姉弟
第一章『足枷』
「ただいまー」
いろいろありすぎて、今日は疲れた。
マンションのエレベーターを降りて自室の前まで歩き、小さくため息をついてドアの鍵を回す。まっくらな室内を見たとたん、さみしい気持ちがあふれ出した。さっさと靴を脱いで中へ入り、灯りをつける。同時に重いバッグを投げ出し、クローゼットからモコモコのルームウェアを取り出した。肌触りのいいものを着れば、多少はさみしさがまぎれる……かも。
髪をうしろでくるくるとまとめ、「ふたり暮らし」にしては広めのキッチンへ向かう。夕飯を作るべく、エプロンをまとった。
『別れたいんだけど』
――思っていたより、すんなりと口から出た言葉。数十分前の出来事を思い出しながら、じゃがいもの皮を剥く。
『は? なんだよそれ』
『そのままだよ。ほかにどういう意味があるの?』
かなりイラついたようだったけれど、あの人――元カレとなった孝明は、特別しがみついてくるようなことはなかった。「ユウのくせに」……そんな顔をしていただけ。
元々孝明とは、人からの紹介でなんとなく付き合い始めた。はじめはそれなりに楽しかったし、私も尽くす相手がいた方が気がまぎれた。心のすべてを預けられる対象にはなりえなくても、いないよりはいた方がマシ……そんなふうに考えていたのは事実で、病的な浮気性であっても、孝明だけを責められない。
「ユウ」
急に名前を呼ばれ、深く沈んでいた意識がふっと浮上する。振りかえると、最近いっしょに住みはじめた弟が立っていた。
「嵐! おかえり」
「ただいま。今日シチュー? いいね」
嵐は私より10センチ以上背が高い。同じ血を分けているはずなのに、切れ長の瞳にきれいな鼻筋、キメの細かい肌をしていて、姉のひいき目抜きにしても整った顔立ちだと思う。
ひとつ年下の彼は、春から私と同じ大学へ入学することが決まっていた。
数ヶ月前、私がひとり暮らしをしていたアパートの契約更新のタイミングがあったのだけれど、そのとき両親から姉弟で同居できないかと打診があったのだ。元々家族は私のひとり暮らしを心配していたし、仕送り的にも親孝行になると言われれば断る理由はない。
こうして私は、ひと足先にふたり暮らし用のマンションへ移った。嵐も引っ越しの準備がてら、ちょくちょく泊まりにきている。
「今日遅かったね。遊び行ってたの?」
「うん、圭太がカラオケ行こうってうるさくてさ」
「……ねえ」
「んー?」
「おかしいでしょ、これ」
思わず話を中断し、包丁を置く。嵐はにっこり笑ってしらばっくれた――うしろから私を抱きしめたまま。私と同じ、茶色の柔らかな髪が頬に触れる。少し前に美容院に行ったとき、隣で「同じ色にして下さい」なんて驚愕の発言をしたことは記憶に新しい。
「くっつかれると危ないんだけど」
「この服、モコモコしてて気持ちいいね」
私の言葉を無視した嵐は、お腹の前で両手を交差させている。こんなの誰かに見られたら、絶対勘違いされるでしょ……どこの世界にこんな姉弟がいるっていうんだ。仲がいいとかいうレベルじゃない。
「嵐、本当にどうなの」
「なにが?」
「ほんとは私たち、異母姉弟とか?」
「あははっ。そしたら俺、ユウと結婚する」
「はいはい、暇ならお皿並べて」
嵐は私にベッタリだ。いっしょに買い物へ行くと荷物はほとんど持たせてくれないし、ボディーガードのごとく隣を歩く。
でも、最初からそうだったわけじゃない。中学のときなんかは、お互い反抗期で犬猿の仲だったし……それが半年前くらいから、奇妙なほど優しくなったのだ。お母さんは「反抗期が終わったのねえ」なんて微笑ましそうにしているけれど、こちらとしては驚きを隠せない。
いくら自慢の弟でも、ここまで優しくされると……ね。何か裏があるんじゃないかと疑わしく思ってしまう。
「なんか今日、匂い違う?」
私の肩にあごを置いていた嵐が、ふと首を傾げた。
「匂い?」
「香水っつーか……」
「……」
多分、孝明だ。孝明はいつも、キツイくらいに香水を付けているから。
「孝明のだと思う」
「ああ、どうりで。ユウっぽくないと思った」
嵐は顔をしかめ、お皿を並べ始める。すっごく不愉快そうな顔。
でもよかった、今日は朗報を聞かせてあげられる。
「今日別れたよ」
「ふーん……え?」
驚いたように顔を上げた嵐に、にこりと微笑む。
「なんかもう、嫌になっちゃって。彼女いっぱいいるみたいだし」
「……そっか」
嵐はつぶやき、並んだ料理を前に「いただきます」と手を合わせた。
「あの男にユウはもったいなかったよ」
……嵐は優しい。いつだって、すごく私を心配してくれる。
「なあ、ユウ」
「うん?」
「もう……“あいつ”の紹介は受けんなよ」
「……」
「今回で懲りただろ」
嵐は知っている。両親すら知らない、私の人生に影が落ちるようになった原因を。
「ユウ」
「……そうだね、しばらく彼氏はいいや。嵐といっしょに住めば、さみしくないと思うし」
「うん。行きたいとことかやりたいことがあったら、全部俺が付き合うから」
きっと嵐はモテるのに、全然彼女を作らない。年頃なのに、姉との時間を優先しようとするのはどうなのと思うけれど……私にとって救いになっているのも事実だ。申し訳なさから視線が落ちてしまう。
本当は、私の方こそ弟離れするべきなんだろう。




