第6話
ときは数日前に遡り。そこは女の子らしい桃色の家具が並ぶ部屋。
「……」
ショートヘアのいたいけなジト目美少女、ルリ。彼女はベッドに体操座りをしながら、ふんふんと仔犬のように小さな鼻を鳴らしていて。また、その手には一枚の紙が。
「……」
彼女は先ほどからそれをうっとりと眺めたり、文字を読んだり、確かめたり。ときには興奮して「ふおお……!」と歓喜の声を漏らしてみたり。まるで、宝物を見つけた幼い子どものような振る舞いを。
「……」
ルリが大事そうに掴んでいるのはご近所の名店「香具夜堂」のチラシだった。その紙面には見ているだけで頬が落ちそうになるほど美味しそうなスウィーツ達が並んでいて。
「……」
いつもはそれを見ているだけで幸せだった。実際に口にせずとも、食べている状況を想像するだけで。
しかし。
「……!」
彼女は天井を見上げ、拳をぐっと握り締める。それはやんごとない意志の表れ。
実は、今日は、彼女は。とある決意を胸に宿していたのだ。
「……」
その決意とは生まれて初めてスウィーツを買いに行くということ。しかもただのスウィーツではない。マニアの間で名前を轟かす「香具夜堂」、そこで作られるものの中でも最上級。一日たった五個しか売られない幻の限定プリン。
「……」
味は天にも登るといわれ、上質な牛乳と選りすぐりの卵がしっとりと溶け合う濃厚なカスタードはまるで天使の羽根のようだと。それを頭の中に思い浮かべるだけで。
「ふおお……!」
ルリは可憐な口元を震わせる。目はきらきらと。
そして。
「……っ!」
それは起こった。
「ああ、ルリいたのか?」
柔らかい日差しが差し込む午後。
リビングには彼女があほ兄とさげずむタクヤの姿。相変わらずデリカシーのなさそうな顔で、中央に置かれたテーブルの前に座っていて。
だが、事態はそれだけに留まらない。
「……」
兄の手元を視界に捉え、ふるふると震えながらルリは近付く。タクヤが、彼が。今手にしているものは、口にしているものは。いや、違う。そんなことはあり得ない、あってはならない。
「……」
きっとそれは別の何か。例えば、冷蔵庫に入っていた他の食べ物。きっとそうだ、そうに決まっている。彼女は神にすがるかのように、そこへ指を差して。
「ん? ああ、これか?」
「……」
こくり。おそるおそる頷いた。
「帰ってきたら冷蔵庫の中にプリンがあったから食べたんだよ」
「……っ!」
目の前が真っ暗になる。
けれど、そこにまた追撃が。
「まぁ、中々旨かったけど。あんまり俺の好きな味じゃなかったな」
「……!」
死ぬほど楽しみにしていた極上のプリンを勝手に食べられ、けなされた。その事実はあまりに衝撃的で、幼い少女にはとても耐え切れるものではなく。
「……ふ、ふぇっ」
涙が。目が潤む。普段ほとんど声を発しない彼女の声帯が震えて。そうならざるを得ないほど悔しくて。
「ふぐっ……」
それでも口を三角にして必死に耐える。しかし哀しみは彼女の中でどんどん膨れ上がり。
三日、このプリンを買うためにお店の前に待機した時間。彼女は今兄によって無造作に食べられたプリンのために三日を費やしたのだ。
「えっぐ……」
初日、お店の前に行くと既に行列ができていて。それでも並んだがやはり買うことなどできず。二日目、昨日よりももっと早く太陽が昇る前から家を出たのに間に合わなくて。だから、そのまま日を跨いで並び続けた三日目。そこまでして、そこまでやってついにルリは手に入れたのだ、香具夜堂の幻のプリンを。
「ふえっ……」
胸に去来する激しい後悔。拳が強く握られる。
彼女にはその偉業を成し遂げたあとプリンを冷蔵庫の中に納め、一度自室に戻った経緯があった。そこには達成感もあったかもしれない。また加えて、どうせそれを食べるのならベストな体調で臨みたかった。徹夜明けの睡魔で味覚も定まらないこの状態では、プリンを真に味わいつくせない、と。
「うぐっ……」
その選択が失敗だった。まさか、寝ている間に他の誰かに食べられてしまうとは。いや、こんな下らない兄なんて存在に奪われてしまうとは。
「……」
情けなくて俯く。心の中でプリンに謝った。食べてあげられなくてごめんね、と。馬鹿な兄なんかに食べさせしまってごめんね、と。
「おい、どうかしたのか?」
そのときは、鈍いタクヤでもさすがに彼女の変化に気付く。彼は遠慮のない大雑把な声で訊ねてきた。
「……」
「何だよ、俯いて。何か嫌なことでもあったのか?」
「……」
「あ、もしかして。このプリン、お前も食べたかったのか?」
「……っ」
「そうか。あーもー、ルリは本当に可愛いなあ。たかがプリンでそんなに落ち込んじゃうなんて」
「……」
絶望に耐えるルリの前で、あまりに配慮に欠けた言葉。それをきっかけにして、彼女の肩がぴくりと。この男、今「たかがプリン」と申したか。
「他にプリンがあればお前に譲ってやってもよかったけど。あれは箱に一個だけだったからなあ。まあ、今度どっか行ったついでにでも買ってきてやるよ。けどルリ、プリンの一個や二個ぐらいで泣いたりしてたら立派な大人になっれなーいぞ?」
語尾の「なっれなーいぞ?」でタクヤは人差し指を軽快に宙で動かした。落ち込んでいる妹を励ます意味も込めて、おちゃらけて。
「……」
しかしそれが裏目。悲観は怒りへ、伏せ目は睨みへ。そして、まとう感情は猛々しい憎悪へ。不躾な兄の行動のせいで、ルリのボルテージは急激に上昇していく。
だがそれでもなおタクヤは。
「でもな、単なるプリンでそうやって必死になれるルリのこと、お兄ちゃんはダ、イ、ス、キ、だぞ?」
そして、舞台は冒頭。
とある休日。暖かな午後。
「なあ、そんなに怒るなよ。また、買ってきてやるから」
「……」
タクヤはうんざりしながらご機嫌を取っていた。相手は妹のルリ。ジト目が可愛い、無口系美少女である。
「別に、大したことじゃないじゃんか。プリンの一つや二つ」
「……」
「というか名前を書かなかったお前も悪いんだぞ? 帰ってきて、冷蔵庫を開けて、そこに冷えたプリンがあったらそりゃ食っちまうだろうが」
「……死ね」
彼は自分が発言すればするほど、ルリの感情を逆なでしていることに全く気が付いていない。
「……い、いや、そうだよな。名前が書いてなかったら食べる前に、他の家族に確認した方が、よ、よかったかもな」
「……」
「……なぁ、悪かったって」
「……」
「はぁ……」
そうしてタクヤはリビングから去っていった。
数分後。
「……」
ルリは首を回してちらりと背後を見る。確かにいない。何らかの陽動ではなくて、本当に彼はどこかへ行ってしまったようだ。それを確認してから彼女はすくっと立ち上がり。
「……」
父親の自室へと向かった。
そこに鍵はかかっておらず、扉は簡単に開く。
「……」
品行正しい彼女のこと。いつもなら他人の部屋に無断で入るようなことはしない。
けれど。
「……」
このときのルリは違った。それ以外何も考えられなくなるほどの復讐心に満たされていた。あの常日頃から嫌がらせをしてくる憎たらしい兄に自分と同じぐらいの絶望を与えてやる、と。自分が何をやってしまったのかをその身で分からせてやる、と。
だから彼女はその奥の、丁重に仕立て上げられた棚の取っ手に手をかけた。そしてそれを躊躇なく彼女は開き。
「……」
そこには――。
さあ、彼女はいったい何を手にしたのでしょうか?