表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
乙女は獅子に恋をする  作者: 龍田環
北方大陸編
16/111

16. さよならも言えず

前半戦闘中。ややグロ注意。

 全速力でこちらに向かってくる栗毛の馬には、黒髪の男が乗っていた。


「リオン!」


「リオンさーん!」


 セラは泣き声で、ユリシーズは嬉々とした声で叫ぶと、馬上のリオンが大きく手を振った。


「ごめん、遅くなって! 何、怪我したの?! 何でセラちゃん泣いてるの?!」


リオンは馬から飛び降りて、二人のところに駆け寄ると、心配そうな顔になった。


「ちょっとしくじった。俺はいいから、早く戦列に加わってくれ」


「待ってリオンさん!」


「ぐぇっ」


 走り出そうとした瞬間、セラに上着の襟首を思いっきり引かれて息が詰まった。慌てて振り返ると、泣きべそをかいているセラが、手に何か持っている。


「例のおっかない石か」


 上着を脱いで地面に放ると、セラから精霊の貴石を受け取った。つるりと滑らかな表面は、ただの磨いた血石ちいしにしか見えない。


「剣に括りつけて……」


「武器に精霊魔術を上乗せできるんだよね。くっつけて、精神を集中すればいいんだっけ?」


 リオンはポケットから手甲を巻く布を取り出すと、石をククリの柄の部分に当てて、ぐるぐるに巻きつけた。それからグッと柄を握って、右手に意識を向けた。徐々に精霊の貴石が氷のように冷えていく。瞬く間に指の隙間から冷霧のようなものが立ち上がってきた。


「こんなもんか。リオンさんの活躍を、ここで仲良く見てなさい!」


 にんまりと笑って、リオンは砂塵を巻き上げる激しい混戦に飛び込んでいった。掴みかかってきた大熊を足場にして、大きく跳躍すると、後方に回転しながら帝国兵に蹴りを放った。着地すると同時に、次々と周囲の敵方に切りつけていく。切られた所が瞬時に凍結して、男達の絶叫が響いた。いつもなら一太刀あびせても、浅く切り傷がつくだけなのに、貴石つきだといとも容易く亜生物の分厚い皮膚を切り裂ける。


「これ、結構使えるねぇ」


リオンは薄茶の瞳を、猫のように細めて笑った。


「おせーぞ、どこで油売ってやがった!」


「足止めされてたの!」


 長剣で切りかかってきた帝国兵に、下から掬い上げるような強烈な肱打ちを食らわせると、リオンはスヴェンのすぐ隣に立った。背後の直線状には、ユリシーズとセラがいる。後ろを抜かれないように、二人は互いの死角を補いながら油断なく身構えた。スヴェンは長剣を構えて突っ込んできた虎顔の亜生物と切り結んだ。


「ちくしょーキリねぇな!」


ぼやきながらも虎顔を切り倒す。少しずつ数は減っているが、まだ終わりが見えない。


「援軍は? うちの連中は?」


「どっちもまだだ。オメーと同じく足止めされてんだろ。っと、抜かせるか!」


 顔の半分が狼になっている帝国兵は、仲間が精霊騎士と切り結んでいる隙に、二人の間を通り抜けて駆け出した。リオンは反動をつけずに後ろに宙返りしながら、両膝を帝国兵の背中に食らわせた。地面に倒れたところをククリで切りつけると、冷霧を上げて切った部分が凍結していく。


「遅刻もいいとこだなぁ、もう」


「親衛隊なら、すぐそばまで来てる」


 轟音とともに、小規模な竜巻が森の中から巻き起こった。辺りの空気もそちらに引っ張られて、木々の葉が激しく舞う。リオンは思わず「うわぁ……来た」と、恐ろしげな表情を浮かべた。

 オルガは今、一番頼りたい人の気配を感じた。ヘルッタも竜巻が起きた方角を見て喜色を浮かべる。スヴェンの部下達も「おっせーよ、親衛隊長!」と、嬉しそうに文句を言い、気力を奮い立たせて帝国兵達を押し返し始めた。


 高みの見物をしていたローブの男は、率いてきた兵達が徐々に数を減らしているのを見て、そろそろ引き上げ時だと思った。戦列から離れた場所で肩を押さえて立つ青年を見て、まだ好機があったことに暗い愉悦を浮かべた。


「首を取りなさい」


 ローブの男の背後に控えていた人影は瞳を細めて、剣を構えてゆっくりと歩き出した。


 ユリシーズは、野生の動物が近づいてくる気配を感じた。先ほどとは段違いの「嫌なもの」だ。寄りそうよう立っていたセラの背中を、軽く押した。


「リオンの所まで、走れ!」


 厳しい顔をしたまま、森側から視線を外さないユリシーズを見て、セラは頷いて走り出した。


「懸命な判断だ。俺も女を切りたくはないからな」


 気配が口をきいた。森の中から現れた若い男は、明るい茶色の髪に鍛えぬいた体躯をしている以外は、ごく普通に見えた。だが、瞳が普通じゃなかった。大型の猫科動物のような、金茶の大きな虹彩と、針のような瞳孔をしていた。青年は足音をたてずに移動して、ユリシーズの真向かいに立った。


「もしかして、お前、合成獣キメラ、って奴か?」


 ユリシーズは背中に汗が伝うのを感じた。人工亜生物とは一線を画する、禁術で人と獣をひとつに合成した禁忌の存在。彼らは獣の特性を持つだけでなく、人間離れした膂力、強靭な肉体を持つという。四年前に連合軍を壊滅に追いやったのも、たった数人の彼らだったと、その場にいた人達から直接聞いた。初めて「勝てない」という、弱気な考えが頭を過ぎった。


「……そんなところだ」


 言うや否や青年は切りかかってきた。咄嗟に左手の剣で受けると、ぐぐっと押されて、激しい鍔迫り合いになった。金属同士が擦れてあがる耳障りな音がする。セラとリオンの自分の名を叫ぶ声が、皆が戦う音が、ひどく遠くから聞こえる。肩から流れ続ける血が、少しずつ意識を削っていく。いまここで、セラの目の前で、死ぬわけにはいかない。その気力だけで、必死に押し返した。


「手負いの貴様とやりあっても、何も楽しくないな……。命令とはいえ、殺すには惜しい逸材だ」


「そ、りゃ、どうも」


「どうせなら、絶望のどん底に落としてから、嬲っていくほうが楽しいだろう?」


「この、嗜虐趣味、野郎が……!」


「ひとつ教えてやろう。今の帝都を守っている、動く死体の兵は、かつての中央軍だ」


「なんだと!」


「色々覚悟をしておくことだ」


 あっさりとユリシーズの手から剣を弾き飛ばして、青年は剣の腹で右肩を思い切り打った。打たれた衝撃でユリシーズは地面に突き出た大きな岩に背中から叩きつけられ、ずるずると崩れ落ちた。


「ユーリ!!」


 リオンは顔色を失って、身を翻して駆け出そうとしたが、数人の帝国兵に回り込まれてしまった。


「そこをどけ!!!」


敵を切り刻みながら、必死で叫んだ。その声に後ろを振り返ったスヴェンも精霊騎士達も、血路を開こうと昏倒覚悟で精霊を召喚した。


「いやぁ! ユリシーズ!!」


 セラは途中で引き返して、完全に気を失って地面に倒れているユリシーズの元へと走った。抜き身の剣を提げた青年が、そのすぐ傍に立っているのにも構わず、その身体を庇うように座り込んだ。


「……どかねば切るぞ?」


 ちゃ、と青年が剣を構える小さな硬質の音が、いやにはっきりと聞こえた。まるで現実感のない夢の中にいるように「あ、私、ここで死ぬんだ」と思いながら、セラはユリシーズの頭を抱え込むように覆いかぶさり、瞳をぎゅっと閉じた。


「ジャン、奴を刻め」


 物憂げな青年の声が聞こえて、セラとユリシーズの周囲が何かに遮断されたように音が消えた。セラの目の前で、青年の全身を空気の刃のようなものが切り裂いて、赤い血がしぶいて地面を黒く染めていく。青年が身を翻して森のなかに駆け込んでいくと、また音が戻ってきた。声がした方を振り返ると、紫の騎士服と白いマントをまとった、長身の青年がこちらに走ってくるのが見えた。


「トゥーリ様……っ」


「遅くなってごめんね、セラ。大丈夫だったかい?」


 セラにとって兄同然の幼馴染が、息を弾ませながら片膝をついた。肩の辺りで切りそろえた黒髪がさらりと揺れる。深い紫色をした瞳が、心配そうにセラを見つめていた。


「ユリシーズ、が、どうしよう」


 がくがく震えながらユリシーズにしがみつくセラをどかして、横たわるユリシーズの首筋に手をあてた。脈はしっかり打っているし、ちゃんと息もしている。トゥーリはしゃくりあげて泣くセラの頭を、ぽんぽんと軽く撫でた。


「落ち着いて。気絶してるだけだから。ここで少し待っていて。野暮用を片付けてくるからね」


 さっと立ち上がると白いマントを翻して、そのまま駆け出した。目の前では、まだ精霊騎士達が戦っている。各々の契約精霊を従え、黒髪の男の援護をしながら、チラチラとこちらを見るその顔には希望が満ちていた。


「みんな、下がれ!」


 大声で叫んで精霊騎士達を引かせると、トゥーリはスッと敵陣を指差し、自身の使役する精霊達に「彼らを切り刻め」と、一言だけ命じた。軽い目眩とともに、霊力が一気に失われる。空気の断層をともなった烈風が、帝国兵と亜生物達を取り巻き、切り裂いた。


「まったく、この僕をここまで消耗させるとはね……」


 大きく息を吐いて、億劫そうに身体を起こす。苦悶の声と獣の唸り声が入り混じった石切り場は、すさまじい血臭が漂っていた。襲撃者達は地に倒れ伏したままだ。ものすごい勢いで駆け抜けていく小柄な影を避けて、トゥーリはスヴェン達を見て、フッと笑った。


「さすがだね、スヴェン。あの数をたったの六人で凌ぐとは恐れ入ったよ」


「ったりめーだ。遅かったな」


 足元にいた白地に黒い豹紋の大型猫が、スヴェンの足にすり、と体を甘えるように擦りつけてから、霧散するように消えていった。それを見送って、スヴェンは大剣を鞘におさめた。


「悪かったよ。竜の合成獣の男に足止めされててね」


 スヴェンは「竜?」と片眉を上げたが、トゥーリが目で「聞くな」と言いたそうにしていたので、すぐに話を変えた。


「ウルリーカは?」


「さっき合流して、僕だけ先行させてもらった。すぐに来る」


「ならいいが。それより、ユリシーズは平気なのか?」


「気を失ってるだけで命に別状はないよ」


 つ、とそちらを見やって、トゥーリは少しだけ眉根を寄せた。先ほど見たセラは、身体的にも精神的にも、かなり参っているように見えた。ずっと一緒だったオルガも疲れきっている。一人で任務もこなし、セラの身辺にも気を配るのは、骨が折れたことだろう。ふわりとした銀髪の頭をそっと撫でてやってから、トゥーリは「お疲れさま、オルガ」と、目元を優しくして労った。


 リオンはユリシーズの上着を脱がして、革帯の短刀を使って着ていた服を裂いた。肩の傷は脈動とともに、指先ほどの穴傷から血が少し溢れ出る。見た目より深そうだ。


「くそ、俺がいながら……」


 悔しそうに顔を歪めて、血に染まるスカーフで止血点を縛り付けると、リオンは立ち上がった。乗り捨てた馬は少し離れた所で怯えたように足踏みをしている。


「セラちゃん、肩を押さえててやって。俺、薬を取ってくる」


 リオンはセラの返事を待たずに走り出した。セラはリオンの悔しそうな顔、ユリシーズの血に染まった肩の傷が目に焼きつき、喉がつまったように言葉が出なかった。風に乗って届く毛髪が焦げたような臭いと金臭さに吐き気がする。

 ガラガラと馬車が走る音が徐々に近づいてくる。涙を湛えた瞳でそちらを振り返ると、精霊騎士団の紋章が刻まれた公用車と数頭の馬影が見えた。並走しているのはオルガの所属する第四師団の面々だ。


 セラのすぐそばで馬車は止まり、白いマントをなびかせた長身の女性が馬から飛び降りて、セラのもとへと駆け寄った。第四師団長のウルリーカだ。


「セラ、大丈夫?!」


 血まみれの手をしたセラを見て、顔色を変えると「ユアン、すぐ馬車に乗せて」と、御者席に座っていた紫の神官服の青年に声をかけた。


「ま、待ってウルリーカ様! 彼を、彼をこのままにはできないの!」


「いいから。早く騎士団領に戻りなさい。みんな、すごく心配しているから」


 やってきたユアンが「セラ、こちらへ」と、しっかりと腕を掴んで引っ張った。セラは必死に抵抗して「離して!」と腕を振った。力いっぱいつかまれているわけでもないのに、その手はびくともしなかった。


「ユリシーズ、目を開けて!」


 セラの悲痛な叫ぶ声がして、その場にいた全員がそちらを振り向いた。神官兵に引き摺られる赤茶の髪の娘が、血まみれの手でその腕を振りほどこうと暴れていた。


 暴れるセラに業を煮やしたユアンは軽々と肩に担ぎ上げると、そのままスタスタと歩いて馬車の中へ放り込んだ。セラは痛みを堪えて、急いで扉を開けて外に出ようとしたが、馬車が勢い良く走り出した。反動で強かに座席に腰をぶつけたが、必死に起き上がり窓を開けた。紫の騎士服の集団も、リオンも、倒れているユリシーズの姿も、すぐに見えなくなった。


「どうしてぇ……私、お別れも、ありがとうも、まだ言ってないのに……」


 涙が後から後から溢れて止まらない。喉が、胸が塞がったようになって息ができなかった。涙を拭おうと上げた両手は、ユリシーズの血に塗れていた。すでにそれは乾いていて、手を動かすたびにぱらぱらと散り落ちていく。


「ユリシーズ……」


 一番そばにいたい人の名前を呟いて、ぎゅっと両手を握り締めたまま蹲った。






 あれからセラはまた熱を出し、夢うつつのまま精霊騎士団領まで帰ってきた。何度も怖い夢を見ては魘され、切ない恋情に涙を流した。幾度となく繰り返して、幼い頃に下宿していた恩師の屋敷でようやく目が覚めた。そこで、石切り場での戦闘から三日も過ぎていたことを、ようやく知った。


「起きられそうかしら?」


 おっとりとした女性の声がして、ふんわりと暖かなミルク粥の匂いがした。


「ウィスタリア先生……」


 柔らかな灰茶の髪をゆるく結い上げた、三十代半ばくらいの優しい顔の貴婦人が、ポットの乗った盆と、粥の盆を両手に持って立っていた。セラは億劫そうに身を起こすと、自分でクッションを集めて背もたれを作った。


「ずっと重湯と果物を絞ったジュースだったから、おなかがすいたでしょう?」


「はい……少しだけ」


「ふふ、貴女のお友達ときたら、ミンプス風邪がうつってもいいからって、何度もお見舞いにくるんだもの。追い返すのが大変だったわ」


「みんなが……?」


「ええ。王都組の子達もよ。あなた達、本当に仲良しなのねぇ」


 傍机に盆を置いたウィスタリアは、小さな白い陶器の椀によそって、木さじとともに手渡した。セラはふうふう、と冷ましてから少しだけ口に入れた。小さくちぎって、乳でよく煮込んだパンの柔らかな風味と、たっぷり垂らされた蜂蜜の甘みが、じんわりと身体を温めていく。


「セラ、私に聞きたいことはあるかしら?」


 ウィスタリアの言葉に、ちびりちびりと粥を口に運んでいたセラは、手を止めた。


「あります。あの、ユリシーズのこと、オルガから何か聞いていませんか?」


「怪我は大したことなくて、元気に王都に向かったそうよ」


「よかった。ずっと心配だったんです。私のことを庇ったせいで怪我をしたから」


「そうだったの。良くして頂いたんですって?」


「はい。何度も助けてもらいました。だけど、お礼も何も言えずじまいで……」


 しおしおと見る間に元気がうせていくセラを見て、ウィスタリアは苦笑してスツールから立ち上がった。


「縁があれば、またきっと会えるから。元気をお出しなさい。私は仕事があるから出かけますけど、しっかり休むように。侍女長があとで来ますからね」


「は、はい、先生」


 セラは侍女長に会うのが怖かったが、素直に頷いた。お使いに出掛けてからもう三週間近く過ぎている。友達も上司も、さぞ心配に身を揉んでいたことだろう。ウィスタリアはセラの返事に満足そうに微笑むと、静かに扉を閉めた。


 ウィスタリアは困ったように笑って「まったく……罪作りなことをしてくれたわね」と呟いた。あんなにしょげかえった姿を見たのは、セラがセラの母と別れたとき以来だ。六年前と違うのは、どこか瞳に切なさが見えることぐらいだろうか。


 出かける準備をして玄関口に向かうと、そこには私服の神官兵ユアンとセラの友人マルギットが立っていた。家宰が押し切られて入れてしまったのだろう。


「ユアン、マルギット。あなた達、遅刻するわよ」


「俺は今日遅番です。シーグバーン先生」


「わたくしはお休みです、先生。問題ありません」


「ならいいけれど。私は議会の準備があるから出かけます。セラもまだ病みあがりだから、またいらっしゃい?」


「先生。わたくし、ユアンに聞きました。あの子、酷い目にあったって。会いたいんです、お願いします」


「ユアン、部外者に話したのですか?」

 

 ゆったりとした口調ながら、どこか咎めるようなものを含んだウィスタリアの声が、淡々と問うた。


「だって、あんなに泣いているセラを初めて見たから、心配で……」


「友達の落ち込みようを心配して、恋仲のマルギットに話してしまった、というのね。あらあら。それでよく神官兵が務まりますね?」


 どす黒い笑顔の威圧に、ユアンはその場から脱兎のごとく逃げ出したくなったが、踏みとどまった。それよりも、どうして先生がマルギットと恋仲だと知っているのか。まだ誰も知らないはずなのに。そちらのほうが怖かった。


「先生、ユアンをお叱りにならないで。わたくしが無理に聞き出しました」


「まあ、そうなの? やっぱりあなたには、私のところに来て頂きたいわ」


「先生、勧誘はまたにしてください。それにお急ぎなのでは?」


「そうね。私が遅刻してしまいそうだわ。セラに会うのはいいけれど、マルギットだけね。ユアンはここでお待ちなさい。せっかく落ち着いたのに、あなたの顔をみたら思い出してしまうから」


「はい」


「では、私は行きますが、くれぐれも刺激しないように」


 家宰からケープを受け取ると、カツカツと靴の踵を鳴らして、足早にウィスタリアは出かけていった。福々しい親戚のおばさん然とした家宰に「さ、ユアン様、こちらでお茶をどうぞ」とユアンは居間へと連行されていった。それを無言で見送って、マルギットは二階への階段を駆け上がった。小さな頃から勝手知ったる先生の屋敷だ。セラの部屋は二階の奥。息せき切ってたどり着くと、扉を軽くノックした。中から小さな声で「どうぞ」というセラが応えると同時に、扉を開けた。


「マ、マルギット? あなた、お仕事じゃ」


 セラは突然現れた親友の姿に目を丸くした。


「王都は西方特使との議会の最中で、わたくし達女官見習いはお休みになったの。それよりもセラ、大丈夫?」


「う、うん、体調はだいぶいいわ」


「そうではなくて。ユアンに聞いたわ。大変だったのでしょう?」


 マルギットの真剣な瞳に、セラは黙り込んだ。マルギットも神官兵のユアンも、セラの元同級生で、子供の頃は同じ学舎で学んだ友人だ。ユアンは無理やりに連れ帰ってきたことを何度も謝っていたが、それをマルギットにどう伝えたのだろう。


「マルギット……」


「先生はミンプス風邪って言ってたけど、罹患がやけに長いし、少しおかしいと、みんな薄々思っていたのよ」


 マルギットはそっと寝台に腰掛けて、セラの柔らかな赤茶の髪の頭を撫でてやった。しょんぼりと肩を落とした姿は、いつもの明るいセラとは別人のようで胸が痛む。


「ごめんね、心配した……?」


「当たり前でしょう。セラはお友達で大切な仲間なのよ。顔が見られて、少し安心したわ」


「マルギット、ありがとう……ごめんね」


「いいの。早く元気におなりなさい。セラがいないとつまらないのですもの」


「うん」


「マイラ達もお見舞いに来たいって言っていたけど、その分なら必要はなさそうですわね?」


「もう、だいぶいいの。三日もずっと寝ていたみたいだし」


「よかった。皆にもそう伝えておきますわ」


 ゆるく波を打つ白金髪を揺らして、マルギットは立ち上がった。あまり長居するのも病み上がりのセラには負担になる。本当はもっと色々聞きたいことがあったけれど、セラが話す気になるまで待つことにした。先生の言うとおり、出かけていた間に相当なことがあったようだ。


「では、わたくしはこれで。来週は王都で武術大会でしょう? 私達もそれに借り出されるらしいから、今のうちにゆっくりお休みなさいな」


「うん、ありがとう、マルギット。みんなによろしくね」


 ぱたんと扉が閉じると、セラは小さくため息をついた。武術大会のことを、すっかり忘れていた。年に一度のお祭りごとだ。素敵な騎士様はいるかしら? と、皆でキャッキャと恋に恋するような話をして、大騒ぎするのを、あんなに楽しみにしていたのに。


「何だか、立ち直れる自信ないかも……」


 セラは、バフっと枕に倒れ伏した。目の裏に写るのは、不敵に笑う蒼い瞳の面影ばかり。始まらなかった片恋を整理するために、お別れを言うつもりだった。それすらもできなかったせいで、消化不良な想いが胸を燻らせる。一緒にいたのはひと月にもならないのに、想いは募る一方で。人を好きになるのに時間なんか関係ない、と言っていた服屋のお姉さんの言葉を何度も思い出す。


「本当だね、時間、関係ないみたい」


 泣きそうな声でぽつりと呟いて、両腕で顔を覆った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ