿か」
「俺を会合から外したのは、セラフィナ姫拉致のためですか」
「ふ……相変わらず率直な若者だな。私の一派の軍を外したのは内部の裏切りを想定してのこと。貴君の率いる黒き有翼獅子の騎士団を外したのは、この場にいれば真っ先に潰されるからだ。それだけは避けたかった。解放軍で最も機動力に長け、セラフィナ姫に忠誠を誓っている貴君の騎士団なら救い出すこともできよう」
「へぇ。それじゃ俺達を助けるために外してくれたってわけだ。ありがたくて涙が出ますね。それで、内通者の甥殿はどこに行ったのですか?」
「帝都にセラフィナ様を連れて戻ったのかもしれない。驕っていた私は甥を逆に利用できると思ったのだが、逆に利用されたあげく家族を人質に取られ、同志を危険に巻き込んでしまった……申し開きのしようもない」
「確かに二重諜報としては役に立ちましたね。帝国領の手薄な場所を教えてくれたのは助かりました。裏取りが終わればすぐにでも進軍を開始するつもりでしたが。それで、人質はご無事なのですか、ブルクハルト殿」
「無益な殺生は好まないと言っていたから命はあるだろう。愛する者に剣がつきつけられ、目の前で首をはねられようとしていたら、どうすれば一番よかったのだろうな……。貴君らも同じ立場に立たされたら私の気持ちがわかるだろう」
「……嫌になるくらい知っていますよ。父が俺の目の前でそうなりましたから。西方大陸の未来を憂い、領民を守るためにひたすら戦い、最期は罪人のように首を落とされた。俺は一生忘れない。そして今度は姦計で愛する者が奪われた。兄弟同然の側役も瀕死の重傷を負わされた。俺の怒りが貴方にわかりますか」
「私が君を嵌めたようなものだな……。斬って気が済むのならそうしてもらって構わない。同志を裏切った罪は死んで償おう」
「そんな親切を、誰が? 貴方はこれから貴族として騎士として、死ぬまで恥を晒して生きていくんだ。俺に斬られて死ぬより辛いでしょうね。クレヴァ様にグリマルディ侯爵の処遇はお任せします。俺はセラを探しに行きます」
ユリシーズは組んでいた腕を解き、後も見ずに部屋を出た。足早に階段を上がるとエマとジューリオが待っていた。エマは額に厚く包帯を巻いた痛々しい姿をしていて、ユリシーズは眉を少し顰めた。
「あの、ユーリ様。さっきアキムさんの意識が戻りました。ユーリ様を呼んで欲しいと……」
「俺も一緒に行っていいか。捜索隊はもうあちこちに散らせたけど、せめて敵がどっちに行ったかだけでも知りたい。風体とか」
「ああ。エマ、案内を頼む」
エマの先導で離宮の中を進む。空き部屋には怪我人達が寝かされ、不寝番だった騎士達がその場で力尽きたように廊下で雑魚寝をしている。東側は襲撃で破壊されて使い物にならないから、西側に全員が集まっているのだろう。無傷の人が意外と多くてユリシーズは内心驚いた。キメラ部隊は帝国軍の主力で、彼らが出張ると徹底的に破壊しつくされるのが常だからだ。あっさり引いたのはセラを手に入れたからだろうか。
ユリシーズが案内されたのは離宮から少し離れた三階建ての館だった。セラ達が逗留中だったそこは何事もなかったかのように静かで、綺麗に整えられていた。側役達が運び込まれたのは、二階の部屋だった。ノックもせずに扉を開けると、裸の胸に分厚い包帯が巻かれたアキムが起き上がって待っていた。隣の寝台には首に包帯を巻かれ、額に氷嚢を乗せられたリオンが寝かされていた。まだ熱が下がらないのか、掛け布が静かに上下する以外、身じろぎもしなかった。
「ユーリ様……申し訳ありません……」
「アキム、無理して起きるな。寝てて構わないから。何があったか教えてくれ。セラは?」
「頭巾の男に攫われました。北方大陸で遭遇した『獅子顔の男』だと思います。瞳と獣の咆哮が獅子のそれでした。それから、ユーリ様に奴から伝言が。取り返しに来たければ来るがいい。父の後を追わせてやろう、と」
「ケダモノの顔に区別なんかつかないから助かるよ。四年前からずっと探して来たクソ野郎が自分から名乗りを上げてくれたんだ。丁重に礼をしてやらねばな。で、奴はどっちにいった?」
「私、見てました……! 西です。辺境のほう。キメラ達は東に退却していきましたけど、頭巾の二人組がセラ様を連れて西へ行きました……!」
右足を引きずりながら、ひょこひょこと歩いてきたハンナが顔を出した。頬には大きな膏薬が貼られていて、痛そうな青あざがはみ出していた。女の顔をここまでひどく痛めつける相手にセラが、と思うと怒りで我を忘れそうだ。
「ハンナ、それ本当か。何でもっと早く言わないんだ! 俺、捜索隊をほとんど帝国領側に回しちゃったぜ」
「も、申し訳ございません。眠る前に言うべきでした……」
「呼び戻せ。俺は西へ向かう。マルセル達が来たら俺の後を……」
立ち上がった瞬間、くらりと一瞬眩暈が起きた。遠征地を出発してからほとんど眠らず、時々水を飲むぐらいで突き進んできたツケだ。精神が昂ぶっていたおかげで感じなかった疲労が、限界に来たのだろう。
「ユリシーズ、気持ちはわかるけど一旦休め。お前、馬でずっと駆け通しだったろ。顔色が良くないぞ」
「そうですよ、ユーリ様。皆が追いつくまで休んでください。ここにセラ様がいたら、無理はいけないと、叱りつけられますよ……」
「……わかった。空いてる部屋を貸してくれ」
「こちらへどうぞ。セラ様が使っていた部屋、いつ戻られてもいいように整えてありますから」
「ありがとう。俺はいいからエマもちゃんと休めよ、怪我人なんだから」
「かしこまりました」
静かにエマが下がると、ユリシーズは団服のコートを脱いで長椅子にばさりと放った。部屋は綺麗に片づけられていたが、机の上にはセラの小さな帳面が置きっぱなしだった。パラパラと捲ると、中身はどうやらレッスン日記のようだ。マナーを失敗してマダム・アドリーヌにごはんを抜かれた。完璧にできたごほうびに美味しい焼き菓子をもらった。ダンスのおかげで、ちょっときつくなっていたドレスがゆるくなった。そんな取り留めのない日々のことが書かれている。
「何だよ、食い物日記か……あいつらしいや」
ユーリに会えなくなって三日目。寂しくてちょっと泣いた。ユーリは泣きごとも言わずに頑張ってるはず。私も頑張らなきゃ。
明日はいよいよ本番。ユーリと踊った時みたいにマダム・アドリーヌの度肝を抜いてやるわ。
でもちょっと怖い。ちゃんと私の話を聞いてもらえるかな。うまくできますように。
「……聞いてくれたよ。みんな必死になって探してくれてる」
ふっとセラの笑う顔が浮かび、無性に会いたくなった。今どこでどうしているのか。無事なのか。それを思うと心配で居ても立っても居られなかった。少し眠って、食事をして。戻って来た捜索隊を新たに編成し直して捜索の続きだ。帳面を丁寧に置きなおすと、騎士服の前を寛げて寝台に横になった。瞳を閉じると睡魔が猛烈な勢いで襲ってくる。ふわりと微かに桃花の香りがして、まるでセラに抱きしめられているような気がした。
セラは少し埃っぽいような匂いに咽て目が覚めた。あたりは薄闇に包まれている。今は何時で、ここはどこなんだろう。そっと瞳を開けて周りの様子を伺った。半開きになっていた扉の向こうから軽い足音が聞こえてきて、部屋の中に小さな人影が入って来た。その頭には猫のような耳が生えていて、お尻のところからひゅんと長い尻尾のようなものが生えていた。驚いてひそめていた息が一瞬だけ大きくなる。大きな耳がぴくっと動いて、真ん丸な目をした子どもがこちらを見た。
「気がついた! リュシー、お姫様、目があいたよ!」
あどけない声がして、その子はパタパタとどこかにかけて行った。セラはがばっと起き上がって、服を見た。特に乱された形跡はない。打たれた首も特に痛まない。大切な左手の指輪も、父の形見も気絶する前と何ら変わりなく身につけたままだ。ほーっと大きく息を吐いた。
「気が付いたか。手荒な真似をしてすまなかった」
声とともに姿を現したのは、離宮で会ったグリマルディ侯爵の甥と名乗った青年だった。よくよく声を聞けば、攫った侵入者と同じ声。どうしてあの時気が付かなかったのだろうとセラは悔しくなった。頭巾から見えた顔は獣そのものだったから、人ではないと頭から決めつけてしまっていた。
「リュシアン殿。あなたが、内通者だったのね。ユーリもクレヴァ様も、ずっとあなたを探していたのに……」
「彼らは切れ者だから、いずれ俺の正体はばれていただろうな。グリマルディ侯爵に言って彼を遠ざけてもらって正解だった」
「私を連れ去ってどうするつもり? 言っておきますけど、どんくさいし賢くないしものすごく性格が悪いのよ?」
「おまけに嘘がつけないみたいだしな。ジュストの娘を帝都まで連れて来いと命令を受けていたが、今すぐとは言われてない。あのまま離宮で戦っていたら、帝国兵達が押し寄せてくるから一緒に来てもらった。それに自分が狙われる理由を知りたいだろう? 自分が始祖皇帝の因子を持っていることは、もう知っているよな」
「お父さんがその因子をもっていたから、私にも受け継がれたかもって話でしょ。緑の瞳の女性を攫ってあなた方が何をしているのか知らないけど、人の命をなんだと思っているの?」
「……それについては言葉もない。話を戻すが、始祖皇帝の因子は別の情報を持つ命の種を強化させる作用がある。力の発現は定まらないが、因子を持つ者は次代へとその特性を受け継いでいく。宰相達の狙いはその因子持ちの女だ。彼女達の胎に亜生物や太古に存在した『獣人』の情報を組み込んだ命の種を植え付けて、人為的に『獣人』を作り出す。因子を持たない女の胎だと、だいたいが母体ごと死ぬ。だが因子持ちだと胎で生育して産み落とすことができる。だから確実に始祖皇帝の因子を持つであろう君が狙われているってわけだ」
「そ、そんなことのために何人もの女性を攫って殺したの?! 母なる精霊の輪から外れた行いが許されると思っているの?」
「思っていない。それにキメラは生まれて来ても大体が成長しきる前に死ぬんだ。さっきいたチビもそんなに長く生きられない。戦うためにだけ作られて、大人になることもなく死んでいく。こんな哀れな連鎖は俺が終わらせてやりたい」
「それじゃあなたは数少ない成功例ということなのね。本当にグリマルディ侯爵の甥なの?」
「俺の母はグリマルディ侯爵の異母妹だったから、嘘は言っていない。俺の母は因子持ちで、母の血に目をつけていた宰相に、先代が自分の保身のために売ったんだ。聞くに堪えない実験で母は死に、俺は『獅子の獣人』のキメラとして生まれた」
「……それで。私を連れて来たのは。まさかキメラを産めとか言うんじゃ……」
「そのまさかだ。俺と掛け合わせてみたいらしいが、俺にそのつもりはないから安心してくれ。強化についてわかりやすく言えば、君の子どもが父親の特性を倍化させた状態で生まれてくる。戦いのセンス、反射速度、素早さ。剣の才能がユリシーズ以上の存在になるってことだ」
「何それ……ユーリと私の子は、普通の子じゃなくなるってこと?」
「始祖皇帝に限らず西方大陸には特殊能力者が生まれることがあるから、あまり悲観することはない。北方大陸の精霊使いも似たようなものだろう? 親に精霊魔術を使う力がなくても子が精霊使いなんて、よくある話だ」
「言われてみれば、確かに精霊使いも同じだわ。代々精霊使いの家系もあるにはあるけど……。それより! 私に指一本でも触れたら舌を噛むからね!」
「さっきも言ったが、誓って何もしない。それに舌を噛んでも痛いだけで絶対死にきれないぞ。不自由はあるかも知れないがここで大人しくしていてほしい。君には解放軍に伝言を頼みたいのもあって来てもらったんだ。だから必ず、無事にユリシーズの所に帰す。それだけは信じてほしい」
「伝言って? 内容によっては伝えないかも知れないわよ」
「構わない。軍主殿にこの見取り図を渡してほしい。皇帝には開城の意志があるから、必ず中に入れる。それと宰相と錬金術師が西方大陸全土を混乱に陥れた元凶だ。彼らを倒せば腐りきった帝国も瓦解する。伯父上の軍が外れるから、黒き有翼獅子の騎士団が帝都に攻め込む切込み隊長になるはずだ。帝都には元中央軍が待ち構えているから、正面から行ってはダメだ。前に俺が伝えたことを覚えているとは思うが……」
セラが寝かされている寝台から離れた床に、リュシアンはスッと折り畳まれた紙を置いて、一歩後ろに下がった。セラに何もしないと言ったのは嘘ではないらしい。離宮で初めて会った時と同じように、優しげな眼差しをしているから「信じてみてもいいかもしれない」と一瞬だけ思ったが、勢いよく頭を振ってそれを追い払った。リオンとアキム、ハンナに大怪我をさせて平然としていられる人物だ。見た目で誤魔化されてはいけない。
「私を連れ去ったあなたの言うことを、ユーリが素直に信じると思う? あなたは嘘を言っていない気はするけど……私も信じられない」
「そうだろうな。だけど俺達は君達が信じてくれることを信じる。用は済んだから明日にも離宮の近くまで送る。これから俺は出かけるが、砦の中は好きに歩き回っていい。外は亜生物がウヨウヨしているから絶対出るなよ。それと、うろついてる小さいのは無害だから安心してくれ。どいつもあと二、三年の命と思えば腹も立たないだろう」
再び部屋の入り口に先ほどの子がぴょこっと顔を出した。大きな三角形の耳と、薄い水色の瞳の中にある縦長の瞳孔と、長い尻尾がなければ十歳ぐらいの女の子にしか見えない。つぎの当たった服を着ていても、人目をひく見れる顔をしていた。
「リュシー、リュシー、お姫様おなかすいてない!? もう夜ご飯だよ!」
「空いてるだろうな。気絶していた時、腹が鳴っていた」
「サイテー!!!」
「お姫様、こっちきて! ルー、ごはんつくったの!」
彼女は床に落ちていた紙に気が付くと、拾って「はい、おとしもの!」とセラに手渡してくれた。何も知らない子に「いらない」とつき返せなくて、そのまま礼を言って受け取った。黙ってドレスの隠しにそれをしまうと、部屋の入り口にいたリュシアンがどこか安堵したような顔を浮かべて無言のまま立ち去って行った。
「あなたは、ルーというの?」
「るーてしあ! リュシーがつけてくれた!」
「いい名前ね。私はセラというの」
「せら!」
にこぉ、と無邪気に笑う顔はかわいらしい。無害だとリュシアンは言っていたが、口元からのぞく鋭く尖った牙は刺さったらものすごく痛そうだ。彼らを怒らせないようにするのが身のためかもしれない。ふわふわと当たる彼女の腕は白地に薄灰色の斑紋がいくつもある大猫のようだ。まるで極上の毛皮を撫でている気がする。彼女に手を引かれて食堂らしき少し広めの部屋に連れてこられた。部屋の中にはやはり獣の身体の一部を持った年端もいかない子ども達と、こちらを用心深く見張る青年が一人いた。離宮で見た軍服を着ているところを見ると、彼も内通者かもしれない。リュシアンと同じで、見た目は人とまったく変わりなかった。案内されたテーブルにつくと、日持ちする黒パンに野菜と豚の焼いた燻製肉を挟んだ料理と、何やら真っ黒なお茶らしきものを供された。
「美味しそうね。お野菜と燻製肉を挟んだの? とても上手よ」
「えへへ!」
「おれがお茶をいれてやった。感謝しろよ、捕虜」
「あーらどうも。嬉しいわ。ちょうど喉が渇いていたの。って、苦っ! どうやったらこんな渋いものが」
「ルー、リノのお茶きらい。にがいしくさい」
「ちゃんと淹れれば美味しいわよ。リノって言ったわね。台所はどこ?」
「捕虜のくせに生意気だぞ」
ムッと口を尖らせた少年は十二歳ぐらいで、狼のようにふさふさとした尻尾をはやしていた。
「おだまりなさい、このチビすけ。生意気なのはあなたでしょ。お茶が欲しい子は手を挙げて」
「ホントにおいしいの?」
「お茶はお薬じゃないの?」
「のむー」
部屋の中にいた六人ほどの子どもが「はーい」と素直に手をあげた。皆身体のどこかしらに動物の要素があったが、中身はいたって普通の子どもたちだ。竈の前に立つセラのまわりをちょろちょろと歩き回り、何をしているのか興味津々といった体で眺めている。
「ミルクがあるといいんだけど……ぜいたく品だものね」
「ある。リノ、氷室から取ってこい」
ずっと黙って見ていた青年が低い声でそう言うと、リノが音もなくセラの傍から離れていった。チラリとそちらを見やると、グリマルディ侯爵軍の薄い灰色の騎士服の青年が肩を竦めて笑った。怖そうな外見と裏腹に、意外と愛嬌のある様子が年相応に見えた。すぐにリノが小さな甕に入ったミルクを手に戻って来たので、セラは用意してもらった人数分のコップに鍋で温めなおしたお茶を六分目までついで、少しずつミルクを足していった。兎のような耳の子が「甘くして」とお砂糖を持ってきたので、全員のカップに一杯ずつ入れてあげた。
「苦くてイヤなときは、ちょっとだけミルクとお砂糖を入れると美味しくなるのよ」
「悔しいけど美味い。これはおれへの挑戦とみた。生意気だ、捕虜のくせに」
「見たところ、あなたが一番お兄さんみたいだから、淹れ方を教えて差し上げるわ。捕虜の私が」
キリッと吊り上がった狼のような瞳とセラは真っ向からにらみ合った。生意気な子どもとやりあうのは、奉公先でも騎士団でもしょっちゅうやっていた。彼らとやりあうときは、勝ったつもりで大きく出るのがコツだ。先に根をあげたリノはあきれたように、わざとらしいため息をついた。
「バジル、リュシーはなんでこんな奴つれてきたの? 自分の立場まったくわかってないみたいだけど」
「彼女は捕虜じゃなくて客人だ。お姫様なんだから失礼なことするなよ。扇でぶたれるぞ」
甘くて美味しいミルクティーにキャッキャと喜ぶ子ども達の姿に、バジルと呼ばれた青年は少しだけ笑って「お姫様、腹を満たしたら部屋に戻れよ」と言い残しお茶のコップを手に出て行った。ミルクを提供してくれた礼に彼の分も淹れてみたのだが、飲んでもらえるとは思っていなかった。絆されてはいけないとわかっていても、彼らの不遇な身の上を知ってしまった今、憐憫の情がわいてくる。これ以上情が移る前に帰りたい。帰してほしい。ぎゅっと左手を握りしめながら、セラはひたすらユリシーズのことだけを想った。




