衝動
「私は西崎利根。あなたの名前は?」
利根さんは、柔らかい物腰でたずねてきた。
「藤原ユウです……」
「ユウさんね。私のことはリネで構わないから。ね、ユウって呼んでもいい?」
「は、はい」
その空気に圧倒され、ぎこちなく一言二言返すので精一杯だ。
「こっちは尋人と誠。『ヒロ』と『セイ』って呼んであげて」
「よろしくね、ユウ」
自分のボディーガードを紹介するかのように、さらりとそう言う利根さん――リネと、ごく自然に名前で呼んでくるセイ。私がうなずいた視界の端では、ヒロもその冷たそうな表情を一瞬和らげた気がした。
「あの……」
「あっ、ごめん。ほかの子とご飯食べてたよね」
とまどう私に、リネはごめんなさいと笑った。
「今度、詳しい話をさせて。学科はどこ? 学年は?」
「1年で、心理学科です」
「そっか……私も1年だけど、英文科だから教室は被らないね。よかったら連絡先教えてくれる?」
急な展開に困惑しながらも、私は言われた通りにポケットの携帯を取り出す。依然としてふわふわした状態のまま、電波に乗って飛んでいく私の個人情報。
……ダメだ。この人たちといると全然思考が働かない。もし彼らが詐欺師だったら、私ほど良いカモはいないだろう。
「ありがとう。じゃあ、今夜にでも連絡するね」
「はい……」
「もっと気軽に話して。同い年なんだから」
「……うん」
「ふふっ。またね!」
花のような笑顔から目を離したくないと思いつつ、私は腰を浮かせる。
……ううん、この笑顔だけじゃない。私たちのやりとりをつぶさに見守っていたセイとヒロにさえ、私は言いようのない好意を抱いていた。初めて話したどころか、今日初めて知った人たちなのに。
これってちょっと異常だと思う。
「ユウ」
立ち上がった瞬間そう呼ばれ、顔を上げれば、セイの真剣な眼差しが目に入った。その表情は、華やかな顔にはとてもアンバランスなもので……思わず目を奪われてしまった。名前を呼ばれただけなのに、体中の血液が沸き立ったように体温が上がる。
「今度、俺たちともランチしよう」
にこっと微笑む彼は、それだけで罪な美しさを湛えていた。でも、それだけじゃなくて……無性に抱きしめたいような衝動に駆られる。
私、いつからこんな変態じみた思考を持つように……? 本格的にやばいかもしれない。
「……リネのメール、無視しないでやってくれ」
それまでほとんど口を開かなかったヒロまで、そんなことを言う。彼の声も、ひどく身体に沁み入るようだった。
……離れたくない。私……この人たちと、離れたくない。
「あ、あの」
「うん?」
「どこかで……会ったことが……?」
そこまで言いかけ、あまりにバカげていると途中で口を閉ざす。今までの人生で出逢っていたのなら、こんな美しい人たちを忘れるわけがない。
――それなのに。
「……!」
3人は息をのんで私を見つめてきた。誰も口を開かない。
永遠にも思えた数秒間のあと、私は思わずうつむいた。
「ごめんなさい、変なこと言って」
「……う、ううん。全然! どこかですれ違ってたのかも。同じ大学なんだし」
リネの明るい笑顔に救われ、私はぎこちなくだけれど、初めて微笑んだ。するとリネがぼうっと見とれた表情になる。まるでさっき私が、リネの笑顔を見てそうなったように。
「……それじゃあ」
彼女の反応を不思議に思いつつ、長居するのも悪いだろうとテーブルに背を向けた。まるで引力に逆らっているみたい。途中振りかえれば、3人ともまだ私を見ている。とっさに微笑みかければ、リネとセイは微笑み返してくれて、ヒロも少しだけ口角を上げてくれる。そんな些細なことにも、私は舞い上がるような気分になった。
――けれどその直後には、「現実の世界」へと引き戻される。
「ちょっと……なに、今の!?」
「誰?」
「あそこに誰か座るとか、見たことないんだけど」
「えー、超普通の子じゃん」
「なに話してたんだろ」
自分のテーブルに戻るまでに、恐らく何百という囁きを浴びた。それはもう、ホラー映画よりも恐ろしい光景だったように思う。見渡す限り非難、嫉妬、憎悪の目。
これほどの目に晒されていたのに、さっきまで全然気がつかなかったなんて……それほど、あの3人に引きこまれていたのだ。本当にどうかしている。
「ちょっと、ユウ!」
「さっきのなに?!」
やっとのことでテーブルに戻ったが、そこにも目をギラつかせた涼子と百合が待ち構えていた。
「ユウ、さっきまであの人たち知らなかったよね!?」
「なんで座ったの? 何を話してたの?」
「え……いや、よくわかんない……」
「わかんないってなに!」
なに……これ。今まで1年近く、ずっといっしょに過ごしてきた涼子と百合が、すごく遠くに感じる。あの3人と私の関係を聞かれることにも、いまだ否定的な目で私を見つめてくる無数の視線にも、言い知れぬいらだちを覚えた。
――入ってこないで
これは……なに?
――私たちの間に、誰も入ってこないで
そんな言葉が、私の心と脳内を侵食してくる。誰に操作されているわけでもなく、これは……紛れもない私の思考と感情だ。
自分がわからない。何が起きているのか、全然わからない。
「……課題を手伝ってほしいんだって。それだけ」
作り笑いでふたりそう返したけれど、昼休みの間中、生産性のない尋問は続いた。嫌な視線も然り。
私のキャンパスライフに……平凡な人生に、亀裂の入る音がした。