Ⅲ-Ⅱ 誘拐、そして後始末はまたもバラ
誘拐の顛末は。
ロウタの企みがナント自治区に災厄をもたらす。
Ⅲ-Ⅱ 誘拐、そして後始末はまたもバラ
リシュリューの予定は分刻みだ。まずはナント地区を統括する議員たちと遅めの昼食会をこなした。次は地元の商工会代表の表敬訪問を受けた。控えているのはアルニウス側の商工会代表だ。そして夜の二十一時を回ればナント地区ラファイエット代表主催の歓迎式典が行われる予定だ。それが何時に終わるのか。まだパルクや事務方との明日の申し合わせが残っている。
僅かに時間が空いた。最上階の部屋へ戻った。ロザリーが豆茶を淹れて待っていた。一息つくか...と座ろうとした瞬間だ。大きく建物が揺れた。ロザリーがよろめいて膝を付く。ソファやテーブルが音を立てて鳴り、ポットが浮き上がって中身がこぼれた。壁に飾られた絵が音を立てて床に落ちる。額のガラスが散った。
「ロザリー、大丈夫か?」
「は、はい。殿下は」
「何ともない」
大きなガラス窓には大きなヒビが入った。リシュリューはそちらへ歩み寄って外を見下ろした。まだ少し揺れを感じる。馬車は止まり、人々が蹲っていた。
「地震が起きるなど聞いた事がないな。ロザリー、キルデベルトを呼べ。皆の安否を確認させろ。片付けは後でいい」
呼ぶまでもなかった。すぐにセブラン・キルデベルトがやって来た。リシュリューを見てほっと息を吐く。
「殿下、ご無事のようで何よりです。ご報告に伺おうとしていた所でございます」
「よろしい、聞こう。皆は無事か」
「...はい...いいえ」
彼の顔は青ざめていた。
「チュウゼンジ様がいないのです。先ほどセシル・レイから報告を受けました」
リシュリューの部屋の控の間でロザリーと話をした後、戻ると二人の姿がない。十五分程度の立ち話の間だった。
「マチアスはどうした?」
「セシルともども市内の捜索に当たっております。チュウゼンジ様は金銭をお持ちではないので、おそらく遠くへは行っていないと思われます」
「いや、二人ともカナデから目を離したのかと聞いている。勝手に外出したのか」
リシュリューには珍しく苛ついた声になる。ガラスの破片をまとめていたロザリーの手が止まった。
「...はい...。マチアスと平和広場へ出かけてすぐにはぐれたと...。念の為に幻姿術をかけてはいたそうです」
「魔力持ちには一目瞭然でばれる。手がかりはあるか?」
「ホテル近くの路地でチュウゼンジ様の物と思われる帽子と眼鏡が発見されました。馬車が入れない場所ですから、まだその近辺かと」
ふう、とリシュリューは大きく息を吐いた。額をこする。窓にまた近寄った。あちこちで煙が上がる。火事が起きたようだ。今度は群衆が走り回っている。叫び声もかすかに届く。その中にカナデはいる。しきたりや慣習もまだ充分に知らず、魔法を使えない彼はどのように身を守れるというのか。
......俺を呼べ、カナデ......
リシュリューはカナデの八芒星魔法陣に呼びかける。反応は無い。深呼吸だ。落ち着け、と自分に言い聞かせた。ここで感情的に護衛を叱っても今更どうしようもないのだ。
「とにかく探せ」
できるのはそれだけだ。
空が薄暗い。リシュリューにはなじみのある咆哮も響き始めた。妖狗の群れが空全体を覆う雲となって飛来したのだ。彼らの胸の前には黒の八芒星魔法陣が浮かぶ。リシュリューの目の前をガラス越しにかすめて飛んだ。
(魔法陣がおかしい)
何度も対峙した相手だ。様子は分かっている。一般の妖狗はエレメントが四つのはずだ。だが飛びかう彼らの魔法陣はひっきりなしに揺れ動く。その為に残像のようにエレメントが増えているのだ。それぞれに数はバラバラなのだが、いずれも形が変わっていた。
突然また振動を感じた。空中から伝わった。リシュリューの位置からは見えない。しかし確かにそれは黒の八芒星魔法陣の気配だ。
ロザリーが横側の窓を指さした。片手で口を押えている。黒の八芒星魔法陣が宙に浮かび上がってすぐに消えた。飾り文字の名前は確認できなかった。その下で土煙が上がる。ホテルから少し離れた場所だ。
「グリフィスの気配はしない。誰かがカナデの魔法陣を使ったな。あまり遠くはなさそうだ。行くぞ。キルデベルト、一緒に来い」
「はい」
二人はすぐに部屋を出た。
どん、と腰に衝撃が来た。カナデとヒューゴは後ろ手に縛られたまま、近くの家屋に放り込まれた。壁際にたくさんの箱が積みあがっている。まだ詰め込み作業がされていない品は、布袋の中だ。薄い光に照らされてきらりと輝く。眩い虹色を放つ透明の石だ。
「タウノ、てめえは何してやがる?」
「あ~あ、ばれちゃったなあ。坊ちゃん、もうニューホルム商会の時代じゃない。私はザイラス商会でトップになれる男なんだ」
傍らのアルニウス人が頷いた。
「ちょうどいい。ここで口を噤んでもらいましょうか。ねえチボーさん」
ラファイエット人は腕を組んだ。
「まあ仕方がない。やれ。あ、その前に。ヒューゴ坊ちゃんは魔法が使えるそうじゃないか」
彼の前に魔法陣が湧いた。ヒューゴの前でひと際光って消えた。
「何?」
「禁忌陣を張られた。アイツの方が強い」
カナデには見えないものの、ヒューゴには魔力を無力化する禁忌の術が張り巡らされたらしい。
護衛がナイフを手に近づいた。ヒューゴがぎりりと歯ぎしりをする。
「こ、こいつは関係ねえ。放してやれ」
「そうはいかない。見られた」
まずヒューゴに刃先が向かう。刃が光る。ヒューゴの喉がごくりと動く。目の前の光景に、カナデは下腹がむずむずするほど恐怖を感じる。何とかしなければ、と気ばかり焦る。そしてふと気が付いた。
(陰の気はどうだろう?)
強すぎる陽の気は毒だ。のぼせて動けなくなる。それなら対になる陰の気も有害に働くかもしれない。自分の中にある黒の八芒星魔法陣を意識した。ふぅ、と思い切り息を吐く。陰の気が体全体から沸き起こった。黒い靄が周辺を包む。
「うわあ」
護衛が悲鳴を上げて下がった。この世界にある黒は、地上では神獣のみ。それが目の前に出現したのだ。靄は護衛を包んだ。彼はよろめく。ナイフが手から落ちた。虚ろな瞳でその場に倒れた。やはり強い陰の気は体の活力を奪う。
不意に地面が大きく揺れた。地震だ。護衛は後ずさりした。
タウノが呻いた。
「まさか本当に異界人か? どうして坊ちゃんと一緒にいる?」
三人は少し下がった。部屋の隅で何事か話し合いを始める。振り返るとヒューゴも腰を抜かしていた。目も口も最大限に開いたままで気絶でもしたようだ。
「大丈夫? ヒューゴには使っていないよ!」
「は、はいぃ。さすがはグリフィス様の御使いでいらっしゃいます」
よほど驚いたのか、口調が変わった。カナデは肩同士をぶつけた。
「目を開いたままで寝ないで! 起きろ!」
はっとヒューゴは何度も瞬いた。現実世界へ戻ったようだ。彼は身震いのように首を振った。カナデは声を潜めた。
「これがイリザスィヨンってやつ?」
「左様でございます。まさかうちの番頭が噛んでやがるとは思いもよりませんでした」
「普通に話してよ。逆に気持ち悪いから! それで...どういう事だろう?」
何度か口をぱくぱくさせてから、ようやく言葉が出て来た。
「分からねえ。だがこのままじゃ...」
「魔法を使えるよね? ヒューゴにかかっている魔法は、たぶん解けると思う」
三人を伺う。彼らから見えないように黒の八芒星魔法陣を小さく出した。中央のダークスターが煌めく。ヒューゴはひぇえっと悲鳴を上げた。まじまじとカナデを見つめる。神の色がそこにあるのだ。カナデはヒューゴの耳に口を寄せた。
「ヒューゴ、君の魔法陣を出して」
「でも禁忌陣がありますので使えるか分かりません」
よほどショックだったのか、また言葉が丁寧になっている。
「僕には無いのと一緒だ。ほら、さっさと出せ!」
「はいぃ!」
カナデに見えるのは、今出現しているヒューゴの白い魔法陣だけだ。そこへチャンネルを合わせる。二つの魔法陣が重なった。チボーの魔力がどれほどかは知らないが、カナデの敵ではないだろう。
「縄を解くんだ。それからナイフを吹っ飛ばして、ドアを破壊しちゃおうか。やれ!」
カナデはまず逃げる事を考えたのだ。だから伝え忘れてしまった。魔力は最小限でいいのだと。
閃光が駆け抜けた。チボーの魔力など歯牙にもかけない。禁忌陣は吹っ飛んだ。縄は一瞬で粉になって床に散る。護衛のナイフは柄ごと砕け散った。さらに屋根も砂状に変化して部屋に降り注ぐ。
「やべえやべえ! 屋根が落ちる!」
ヒューゴがあわてて魔法陣を出した。屋根だった砂を左右に散らす。その勢いもすごい。
終いには四方の壁がそれぞれの方向に静かに倒れて行った。隣の家にぶつかって止まる。
ごおぉ~んと、地面に振動が響く。
(昔のコントのセット壊しみたい)
轟音の後、周囲は静まり返った。突然家屋が崩壊したのだ。その場にいた全員が土くれに襲われて倒れた。埃で真っ白だ。土埃とはいえ、元は屋根だ。かなりの量を浴びてしまった。重量がある。背中や肩に痛みが走った。すぐには動けない。
室内の全員は、もたもたと砂の山をかき分けて顔を出す。腰を抜かしながらも、タウノ達が逃げようと地面を這っている。ヒューゴが口を開いた。まだ震える声ながらも、態度が戻って来た。
「アイツらも倒せるか?」
「うん」
黒い靄が彼らに襲い掛かる。すぐに手足の力が抜けて砂山に横たわった。
ヒューゴも歩こうとしてよろめく。足元も悪いし、まだ震えが収まらない様子だ。何度も顔をこすった。
「ヒューゴ、ケガはない?」
「おお。これくらいならどうって事はねえ。俺はいったん会社に戻る。祖父さんにまずは報告して...」
そこで言葉が切れた。暗い空を見上げる。妖狗の群れが襲来した。彼らの胸の前に浮かぶ魔法陣が不気味に揺れ動く。ヒューゴの体が冷蔵庫に放り込まれたように震えた。
カナデはぽかんと上空を見上げた。
(ドッグラン...?)
細い体躯。羽毛の乏しい翼。怪しく光る眼。カラスのような鳴き声。魔獣と呼ぶにふさわしい外見だ。しかし顔はやはり犬に似ている。もともと犬好きだ。さらに陰の印を得たせいかもしれない。恐怖心が沸かないのだ。ややはしゃぎ過ぎの犬の群れにしか見えない。 しかし人々は違うようだ。夕暮れと相まって町は暗く、上空はおどろおどろしい。悲鳴があちこちで上がる。走り回る人々も路地から見えた。それだけではない。騒めきの中を、むしろゆったりと歩む三人連れがいた。一瞬、全身の痛みを忘れた。
(ロウタ...!)
病院で離されて以来だ。髪は相変わらず金髪だ。アンリとモリスを従えて、以前よりも堂々としているくらいだった。
また地面が大きく揺れた。一瞬の静寂の後、一段とあちこちの悲鳴が大きくなる。ヒューゴがカナデの腕にしがみついた。いてっ、と思わず声が出てしまった。ヒューゴの瞳がうるうるしている。
「大丈夫」
ぽんぽんと肩を叩いた。ふっと頭の中に呼びかけを感じる。直接脳の中に電話がかかっているような感じだ。そちらに意識を集中すると白の八芒星魔法陣が脳裏に浮かんだ。見覚えのある図形はリシュリューだ。上部に飾り文字で彼の名がある。
(えーと、僕の八芒星魔法陣を合わせると...)
全てイメージで行う。慣れが必要ではあるようだ。それでもシンクロできたようだ。白と黒の亜空間に入った。
(本を読みながら歩く...と)
むしろ携帯を見ながら歩くような感覚だ。亜空間を保持しつつも動ける。周囲をもう一度確認だ。亜空間のリシュリューはカナデの様子に驚いた感情をあらわにした。
(カナデ! 何だ、その恰好は。どうした? 怪我は無いか?)
(後でお話しします。今は、曲がり角に貴金属店? がある路地にいます。平和広場のすぐ近くです)
ロウタがいる。広場にはなるべく行きたくない。
(そこにいろ。すぐ行く)
(はい)
リシュリューの申し出は有難い。亜空間から出ると、ヒューゴはまだカナデの腕を離さない。まるで命綱でもあるかのようだ。
「カナデ...何とかしてくれ...助けて下さい...」
「え、するの?」
ちょっとはしゃぎ過ぎだろう、と思う程度の犬の群れだ。恐怖は無かった。しかしヒューゴは涙目で訴える。
「しねえのかよ? 興奮した妖獣は瘴気を出すだろう? 俺達には毒だ...長く吸ってたら熱病を起こすんだよ」
言われてみれば、空に漂うガンメタルグレイの靄がだんだんと地表へ広がっている。妖狗が吐き出すただの陰の気だと思っていたのだが、人間には害毒なのだ。
そしてカナデは別の気配を感じた。呼びかけほどは強くない。こちらを窺っている。何が起きているのか確認しているようだ。
(グリフィスか)
ここでまたラファイエット側のせいで騒ぎが起きたとされるのもひと悶着ありそうだ。
「分かった、何とかしてみる」
ヒューゴの手をそっと外した。両腕を広げる。ブラックスターが頭上に浮かんだ。そして瘴気を一気に吸い込む。妖狗達の害毒よりもカナデの抑制能力の方が遥かに強い。みるみる空気が澄んでいく。
妖狗達の動きが緩慢になった。自分たちの気を吸い取る存在に戸惑っているようだ。それができるのは唯一の神獣グリフィスのみのはず。だがこの場にはいない。何が起きたのか、彼ら自身にも判然としないままに中空を舞うばかりだ。
魔法陣の揺らめきが消えた。四つの魔法陣に戻ったのだ。ロウタが波動を出すのをやめた。彼は高らかに叫ぶ。片手を高くつきあげた。
「鎮まれ、魔獣ども!」
周囲の人々がロウタを見る。異界人の彼の来訪は知られているのだ。タイミング的には、まさに彼が魔獣を大人しくさせたように映る。
ロウタはまた波動を上空へ送った。今度は魔法陣を揺らすのではなく、彼らを追い立てて山へ帰す為だ。だが彼らは空全体に広がっている。一部に波動をくらわせても、ばらけるばかりで移動しようとしない。
「住処へ帰れ、帰るのだ! 戻れ!」
叫びが空しく広場に響き渡る。注目を浴びるロウタの額に汗が浮いた。
(どうやって追い返すんだ?)
彼にはどうして彼らが鎮まったのか分からない。また魔法陣を増幅したところで再び暴れるだけだろう。
路地ではヒューゴがカナデに頼んでいた。
「彼らを戻してくれ」
「危ないっていう空気は消えたよ。何で?」
「何でじゃねえよ! ...こっ怖いだろうが!」
妖狗はアルニウス人の領土の守り神だ。と同時に災厄を齎す厄神でもあるのだ。敬して遠ざけるのが正しい距離感なのだろう。しかもまた瘴気を出すかもしれない。
だがどうやって帰すのかカナデにも分からない。黒の八芒星魔法陣を受け取った時、魔法陣を介してグリフィスと話をした気もする。何を言っているのか、その時は分からなかったが。翻訳陣がある今なら妖狗とも話が通じそうだ。
黒の八芒星魔法陣を出した。ゆっくりと空全体に向ける。ヒューゴが突然視界から消えた。腰を抜かしたらしい。
妖狗達の魔法陣全体を意識しながら声をかけてみた。
(お出かけはもうおしまい。みんな、家に帰ろう)
彼らからの反応が一斉に沸き起こる。言葉ではない。感情の流れと言った物か。戸惑いが大きいようだ。
(帰ろうね。帰らないのかな? それなら...)
ドッグランから帰る時には、首輪を付けて行かなくてはならない。すぐに動こうとしない妖狗達にも必要かな、と思ったのだ。それをどうやって作るか。またヒューゴに頼むか。
カナデが本気で陰の気の首輪を考えていると分かったらしい。さすがにそれは勘弁してくれとばかりに妖狗達が動いた。体を丸める。自らの魔法陣に首を突っ込んだ。そのまま吸い込まれる。それと同時に魔法陣も消える。まるでそこを通り路にしているかのようだ。
(あれで移動できるのか。さすが妖。便利!)
二度目に墓所の近くでグリフィスと会った時と同じだ。彼はまるで突然現れ、消えたようだった。この移動方法なら可能だ。
ロウタはほうっと息を吐いた。
「み、見たか我が力を! 妖狗共は俺が撃退した!」
すかさずアンリがひざまずいた。
「お見事です、ロウタ・コマツ殿。妖狗さえ操る力をお持ちとはすばらしい!」
わっと歓声が沸き起こった。彼を拍手が取り囲む。
ヒューゴは荒い息を整えながら立ち上がった。
「アイツは何をほざいてんだ? 何もしてなくねえか?」
「うん。でも誰がやろうが結果が一緒ならいいじゃない?」
「そういうもんかぁ?」
ヒューゴは寝ている三人を軽く蹴った。すぐに逃げようとしたし、屋根の落下による身体的なダメージは見当たらない。アルニウス人は体力的に強いのか。
「俺はこの連中を何とかする。こいつはニューホルム商会に長く務めるタウノだ。総裁の祖父さんから信頼は厚いのに」
眉間に深いしわができた。目を細める。
「長くラファイエットへの輸出に携わっていたんだ。まさか裏切りやがるとはよぉ」
ヒューゴはもう一人のアルニウス人をまた蹴った。
「見覚えがあるな。こいつはザイラス。その名の通り、新興勢力のザイラス商会の跡取りだ」
派手に家屋が崩壊したのだ。足を止める者もいる。
ヒューゴはそんな一人のアルニウス人に声をかけた。
「そこの! ちょいと頼まれてくれないか? 俺はヒューゴ・ニューホルムだ。会社から何人か呼んでくれ。礼はする」
彼はいぶかし気な顔をしたものの、頷いた。ヒューゴの顔はかなり知られているらしい。
「祖父さんに引き渡したら、ホテルに送って行く」
「大丈夫だよ。すぐそこだし」
ヒューゴは足を揃えた。両手を前で組む。もじもじと身をよじった。
「あの~もうちょっとだけ宜しいでしょうか」
今は驚かせていない。突然の敬語に戸惑っていると、彼は深く頭を下げた。
「チュウゼンジ様、調子に乗ってすみませんでしたぁ! 異界人様に出会って浮かれてしまいました! いきなり呼び捨てしたりして申し訳ありません。危険な目にも遭わせてしまいました。助けて頂いて感謝しています!」
まるで体育会系の挨拶の調子だ。ずっと礼をしたままだ。カナデの能力を目の当たりにしたのだ。神と同列の人間を気さくに扱いすぎたと、改めて気が付いたのだろう。身内に殺されかけた恐怖もまだ感じているに違いない。毛並みが総毛だっている。
その頭をヨシヨシと撫でた。
「助けてくれたのはヒューゴだろう? お礼を言うのは僕だ。顔を上げてよ」
乱暴な言葉遣いではある。しかしここに来てから友達のように話せたのは彼が初めてだ。
「チュウゼンジ様...」
ヒューゴが涙ぐんでいる。
「今更『様』? らしくないよ。カナデでいいって」
「カナデ~!」
ヒューゴが抱き付いてきた。背中をぽんぽんと叩いた。やはり犬の体に近いのか、体温が高いようだ。もういなくなった懐かしい犬を思い出す。ノワールとは友達でもあり、時には兄弟のようだった。
(やっぱりワンちゃんってカワイイ)
相手は人間ながら、やはりそう思ってしまう。
カナデはヒューゴをなだめながら、周囲を見渡した。
町はまだ混乱している。あちこちで警笛も響く。見慣れない紺の制服は、ナント独自の警護組織だろう。
「ヒューゴ、お願いがあるんだ。黒の八芒星魔法陣を僕が出したって誰にも黙っておいてくれる?」
カナデから離れても、まだヒューゴは鼻をすすっている。
「え~御使い様なのに何で?」
「だからだよ」
自分は陰の印を持つ唯一の人間だ。両国の綱引きに使われる危険性は、政治がど素人のカナデにも分かる。
「ここだけ、二人だけの秘密にして欲しい」
「二人だけか。いいな」
ヒューゴは嬉しそうに鼻をこすった。
「お任せを、御使いさま。合点承知の助だあ」
「.........信じていいよね......」
翻訳陣は、時代劇のような古臭い言葉を出してきた。本当は何と言ったのやら。いささか軽すぎる約束の言葉に一抹の不安を覚える。
手を振ってアスファルトの道に出た。その場にいるように言われたが、大通りまで出るつもりだった。数歩も行かないうち、駆けて来るリシュリューを見つけた。彼はカナデに目を留めると、一目散に駆け寄る。
「カナデ!」
名前を呼ばれるなり、強く抱きしめられた。頭の先からつま先まで土埃で真っ白けだ。彼の服にもついてしまう。リシュリューの胸を押したがびくともしない。
「殿下、汚れますから放して下さい...あいたたた」
呻いてしまう。リシュリューはカナデを両腕でしっかりつかんだまま、少しだけ体を離した。全身に目を配る。埃まみれで白いが、ラファイエットには無い濃い色の服だ。
「どこが痛い?」
「あちこち...屋根が落ちたんです」
「なんだと? その服は? まさかどこかで脱いだのか?」
確かに脱いだが、すぐに肯定すれば語弊がある。
「汚れたので着替えただけです」
「何事だ? その服も酷い有様じゃないか」
「後でお話しします」
「うんうん。無事で良かった」
もう一度、強い力の腕の中だ。埃まみれの髪に頬ずりされる。
キルデベルトが背後にいる。リシュリューの過大な心配が恥ずかしい。それに勝手に外出した罪悪感も。あっちもこっちが痛い。カナデは棒のように体を固くして、されるがままだった。そしてそのまま抱きかかえられるようにしてホテルへ向かった。
広場ではまだロウタへの礼賛が続いている。リシュリューはちらりと視線を送っただけだ。何が起こったのか、誰が妖狗を追い払ったのかは分かっている。
そばのキルデベルトは苦々しい表情だった。拍手と歓声を懸命に耳から追い出そうとするかのように、急ぎ足でリシュリューに付き従った。
翌朝のホテル最上階。リシュリューの部屋には会議室も備わっている。出入り口にはキルデベルトが控える。そこにパルクがいた。立ったままで現状の報告書に目を落とす。
「夕べに引き続きまして、本日の予定は全てキャンセルです。会談そのものも無期延期となりました」
「まあそうだろう。拘束されたのは何人だ?」
リシュリューは指を組んだ。
「はい。まずチュウゼンジを襲った者が三名。ごろつきのような用心棒のようです。盗掘事件に関しても三人、計六名です。盗掘団については、今後逮捕者が増えるものと思われます」
アルニウス人のタウノとザイラス、ラファイエット人のチボーだ。
イリザスィヨンを大量に手にすれば、価格操作も思いのままだ。ラファイエットから高い売却益を手にできる。ザイラス商会はそこに目を付けたのだ。そして取引の信用性を高める為に、老舗であるニューホルム商会の名前を使おうとした。番頭格であるタウノに甘言を囁いて仲間に引き込んだのだ。エサはザイラス商会の総支配人。
会社を任せてもらえるとなり、彼も目がくらんだのだろう。
チボーは盗掘の実際の指揮を執った。掘るだけ掘って、すぐに撤収したのだ。もちろん証拠を残さない為だ。
二国間でもめ事が起きるのは織り込み済みだ。まずはイリザスィヨンの売却益が手に入る。さらにラファイエットから賠償金を受け取れる。アルニウスに損はない。回収されたイリザスィヨンも戻る。
そしてラファイエットにイリザスィヨンを売りさばくのは、ザイラス商会が一手に担えばよいのだ。
「誘拐と監禁に付随して倉庫が一棟まるまる破壊され、両側の建物の壁にヒビが入りました。この件についてはザイラス商会側より不問に付す...というか賠償請求はラファイエット側には行わないとの連絡がありました」
「当然だろう。実質的な破壊者はニューホルムの者だ」
その通りではある。力の加減ができなかっただけだ。
「今後の対応については、まず彼らの事情聴取が終わり次第の協議となります」
それぞれの国に連行されて、その法律で裁かれる。ラファイエット側が連れて行けるのはチボーだけだ。アルニウス側でどんな証言が出るのか。
「こちらの不利にはしないように」
「かしこまりました」
パルクは少し次の言葉を言いよどんだ。リシュリューに促されて続ける。
「ロウタ・コマツがナントに留まりたいと要望しております」
「首に縄を付けてでも引っ張って行きたいところだ。どうにか帰せないか」
昨日の広場の態度は目に余る。しかし一晩経てば、彼は妖狗退散の英雄に祭り上げられていた。置いて行くのは不安があった。本来は不要である人員も必要だ。
「本人の強い希望です。居住場所は当地の護衛士事務所に一任し、引き続きモリス・ベルナールを付けるのでいかがでしょうか」
実はアンリ・ヴァランタンも残りたいと希望したのだ。しかし彼は団長である。責任者を無期限で国外にはおけない。複数の護衛士を交代で派遣しながらの滞在になるだろう。
「人選を急がせていますが、取り急ぎセブラン・キルデベルトが残ります」
「ああ。彼なら心配要らないな。魔力も強い」
キルデベルトは無言で頭を下げた。パルクは報告書の束を静かに閉じた。
「私は残って残務の調整をいたします。殿下とチュウゼンジは明日のご帰還でよろしいですね?」
「ああ。今日は休ませる」
カナデは全身の打撲傷だった。昨日すぐに現地の医師に治癒魔法を受けさせた。もうあまり痛みはないだろうが、念の為に休養日を設けた。それにしても、ほぼとんぼ返りだ。ゆっくり観光もさせてやれないのは気の毒だった。町に出たのも、少しの息抜きが欲しかったからだろう。叱りはしなかったものの、見覚えのない服を着ていたのにはかなり複雑な気分になった。他の誰かに肌を見せるとは。簡単に話を聞いたが、本当に無事で良かったとしか言いようがない。
勝手に外出のあげくに誘拐されたのだ。マチアスとカナデは説諭の上で謹慎処分となった。部屋で大人しくしているはずだ。
リシュリューはぼんやりと腕の中のカナデを想った。彼に触れると、いつでも石のように体を固くする。昨日もそうだ。心配のあまりに力をこめ過ぎた。少し苦しそうだった。頬が赤くなるのは照れているようだ。接触が嫌ではないのだろう。ただの緊張感なのか。だとしたら、警戒感をいつ解いてくれるだろう。
(柔らかく解けた肢体の感触も味わってみたい...)
などと妄想を逞しくしていたら、少しぼうっとしていたようだ。
「殿下、ではこれにて失礼いたします」
パルクに声を掛けられてはっとなった。
「パルク。カナデの話だと、こちらの情報がアルニウスに詳細に漏れていたようだ。チボーの仕業だろうが、再度確認をするように」
「かしこまりました。...ところで、今少しお考えになっていたようですが、何かまだございますか?」
「いや、以上だ」
カナデの抱き心地を妄想していたのは、パルクには関係ない事だ。リシュリューは軽く咳払いをしたのだった。
当のカナデは大人しく部屋にいた。もうどこも痛みもないし、痣にもならずに済んだ。マチアスは部屋を分けられて謹慎中である。お目付けはセシル一人だけだ。しかし昨日はいなかった地元の護衛士が廊下に二人も立っている。
そこへフロントから使いが来た。来訪者があるそうだ。出るなと言われているのだが、少しでいいからと拝み倒される。関係者以外は二階以上の訪問を禁じられているので、部屋には来られないのだ。仕方がない。セシルと一人の護衛士が一階へ降りた。
ロビーの奥には喫茶コーナーがある。来客はここで待っていた。一般の客なら門前払いだろう。しかしフロントは無視できなかったのだ。ダブグレイの毛に包まれたアルニウス人が座っている。眼鏡の奥の瞳も同じ色だった。体全体から年を経ただけではない重厚感が溢れる。背後に体格の良いアルニウス人が四人も控える。警備員だろう。彼らの隣にヒューゴもいた。
ホテルマンが老人に耳打ちする。
彼はセシルを見ると立ち上がって礼をした。
「こちらから伺わねばならぬ処、お出で頂き感謝いたします。お初にお目にかかります。私はハッキネン・ニューホルムと申します。ニューホルム商会の総帥を務めております。こちらは孫のヒューゴ・ニューホルムです」
ヒューゴは深々と礼をした。今日は総裁である祖父と一緒だ。腕をぴったりと体の両脇に揃えた。緊張感が見て取れる。
ナントのみならずアルニウスでは強大な経済力を保有する財閥だ。ホテルのフロントも無視できなかったようだ。
「初めまして。カナデ・チュウゼンジ様のお付きを勤めております。代理でお話を伺います」
名乗らないセシルの警戒心を感じたのだろう。ハッキネンは目を薄くした。しかし変わらぬ口調で続ける。
「クリーニング費用とシャツの代金は、確かにお届け頂きました」
昨日のうちにロザリーが手配してくれたようだ。座るように勧められたが辞退した。すぐに戻らねばならないだろう。ハッキネンも腰を下ろそうとはしない。それで全員が立ったままで話すことになった。
「手前どもの番頭が大変失礼を致しました。お詫びを申し上げます」
「ヒューゴさんが助けてくれましたと伺いました」
「そこはヒューゴを叱ったところです」
ハッキネンは目を細めた。
「実際に動くのは下の者の役目です。上に立つ者は命じるのみでなくてはなりません。ヒューゴはチュウゼンジ様を連れ歩くべきではありませんでした」
拉致された事自体が、ハッキネンにとっては許されざる油断らしい。ヒューゴが俯いた。
「チュウゼンジ様も軽率な行動を取る事のないよう、しかと心にお留め置くようお伝え下さい。グリフィス神に受け入れられて人智を越える能力を背負っておられるのです。ゆめお忘れなきよう、と」
セシルはその場に立ちすくんだ。この世界には存在しない黒い髪と瞳だけではない。得てしまった陰の印と八芒星魔法陣。自在に扱える陰の気。これらはカナデが思っているよりも遥かにこの世界では重い物なのだ。セシルも改めてそれを突きつけられた。
ふとハッキネンの瞳が和らいだ。
「迷われた時にこの年寄がお役に立てるやもしれませんな。異界に戻るおつもりがないのなら」
「え...? まさか帰れる...んですか...?」
思わず声がかすれた。返事は無かった。彼はまた深々と礼をした。お供に目で合図をする。ゆっくりと出入口へ向かって歩き始めた。
セシルはしばらく呆然としていた。何度もハッキネンの言葉が駆け抜けていく。戻るつもりになれば、帰れるのか。
(帰る方法はないって...)
まだカナデが眠っている病院で、ディミトリがロウタに言った言葉だ。しかしここは妖狗の住処だ。彼らとの付き合いはラファイエットよりも遥かに濃い。まだ知られていない何かがあっても不思議ではない。
ヒューゴが駆け足で戻って来た。
「あの、御使い様に手紙を書いてもよろしいでしょうか? お礼とお詫びをしたいのです」
「私には分かりせん。後で然るべき部署へ確認します」
くぅん、と喉から声が漏れた。ヒューゴは肩を落とす。急いで祖父一行の後を追った。
ニューホルム商会の影響力から、面会を断れなかったフロントだった。しかし護衛士がドアの外にいるとはいえ、カナデを一人にはしておけない。セシルは急いで階段を上がったのだが...。
カナデがドアから出ていた。訪問者の名前を聞いていない。心配だったのだろう。
「セシル、大丈夫? 誰が来たって?」
「部屋に戻って! 詳しくは中で」
しかし。
降りて来たリシュリューに鉢合わせてしまったのだった。
にっこり笑った殿下のこめかみがぴくぴく動くのを、その場の全員が固まって見守った。
馬車はナント川を渡り、シュドナントに入った。馬車列が進む。どんよりした空気を積んで走るのは、ひときわ質素なタイプの車両だ。中には謹慎中のマチアスと、今朝の一件で同じ懲罰を受ける羽目になったセシルの二人だった。
ナント平和広場の件は、セシルには非はない。しかし今朝は部屋を空けたのがリシュリューにばれてしまった。ほんの数分だ。最悪のタイミングで、カナデを一人にしたのがばれてしまった。しかも謹慎中のカナデまで外だ。廊下を伺っていただけだが、出たには違いない。
マチアスがぼそっと言った。
「こんな形でも二人きりになれたなあ」
「何を言ってるの? そもそもマチアスがカナデを外に連れ出したのがいけないでしょう」
「分かってる。でもさ...」
マチアスは窓から外を見た。ナントは遠ざかり、周囲には淡い緑の木々が揺れる。
「カナデはずっとリシュリュー宮暮らしだ。いつも護衛や監視が付いている。自由に出歩くのもできない。それがさ...それがじーっと窓の外を見ているんだよ。目をキラキラさせてさ...。つい...堪らなくなっちゃってさ...」
不用意な接触がカナデの身に危険を及ぼしてしまった。また下手をすれば国家間の問題にまで発展する可能性もあるのだ。
セシルは膝の上で指を組んだ。関節が白くなるほど握る。目覚める前から世話をしてきた。素直で優しい性質なのはすぐ分かった。弟のような気持ちがある。行動の制限が大きいのも重々承知だ。それがカナデのストレスになっているであろうことも。今朝はほんの短い時間ならば、と一人にした。マチアスと同罪だ。
「...そこだけは理解できるわ。そこだけは」
「そこだけ?」
え~、とマチアスは身をよじる。二つしか違わないはずだ。もっと年下のようだ。下手すればカナデより幼い動作だ。セシルは軽く笑ってしまった。急いで口を押える。
「ねえセシル。今笑った?」
「笑っていません。私たちは謹慎中よ」
それでも狭い車内は少し空気が温かくなった。
ひと際豪奢な馬車の中は、さらに重い雰囲気だった。乗客はリシュリューと護衛士アンリ・ヴァランタンだ。キルデベルトが急遽居残りになった為、護衛が団長に変更になった。
「そういえばコマツは波動を使っていたようだね。あれは異次元界の能力なのか?」
アンリはすぐに答えなかった。じっと見つめられているのに気が付くと、軽く頭を下げた。
「妖狗を扱えるのは確実です」
彼らの発する瘴気を含む陰の靄を吸い取ったのはカナデだ。その後、波動は何度か空に放たれた。しかしどれほど効果があったのか。リシュリューから見ると、妖狗は勝手に帰ったようだった。アンリは気が付いていないらしい。
「コマツはお前に預けてあった。あの力を知っているだろう? だからナント平和広場へ同道したのではないか?」
「いいえ。たまたま通りかかったら妖狗が暴れていたのです。鎮めてやろうとコマツ殿が仰ったのです」
妖狗の魔法陣が激しく揺れていた。ロウタが広場に着いたのとほぼ同時に止んだ。しかしリシュリューはそこに触れなかった。
「なぜコマツはナントに残りたいか知っているか?」
ここでアンリはきっと顔を上げた。
「恐れながら、ラファイエットでは充分な評価が得られないと感じたのではないでしょうか。同じ異界人ながら、片や王宮住まい。片や田舎貴族の別邸です」
「ヴァランタン家は名家だ」
「王家とは別格です。コマツ殿がどう感じるか。それにあの力です。もっと重用してもよろしいのでは? 爵位授与もありえましょう。また護衛士は有益な力を持っております。騎士に昇格して頂き、功績のあった者にも爵位は必要だと考えております。父も同じ考えでした」
一気に舌が滑らかに滑り始めたようだ。盗掘問題が新しい局面を迎えたばかりだ。やはり直訴するにはタイミングが悪い。国内の体制の変更は後回しになるのを、今のアンリには思い至っていない様子だ。
「ふむ。なるほど」
と相槌を打ちながら、リシュリューは先代ヴァランタン侯爵を思い出していた。魔闘士の下部組織であった護衛士を切り離そうと上奏したのは彼だった。身分制度や軍属から一定の距離を置けば、ナント自治区や国外へも魔力を持つ人員を派遣できる。護衛士の研修期間に魔力増強の講座があるのはその為だ。また身分を問わない募集で、労働力の受け皿にもなれる。
つまり護衛士を騎士に昇格するのは、先代の意図とは逆行する形になってしまう。それを息子はきちんと理解していない。
馬車列が歩みを停めた。シュドナントだ。行くときも停車した川に近い馬車寄せに到着したのだ。
先にアンリを下ろす。護衛士の点呼と引き継ぎ業務の確認を命じた。
すかさずロザリーが馬車に近寄った。車両内の簡単な清掃と、飲食物の補充だ。
ディミトリら魔闘士が迎えに出ている。リシュリューはにこやかに彼に歩み寄った。ディミトリからエールのカップを受け取って軽く乾杯した。
「殿下、お疲れ様でした。話は聞いた」
「うん。今回は痛み分けになりそうだ。だが得る物はあった」
二人は林の方へ向かった。立ち働く人が遠くなった。それでもリシュリューは口元が見えないように川の方を向く。
「パルクが条件を詰めてくれるだろう。盗掘の為に不法侵入したのも、アルニウス人と共謀だ。だから賠償金の交渉が少しは楽になるかもな」
「結構だ」
ディミトリも皆に背を向けた。リシュリューは更に声をひそめる。
「ナントにデマレ研究班長を派遣しろ。あそこは魔闘士団から独立組織にしている。入国に問題はない。何か理由を付けてコマツを調べるんだ。それとは別に監視を付ける。魔闘士を使おう」
「軍人は入国できないぞ」
「構わんさ。別組織を立ち上げて、一時的にそちらの所属にすればいい。何か卸業者にでもするか」
魔闘士の身分を隠して潜入させるつもりだ。
「強引だな。...それほど重要案件か」
「その通り」
リシュリューはエールを飲み干した。
「後は...そうだな。アンリ・ヴァランタンの身辺調査が必要だ」
「えっ?」
これにはさすがにディミトリも驚いたようだ。声を上げてから、慌てて口を押えた。少し離れていたので、誰も気にしていないようだ。リシュリューはにっこり笑った。とても深刻な話をしているとは思わせない様子だ。ディミトリの耳元で囁いた。
「例の爆発事件はコマツが犯人だ。そしてアンリも承知だった可能性がある」
変形するほど揺さぶられる魔法陣。魔力の痕跡なく激しく揺れる地面。それは埋設されたガス管に応用できる。無機物と有機物どちらにも有効なのだとしたら厄介だ。そしてアンリのしつこいほどの出世要求だ。コマツという武器を得たので強気になっているのか。
(ああ、もう一つあった...)
運ばれる荷物を見て、リシュリューは軽く眉をひそめた。盗掘犯人の一人の名前がチボーだった。彼の所属するのはラファイエットの物流の最大手だ。配達地域は全国に及び、王宮にも出入りがある。情報を集めるには便利だろう。
異界人の来訪、爆発事件、ロウタの能力もアルニウスに伝わってしまった。チボー物流で集めた情報を売っていた可能性は高い。しかし一気に排除するのは企業規模からいって厳しいだろう。まだカナデの黒の八芒星魔法陣は隠せているようだ。それだけが幸いだ。
「まずは調査だな」
配達員の一人一人を精査する。膨大な人数だ。警察組織の協力が必要だろう。
「異界人が来てから大変だな」
「カナデのせいじゃない。盗掘が一番先の問題だよ」
カナデとロウタは巻き添えを食っただけだ。
「君がカナデを囲ったのは、あちらへ渡さない為か? 彼に黒の八芒星魔法陣があるのは、病院でもう分かっていただろう」
「違う、まさか。カナデにそんな話をしないでくれ。本当に良い子なんだ。誤解させたくない」
先ほどまでの厳しい声の調子はどこへやら。頬を染めて抗議する王弟は、カナデが関わると少年のようになってしまう。ディミトリは不安を感じた。だがカナデを留めるのは国益になる。
「...がんばれ」
と、幼馴染の肩をぽんぽんと叩いたのだった。
そのカナデは、休憩中の馬車の中だった。付き添いが見知らぬ護衛士だけだった。ロザリーはリシュリュー付きだ。彼はセシルほど細やかに面倒は見てくれない。看護ではなく護衛士だから当然だ。
(これから陽の気が強くなるんだよな)
体力温存とばかりにクッションの山に埋もれていた。
ちりちり、と瞼の裏で光が揺れる。頭の中に直接電話がかかってくるような感じは、誰かの八芒星魔法陣に呼ばれているからだ。だんだんと慣れてきた。そちらに意識を集中する。色合いが黒だ。巨大な陰の印は、名前を確認するまでもない。彼だ。
すぐにカナデは亜空間に飛び込んだ。暗黒の闇にグリフィスがいる。象ほどの大きさだ。これが通常モードらしい。横たわって目を細めている。
「グリフィス!」
カナデは彼に飛びついた。背中は鱗に覆われているが、腹側はふわふわの毛並みだ。柔らかくカナデを受け止める。カナデはしばらく頬をすりすりさせて感触を味わった後、腹を枕にしてごろんと寝転がった。
「ああ...温かい。気持ち良い。そういえば、地下を掘った犯人が捕まったよ」
「知っている。まずはナントの長より報告があった。猿には相応の罰を下すそうだな。ひとまず許してやろう」
「偉そうだな~。あ、神様だから当たり前か」
グリフィスの喉からグルグルと唸るような声がする。それはちょっと猫っぽい。
「我は猿や犬と違う生物だ。違う事をやるに過ぎない。それを神と呼ぶのはお前らの勝手だ。...お前は我が怖くないのか」
「全然。昔、実家で大きな犬と暮らしてた。ノワールって名前でね。よくこうやって枕にさせてくれたっけ」
「またノワールか。我と並ぶ者のようだな」
グリフィスは長い首を回した。カナデの頬に口が近づく。黒い舌がぺろぺろと顔を舐めた。
「違うよ。グリフィスの方がすごい」
「ふむ。それなら良かろう。さほどでもない奴をお前は好むのか」
「ノワールは家族だ。大好きだったよ。それにグリフィスを何て呼ぶのか僕の勝手なんだろう?」
「まあいいが...他の人間には竜と呼ばれている」
「うん。僕もそうする」
次元が裂けたのは、カナデ達が落ちた時が初めてではない。妖狗が大暴れすると起きる事象だ。異次元の者が吸い込まれようが知った事ではなかった。あの現象により、猿や犬が恐れてひれ伏せばそれで良い。
しかし今回の猿は違った。グリフィスと同じ色の髪と目を持つ。
『寂しい? 哀しい?』
そんな問いかけをされたのは初めてだ。天と地の狭間で気の塊から生れ出て幾星霜。もはや何年生きているかも分からない。同族もいない。淋しいなどという情を感じた事は無かった。だからグリフィスは問いかけた。
『哀しいとは何だ?』
言葉は通じなかった。カナデはただ先に落ちる人を助けたい。その一心だった。そして潰れる同胞を見た時に、彼に沸き起こった感情。怒りではなく心を激しく揺さぶる情。そして次元の境界を超える刹那に激情が激しい波動に変化した。カナデが八芒星魔法陣を掴む。それに触れる者など今まで存在しなかったのだ。カナデにブラックスターがのめり込んでいく。同時に八芒星魔法陣も移った。
抱き付かれて虚を突かれた。まるで旧知の知り合いのような態度である。この猿に興味が沸いた。だから黙って魔法陣も渡したのだ。初めての眷属だ。
二人はしばらく無言だった。言葉は要らない。温もりを交換し合っていた。カナデには眷属だと言われたのが実感できた。同じブラックスターを保持する同士だ。かつてカナデはノワールと話しがしたいと思ったものだ。思いもよらない形で実現したようだ。
「どうしてグリフィスは僕に魔法陣を分けてくれたの?」
「奪っておいて何を言う。まあ我も、お前の波動を使えるようになったぞ」
同一の陰の印を通じて二人が繋がっているからだ。ガタガタガタガタっと不意に馬車が揺れた。周囲の人々がぎょっとする。黒の八芒星魔法陣が浮かんで消えた。
「カナデ、何を考えている?」
「うん、ちょっとね」
カナデはいつも少し寂しそうだ。また彼の頬を舐めてやった。するとくすぐったように笑う。そしてグリフィスも楽しくなる。
(これが人間どもの言う家族か)
昨日はナント平和広場でひと悶着あったようだ。だがすぐにカナデが収めた。自ら出て行かずともトラブルが解決できる。これも嬉しい事の一つだった。猿の寿命はたかが知れているし、壊れやすい。グリフィスの生からするとほんのわずかの期間だ。
(その間くらいは可愛がってやるか)
そう思うグリフィスだった。
馬車の扉が開いた。息を切らしたリシュリューだ。
「どうした? 魔法陣が重なっていたぞ。グリフィスか?」
亜空間を一旦横におく。するとシンクロが解けた。グリフィスは帰って行った。
「はい。彼はもう怒っていないようです」
「......そうか」
カナデは神獣との橋渡しができる。アルニウスとの不要な軋轢も避けられ、強大な力で抑制力にもなってくれる。しかしリシュリューが宮殿に彼を留め置くのはそれだけでないのだ。
「気分はどうだ? まだ長いからな。ロザリーをこちらに寄越そう」
「はい。ありがとうございます」
ロザリーが同乗してくれたら楽だ。笑顔になる。リシュリューは満足げに頷き、カナデの頬を撫でた。
ナント自治区。平和な昼下がりだ。地震の影響で起きた火災も、初期消火に成功して被害は最小限で済んだ。
本来ならラファイエットとの最初の会談が終わっている時間帯だ。会場となる場所だった評議会場ではアルニウス政府高官が集合していた。盗掘事件は両国の共謀だった。改めて調査が必要になる。今後の為の会合がもたれていた。
アルニウスは共和国である。政治のトップは選挙で選ばれた大統領オリヴェル・ハカミエスだ。司法は宰相リアム・ベックマン、軍事は将軍ローヴェ・バーリが担う。この三人が会議室にいた。
ハカミエスは濃い茶色の毛並みだ。腕を組んだ。
「ロウタ・コマツがナントに残るのは収穫だった。ここに置いたままで我が国側へ引き込めないか」
体がひと際大きなバーリが答える。彼は灰色だ。
「以降も行動に注視しましょう。彼は妖狗を操れるようです。地震については調査中です」
イリザスィヨンの返却は二の次だった。一番の問題はグリフィスを怒らせた事だ。ラファイエットに彼が攻撃をかければ、再び戦争になってしまいかねない。実際にアルニウス人からグリフィスをけしかけたわけではない。
また副産物として異次元人の出現だ。チボー物流を通じてラファイエットの情報が詳細に入ってくる。生存者がいるのも驚きだが、チート能力を持っている。その力を今回まざまざと見せつけられた。
バーリが言った。
「今回、ナント市内に黒の八芒星魔法陣が浮かびました。しかしグリフィス神の出現を見ておりません。居たのはロウタ・コマツです。まさか保持しているのでしょうか? カナデ・チュウゼンジについては統制が厳しくて情報が入って来ません。できれば彼もこちらへ引き込みたいものですが、かなり厳重に囲い込まれていますね。現在は王宮に幽閉されている模様です」
ハカミエスはコホンと咳払いした。
「王弟が手を付けたという噂もある。未知数ながら彼にはそれなりの価値があるのかもしれない。チボーを使った情報収集が厳しくなるな。別の手段を至急手配しなくてはならぬ」
バーリは頷いた。
「それはニューホルムが動いてくれるでしょう」
それから話題は国交正常化について動いた。
ラファイエットの南西側には、彼らの始祖の国ファルカ公国がある。海沿いでこちらも豊かな国だ。アルニウスはこちらとは和平条約を締結して国交がある。輸出入も盛んだ。しかし物流に問題がある。大陸中央を通過できない為に、西アトラン山脈側から公海を大回りする船便だけなのだ。時間も経費もかかってしまう。
ベックマンが提案した。
「異次元人を国交回復のきっかけにできないでしょうか」
二人はそれぞれ違う能力を持つ可能性がある。できれば引き取りたかったのだ。しかし二人がアルニウス側に寄れば、ラファイエット国に居ても脅威にはなりにくい。
「アルニウスで暮らすのは難しいでしょう」
生活様式の全てはアルニウス人仕様だからだ。
「しかし我が国に友好の証として招待するのはいかがでしょう?」
二人とも頷いた。口実はいくらでも付けられる。この世界を彼らに知ってもらうのも重要だ。
「二人を出しますかね?」
「共謀とはいえ我が国の領土に無断侵犯を行ったのは事実だ。その辺りに絡めれば出さざるを得ないだろう」
三人はこれからの計画を練り始めた。
ナントから戻って数日が過ぎた。往復だけでも五日かかるのだ。さすがに心身ともに疲れた。もっともカナデに与えられた仕事はまだない。彼もまた謹慎中の身だ。リシュリュー宮から外出禁止である。病院へのヒーリングも一旦は休憩だ。
陽の気が溢れる午後だ。季節は夏の盛りを迎えた。暑いのはさほど苦手ではなかったのだが、とても体に堪える。やはり体質がここでは変わってしまったのか。多少暑くても、クーラーはもちろん扇風機すらまだ無い。
カナデはリシュリュー宮の図書室にいた。ここは一階の端っこだ。日当たりは悪い。本や紙の資料がたくさんあるため、劣化防止用にあえてそうしているのだろう。カナデにとっては有難い。雑誌なども置かれている。壁の大きな地図の前の広いテーブルに座って、美術年鑑をぺらぺらとめくった。
(う~ん...ロココとか新古典主義っぽいな)
西洋画なら十七世紀後半から十八世紀前半だ。軽やかで装飾的な絵画と、格調高い形式美の写実的な絵画が主流のようだ。やはり色使いはどれも淡い。まだ印象派やロマン主義さえ出て来ていないらしい。パソコンでデザインするのがメインだったカナデには別世界だった。
魔闘士団副長官のシモン・メーストルが傍にいる。豆茶をカップに注いで持って来てくれた。この図書室は飲食可能だ。マチアスとセシルがまだ謹慎中だ。ナントに護衛士を派遣している都合上、人手が足りないらしい。それで魔闘士で役職付きの彼までカナデの護衛に駆り出されている。
「ありがとうございます」
「いいや。私も休憩するからいいんだよ」
よいしょっと彼も腰を下ろした。カナデ向けの濃い豆茶だ。口に含んで微妙な面持ちになった。すぐにカップにお湯を足した。
「苦い...何かつまむかい?」
「いいえ。お腹が減っていません」
ラファイエットの食味は全体的に薄い。慣れてはきたが、たまにはおせんべいやポテトチップスを食べたくなるカナデだった。
「セシルとマチアスは、いつ復帰ですか?」
「あと七日だね」
二週間(十六日間)の謹慎は決して軽くないそうだ。しかもこの間は無給だ。
「厳しいですね。何も無かったんだから結果オーライじゃダメなのかなあ」
「ダメだねえ」
ふう、とため息をついて本を閉じた。自分のせいだ。それで二人とも懲罰はちょっと切ない。
またナントから帰ってからリシュリューとまともに会話できていなかった。カナデが寝ている間に出仕してしまう。夜も待っていても、戻るのが遅い。疲れているだろうし、早く休んで欲しい。となると、やはり顔を合わせる時間さえとても少なくなっていた。
シモンが言った。
「そういえば新しい紳士録が出るよ。そこにチュウゼンジさんが載るそうじゃないか」
「は?」
寝耳に水だ。紳士録とは社会的地位のある人物を記載した名簿のような物である。カナデは異次元人であるのを除けば、身分的には平民だ。それが掲載されるのか。本人の意思確認は? 個人情報は?
「あれ、殿下に聞いていなかった? 準男爵位が授与されるよ」
「それ、何ですか?」
「あ~詳しく知らなかったんだね」
シモンが説明してくれた。
爵位は幾つかある。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。その更に下位が準男爵。一代限りの名跡だ。立場としては貴族ではなく平民のままで、いわゆる名誉称号である。功績のある人物に授与されるのが一般的だ。
「叙爵なんて聞いていません......僕は何もしてないし! 今からでも断れませんか?」
「まさか!」
シモンは顔をしかめて大きく手を振った。
「皇后陛下のご推薦があったって? 断るのは無礼だよ。ああ~授与式後は、チュウゼンジ卿って呼ばなくちゃだな」
やはりきっちり身分制度の国であった。軽く眩暈がする。陽の気当たりのせいだけでもなさそうだ。
図書室の隅にはカウチもある。カナデは休むから、とそこへ移動した。クッションを枕に寝転がる。白い格子模様の天井がちかちかとしてしまうので目を閉じた。
シモンはカップを片付けている。
(推薦って! 僕が何かしたのか?)
ベルナデットにはあの邂逅以来会えていない。こちらからお目通りを願うほどの立場ではないし、呼ばれてもいなかった。それなのにいきなり叙爵推薦とは。
(可愛らしくてきれいな人だったな)
彼女も陽の印を持っているのだろう。最高級の貴族だ。きっと輝く魔法陣に違いない。そう思っていると、不意に脳裏に魔法陣が出現した。初めての図柄だ。しかしほんのりとベルナデットの気配を感じる。交換した絵図だが、緊張のあまりに覚えていなかった。
かちり、とシンクロした。カナデは電話をかけてしまったようだ。彼女が応えてくれたのだ。
白と黒を分ける空間に立っている。リシュリューよりも遥かに強い陽の気だ。カナデは目を細めた。閃光ともいうべき輝きを背にベルナデットが立っていた。
「お帰りなさい、カナデちゃん」
カナデは深々と礼をした。言葉が出なかった。『お帰り』という挨拶の何と温かい事か。
「...戻りました...ご心配をおかけして...」
やっと声が出せる。ここはもう迎えてくれる人がいる場所だ。ベルナデットの自然な声音はそう思わせてくれる。
「リシュリューに聞いたわよ。頑張ったのね」
それにしても眩しすぎる。彼女の露出している顔はもちろん、首や手首まで真っ赤だ。しかし向かい合っているうちに、赤みがみるみる引いていく。
カナデは陰の気を取り出した。日傘を作る。彼女に差し出した。
「よろしければお試しを」
「あら、面白い事ができるのね」
ベルナデットはそれを受け取った。手肌にひんやりと涼感を感じる。頭上にかざすと体が軽くなった。
(サンドラ夫人が見たら叫びそう。でもまだ暑いわ...)
カナデが大きく陰気を出した。真っ黒な四阿ができる。
「中へどうぞ。...あ、黒いのは大丈夫ですか?」
カウチまで登場している。カナデは少し空間から陽の気を握った。指を一気に開いて四阿の天井に放つ。それらは天井で星になってきらめいた。
「平気よ。まあ素敵ね」
「殿下に教えていただきました」
ベルナベッドは真っ黒なカウチに腰を下ろした。背もたれに寄りかかって頭上を見上げる。初めて見る月の無い暗い夜空だ。しかし無数の星が彩る。
(美しいわ...それに心がとても落ち着く...)
目を閉じた。熱気が体から去るのを感じた。肢体からのぼせが抜けて軽やかに指を動かせる。心が穏やかになるのを感じた。結婚してから、いつも何かに急き立てられるようだった。それが落ち着いた。オレリオンソルと結婚する直前の怖いような、それでいて楽しみな心が蘇る。幼い頃から彼はベルナデット憧れの男性だった。
(そう...優しくて賢くて、何より私をとても大切にしてくれる方...)
愛しい夫の姿を思い描いているうちに、いつしか彼女は安らかに寝息を立てていた。
カナデはそっとシンクロを外す。
「カナデはここか?」
扉が開いた。リシュリューだ。シモンが立ち上がって礼をする。カナデも起き上がろうとしたが、それを制して足元に腰を下ろした。
「シンクロしていたか。誰とかな?」
「え~と...」
言っていいものか。迷っていると、頬を軽く撫でられた。
「ふうん。まあいい。兄上が会いたいと仰っている。一緒においで」
カナデは飛び起きた。
「こ、国王陛下に謁見ですか? マナーとか分かりません! 服とか着替えた方がいいですか? 僕は外出禁止ではないですか? あ、あの例の授与がどうこうって」
リシュリューはちらっとシモンを見た。副団長はしらっと目を逸らす。どうやらサプライズ的に教えたかったのを、先を越されてしまったようだ。
「陛下がお呼びなんだ。外出を許す。私的な茶話会だ。そのままでいい。シモン、同行しろ」
お咎めはなしのようだ。シモンはほっとした様子だった。
場所は王宮ではないようだ。シモンが運転するカートでそちらへ向かったのだった。
その少し前だ。王宮から少し離れた夏用の離宮がある。そこの白と金に飾られた驕奢な椅子でベルナデットはぱちっと目を開けた。うっかり眠ってしまった。カナデとのシンクロはその間に終わっていた。寝顔を夫以外に晒すなど貴婦人としては恥である。しかしその恥ずかしさよりも、体調の良さに驚いていた。すっかり体が軽い。
サンドラがティーセットを運んで来た。見るからに陽の気が溢れている。
「陛下、陽の気をどうぞ。これから炭かぶりとお会いになるのですからしっかりと摂取しなくてはなりません」
迷いのない瞳だ。彼女はベルナデットが子供の頃から知っている。オレリオンソルとリシュリューの養育係だったからだ。彼女はいつでも職務に忠実だ。それを疑いはしない。だからこそ彼女の勧めるままに陽の気を摂取し続けていたのだ。だが、今回は違う。ベルナデットは微笑んだが、しっかりとサンドラを見返した。
「品の無い言葉は謹んでね。カナデちゃんはリシュリューの想い人なのよ。言葉にしていなくても私には分かるの。私もあの子が気に入っている」
何か言おうとするのを遮る。
「このお茶を下げて。私はフーシェの陽気減弱治療を受ける事にしたわ。だから陽の気を取り過ぎないようにするの」
「何ですって! そんな事は私が断じてさせません! あの炭のせいですね。とんでもない事を陛下に吹き込んで...」
「今言ったのが聞こえなかったかしら?」
同じ事を何度も言わせるな、という意味だ。カナデを炭と呼ばないで、お茶を下げて。ベルナデットの口元は笑っているが、声音には有無を言わせない強さがあった。サンドラの肩が震える。皇后はふんわりとした言い方だし、言い返す事は無かった。最終的にはサンドラの提案をいつも受け入れてくれたはずなのだ。
サンドラは唇を噛んだ。頭を下げる。
「恐れながら...無礼を承知で申し上げます。お子様を授かる為の努力を中断されるのは...」
「その話ではないのよ。陽の気を取り過ぎないようにするというだけ。それは私の心身によろしいとフーシェが言っていたでしょう。私が健やかに過ごせるのが陛下のお望みなのよ」
そこまで言われたら、もう言い返す事はできない。やや乱暴にスカートを翻してサンドラが去った。
ベルナデットは立ち上がった。真っ白なドレスは華奢なレースで彩られている。全身を鏡で確認した。いつもの火照った赤みは顔にも手にもない。胸元にも指を指し込んでみた。肌はどこもかしこも美しい白だ。
扉がノックされた。コレット・アポリネールが顔を出す。カナデとリシュリューが到着したようだ。
「すぐに行くわ」
夏によく利用される小さな離宮がある。大きくなる木々を植え、噴水付きの庭に面したテーブルがお茶会の場所だ。白い花が周囲を囲み、午後の暮れかけた日に少し茜に染まっている。東はもう月が昇る時間だ。うっすら空が白い。
そこで四人が席についた。カナデは両手を膝に置いて固まっている。オレリオンソルとは初体面だ。自己紹介やナント遠征の話しもそこそこに、髪に両手を突っ込まれてかき回されていたのだった。皇后と王弟はにこやかに眺めている。この国きってのホワイトスター三人組はあまりにも眩しすぎて、カナデはもう圧倒されるばかりだ。
「本当だ、皇后の言う通りだね! 陰の気というより涼感かな! そして緑に光る。ふうむ。不思議だ」
国王はもう十分ほどカナデの髪のみならず、頬や手をすりすり触っていた。やはり兄弟だ。顔は似ている。リシュリューより二つ年上の二十七歳のはずだ。しかし弟よりも線が細い。少し小柄だ。顔も丸くて可愛らしい。こちらの方が弟のようだ。
リシュリューは苦笑いだ。目の前で愛しい彼がおもちゃにされている。しかし相手は兄で悪気は全くないのだ。
コレットがパイを配膳した。リシュリューが言った。
「ルイの新作パイを用意させました。オレンジを使用したそうですよ。どうぞご賞味下さい」
相手は国王夫妻だ。リシュリューの口調はいつもより丁寧だ。
オレリオンソルがまずベルナデットにすすめる。
「それは皇后の好きな果物だね。君が好きならきっと私も好きになると思うな」
「ええ。ルイはとても良いパティシエですもの」
さくっと良い音がする。口元を軽く押さえてベルナデットは満足げな表情を浮かべた。オレリオンソルの相貌が崩れる。
「皇后のお菓子を食べる唇は何て愛らしいんだ!」
オレリオンソルは妻の頬を撫でた。
「ベル、私のイリザスィヨン。今日もとても麗しいね! 君の美貌に庭園の花がひれ伏しているよ」
「陛下こそ王国の沈まぬ太陽です。私と国民を照らす最高の輝きですわ! 陛下の逞しさと優しさはラファイエットの至宝です」
褒め合った後は、お互いにパイをあーんしてあげている。結婚して六年目にして、まだまだ新婚のノリだ。
「もぐもぐってする頬が素敵だ、ベル」
「あなたの瞳から目が離せませんわ、オレリー」
付き合い始めたばかりの中学生でもここまでイチャイチャするだろうか。
(......バカップル...?)
などと失礼な単語を思い浮かべてしまった。国王だからもっと威厳と威圧感がすごいだろうと思っていたカナデは拍子抜けだった。しかし二人ともとても可愛らしい。すごく微笑ましくなったカナデだった。これでは弟が実務的になるはずだ。
リシュリューはにこやかにそんな二人の様子を眺めている。
「皇后陛下には、カナデの叙爵にご推薦をいただきありがとうございます」
「陛下にも許可を頂いたの。爆発事件とナントで活躍したのでしょう?」
やっと国王夫妻は二人だけの世界から戻って来た。オレリオンソルは穏やかな笑顔を弟に向ける。
「国民の為に励んでくれたね。大儀である、リシュリュー」
「勿体ないお言葉、有難うございます」
ベルナデットは軽く手を叩いた。
「そうだわ。叙爵のお祝いに白いバラを送るわね」
「またかい? 私には?」
ちょっと拗ねた感じの夫の頬を両手で挟む。
「私の大切なオレリーには特別のバラを用意しておりますわ。太陽にふさわしい黄金色ですの」
「そうか! ベルの育てる花は、君と同じく最高級の美しさだ。一緒に入浴しようね」
二人は手を取り合い、見つめ合う。また二人の世界へ没入かと思いきや、オレリオンソルはくるっとカナデを見た。
「準男爵か。リシュリューの正式な側室になるのを反対しないよ」
虚を突かれた。どういう意味なのか理解できない。彼の背後にすっとコレットが回った。口を小さく動かして軽く礼をする。あわててカナデは礼をした。えーと、何だっけと記憶を探る。
「身に余るお言葉、有難うございます」
陛下が満足そうに頷いた。合っていたようだ。ちらっと横のリシュリューを見るが、彼はただ微笑んでいるだけだった。
夜になってリシュリュー宮に大量のバラが届いた。約束通りだ。カナデにとってありがたい事に、陽の気の減弱がされている。午後の茶話会でかなりの陽の気を浴びてしまったからだ。『蝶の間』でスケッチをしながら浴槽に投入されるのを待つ。
カナデなりに国王の言葉の意味を考えてみたが、今一つよく分からない。準男爵になる。一応の名誉呼称で身分はやはり低い。だから婚姻はできないが、側室になってもいいよという事だろうか。しかし正式とは?
(まだまだラファイエットの社会勉強が必要だな)
風呂の準備が整ったと、侍女が教えてくれた。リシュリューにも伝えているはずだ。いそいそと誘いに来るかと思ったが、扉は開かない。カナデはスケッチブックを閉じた。
(何か怒らせたかな? 国王陛下に何か無礼をしちゃったとか?)
茶話会の後、いつもより口数が少なかった。カナデは恐る恐る『鷹の間』の扉をノックした。返事はない。そっと開けると、リシュリューはカウンタバーにいた。いつもの酒と炭酸水の瓶が出ている。
「あの...お風呂の用意ができたそうです」
「ああ、聞いた」
リシュリューは近くに来たカナデを抱き寄せ、髪にキスした。ふんわりと酒の匂いがする。
「い、一緒に入りませんか?」
なけなしの勇気を振り絞って言ったのだが...。
「今日は別にしよう。先に入って」
断られた。何か考え込むリシュリューに、カナデの顔も曇る。彼の手を解いて数歩下がった。
「何か失礼がありましたか? 教えていただければ直します」
リシュリューが少し目を見開いた。ふう、とため息をつく。コップを置き、カウンターに寄りかかって肘を付く。そのままカナデを横目で見た。
「特にない。実は王族を離脱しようかと考えていた」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。カナデにとっては突然のカミングアウトだ。リシュリューは少し視線を落とした。
「具体的には公務をやめる。継承権も返上だ。現在の役職は続けるつもりだが、殿下ではなくなる。ファルコン公爵の爵位は持っているから、貴族のままだが」
彼はカナデを見ずに話を続ける。
「王室費は出なくなるから、ここにはもう住めないだろう。市内に家を構えるか。小さい邸宅になるぞ」
カナデの顔からみるみる表情が消える。それをリシュリューは苦い思いで盗み見た。
(やはりカナデもそうなのか)
圧倒的な身分制度を知れば知るほど、王家の価値を分かってきたのだろう。王族ではないリシュリューを受け入れてはくれないのか。
しかしカナデは全く別の事を考えていた。公務がなくなっても魔闘士団の業務は忙しそうだ。
それで彼の返答はリシュリューの想像の斜め上だった。
「私は掃除が好きです!」
「はぁ?」
今度はリシュリューがきょとんとした声を出す番だった。カナデは満面の笑みを浮かべた。
「ルイさんほどではないですが、姉に手伝いをさせられたのでクッキーくらいは焼けます。料理は簡単な物なら。洗濯は...外注をお願いしたいけど...がんばります!」
使用人が減るなら自分が出来る家事をすればいい。ここを出ればリシュリューと市内で暮らせる。今よりももっと自由に町を歩けるだろう。彼と一緒に店を見たり、どこか公園など散歩したり。きっと楽しいに違いない。絵を勉強する時間は、もしかしたら無いかもしれない。しかし一生の趣味にすればいいのだ。
来る新しい生活を想像するとどうしても頬が緩む。
「だからお供させて下さい」
「殿下ではなくなるんだぞ」
「はい。以前仰って下さいました。私の前では一人の男性だと。私のリーシュ様だと」
リシュリューの顔が歪む。王家の一員だからこそ持ち込まれる縁談は多数あった。しかし身分は関係なく一人の男としてカナデは彼を受け入れたのだ。
その表情の意味がすぐには読み取れない。カナデは少し焦った。
(えっ不遜だった? 怒らせた?)
言ってしまってから、まるでプロポーズじゃないかと気が付いたのだ。ポッと出て来たどこぞの平民が王子に同棲をお願いしている。
(いやでも、あれだけスキンシップしておいて今更知りませんってのもナシだよね~)
などと、カナデもリシュリューの心の動きを読めない事を考えている。お互いに気持ちがすれ違っている。しかしそれは短い時間だった。
リシュリューはいささか乱暴にカナデを抱き寄せた。想いがあふれ出してしまったのだ。両腕にしっかりと力をこめる。頬を髪に寄せて囁く。
「カナデ...カナデ。君は天からの贈り物だ...! 私の愛しいイリザスィヨン!」
「え? あれ?」
婚約破棄の事情など知る由のない。突然の抱擁だ。カナデはリシュリューの胸に抱きしめられてもがいた。苦しい。そこへキスの雨が降る。最後に食いつくような口づけは長い。唇をじっくりと食む。濡れた音がした。
(い、息ができないっ!)
呻きが漏れる。拳でリシュリューの胸を叩いた。やっと唇が離れたものの、腕の力は弱まらない。彼の息も荒くなっていた。
「一緒に入浴しよう。そうしよう」
「やぶさかではありません...あっ!」
体がふわりと浮いた。大喜びのリシュリューはカナデを肩に担ぎあげたのだ。胃の辺りが固い筋肉に当たって痛い。その上、お尻が彼の鼻先だ。これは恥ずかしい。
「お、下ろして下さいっ」
「大丈夫。ちっとも重くない!」
そのまま浴室へ連行された。この日も床が見えないくらいバラが撒かれている。
「カナデ! 俺が洗ってあげよう」
「えっいやっあのっ」
拒否権は無さそうだ。ぽいぽい、と放り投げるように服を剥がれた。リシュリューも素早く服を脱ぎ捨てた。
それから猫脚のバスタブ行きだ。まだお湯はない。花びらが満載だ。
「滑らないようにね」
その言葉と共に、そっとバラの上に置かれた。良い薫りに包まれる。だがそれさえ薄れるほど緊張している。
蛇口から湯が出始めた。
リシュリューがバスタブの外から手を伸ばす。鼻歌でも歌う勢いで石鹸を泡立てた。首筋を包んで滑り、肩を撫でる。わきの下に指を入れた。
「うん、いいな。ここも黒...」
「言わなくてもいいです!」
「俺はこの色がとても好きなんだ。泡の白さと対比して、とても良い」
ここを弄るとは、ちょっと変態チック? いや洗っているだけだ。そう自分に言い聞かせる。
「く、くすぐったいんです!」
「分かった、分かった」
次は胸だ。リシュリューは動きを止めた。ほう、と正面から眺める。湯はまだ胸の高さまでたまっていない。ぺろりと乳首を舐めた。泡の付いた指で何度も弾く。カナデの体がその度に跳ねた。電流が背筋を駆け抜けるようだ。これは…洗っているのか?
恥ずかしさが背筋を駆け抜ける。
「このピンクは何とも宜しいな。ほら」
「実況しないで下さい!」
そして背中。肩甲骨を優しくさすった。大きな手が下がって行く。バラのせいで、何をされているのあよく見えない。尻に到達した。カナデは跳び上がった。
「そこは自分でやりますっ! お、王弟殿下がそんな」
「君のリーシュだよ。まあいい、後の楽しみとしよう」
そう言いながらも、洗うという名前の愛撫は止まらない。今度は足の先だ。浴槽の外に両足を引っ張り出す。つま先からじっくりと指がほぐしていく。湯の温かさとあいまって頭がぼぅっとしていた。
(リーシュ様、もしかして毛髪フェチなの⁈)
そんな疑惑を沸いた。体全体がとても熱い。
「殿下...あの...もう」
「そろそろ入るか?」
リシュリューも、手早く自分の体を洗った。
それから大きな浴槽に二人で浸かる。先ほどの腹部への圧迫も効いてしまったのか、カナデはまた湯あたりを起こしたのだった。
ツヅク! 次回Ⅳ-Ⅰ 授爵 そして孔雀舞 貴族社会へデビュタントを命じられたが!
お読みいただきありがとうございます。
表紙を入れてみました。こちらはAI生成です。
あ、ストーリーや設定など小説の方には一切AIを使っていませんよ。為念。
やはり勝手に外出してはいけませんね。
カナデはだんだんと自分の能力を使うのに慣れたようです。
人間にも様々な進化の流れがあったのなら面白いな、と
思ってアルニウス人を登場させてみました。




