12. 狩人と狩られる者
後半にややグロ表現あり。苦手な方はご注意ください。
魘されることもなく、すっきりと起きられた今朝は気持ちが良かった。寝入りばなに見た、床を転げたくなるような夢は、何とかセラの中では消化できたように思う。枕が少々つぶれたけれど、本人の目の前で変なことをしない程度には落ちついた。
目をこすりながら身体を起こすと、隣の寝台の上で猫のように組んだ両手をぐーっと伸ばしているオルガと目が合った。細い髪質の銀髪がくしゃくしゃにもつれていて、なんだか本当に長毛の猫のように見える。
「おはよう、セラ」
「おはよう、オルガ」
笑顔で挨拶をかわし、普段どおりの時間に起きて身支度を整えていると、部屋の扉が軽くノックされて「朝食をお持ちしました」という女性の声が聞こえた。騎士服の上着をさっと羽織ったオルガが開けると、セラ達と同じ年ぐらいのメイドが、ワゴンに二人分の朝食をのせて待っていた。
「ありがとう」
「失礼致します」
にこやかに微笑みながら、てきぱきと窓際の小さなテーブルに皿を並べると、入り口で綺麗なお辞儀をして「ごゆっくりどうぞ」と下がっていった。
「今日のも美味しそう! ここのお宿のパンって、とっても美味しいわよね」
「うん。しかも私が好きなパンだ」
今朝は半面焼きの黄身がとろりとした卵、クリームを加えてふわりと練られた白芋と、茹でた大きな腸詰にはたっぷりと粒入りの辛子調味料がついていて、塩胡椒と酢と木の実の油で和えた葉野菜のサラダが添えられていた。バターをたっぷり使った、生地が層になっているサクサクした歯ざわりのパンには、艶々としたフラグルのジャムが添えられている。
「今朝の献立は、何だかどっしり系ね」
「今日中にグラスターに行くって、昨日さっきの子に話したからかな。腹持ちのいい食事にしてくれたんじゃない?」
「そうなのね。嬉しいけど、ちょっと多いかも……」
「腸詰、一本ちょうだい」
「どうぞ。騎士は身体が資本だもんね」
「騎士になってから、よく動くせいか食欲が増したんだ」
「本当? いいことだわ。オルガは華奢だから」
「精霊魔術に重きを置いているから、がちがちに鍛えなくっても私はいいの。お父様みたいな体格になったら婿が来なくなる」
「婿」
「ん? 何か言った?」
「ううん、なんでもない」
婿と聞いて、セラの脳裏には二人にとって兄同然の幼馴染の顔が浮かんでいたのだが、ふるふると頭を振って誤魔化した。オルガの淡い気持ちを知っているからこそ、下手な事は言いたくなかった。
「昨日から変だよ。いったい、ユリシーズに何を言われたの?」
「な、何でもないってば」
「昨日彼を問い詰めたとき、セラと同じこと言ってたけど……」
「といつめた」
ぴしり、と固まったセラを見て、オルガはやっぱり何かあったな、と思ったが、顔には出さなかった。
「あぁ、こっちの話。食べたら厩舎に行って準備しよう」
涼しい顔で黙々と大量の朝食を平らげていくオルガを眺めながら、セラは好物の白芋をちびりちびりと食べ始めた。今日はグラスターに行く予定だと言っていたので、昨日ユリシーズに教わった地図の見方を思いだした。
たしか、ここから約十時間ほどかかる距離にある街で、街の規模はスミスターの二倍、北西部に向かう街道筋が交わるところだ。グラスターは北西部街道の分岐地点にもなっているので、これからはグラスターを経由してルガランドに向かう道筋を辿る、およそ五日の行程になる。
途中の街々で一泊しながら進むと聞いて、セラは体力が持つか心配になった。こんなに長い距離を、馬に乗って移動するのは生まれて初めてだし、戦うことを生業にしている人達についていけるかどうか。とにかく、皆に迷惑をかけないように頑張るしかない。腸詰をナイフで丁寧に切り分けて、口に放り込んだ。
宿代を精算して厩舎に向かうと、すでにユリシーズ達が出発の準備をしているところだった。
「おはよう。早いのね、二人とも」
「おはよ。朝の日課があるからな」
馬の脚を持ち上げて蹄鉄の掃除をしてやっていたユリシーズが、屈んでいた身を起こして振り返り、セラを見とめるとフッと目元を緩ませた。
「おはよー、セラちゃん、オルガちゃん」
手前の馬房から暢気そうな声とともに、ハミを持ったリオンが姿を現した。
「今朝も、昨日みたいな鍛錬を?」
「今日は体術だけ。セラちゃんがびっくりしてたから刃物はなし」
「セラじゃなくても、あの普通じゃない鍛錬だったら皆びっくりしますよ」
「だよな。わかってるよ、俺達の鍛錬方法がおかしいってこと」
馬の背にブラシをかけながら、ため息混じりにユリシーズがそう答えると、頭絡をユリシーズの馬に装着していたリオンが、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「気合入るでしょ、鍛錬でも真剣勝負だからね」
「気合入るどころじゃねーよ。普通に怪我するし」
「何べん言っても、ダメな癖が抜けないからでしょ」
「くそ……言い返せないのが悔しい」
何だかんだで楽しそうに準備をする二人を見て、セラもオルガを手伝うことにした。奥に居る芦毛のノルンのもとへ行くと、オルガが鞍にセラと自分の荷をくくりつけているところだった。牝馬でも大きな体格をしているノルンの背は、荷をくくりつけても、二人が乗ってもまだ余裕があった。
セラは厩舎に置いてあるブラシを手にとって、丁寧に馬体を梳いてやった。
「女の子なんだから、いつでも綺麗にしなくっちゃね」
そう声をかけてやると、目を細めて鼻を気持ち良さそうに伸ばして嘶いた。長めの白い鬣も丁寧に梳いて両側を一房だけ編んでやると、セラのすぐ横で馬具の具合を確かめていたオルガが噴き出した。
「ノルンとおそろいだね、セラ」
「かわいいでしょ」
両側から少量髪をとり、ゆるく編み込んだ髪型のセラは、得意げにノルンの鬣を撫でた。二人の様子をぼーっと見ていたリオンは、心底羨ましそうな顔で厩舎の奥を見ながら、やるせなさそうなため息をついた。
「俺も、あっちに混ざりたい……」
「着替えてくれば」
「誰が着替えるか! うぇ、顔を舐めるんじゃない!」
「残ってくれて嬉しいってキスしてくれたぞ、よかったな」
ユリシーズは「牡馬からだけど」と笑いながら手綱を引いて、馬と一緒に厩舎を出て行った。セラとオルガは、リオンのしょっぱい顔を見て、可笑しそうに声を立てて笑った。
「今日も気張っていこうぜ」
リオンは仕方なさそうに苦笑して、馬の背をポンポン叩いた。手綱を引いてのんびりとした足取りで出ていった。セラとオルガも馬房からノルンを出してやり、乙女達だけで軽やかに歩き出した。
まだ時間が早いせいか人通りも疎らだ。馬を引いて歩く旅装姿の傭兵らしき一団や、商人達とすれ違いながら歩いていくと、やがて王国軍用の通用口が見えてきた。オルガが騎士勲章で鍵を開けて、先にユリシーズとリオンを通してから、セラとオルガも扉を潜る。
それぞれ自分の馬に騎乗すると、目的地であるグラスターの方角を見た。かなり先にある山のふもとが、今日の目的地だ。途中で数回、自分達と馬のために休憩を取って、夜九時の鐘のなる頃には到着する予定になっている。
「俺が先頭、真ん中がセラとオルガで、リオンは殿な」
「はいはい」
リオンは気取った調子で「どうぞ」というように、手でセラとオルガを先に行くように促した。オルガは緩く微笑んで馬を進め、後ろに乗ったセラはリオンからの「セラちゃん、号令よろしく」というお願いに、瞳をくるりとさせて笑った。
「それじゃ、しゅっぱーつ!」
セラの能天気な声に、ユリシーズは笑って前に向き直ると、常足で歩く馬の腹を踵で軽く蹴った。
道のりは、すこぶる順調だった。深い森の中にある旧街道は通る人もなく、天気は風もなく穏やかで、初夏になりかけの日差しが背中を照りつける以外、何事もなかった。グラスターまでの中間位置に差し掛かるという頃。オルガは何かを感じて、馬の足を緩めた。
「……エアリアル?」
呟くオルガの声に、しっかりと腰に手を回して掴まっていたセラは、身を起こした。
「ユーリ、ちょっと止まって」
リオンも大きな声で前方を走るユリシーズを呼び止めると、神経を集中して周囲を探った。森にいる生き物の気配が感じられない。こういうときは、害意のある存在が近くに潜んでいることが多い。どちらのお客さんだろう。腰に手をやり、ククリを逆手に抜いた。
少し先に進んでしまっていたユリシーズは、後続のセラ達のところまで戻ろうとした瞬間、背中がざわりと粟立った。とっさに剣を抜き、振り向きざまに右へとなぎ払う。金属同士が強く打ち合わされる音がして、すぐ真後ろに迫っていた黒い影が地面に落ちた。追撃をかける間も無く、影は素早く転がって藪の中に飛び込んでいった。
「きゃあ!」
セラの悲鳴に振り向くと、頭上にあげたオルガの両手がぱっと薄黄緑色に光って、木の上から振ってきた黒い影を弾き飛ばしたところだった。
「リオン! 二人を守れ!」
素早く馬から飛び降りて、セラ達のほうへと駆け出すと、また新手が現れて足止めを食らう。ボロボロの黒い外套を身につけ、顔全体にどす黒いもので汚れた布を巻き、リオンの持つククリのような形の短刀を握っていた。だがその刀身は錆だらけで刃こぼれしていて、切れ味は相当悪そうだった。
「邪魔するな!」
てんでバラバラな動きでユリシーズの進路を妨害する黒い人影は、全部で五つ。捉えようのない動きをしながら、次々と襲い掛かってくる。変則的な戦い方が得意なリオンと毎日鍛錬をしていたおかげで、波状攻撃を受け流すことができたが、前に進ませてくれない。リオンに比べたら鈍いし、動きが単調だから一人ずつ倒していけば何とかなる。そう思って一人に集中しようとすると、次々と死角から切りかかってくる。
戦っている最中なのに、子どもの頃、母に手を引かれて逃げた記憶が突然鮮明に蘇った。あの時も、いま自分の手の中にあるファルシオンを振るって、母が戦っていた。二人で必死に逃げて、父が助けに来てくれて。その後、母はどうなった? 地面に倒れた自分に圧し掛かってくる黒ずくめの男。母の深紅の髪が地面に広がって。
「おいで、エアリエル!」
オルガが中空に翳した手のひらの上で空気が渦を巻き、きらきらと銀色に輝く体毛に覆われた長い胴に短い足、丸い耳に短い吻の丸い顔をした、イタチのような姿が現れた。体重を感じさせない動きでノルンの後頭部に舞い降りると、胴体と同じくらい長いふわふわの尻尾を揺らして、オルガを見上げた。円らな薄い緑の目をした愛くるしい姿だが、渦を巻く風と真空の刃を操る、れっきとした中位の風系精霊だ。オルガが一番最初に契約した精霊で、子どもの頃から一緒にいるセラのことも気に入っている。頼めば喜んで守ってくれる、信頼できる存在だった。
「セラを守って」
後ろ足で立ち上がってこちらを見ているエアリエルに一言だけ伝えると、ノルンの背から素早く飛び降りて駆け出していった。
「まかせて」
小さな子どものような声で答えると、エアリエルはセラの肩に素早く登り、注意深く周りを見回した。セラの背後から近寄る死人兵に背中の毛を逆立てて、風を操って切り裂いた。全身が分断されて、あたりに汚らしい汁が飛び散り、悪臭を放った。
「くそ!」
悪態をつき、自分と同じ方向へ駆け出そうとしていた奴に回し蹴りを食らわせて、リオンは一人で五人と戦っているユリシーズのもとへ全力で走った。どう考えても、この連中の狙いはユリシーズだ。徐々に輪を狭めて捕捉対象を屠るあの戦い方は、見たことがある。
身体に叩き込まれた動きだけで、攻撃をいなし続けるユリシーズの空虚な眼差しは、何をみているのだろう。リオンと同じように過去を思い出しているとすれば、それは彼の心的外傷を穿り返すようなものだ。
「戦いに集中しろ!」
リオンはユリシーズの正気を呼び戻すように大声で怒鳴り、死角をなくすように背中合わせに立った。突っ込んできた大柄な奴を、鎖鎌を構えて近づこうとしていた奴に向かって蹴り飛ばした。もつれあって地面に倒れこんだところに、突然飛んできた火球が轟音を立てて炸裂して、一瞬で燃え上がる。
火球が飛んできた方向を見ると、こちらに向かってこようとしている黒ずくめ一人を精霊魔術と剣で足止めしているオルガの姿があった。今の火球は、彼女が援護してくれたのだろう。意外と戦いなれているようだし、他の黒ずくめは自分達を狙っているようだから、セラはオルガに任せておけばいい。
「っと!」
気がそれた瞬間を見計らって、死角から伸びてきた錆びた短刀が頬をかすめる。ククリで短刀ごと右手首を切り落とし、返す刃でそのまま黒ずくめの首を半ばから切り裂いた。
思ったとおり、頭と身体を分断すれば動かなくなる。これで四人。オルガ達を襲っていた奴も含めて、あと三人。背後で続いていた激しい剣戟の音が止み、重たいものが地面を転がる音がした。
「ユーリ!」
ほんの一瞬の隙をつかれ、体当たりをまともにくらって地面に転がっているユリシーズに、藪から飛び出してきた黒ずくめが圧し掛かった。十四年前と同じ光景が、リオンの動揺を誘った。とっさに逆手に構えたククリを、棒のように突っ立っていた奴の首に叩きつけた。固いものが折れる音がして、胴体を離れた頭部が勢い良く転がっていった。
「うわああああ!」
ユリシーズは叫び声をあげると、圧し掛かってくる男の腹を蹴り上げるようにして、投げ飛ばした。素早く起き上がり、倒れている男を膝で押さえつけ、振りかぶった剣を思いっきり突きたてた。ファルシオンは鈍い音を立てて、柄の根元まで胸にめり込んだ。地面に縫いとめられ、起き上がろうともがく頭を両手で掴み、首をほぼ一回転させてへし折ると、そのまま動かなくなった。
「ひっ」
あまりにも凄惨な光景に、セラは両手で顔を覆って咄嗟に俯いた。エアリエルがセラの腕からするりと抜け出て「見たらだめだよ、セラ」と小さく呟きながら肩の上に移動した。「オルガぁ、戻ってきてぇ」と情けない声で召喚主を呼ばわる。
「セラ、もう終わったから」
やや青ざめた顔で、オルガはセラのもとに駆け寄った。ノルンの頭絡を掴んで首を優しく叩いて、落ち着きなく足踏みする彼女を落ち着かせた。確実に息の根を止めるためだけに、急所だけを狙う。「死体が動く」なら、動けなくするために頭と身体を切り離す。短絡的だが合理的な方法のそれは、戦いに慣れない者からすれば単なる虐殺にしか見えないだろう。
「ユーリ、大丈夫?」
完全に動かなくなった、正しい状態の死体から剣を引き抜き、ユリシーズがこくりと頷いた。リオンは薄茶の瞳を眇めて、その横顔をじっと見つめたが、前髪が目にかかっていて表情はわからなかった。
いつもなら「平気に決まってるだろ」と憎まれ口を叩くのに、一言も喋らないことが気にかかる。後で話を聞いてやるとして、今はとにかく三人を安全な場所まで連れて行くことが先決だ。
「そっちの二人も無事だね? さっさとここを離れるよ。すぐに増援が来るから」
「どうしてそんなことがわかるんです?」
「……こいつらは、ウィグリド帝国の暗殺部隊だ」
ユリシーズが黒ずくめの右袖を剣で切り裂いた。土気色の腕には鎌を模したような、不思議な模様の入れ墨が彫られている。
「よく知ってるよ。何度か襲われたからな」
昏い色を宿した蒼い瞳で、累々と横たわる死骸達を無感情に眺めて、裂いた黒布で剣を拭い、それをまだ燃えている死体の火にくべた。そして振り返ることなく、乗り捨て状態になっていた馬の所へと駆け寄っていった。セラは憂鬱な影が漂うその背に、どう声をかけたら良いのかわからず、戸惑ったように黙り込んだ。オルガもどう言葉をかけていいのかわからず、じっと心配そうにセラを見る。そんな二人のもとに、馬に騎乗した浮かない顔のリオンがやってきた。
「……次の街まで、休みなしで駆けるよ。きついけど、頑張ってついて来て」
「わ、わかりました。セラ、私にしっかり掴まって」
「セラ、へいき?」
オルガの肩にちょこんと乗ったエアリアルが、そのふわふわの尻尾でセラの頬を撫でた。生き物とは違う存在だからその体には体温がないのに、そのふわふわの銀色の毛が不思議と温かく感じられて、セラは力なく微笑んだ。
「平気よ……ちょっとびっくりしただけ」
しっかりとオルガの腰に手を回して「行こう、オルガ」と声をかけると、オルガが頷く気配がして、ノルンが勢い良く駆け出した。
西方大陸にあるという大国が、あんな不気味な兵を繰り出して襲ってくるのか、セラには何もわからなかった。だけど、ユリシーズの過去に何かがあったということだけはわかった。今朝まで屈託なく笑っていたのに、まるで人が変わってしまったようで、あの暗い瞳は見ていて辛くなる。「笑った顔がいい」と言ってくれたけど、セラもまったく同じことを言ってあげたかった。
「やっぱり、おいでなすったか」
リオンは足だけで馬を御しながら、鞍に括りつけていたクロスボウを構えると、後方に向かって一射放った。四騎のうち、先頭を駆けていた男の肩に命中し、男は体勢を崩し鞍から落ちた。鐙に足を引っ掛けたまま馬に引き摺られ、馬とともにあらぬ方角へと駆けていく。残る馬影は三つ。今度はオルガと同じ型の、濃紺の軍服を身に着けた生きている人間だった。
一気に速度を上げて追いついてきた男達が、馬に乗る三人にそれぞれ相対するように並走し始めた。オルガはガルデニア王国軍の正規兵の制服を着た彼らを見て、驚きに目を見張って叫んだ。
「反王国派か!」
オルガは長剣を抜き放ち、切りかかってきた相手の細剣を受けた。激しい金属音とともに火花が散る。兵が再び剣を振り上げた瞬間、ユリシーズが割って入り、振り下ろされた剣を弾いた。
「先に行け! 後ろに乗ってる奴がいるんだから無茶するな!」
「くっ……!」
腰に回る細い腕の存在を思い出し、慌てて手綱を短く持ってノルンの腹を踵で蹴った。背中側から申し訳なさそうな声で「ごめん、オルガ」と呟いているのが聞こえてくる。
「私こそ。セラがいるのに無茶をした」
ユリシーズは剣帯から棒手裏剣を数本抜いて構えた。リオンはユリシーズの馬と並走しながら油断なくクロスボウを構えて、自分達より前に行かさないように、時々矢を撃ちながら、兵達の馬の進路を妨害し続けた。
「さっきの死人兵は貴様らの差し金か? ずいぶんしゃれた真似をしてくれるな。帝国の『狩人』だなんて」
ユリシーズのよく通る声が、鳥の声すらしない森に響く。反王国派の兵達は各々の武器を構えたまま、無言の誓いでもしているかのように、一切の言葉を発しなかった。
「……」
「あらら、だんまり? ちょっと痛い思いしないとダメかな?」
リオンは警告なしにクロスボウから再度矢を発射した。シュッと空気を裂く音とともに、矢が男の太ももに突き刺さる。
「ぐあっ!」
悲鳴と共に、並走していた馬の速度が落ちた。
「俺、あんまり気が長いほうじゃないから、言うならお早めにね」
並走する王国兵に合わせて速度を落とすと、次の矢を装てんしながら、にこやかにリオンは笑った。
「さっさと立ち去れ。命が惜しくないなら残れ。俺はいま、虫の居所が悪い」
ユリシーズの警告を無視して切りかかってきた王国兵の剣を、手に持っていた棒手裏剣で弾く。据わった目で睨みつけ、棒手裏剣を無造作に投げつけた。わき腹に鋭い切っ先が深々と刺さった王国兵は、くぐもった声を上げて手綱から手を離した。そのままぐらりと身体を倒して馬から落ち、道端で四肢を伸ばして動かなくなった。残る一騎は怖気ついたように進路を変えると、自分達がやってきた方角へと駆け去っていった。
「びびっちゃったのかな? 薄情なお仲間だねぇ」
駆け去っていく王国兵の背を苦笑しながら見送ると、リオンはクロスボウの弦を強めに巻き上げて、太ももの矢傷に耐えながら未だに並走している王国兵に向かって撃った。肩を貫通した矢の勢いに引き摺られるように、疾走する馬の背から転がり落ちる。ユリシーズとリオンは馬の足を止め、手綱を悠長に木に括りつけてから、肩から矢を生やして地面で痛みにもがく王国兵に近づいていった。
「オルガ、オルガ、二人が馬を止めてる!」
「本当? どうしたんだろう」
セラの焦った声に、オルガは馬の足を止めて振り返った。豆粒ほどに小さく見える距離だが、馬を降りて倒れこんだ王国兵のところで、何かしている二人の背中が見えた。
「追っ手はもう来てないみたいだけど、様子を見ながら戻ってみよう。私達の国のことだしね」
「おい、さっきの質問の答えは? 貴様ら反王国派とウィグリドが裏で繋がってるってことは、とっくに知ってる。あの死人どもを連れてきたのは、どこのどいつだ。言え」
短剣を手にユリシーズは淡々とした口調で、地面に倒れて動けない王国兵に尋問を始めた。リオンも同じように屈みこんで王国兵の様子を見ながら、静かにユリシーズの動向を見守った。先ほどの戦闘から精神的に不安定になっているように見えて、何をしでかすかわからない危うさがあった。
「言いたくないならいい。口ならもう一つあるからな」
つまらなそうにため息をつくと、少し離れた場所でわき腹に何かを生やしたまま動かない兵をチラリと見て、ユリシーズは逆手に持った短剣を振りかぶった。
「よせ!」
リオンは叫んで、とっさに左腕で振り下ろされるユリシーズの手首を止めた。刃先に手を出す無茶な止め方をしたせいで、左腕に巻いていた厚手の手筒が切り裂かれ、冷たい感触がちりりと腕を掠めた。
死の恐怖を間近に味わった兵は怯えきっていたが、身体には髪一筋も傷ついておらず、リオンは安堵して詰めていた息を吐いた。やっぱり普段の冷静さが失われている。ここで殺せばその因果が何にどう影響を及ぼすか、本人が一番わかっているはずなのに。
「何で止めるんだよ、リオン」
血が滴るリオンの左腕を見ても顔色一つ変えずに、淡々とした調子でそう呟いたユリシーズを見て、大きくため息をつく。言ってもわからない子には、鉄拳制裁あるのみだ。
「口を割らなきゃ殺せって、教えた覚えはないよ。他国の正規兵を殺したら、どうなるかわかってる?」
リオンは右腕でユリシーズの胸倉を掴みながら立ち上がると、受身が取れないような低く鋭い投げを打った。ユリシーズは背中から思い切り地面に叩きつけられて、息が詰まった。痛みを堪えながら目を開けると、冴え冴えとしたリオンの薄茶の瞳が、じっとこちらを見下ろしていた。
「少し、頭を冷やせ」
この機を逃さず、反王国派の兵は肩に刺さった矢を自分で引き抜き、倒れている仲間のもとへ片足を引き摺りながら、必死に駆け出した。倒れ臥した仲間を馬の背に担ぎ上げ、あたふたと馬で逃げ去っていった。
「リ、リオンさん、いきなりどうしちゃったの?!」
突然立ち上がって、ユリシーズを投げ飛ばしたリオンを見て、セラは思わず叫んだ。
「行ってみよう」
オルガは馬の腹に軽く踵を当てて、何やら揉めている二人の傭兵のもとへと急いだ。
「ユリシーズ、リオンさん、いったいどうしたの? 大丈夫?」
よいしょ、と馬から自力で降りると、腕を押さえているリオンと地面に倒れたままのユリシーズのもとへと駆け寄った。リオンの指先からは、赤いものがぽとりぽとりと滴っている。
「け、怪我してるじゃない! 血が……」
「平気だよ、かすり傷だから」
「手当て、手当てしなきゃ。リオンさん、お薬持ってるんでしょ?」
「アキムが持ってた布袋に入ってる」
セラはあわあわとリオンが乗っていた馬の所に走っていった。入れ替わりにオルガが歩み寄ってきて、訝しげな顔をしながら交互にユリシーズとリオンを見た。
「いったい、何があったんですか?」
ようやく身を起こしたユリシーズが「俺を止めただけだ」と低い声で呟いた。リオンは肩をすくめて「おととい俺も切りつけたから、これでおあいこ」と笑うだけで、何があったかは言わなかった。
「深さが全然違うみたいですけど……縫わなくて平気ですか」
「このくらいなら、きつく包帯巻いとけば平気だよ」
薬の入った布袋を両手に抱え走って戻ってきたセラが「リオンさん、座って! オルガはユリシーズを見てあげて!」と、てきぱきと場を仕切る。リオンは口元を今にも笑いそうに緩めながら、上着を脱ぐと柔らかそうな草が生えた道端へと座り込んだ。
「……それじゃ、お願いしていい? 痛くしないでね」
「気をつけるわ。ちょっと失礼」
そっと袖を捲くると、切り裂かれて血に染まった厚手の手筒が腕に巻かれていた。そっと手筒を手首側へと緩めていくと、腕の全面にいくつもはしる赤黒い傷跡が見えた。大型の獣に食いちぎられそうになったら、こんな傷がつくのではないだろうか。あまり手当てに気乗りしない様子だったのは、このせいだったのかと思うと、ひどく失礼なことをしている気分になった。
「女の子には大体引かれちゃうんだよねぇ。俺も自分の腕だけど、エグイなぁって思うもん」
放っておいたら落ち込みそうな顔をしているセラに、リオンは笑いながら軽口を叩いた。
「だから俺は女の子にもてないんだ」
「リオンさんがそう思ってるだけなんじゃない?」
セラはリオンが気を使っていることを感じながら、傷の周りを水で濡らした布で拭い、薬液を綺麗な布に沁みこませてそっと傷に当てた。
「セラちゃん、思いっきりきつく縛ってくれる? 傷をぴったり合わせておけばくっつくから」
「ど、どのくらい? このぐらい?」
「ゆるゆる。もっと、血が止まるくらいにやって」
「セラ、俺が代わる」
すぐ隣にユリシーズがしゃがみこみ、セラの手からそっと包帯を取り上げた。その横顔からは、先ほどまで見せていた暗さは消えて、口調もいつものように明るい調子に戻っている。安心したようにセラは笑って「それじゃお願いするね」と場所を譲った。
「えー、ユーリが? 俺、かわいい女の子に手当てしてもらいたいんだけど」
「かわいい俺が責任もってやってあげるよ」
「どこがだよ、可愛げがあったのは昔の話だろ。あ、いててて、きついです」
「痛いのは生きてる証拠」
「それ俺のセリフでしょ。ちょっと、この巻きだと本当に血が止まりそうなんだけど」
リオンは手を開いたり閉じたりしながら、不服そうな顔でユリシーズを見た。
「馬に乗るんだから、これぐらいきつくしたほうがいいだろ」
布袋に薬や包帯を仕舞うと、ユリシーズは立ち上がった。いつも自分のために無茶をするリオンを、自分が傷つけてどうするんだと自責の念にかられる。久々に見るリオンの本気で怒った顔と、冷水を浴びせかけるような声で冷静になれたが、自分の未熟さ溢れる振る舞いを思い出し、居たたまれない気持ちになった。
そして、ホッとしたように微笑んでいたセラの顔。きっとひどく不安な思いをさせたのだろう。それが一番気分が塞いだ。
「早くグラスターに向かおう。セラとオルガには悪いけど、馬を休ませる以外は、一切休憩しないで進む」
皆の顔を見ながらそう告げると、リオンはセラに上着を着せ掛けてもらいながら、ユリシーズのほうを見てニッと笑った。
リオンが手当てされている時に「何があったかはもう聞きません。セラも私も貴方を信用しています。それだけは忘れないで」と、言葉少なに励ましてくれたオルガも穏やかな顔で頷いた。
その肩に乗っている白い小さな鼬も、得意げに鼻をひくつかせている。あれが精霊と聞いて心底驚いたが、あの小さな体でセラを一匹で守り通したのだから、大したものだ。
「わかったわ。私、頑張る」
セラは気合十分!というように頷くと、ユリシーズを振り返った。
「頑張ってくれると助かる」
セラの顔を見ると癒されるような、不思議と優しい気持ちになる。これはもう、単純にセラのことが気に入っているからではないと、ユリシーズは薄々感じ始めていた。そのことについて今はあえて考えることは止めて、優先するべきことだけを考える。
王国兵を痛めつけたことで、おそらく様子見を止めて、反王国派は完全に敵対関係になったはずだ。これから何があるかわからない。もう自分を見失うような真似だけはすまいと、強く思った。