43. 別れと邂逅
流麗な首をもたげ氷のように透き通った瞳がじっとセラを見た。
「モーネ様、見つかりましたか?」
『……見ておくれ』
竜が大切そうにその手に抱えていたものを見せてくれた。
「うわぁ……! 赤ちゃんだぁ……!」
「え、卵じゃなくて?」
ユリシーズは「あいてて」と胸を押えて立ち上がり、何やら騒いでいるセラのもとへ急いだ。側近達とレギーナも後に続く。側役二人は顔を見合わせて「セラちゃんの早とちり……?」と首を傾げた。
輪になって竜の手の中の存在を、全員が息を詰めて見つめた。磨き込んだ陶器のような濃紺の鱗、幼体らしくぽよんと丸いお腹。小さな小さな竜は母の掌の上で元気よく動いていた。背中にある小さな翼が揺れている。こちらを見上げてきた瞳は金粉が躍る玻璃のような色をしていた。大きさは小型の犬くらいだろうか。
『どうか抱いてやっておくれ』
セラの胸の前の高さに竜の手が伸ばされる。ぴょこっと顔を出した竜の子は「きゅあ」と愛らしい声を上げた。セラの隣から変な息遣いが聞こえた。
「そ、それでは失礼して。あ、爪が柔らかい……。すごくすべすべのお肌。かわいい……!」
「かわいい……。とんでもなくかわいい……。何だコイツ超かわいい……。連れて帰りてぇ……」
セラの腕の中でぴこぴこ揺れる翼と、一本も牙のない口を開けて一丁前に「くわぁ!」と吠えてくる様子にユリシーズが鼻血を出しそうな顔をしていた。興奮しすぎたのか怪我が痛むのか「ううう」と呻いている。
「ユーリ様のいけない癖が……。ダメだよ、この子はお母さんと帰るんだからね」
「そうですよ。お母さんと一緒にいるのが一番なんですからね」
呆れ顔の側役達が笑う。
「わかってるよ。お、俺にも、俺にも抱っこさせてくれ……お願い」
竜の子は「ナンカコワイ」と言いたげな目をしていたが、妙に手慣れたユリシーズの手つきに安心したように鼻をピスピス鳴らした。
「蜥蜴みたいにひんやりしてるのかと思ったら、温石みたいにあったかいんだな……。そしてかわいい……」
ユリシーズの言葉に辛抱たまらんという顔のアルノー達がそーっと竜の子の背中に触れていく。口々に「赤ちゃんの竜……」「すべすべ……」「こんなちっちゃいのに、大人になったら小屋位になるのかぁ……」とうっとりしながらつぶやいている。セラには彼らにやんちゃ小僧達の姿が重なって見えた。
エマが少し強張り気味の顔で指先でちょい、と細い尻尾を触る。どうやら爬虫類が苦手らしい。レギーナとハンナはそーっと指先で頭を撫でた。気持ちよさそうに目を閉じる様子に皆がほんわかした顔になる。
「ダメだ、これ以上抱っこしてたら連れ帰りたくなる」
ユリシーズは心底名残惜しそうにセラに竜の子を返した。竜の子はセラの頬を一生懸命ふんふん嗅いで、かぷりと噛みついた。赤ちゃんなので甘噛みだ。
「ふふふ、くすぐったい……!」
『これこれ坊や、おいたはおよし。さぁ』
「きゅあ!」
セラはモーネの掌の上に竜の子を戻した。短い間だったが、そろそろお別れの時間だ。
『ほんに、セラ達には世話になった。我が子が無事に戻ったのも、皆そなたのおかげじゃ。そうそう、礼をせねばな。セラ、私の指の鱗を取っておくれ。爪の辺りじゃ』
「い、痛くないんですか?」
『人で言う髪と同じようなものゆえ大事ない』
セラがそっと爪のあたりの鱗に指をかけると、ぱりり、と鱗が数枚一緒に剥がれた。鱗の下は滑らかに光る肌があった。
「取れました」
『竜の鱗は昔から魔除けになるというでな。……これからのそなたの道行きに幸あれ』
ふっと鱗が淡く光った。トゥーリが目を瞠る。
「まるでガルデニアの霊獣のようだね……。竜が祝福してくれたよ、セラ。大事にしなさい」
「うん。モーネ様、どうもありがとうございます」
『ほほほ、欲のないそなたには、きっと幸多い先が待っておるだろうよ。我が同胞に伝えよう。竜の魂を継ぐ者は、変わらず我らの友であったと』
「竜の友……」
『人は弱き者。竜は強きもの。その境を越え、大切なもののために己が身を差し出した祖を誇るがよい。では、名残惜しいが私はそろそろ行く。番のことがどうにも気がかりじゃ。さあ坊や、皆に挨拶をおし……』
「くー……くー……きゅきゅ」
何やら啼きながら母竜の掌から顔を出して、集まった皆の顔をくるんと見回して「きゅあぁ!」と何事か叫ぶように啼いた。その様を見ていたユリシーズは息も絶え絶えだ。
「モーネ様、どうかお気をつけて。お会いできて光栄でした。旦那様にも、番のお方にも父を助けてくださって本当に感謝しております、とお伝え頂けますか? 帝都でお礼を言えずじまいだったから……。本当に、助けてくださってありがとうございました」
頭を深々と下げて腰を折った。鼻がつんとしてくる。
『よいよい。お互いさまじゃ。それでは、下がっておれ……』
顔を上げると氷色の瞳がゆるやかに細められた。まるで微笑んでいるように見えて、セラも笑顔を浮かべた。そして傍らにいる皆に「飛ぶから下がって、ですって」と伝えた。ゆっくりと下がって竜が翼を音もなくはためかせるのを見守った。
クオーン!と高く歌うような声を上げ、群青色の竜がふわりと舞い上がった。ぶわっと風が吹き付けてセラは思わず目を閉じた。再び目を開けると、小さくなっていく影があった。空に溶け込む様に高く昇って、くるりと一度旋回して北の方角へと飛び去って行った。
「行っちゃったな……。竜はなんて?」
「助けてくれてありがとうって。同胞に”竜の魂を継ぐ者”が変わらず友だったって伝えるって」
「お疲れさま、セラ」
トゥーリがセラの頭をぽんと軽く叩いた。子どもの頃からの「頑張ったね」と労う時の仕草に照れ笑いを浮かべた。
「ユリシーズ様、これ返すわ。断りもなく使って悪かった」
いてて、と呻きながら、ヘクターが抜き身のままの『銘なし』の柄をユリシーズに向かって差し出した。それを静かに押し返して、ユリシーズはじっと紺色の瞳を見た。
「これは、あなたが持つべきものだ」
「いやいやいや、俺じゃねえよ。使いやすいんだけど何か違うっつーか……」
「俺も同じこと思った。ヘクター、あなたの出身地は? これが使えたのはここにいる全員が知ってる。観念して正直に話してくれ」
「……北の辺境トレント地方。その後はアートレースにいたが、そこも焼き討ちにあって追われた」
「やっぱり。俺がアートレース地方に行こうとしてたのは、四英雄の痕跡と母方の親類の行方が何かわからないかと思ったからなんだ」
「えーと…………」
「言いづらいなら、あとで俺にだけ話してくれないか?」
「わかったよ。俺の姉の一人にエリウ、という人がいた」
「ということは。ヘクターさんはユーリの実の叔父さん、なんですか?」
セラは翡翠の瞳を真ん丸にして、ユリシーズとヘクターの顔を見比べた。確かに同じようにすっきりと整った顔をしている。が、似ているところはない。しいて言えば瞳の色が同系色だろうか。
「ああ、だから髪と瞳の色がひっかかってたんだ。エリウ奥様と同じような色だったから」
エマが合点のいった顔をして、アルノーと頷きあった。ユリシーズはヘクターの真ん前に立って、穏やかな顔で笑った。
「叔父上」
「柄じゃないからやめろ」
顔をしかめたヘクターに、ユリシーズは一瞬だけ考えて口を開いた。
「叔父さん」
「おっさん扱いするんじゃねぇ」
ヘクターは納得いかないように「ふん」と鼻を鳴らす。側役は俯いて震えていたが、アルノー達は遠慮なく爆笑していた。ユリシーズは困ったように眉を寄せた。
「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ。俺からみると続柄が”叔父”なんだけど」
「そうかもしれんが、今までと同じでいい。それとテオドール様には言わないでくれ」
「何で? じいちゃん喜ぶよ」
「……嫁を死なせたと随分気に病まれてたと聞いている。せっかく辛い記憶が薄れてきたのに、わざわざ思い出すことはねえよ」
「だからずっと名乗り出なかったのか? 母上が家族は皆死んだと言うし、故郷も焼けて手がかりもなくて父上達も探すに探せなかったみたいだけど」
「エリウは友達の嫁入りに隣の里に出ていて焼き討ちから逃れたんだ。俺は逃げてる途中で親達とはぐれて……気が付いたらどこかの商隊に拾われてた。拾ってくれた親父さんがいい人でな。俺は丁稚をしながら学をつけさせてもらって、用心棒の傭兵に剣を教えてもらって。長いこと南方大陸と西方大陸を行ったり来たりしていた。で、成人した年にこっちに戻ってエリウの消息を知った。とっくに亡くなった後だったから、俺はそのまま解放軍に加わって今に至るというわけだ」
「他に家族は? 見つかってないの?」
「いないな……俺も傭兵やりながら探したが。両親らしき人が帝都に連れていかれたのを見たという、同じ里の人には会えた。たぶんエリウの上にいた二人の姉も同じように連れて行かれたんだろう」
「そっか……。うちの領内にお墓があるから会いに来てあげてよ。たった一人の叔父上に会えて良かった」
「そのうちにな」
ユリシーズに抱き着かれて仕方ねぇな、と言いたげな顔でヘクター背中をポンと叩いた。身を起こして「いてぇから叩くなよ」と弱弱しく文句を言う様子に、セラも笑った。
「お取込み中のところ失礼。黒騎士団がこちらに向かっているようですが?」
レギーナの声にセラ達は振り返った。砂塵を上げて黒騎士団が近づいてくる。セラとハンナは一緒になって「こっち!」とぴょんぴょん跳ねて、両手で大きく手を振った。
「ホントにあれで十八か? なんかコムスメ感がすごいな、ユリシーズ様の婚約者殿は」
「あれで来月十九だよ。俺はあなたの甥なんだから、様はいらないよ。何かセラみたいなこと言ってるな、俺」
「ウルリーカ様達が戻ったね」
ユリシーズとヘクターが肩越しに振り返ると、神官兵達がトゥーリのマントごと棺桶のような木箱に異形の男の亡骸を丁寧に入れていた。
ようやく家族を奪った者への復讐が終わったというのに気分は晴れない。苦しそうな表情の中に虚無感や悲哀、やり切れなさを感じてしまったせいなのか。セラの親族だった者を手に掛けてしまったせいなのか。色々なことが絡み合って、ユリシーズは口を開くことが出来なかった。
棺のそばで祈る様に俯いた、頭からすっぽりフードを被ったシビルに「姉さん」とトゥーリが声をかけた。
「あのフードの人が、その、トゥーリ様のお姉さん?」
「ということは」
エマとハンナが顔を見合わせて、そーっと白いローブ姿の人を見つめた。その人は気安い感じでひらりと手を振った。真っ直ぐやってくる様子にアルノー達が「こっちくる」とそわそわし始めた。マルセルだけが冷静だ。
「おー! その金髪のいけてる子がユリシーズ様ね?! 初めまして、私は女神官長シビル。俗名はシビル・アルヴィーネで、トゥーリの実の姉です」
真っ白なフードをばさっと外して深々とシビルが頭を下げる。艶やかな黒髪がサラサラ音を立てて零れ落ちた。
「初めまして。トゥーリには昔からお世話になっています」
ユリシーズも礼儀正しく騎士礼で応じる。にまっとシビルが笑って手を出した。
「こちらこそ愚弟がお世話になっています。ところで自分に精霊の加護がないかも、ってお悩みだそうね? よかったら貴方を守護する精霊を見て差し上げましょうか?」
「……お願いします」
ユリシーズは北方大陸にいた時、トゥーリに精霊の貴石が光らなかったことを伝えた。実は密かに「加護がないのでは」と気になっていたのだ。トゥーリが女神官長に伝えていたとは思ってもみなかった。友情に感謝しつつ、白魚のようなほっそりした手と緩く握手を交わすように握り合った。シビルのまろく優しい声に「目を閉じて」と言われて大人しく瞼を閉じた。
目を閉じているのに鮮明に景色が見える。トラウゼンの緑豊かな草原、頬を撫でていく風の感触がする。そこに降り注ぐ光は、眩しいのに目が焼け付くこともない。身体いっぱいに浴びる暖かな陽の光。
「何か見えたかしら?」
「トラウゼンの草原と、風。それと陽の光……?」
「ふむふむ、なるほどね。ユリシーズ様には風と光の精霊の加護がある。貴石にそれが出ないのは四英雄としての素養が関係してるのは間違いない。詳しくは省くけど、四つの大陸はそれぞれ加護する精霊の属性が強くなる傾向があってね。ここ西方大陸は火の精霊が加護しているから、セラのように火の属性を持つ人が多いの。それにしても光ってのは結構珍しいわねぇ」
「そう、なんですか?」
「光は導き。魂の力の発露。貴方は先を進み切り拓く人なのね……。大変な道だろうけど、己を信じて進みなさい」
「はい。ありがとうございました。トゥーリも、わざわざありがとう……」
「んまー、なんて素直な子なんでしょ。あーあー、こういう素直でかわいい子が弟だったら良かったのになぁ〜。セラは男を見る目があったわねぇ」
「うるさいよ……残念聖女め……」
「シビル様、そろそろ」
「わかったわ。あなた達は南下して先に船を出しなさい。彼らを早くジ……長老のもとへお送りしなくちゃ」
「かしこまりまして」
深々と頭を下げる神官兵長と神官兵達は粛々と二つの「棺桶」を積んだ大型馬車で移動を始めた。セラはユリシーズに肩を貸しながらそれを見送った。ついぞ元凶の錬金術師の顔を見ることはなかったが、すべてが終わったのならそれで構わないと思えた。
セラの後ろでは皆が「さっきジジイって言いかけたよな……」「まさか」と囁き合っている。女神官長は「あーおわったおわった」とまるでオヤジのように肩を錫杖で叩いている。黙って立ていれば玲瓏な美女なのに、なぜだか残念な気がしてならない。
「シビル様は行かなくていいんですか?」
「後で追いかけるわよ。二度も他の大陸に派兵したのは歴史上初だから色々あるの。クレヴァ様にも挨拶しないといけないし。ユリシーズ様」
「はい」
「どうかセラをよろしくお願いします。私が言うのも何だかなって感じだけど。セラのお母さんには姉弟ですごくお世話になってて……この子とは赤ちゃんからの付き合いで、弟も私も本当の妹のように思っていたから。辛い思いをした分、誰よりも幸せになって欲しいんです」
「彼女のことは俺が生涯かけて必ず幸せにします。二人でそうなれるように、これからも手を取り合って」
「上出来」
トゥーリそっくりの皮肉気な笑い方にユリシーズは一瞬だけ目を瞠って、それから弾かれたように笑い出した。セラは半べそになりながら「ありがどう……シビルさまぁ」と嫋やかな女神官長に抱き着く。よしよしと優しく背中を撫でる手は昔と何も変わらなかった。小さなセラをあやしてくれた、優しい手のままで、それが嬉しくて涙がこぼれた。




