第50話: 生の賛歌
第50話: 生の賛歌
1. 束の間の安息
築地市場前の深い闇の中で、二十数人のクローたちは互いの無事な姿を見つめ合っていた。
誰一人として欠けていない。あの20万の絶望的な包囲網を敷かれ、二体のアークデーモンが君臨した地獄から、彼らは全員で生還したのだ。
「生きてる……俺たち、本当に生き残ったんだな」
一人がぽつりともらした言葉に、満身創痍の仲間たちの顔にじんわりと、だが確かな生きている喜びが広がっていく。
激しい戦いによる肉体の疲労は限界を迎えていた。凪の指示のもと、動ける者は互いを支え合い、一度は破壊されたかに思われた月島の計画地――あの一棟貸しのシェアハウスへと身を隠した。そこで最低限の応急処置を施し、それぞれの潜伏先へと静かに解散していった。
2. 涙の再会
次に湊が目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは、見慣れたコンクリートの壁ではなく、真っ白な天井だった。
消毒液の匂い。規則正しく鳴り響く心電図の電子音。どこかの病院のベッドの上だった。
「……あ、う……」
かすれた声を漏らした瞬間、ベッドの脇からがたっと激しい音がした。
「湊……!? 湊、よかった……! 本当によかった……!」
視界に飛び込んできたのは、泣き腫らした目で何度も涙を拭う、結衣の姿だった。
高尾に置いてきたはずの彼女が、今、目の前で自分の手を握ろうとしてくれている。
「本当に嬉しい……。もう目が覚めないかもしれないって言われて……。生きててくれて、本当にありがとう……!」
結衣は子供のように声を上げて泣いた。その涙が湊の肌に触れたとき、自分が本当に地獄から帰ってきたのだという実感が、凍りついていた湊の心をゆっくりと溶かしていった。
3. 仮面の崩壊
「おいおい、泣かせるなよ。主役がまた眠っちまうだろ」
部屋の入り口の壁に背を預けていた凪が、いつもの不敵な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。彼はベッドの横にあるテレビを、顎でくいと指し示す。
「目が覚めた湊に、もう一ついいニュースがあるぞ」
テレビの画面には、ニュース番組のキャスターが真剣な表情で原稿を読み上げる姿が映っていた。
画面のテロップには『【速報】都内連続テロ・容疑者グループへの指名手配は「誤報」』の文字。
「……誤報、だと?」
「そうだ。中将という絶対的な後ろ盾を失ったデーモンどもは、警察や自衛隊の組織をコントロールしきれなくなった。機動隊のキャリアが撤退を選んだのも、これ以上人間社会のシステムを強引に動かせば、自分たちの正体が露呈すると踏んだからだろう。お前への不当な指名手配は、国の上層部の『重大なミス』として処理されたよ。これで堂々と外を歩ける」
凪はそう言ってフッと笑った。中将という巨頭を失ったことで、敵の完璧だったはずの包囲網が、内側から瓦解し始めている証拠だった。
4. 生きている証
安堵が広がると同時に、湊の肉体に凄まじい「現実」が襲いかかった。
「ぐ、あ……っ!」
左足と、そして吹き飛んだはずの右腕の付け根に、焼きゴテを当てられたような激しい痛みが走る。
ふと見ると、曲がっていた左足はギプスで厳重に固定され、そして右腕は――肩から先が分厚い包帯でぐるぐる巻きにされていた。
(右腕が……ある?)
確かに中将のフックで根元から消し飛ばされたはずだった。しかし、包帯の奥で、かすかに指先や手首がピクリと動く感覚だけは、確かに認識できた。
クローとしての異次元の超回復能力か、あるいは救出時に仲間が回収してくれた肉体か、世界のシステムすら超越して湊の腕を繋ぎ止めいるのかは分からないが。
体中に残る痛みは、単なる負傷のそれだけではなかった。限界を超えて肉体を酷使したことによる、人生で経験したことのないような、あまりにも激しすぎる猛烈な筋肉痛が全身の細胞を軋ませている。
動くことすらままならない。だが、湊の心を満たしたのは、絶望ではなかった。
(ああ、俺は……生きているんだ)
一度はあの東銀座のアスファルトの上で、完全に死を覚悟した。早く楽にしてくれとさえ願った。
そんな自分が、今こうして結衣の涙を見て、凪の言葉を聞き、全身の激痛を感じている。
「……ありがとう、みんな。俺……生きてるよ……」
ボロボロになった右足と右腕をベッドに横たえながら、湊は溢れ出そうになる涙を堪え、今この瞬間、ここに命があるという奇跡に、全力で感謝していた。




