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乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
西方大陸編
34/111

9. 黒獅子公

 鳥の鳴く声がして、セラは目が覚めた。少しだけ開いているカーテンの間から、朝の光が零れている。寝台のなかで大きく伸びをしてから「よいしょ」と起き上がった。顔を洗ってから、大事な旅行鞄を持ってきていないことに気付いた。絹の滑々とした寝間着は着心地がよかったが、この格好のまま廊下に出るわけにもいかず、ましてや隣の部屋のユリシーズを呼ぶわけにもいかず、寝台に座ったまま途方に暮れた。


「朝八時にマリーさんが来てくれるって言ってたけど……着替え、どうしよう」


 昨夜まで着ていた服は、一日馬車で座りっぱなしだったので皺が寄っていた。しわしわの服でユリシーズの祖父母に会うわけにはいかない。ぼんやりしていると、部屋に置かれた飾り時計が軽やかな音とともに時を告げた。コロンコロンと可愛らしい鈴の音が八回鳴り終わると、セラの部屋の扉が軽く叩かれた。「どうぞ」と応えると、マリーとエマが朗らかな笑みを浮かべて入ってきた。二人とも同じ黒いお仕着せと白い前掛けを身に着けていて、何となくセラは羨ましくなった。お仕着せが着たいと言ったら、ユリシーズが「ふざけてるのか?」と真顔で言いそうなので、それは自分の胸に収めておくことにした。


「おはようございます、セラ様。ゆっくりお休みになれましたか?」


「はい。あれからすぐに寝てしまいました」


「ふふ、お疲れだったのですね。今日の御髪はどのようにいたしますか?」


「えっと、お任せします」


「はい、お任せください! それでは、横の髪をゆるく編み込んで、髪留めのようにいたしましょうね」


「エマは髪結いが得意なのですよ。終わりましたら、こちらのドレスをお召になってくださいませね」


 マリーが衣装掛けに吊るしているドレスは、ふんわりと透ける淡萌黄のシフォンでハイ・ウェストの切り替えになっていた。七分袖と踝の隠れる丈は、初夏にぴったりの装いだ。


「可愛い!」


「お気に召していただけました? セラ様の瞳が翡翠色だから、きっとよくお似合いになると思いますよ」


 柔らかな獣毛の櫛で丁寧に梳りながらエマがにっこりとほほ笑んだ。手の平に柔らかな花の香りのする香油を軽く擦り込んでから、横側の髪を掬い手早く編み込み、編んだ髪をカチューシャのようにしてから、根元を隠しピンで留めた。


「緩く良いクセがあるから、綺麗にまとまりますね。とっても素直な髪」


「ありがとう」


 鏡越しに笑いあって、セラは立ち上がった。しっかりした綿地のステイズを身に着けると、淡萌黄のシフォンドレスを纏った。するりと肌を滑っていく生地は、王侯貴族が愛用するような上等なものだとすぐにわかった。


「ちょうど良さそうでございますね。大体のお背と身幅はお伺いしていたので、急ぎ仕立てたものでしたけど。ようございました」


 マリーが背後に立って、背中側のリボンをきゅっと結ぶ。促されて、セラはその場でくるりと回る。裾がふうわりと広がってから、身体に沿うように落ちていく。丈も裄もぴったりで、セラは可愛いドレスに心が浮き立った。やはり、いつ何時でも可愛い服を纏うと気分が上がる。


「セラ様のために、仕立て屋がこぞって売り込みに来ていたんですよ。競わせてお気に入りを見つけてみてくださいね。私達も喜んでお手伝いいたしますわ」


 絹の寝間着をくるくるっとまとめると、エマはにんまりと笑みを浮かべた。初めての女主人は、友達のように気安い雰囲気で好ましく、また飾りがいのある魅力を兼ね備えていた。ぱっちりとした翡翠の瞳と、ほんのりと桃色が差したすべすべの白い肌。艶やかな薄紅色の唇はまるでビスク・ドールのようだ。


「何だか気後れしちゃうわ。仕立て屋さんと交渉する側にはなったけど、仕立ててもらう側は生まれて初めてなんだもの」


「あらまぁ、それは早く慣れていただきませんとね。そういえば、女官見習いをされていらっしゃったんでしたね。ちなみに、女性の官吏は西方にはほとんどおりませんのよ」


「西方は徹底した男社会ですもの。でも、これからは変わっていくと思いますわ。クレヴァ様も女性をどんどん起用されていらっしゃるし」


「唯一の教え子のユーリ様も同様ですもの。きっとセラ様のお力が必要になりますよ」


「私、ユーリの力になれるように頑張るわ」


「まずは、仕立て屋で服を最低十着は作っていただくことからですね。私達、侍女一同が手ぐすね引いておりますから」


 おどけたように笑うエマに、セラもマリーも声を立てて笑った。二人に連れられて部屋を出ると、隣の部屋はすでに掃除の手が入っていた。


「ユーリは?」


「他の騎士達と朝の鍛錬かと。すぐに食堂にいらっしゃると思いますよ」


「何か苦手な食べ物はございますか?」


「ううん、好き嫌いはないの。でも苦いお野菜がちょっと苦手」


「かしこまりました。料理長に伝えておきますね。チョコレートがお好きと聞いていたので、今日のお茶はチョコレートのお菓子にいたしますね」


「嬉しい。お茶の時間がとっても楽しみだわ」


 取り留めもない話をしながら廊下を歩くと、領館の裏側にあるサンルームへと到着した。ハンナと、初めて見るすらりと背の高い侍女が朝食の準備を始めていて、セラは手伝いたくてうずうずしてきた。傅かれることに慣れていないうえに、侍女の仕事から離れてずいぶん経つのもあって、身体が勝手に反応しそうになる。年配の侍従に椅子を引かれてテーブルにつくと、濃い目に淹れられた紅茶が供された。たっぷりとミルクを注いで一口含むと、爽やかな柑橘類で香りがつけられていて、ミルクの甘い風味と鼻にふわりと抜ける香りがたまらなかった。


「美味しい……」


 セラの呟きを聞き留めた侍従が、目を細めてお辞儀をする。ディルクと名乗った侍従は、ユリシーズが幼い頃からついている「じいや」で、元々はユリシーズの祖父の側近だった。


「セラ様のお気に召したようで、拙めは嬉しゅうございます」


「悪い、遅れた」


 少し濡れた髪のユリシーズが、長剣を片手にせわしくやってきて、セラの右隣に掛けた。慣れたしぐさでディルクがお茶を差し出す。


「おはよう、ユーリ。鍛錬は終わったの?」


「おはよ。さくっとな。さすがに皆疲れてて精彩がなかったよ。じい、今日の朝飯なに?」


「お時間に遅れるなど、言語道断ですぞ。献立はセラ様のお好みに合わせて、チーズのオムレツと白芋のサラダです」


「朝からか。おいセラ、朝はやめてくれよ。どうせ夜も芋を食べるんだろ?」


「な、何よ。腹もちがいいんだからいいじゃない」


「そうでございますよ。それに芋類は身体のなかですぐ力に変わりますからね」


「朝っぱらから肉を食らう人に、芋をどうこう言う権利はございません」


 うんうんと頷くディルクと、胸を張り堂々と言い張るハンナに、ユリシーズは思わずふき出した。


「なんだよ、もうセラの味方かよ。かなわねーな」


 クスクスと笑う声に振り返ると、すらりと背の高い、茶色の髪をお団子にまとめた侍女が、セラの前に温かな湯気を立てる皿を置いた。礼を言って見上げると、にこりと微笑んだ。その顔は驚くほどアルノーに似ていた。


「あら。遥々北方大陸からお越しになった花嫁さんに、私どもがお味方するのは当然でしょう、ユーリ様」


「それを言われると何も言えないな。いつ着いたんだ? アルノーの話じゃ、今日の昼って聞いてたけど」


「夫の仕事が思ったより早く済みましたので、先ほど着きました。やっぱりお仕着せは身が引き締まりますわ。申し遅れました、セラ様。私はティアナ。侍女長マリーの娘で、アルノーの姉です。しばらく、おそばに仕えさせていただきます。よろしくお願いいたしますね」


 優雅に腰を折り優しく笑う貴婦人に、セラもしゃんと背筋を伸ばしてお辞儀をした。


「初めまして、ティアナ。よろしくお願いします!」


「怒らすと本気でおっかないからな。ちゃんと良い子でいろよ」


 ユリシーズがひそひそとセラに耳打ちをすると、ティアナは給仕をしながらサラッと応じた。


「怒らせるようなことをするからでございましょう」


「そうよ、怒らせることするのが悪いのよ。悪戯ばっかりしてたんでしょ」


「本当にユーリ様達ときたら、手の付けられない悪戯小僧でしたのよ。ズボンのポケットに蛇を入れたままお戻りになったり」


「ポケットに?! いくら生き物が好きだからって、蛇はポケットに入れるものではないと思うの」


「き、綺麗な色だったんだよ! 珍しい種類だったから、父上に見せてやろうと思って」


 明らかに引いた顔をしたセラに、ユリシーズは慌てて言いつのった。八歳の頃のことをいまだに言われるのも心外だが、セラに「サイテー」と思われるのだけは嫌だった。


「あの時は洗濯場が阿鼻叫喚でしたわ。私も母も、侍女達みんな恐慌状態で」


「目に浮かぶわ」


 大真面目にうけおうセラに、侍女達は楽しそうな笑い声をあげた。サンルームの隣にある食堂から出てきたマリーが全員を見まわし、仕方なさそうな顔を浮かべた。


「まぁま、お食事が冷めてしまいますよ。ほら、あなたがたはやることが残っているでしょう」


 侍女達が賑やかに給仕する間、セラは両手を組んで母なる精霊への祈りを捧げた。今日の糧をありがとうございます、今日も良い日になりますように、と。




 今日一日仕事を休むと宣言したユリシーズと、のんびり食後のお茶を飲んでいると、リオンがやってきた。


「あー、いたいた。お館様が、まだかまだか早く来ないのか、ってさっきから同じこと何べんも言ってるんだけど」


「俺の祖父をボケ老人みたいに言うな。それじゃ、そろそろ行くか。たまにはじいちゃん孝行しないとな」


「うん。な、何だかドキドキしてきた」


「あはは。大丈夫だよ。雷爺さんなのはユーリ様にだけだから」


「ちょっとリオン、あなた本当に不敬にもほどがあるわよ。ユーリ様はともかく、お館様にはちゃんとしなさいよ」


「おー久しぶり、ティアナ。相変わらず細かいねぇ。旦那は元気?」


「相変わらず口が減らないのね。とっても元気よ。騎士服、ちゃんと着なさいよ。だらしのない」


「へいへい」


 少しだけ釦を止め直しながら、リオンは二人の先に立って歩き出した。その背に向かって、ティアナの厳しい声が飛ぶ。


「返事はハイでしょ」


「ハイ!」


 そのやりとりに、セラは思わず笑いだした。この館の人達は陽気で優しい。その雰囲気のおかげで、セラはどんどん溶け込めている。ユリシーズがいろいろ気を利かせてくれていることもあるだろうが、それを差し引いたとしても、皆感じの良い人ばかりだ。うまく打ち解けられなかったらどうしよう、という不安は綺麗さっぱりなくなった。領館を出ると、門衛の騎士二人から気合の入った敬礼を返された。領館のまわりにいる騎士達に敬礼をされるたび、どうにもセラは落ち着かなかった。傅かれたり、好奇心に満ち溢れた視線にさらされることに慣れていないので、笑顔で軽く会釈するしかなかった。


 少し歩くと、明るく陽が差し込む森のそばに、赤い煉瓦造りの館が見えてきた。色とりどりの花壇に囲まれ、こじんまりとした感じがかわいらしい。思わず「かわいい……!」という感嘆がもれる。


「あれ、ばあちゃんの趣味。言ったろ、セラと話が合うかもって」


「奥方様は大昔、女王陛下付の侍女だったんだよ。仕事に生きると言い張る奥方様に、お館様が熱烈にアピールして嫁になってもらったんだって」


「素敵。馴れ初めをぜひお聞きしたいわ」


「元隠密だか何だか知らねーけど、昔からこういう裏話に事欠かないんだ。俺達は気を付けようぜ」


「へ? もう手遅れだけど?」


「何ですって! 皆に何て言いふらしたのよ」


「内緒。吟遊詩人に金貨握らせておいたから、いい感じに広まると思うよ」


「広まるって何だよ、何がだよ」


「そりゃあもう、いい感じによ。あ、俺、午後から非番だから。緊急事態が起きたら戻ってくるね」


 へらりと笑って走り去る小柄な背に、ユリシーズが「いらんことすんな! くたばれ!」と叫んだ。セラは内心、気になって仕方なかった。どこまで広まるのだろう。北方大陸にまで聞こえたら、きっとマイラが大騒ぎだ。物語みたいなセラの恋が、本当に物語になった、と。


「またアキムが怒るぞ。あいつ、いっくら怒られても顔面を柘榴のようにされかけても、全然懲りないんだ」


「侍女の皆から、どんな話を聞いたのか、後で聞いてみる……」


 はぁ、と大きくため息をつきながら、ユリシーズが館の玄関をくぐる。セラも後に続いて中に入ると、エントランスにも季節の花々が飾ってあった。小ぶりな白い薔薇の可愛らしさと、優しい香りに思わず笑顔が浮かぶ。ユリシーズの祖母君は、どうやらお花がとてもお好きらしい。スタスタと奥へと歩いていくユリシーズに着いていくと、一番奥の扉の前で足を止めた。軽く扉を叩くと、重々しく力強い声が「入れ」と応えた。ユリシーズに続いて部屋に入ると、老婦人の「まぁぁ!」という小さな叫びが聞こえた。広い背から顔を少しのぞかせると、おっとりとした銀髪の老婦人が満面の笑みを浮かべて、正面に座る老人を支えて立ち上がるところだった。


「ただいま。腰は大丈夫なのか?」


「もうだいぶ良い。それよりも、セラフィナ様を紹介せんか」


「それよりもかよ。セラ、俺の祖父母」


「初めまして、セラフィナ・エイルです。私のことはセラとお呼びくださいませ。お二人のお話はユリシーズ様からお聞きして、お会いしたいと思っておりました。お腰を悪くされたと伺いましたわ。どうかお座りになってくださいませ」


 よっこいせ、と立ち上がろうとしていた祖父を支えていたユリシーズが、再び祖父を無理やり座らせた。


「本当に、よくお越しくださった。不省の孫が見初めた方に、私達もずっと会いたいと思っていましたぞ。私はこやつの祖父、テオドールだ」


「私は祖母のエステルです。本当のおばあさんと思って頂けると嬉しゅうございますわ。好きな娘さんができたと聞いて、おまけに騎士の誓いをしたと聞いて。私も一日千秋の思いでお待ちしておりましたのよ。本当に可愛らしい娘さんで、ユーリにはもったいないこと」


 ユリシーズに促されて、セラもふかふかしたソファに掛けた。ユリシーズの祖父は琥珀色の瞳が猛禽類のように鋭い眼差しを思わせた。その隣に座る祖母はふんわりと綿菓子のような優しい雰囲気を纏っていた。正反対なのに、長年連れ添ったおしどり夫婦然とした二人は理想の夫婦像に見えた。


「本当にもったいないことだ。目元はジュスト様そっくりだが、お顔だちは母上によく似ておられるな。母上のフェリシア殿は息災か?」


「はい。十二の頃に別れたきりですが、折にふれ手紙をもらっておりました。南方大陸は少々暑いようですが、元気に過ごしているようです」


「そうか……。やはり、あの事件で母子が別れることになったのだな」


「ご存じなのですか?」


「あれは後手に回ってな。よもやウィグリドがガルデニアの反王政派とそこまでずぶずぶになっているとは、わしもセドリックも思いもよらず。あの襲撃で、てっきり、お子は亡くなられたものだと……。姫にもフェリシア殿にも、本当に申し訳ないことをした」


 セラはぎゅっと膝に乗せた手を握りしめた。一生懸命に探してくれていた人達を責める気など、まったくない。おそらく表向き「ジュスト皇子の遺児は死んだ」ことにしたのは、ウィスタリアと当時の精霊騎士団上層部だろう。


「おじい様がお気に病まれることはありません。私をずっと探してくださっていたとお聞きしました。気にかけてくださったこと、本当に感謝しております」


「……」


 じーんと何かを噛みしめている祖父に、ユリシーズは怪訝そうな顔になった。確かにずっと探していたのは父だし、祖父も自身の伝手を使ってセラの行方を追ってくれていた。結局セラを見つけたのはユリシーズで、それを報告した時は「そうか」とあっさりしたものだった。今頃になって喜びを噛みしめているのだろうか。


「どうしたんだよ、じいちゃん」


「おじい様か。いい響きだ……女孫って素晴らしいな。ユーリの嫁ならわしらの孫だ。もう、うちの子だ」


「あなただけずるいわ。セラや、私のことも、おばあ様と呼んで頂戴。さあさあさあ!」


 身を乗り出さんばかりにしているユリシーズの祖父母に、セラは頬を染めて照れ臭そうに微笑んだ。


「ありがとうございます、おばあ様」


 そう呼ぶと水色の瞳を嬉しそうに細めて、隣に座る夫をバシバシと殴った。初めて会うのに、こんなに喜んでくれると思ってもみなかった。セラの両親を知る二人に、セラの存在がどう思われているのか心配だったが、それらはすべて杞憂に終わったようだ。


「な、言ったろ。実の孫より会うのを楽しみにしてるって」


「ちょっと照れちゃうけど、とっても嬉しい。私には、おじい様もおばあ様もいなかったから」


「祖父母の存在を喜んでくれる孫ほどかわいいものはないわね。お前と来たら、遠征遠征でこの館に寄り付きもしないで」


「仕方なかろう。わしの後を継いで本格的に領主として頑張っておるし、クレヴァの奴にもこき使われているしな」


「さすがじいちゃん。わかってる」


「黙れ。エステルの愚痴を聞かされるわしの身にもなれ。忙しいのはわかるが、たまには顔を出せ」


「わかったよ。セラもいるし、毎日だって来るよ」


「そうしろ。ところでセラ。このバカ孫から、きちんともらうものはもらったか?」


「もらうもの?」


 何かもらうものなどあっただろうか。セラには全く心当たりがない。隣に座るユリシーズは心当たりがあったのか、少し目を泳がせた。


「あ……」


「やっぱり。”騎士の誓い”だけして安心していたのね。指輪がまだなんでしょう」


「はい」


「ユーリ、自分の館で指輪を探して来い。セドリックの部屋にあるだろう」


「わかった。セラ。言っとくけど、忘れてたわけじゃないからな」


 セラの手を取ると、ユリシーズは立ち上がった。それを見咎めたように祖父が厳しい眼差しを向けた。


「待たんか。いや、待たんでいい。セラだけ置いていけ。お前はいなくてもまったく困らん」


「ひどい。二人は俺がかわいくないのかよ」


「お前もかわいいけど、それ以上にセラがかわいいのよ」


 きっぱり言いきった祖母に、隣に座る祖父も然りとばかりに深く頷く。最近、忙しさにかまけて祖父母を蔑ろにしていたので、二人は静かに怒っている。セラを気に入ってくれたのは大変喜ばしいが、ユリシーズ自身はしばらくぞんざいに扱われること間違いなしだ。がくりと肩を落とした。


「あんまりだ」


「私も手伝う。二人で探した方が早いでしょ。今日一日ゆっくり休むって、さっき言ってたんだから休まなくっちゃ。おじい様、おばあ様。昼食に間に合うように戻りますので、お許しくださいませ」


 しおしおと凹む姿はいつもの不敵な笑みをうかべた姿とかけ離れていて、正直なところセラは笑いたくて仕方なかった。肉親の前では、年相応のいたって普通の青年にしか見えない。図体ばかり大きな悪戯小僧というのが一番近い。だけど、いつも以上に身近な気がした。本人に告げたらさらに凹むかもしれないので、それはセラの心に留めておくことにした。


「セラや、お菓子はいいの? いま、マリーがお茶の準備をしていると思うんだけど」


「あと二刻もすりゃ昼だろ。今食ったら昼が入らないよ。セラ、未練がましそうな顔をするんじゃない。たった今、俺を手伝うって言ったくせに」


 ぐいぐいと力強い腕に引きずられるように、セラは森の館を後にした。ちょろちょろと流れる小さな川沿いを歩きながら、森の館から見えた濃紺の屋根の館へと向かう。チチチ、と小鳥の鳴く声がして、なんとものどかな風景が広がっていた。小さな石の橋を渡ろうとしたとき、何とはなしに小川の底を透かして見た。


「あ、この小川、底が石畳みたいになってる」


「人工の川だよ。この近くにある湧水の泉から引いてる。行先は厩舎と、ばあちゃんの園芸用の井戸だ」


「すごいのねぇ。私思ったんだけど、トラウゼンって治水に優れてるの? 昨日のお風呂といい、この小川といい。水を使う技術がずば抜けているのね」


「水害が多かったから、治水には昔から力を入れてるんだ。風呂は父上の道楽。母上が風呂好きだからって、自分の館はおろか領館の風呂まで改造したんだ。どうかしてるよ」


「どうかしてないわよ。身も心も温まる素敵なお話じゃない。それじゃユーリの館でも、蛇口を捻ると源泉が出てくるのね」


「出るよ。夜遅くに帰ってきた時とか重宝してる。いちいち誰かを呼びつけるのも悪いしな」


 手をつなぎながら、そんな取り留めのない話をしながら歩く。この穏やかな時間は何物にも代えがたい気がした。並んで歩きながらちらりと見上げると、楽しそうな蒼い瞳と目が合った。似た者同士だから、たぶん同じことを考えているに違いない。セラは笑顔で大きな手をきゅっと握り返した。


「ユーリのおうち訪問、とっても楽しいわ」


「そりゃ良かった。もうセラの家でもあるんだから、困ってることがあればすぐ言えよ」


「うん。このお洋服、どうもありがとう。とっても気に入っちゃった」


「よく似合ってるよ。ばあちゃんとマリーが大はしゃぎで準備してたからな。セラの部屋にまだまだあるぞ」


「私の部屋?」


「うん。俺の館にもう用意してある。いらないのか?」


「いる! あの、ありがとう。私ね、ユーリが居場所を作ってくれてすごく嬉しいの。まだ、夢なんじゃないかって思うぐらい」


「夢じゃないし、セラの居場所は俺の横だろ。俺の一族が総出でセラを囲い込もうとしてる、という事実は受け入れがたいかもしれんが、現実だ。ジリ貧領主のところに嫁に来た、奇特な娘さんを逃がしたくないからな」


「ふふっ、私って奇特なんだ」


「何だよ、知らなかったのか?」


 二人して笑いながら歩くうちに、小高い丘の上に立つ館へと着いた。森の館と同じ形だったが、屋根の色が濃紺で白い漆喰の壁をしていた。その館のエントランス前で、ユリシーズが身を屈めてセラを横抱きにした。急に視界が高くなって、慌てて首っ玉にしがみつく。


「な、何?!」


「花嫁さんが新居に初めて入る時、すっ転ぶと縁起が悪い」


「すっころぶ……」


「セラの場合、きゃーうれしー、ってはしゃぎながら玄関でドッターンって転びそうだよな」


「その全然似てない私の真似、やめてくださらない?」


「ハハハ」


 玄関を通り過ぎ、二階へ続く階段の前でそっと下ろされた。吹き抜けの天井窓からは、眩しいくらいの光が零れている。南向きの窓からも燦々と陽の光が差し込む、明るい雰囲気の館だった。セラはこの館に大好きな人と住むのだ。やがて家族が増えて、ユリシーズの祖父母のように仲良く年をとって。長い長い時間を、共にここで過ごすのだ。そう思うと感慨深いものがあった。


「素敵なおうちねぇ……」


「俺も気に入ってる。父上が使ってた部屋はこっちだ」


 スタスタと一階の奥部屋に歩いていく背中についていく。きちんと掃除されていて、どこもかしこも綺麗だった。主が不在でも、きっと使用人達の手によって、いつ戻ってきてもいいように整えられているのだろう。


「指輪って、ユーリのご両親のものなの?」


「いや。歴代当主が代々受け継いでるものだ。セラがくれたこれみたいに、結婚式のその日まで持ち主を守ってくれるんだと」


 開いた襟元からしゃらりと音を立てて、翡翠色の小さな貴石のネックレスがのぞいた。セラの瞳にそっくりなその色が、明るい日差しに煌めいた。


「あ、私の守り石。つけてくれてるのね」


「当たり前だろ。ちゃんとご利益あったよ。俺、今回の遠征でかすり傷ひとつ負わなかったから」


「よかった!」


 心底嬉しそうに笑うセラに、ユリシーズも自然と頬が緩む。ポケットから小さな鍵束を取り出すと、そっと鍵穴に差し込んだ。音もなく開いた扉の中は、四年前から変わらない。調度類には白い布がかけられ、領館から引き揚げた父の私物がそこかしこに置かれている。元は両親の部屋だったが、母が亡くなってからは父が一人で使っていた。その父が亡くなってからは、父の気配が消えてしまうのがイヤで、たまに換気する以外は片づけることすら許さなかった。


「……そろそろ、この部屋も片づけないとな。あ、そうだ。確かこの辺に」


 部屋の中央に置かれている大きな筆机のそばに屈みこみ、引き出しの中をガサゴソと探る。すぐそばにセラも屈んで、どうしたものかと手持無沙汰に様子を見守った。


「あった。これ、セラにあげるよ」


「! これ……!」


「うん。”写真”は、三枚あったんだ。これはセラが持ってたほうがいいと思うから」


 黒い革の手帳。クレヴァの手帳とまったく同じ意匠のそれの中には、セラの生き方を変えたきっかけが入っていた。


「でも、これ、ユーリのお父様の大事なものでしょ? 私がもらってしまっていいの?」


「いいんだ。父上はセラに渡すつもりだったみたいだから。日記に、そう書いてあった」


「ありがとう……ユーリ」


 胸に押し抱いてから、そっと手帳を開いた。写真の中の父達は何を思い、解放軍を組織して帝国と真っ向対決することになったのか。そこに、この戦いを終わらせるための手がかりがある。そんな気がした。


「三人とも、とっても仲が良かったのね。」


「立場も性格も全然違うのに、不思議と馬が合ったんだってさ。父上とクレヴァ様は皇子として連れてこられたジュスト様の側近に選ばれたんだけど、あっという間に親友になったって言ってた。皇子っていうからどんなヘタレかと思ったら、下町育ちでやたらケンカは強いし、士官学校に無理やりぶち込まれても腕一本でのし上がっていくし、見てて面白かったらしい。昔の日記に「すげーのが来た」って書いてあった」


「お父さん、すごかったんだ。ユーリのお父様の日記、すごく面白い随筆みたいね」


「途中からセラには辛いことが書いてあるけどな。ジュスト様がどんな亡くなり方をしたか詳細に書いてある。それでも読めるか?」


「読みたい。私は知らないといけないと思う。西方諸侯として、ユーリはこの戦争のこと、どう考えてるの? もともとは腐敗した帝政に反旗を翻したのが始まりなんでしょう?」


「俺の見解は『四英雄戦争の再現』だな。傾いた帝国を隠れ蓑に、別勢力が裏で何かしてるのは確かだ」


「私、四英雄戦争って、おとぎ話だと思ってた。悪い王様を、四人の英雄がやっつけました。彼らのおかげで世界は守られたのです、めでたしめでたしって」


「守られたって言えるか? そこらじゅうの島が沈みまくって、元は一つだった大陸が四つに分断されて、人の力じゃ越えられない『果てない壁』が北方大陸の辺境にできただろ」


「うーん。そうなんだけど。『果てない壁』ができた理由は、四英雄戦争のせいじゃなかった気がするのよね。どこで読んだんだっけ、あの話」


「違うのか? 俺はそう習ったけど」


「四英雄戦争の前からあったって、どこかで読んだわ。先生の私邸にあった蔵書かしら。赤い背表紙だったし、発禁本だったのかも」


「発禁本……そんなの読むなよ。セラのお使いの本も、赤い背表紙だったな。四英雄の出身について書いてあったけど、あれも秘すべき内容ってことか」


「や、やっぱり読めてたのね。あんなの読める人、大神官様しかいないと思ってたのに。それにしても、先生達はどこでお知り合いになったのかしら」


「裏ギルド経由だろ。あそこは世界中から色んな情報が集まる所だし。今度行ってみるか? 見た目は普通の茶屋と変わらないよ」


「うらびれた場所にある隠し扉を潜って行くのかと思ってた」


「物語の読みすぎ。ったく、普段どんな本読んでんだ。あの背中がむず痒くなる恋愛小説に、発禁本に、冒険小説。どれが一番好きなんだ?」


「冒険小説だけど。やだ、背中がむず痒くなるって、もしかして読んだの? 殿方なのに?」


「読んだよ。二度と読むか。現実の男と乖離しすぎだ。あんなんがいいのか?」


「いいじゃない、乙女の夢なんだから。あれは、読み物として面白いの!」


「はいはい。セラ、窓開けてくれ。布取って、お宝さがしだ」


「ちょ、ちょっと待って! すっごい埃が」


 けほけほ、と軽くむせながら、セラは窓を開け放った。背後ではバサバサと布を外していく音がする。ユリシーズの父が使っていた部屋は、白く埃が積もっていた。玄関や通ってきた廊下は塵ひとつなく綺麗に整えられていたから、この部屋は理由があってこの状態なのだろう。その理由が、セラには何となく察せられた。


「お掃除のしがいがあるわね。雑巾と桶はあるかしら」


「お、おいおい! 何腕まくりしてんだよ。その格好で掃除するのか?」


「あ、そっか。折角の可愛いドレスが汚れちゃうわね。私、トラウゼンの素敵なお仕着せが着たいんだけど」


「ふざけてるのか? 傍から見たら俺が侍女に手を出すダメな領主みたいに見えるから、却下。絶対許さん」


「真顔で絶対許さんって言われちゃった。それじゃ着替えてくる。私のお部屋ってどこなの?」


「二階の奥の部屋だけど、掃除はまた別の日にしてくれ。俺はこっちの引き出しを探すから、セラはあそこの棚を頼む」


「わかったわ。あ、この棚、二重になってる」


 言われた通りに、窓際に置いてある重厚な樫の飾り棚の前に屈むと、棚板がずれていた。触るとカタカタと音を立てて動く。


「どれ」


「ここ、押すと動くの」


 セラの隣に両膝をついて言われた通りに棚板を押すと、がこん、と音を立てて仕掛けが外れた。手を突っ込むと、中に箱らしきものがあった。


「この中くさいな」


「何かワクワクしちゃう。決まった手順で押してあける、からくりの棚ね」


「ご期待に添えなくてすまないが、普通の隠し棚だよ」


 ユリシーズが隠し棚から取り出したものは、とろりと深い琥珀色をした酒の瓶と、黒いビロード地の箱だった。箱の蓋には、レーヴェ家の紋章の剣を加えた有翼獅子の金細工が彫り込まれている。受け取ったセラがそっと開けると、対の指輪が入っていた。


「指輪が二つ。きっとこれね」


「この酒……父上が『大戦役』から帰ったら付き合えって言ってた銘柄だ。ここにあったのか」


「ユーリが産まれた年に作られたお酒だわ。成人のお祝いに、お父様が用意してくださってたのね、きっと」


「……約束したのに。一緒に、酒を飲もうって。何で……」


「ユーリ、ここには私しかいないから」


 掠れた声で呟いて、床に跪いたまま黙り込んでしまったユリシーズの頭を、セラは慌てて立ち上がって抱きしめた。泣きたいのに泣けない、小さな男の子の影を見た気がして、堪らない気持ちになった。


「ごめ……少しだけ……」


 少し震える声とともに、片腕が腰に回される。セラは抱き寄せた頭を包み込むように、子供をあやすように優しく撫でた。トラウゼンに来てから彼の色々な姿を見たけれど、こんなにも切ない、声もなく泣く姿は胸が痛くなる。しばらくそうしていると、廊下にあった大きな飾り時計が、十一回鳴った。

 顔を上げたユリシーズは、もう普段通りのきりりとした顔に戻っていた。切り替えがうますぎて、セラは少しだけ心配になった。自分を律することに長けていても、心までは騙せない。今のように立てなくなったら、立てるようになるまでそばで支えたいと、強く思った。


「ありがとう、セラ。昼までまだ時間あるから、ちょっと付き合ってくれ」


「もちろんよ。そのお酒、墓前にお供えするんでしょ? グラスも持っていきましょ」


「俺の婚約者殿はできた女だな」


 笑いながら二人が出ていくと、閉じられていた部屋の中に、清々しい夏の始まりの風が吹き込んだ。ふわり、ふわりと白い掛け布を柔くあおってから、開け放たれた扉から抜けていった。

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