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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第四章 5

 あの日から数週間経ち、ふと気が付けば年が開けていた。

 その日帯刀はとある人物に呼ばれ、病院の屋上までやってきていた。重い鉄の扉を開けると、たくさん干されている白いシーツの群れの中、見慣れた人物か片手を挙げていることに気が付く。

「よっ、久しぶり」

 トマスだった。しばらくぶりに見た彼の姿に、帯刀はほっと肩を撫で下ろした。

「生きていたのか」

「そりゃあな。つーか何よ、俺が『あいつ』に負けると思うの?」

「『あいつ』ってことは、やっぱりブラザーとドンパチしたんだな」

 ぐ、とトマスは声を詰まらせた。

 ふたりは廃工場で別れて以降一度も会っておらず、あの日何があったか、互いに話してはいないのだ。それでいて見透かすような言動をとる帯刀に、トマスはなんとも言えない表情を浮かべている。

 さすが帯刀家の当主というべきか。

 色々と言いたいことはあるが、考えるのが次第に面倒になってきた。トマスは半ば諦めに似たため息をつき、のろのろと口を開く。

「お前こそ、“憤怒”をがっつり壊しやがったじゃないか。大変だったんだぞ、後処理」

「それは、うん。後処理については悪かったと思う。すまなかった」

 余裕がなかったんだ、と帯刀は力なく言った。その顔に感情らしい感情は何ひとつ見当たらない。無、としか表現しようがなかった。よくよく見ると帯刀の頬は瘦せこけ、顔色も良くない。

 トマスは慎重に言葉を選び、ゆっくりと、嚙み締めるように尋ねる。

「『あれ』はどうだ?」

「……まだ、目覚めない」

 あの後、帯刀と春風は意識を失った慶馬を連れ病院に駆け込んだ。俄かに院内は騒然とし、すぐさま緊急手術に及んだ。手術は長時間に及んだが、切断面が比較的きれいだったため、縫合は上手くできたと聞いた。さすが“憤怒”の“太刀”と言うべきだろうか。その他は特に問題ないとのことで、数日あれば目覚めるだろうと医師は言っていた。

 ――しかし、それ以降、年が明けても、慶馬は目覚めなかった。

「医師からは、もう十分目覚めてもおかしくない状態だと聞いている。よほど消耗したのか、……それとも、目覚めて現実を受け入れたくないのか」

 トマスはふむ、と唸る。

「否、あの男の場合、後者はなしだな。たとえ片腕が吹っ飛んだとしても、今ここにお前さんが存在していることがあれにとっての『正義』だろ。夢の中でよほどお前さんと楽しく過ごしているんじゃねぇの? 嫉妬してもいいんだぞ、よそ見するな、早く起きろって」

「む……」

 それはそれで嫌な感じだ。

 帯刀は軽く咳ばらいをしつつ、前髪をかきあげた。

「それより、トマス。『契約の箱』の話をしよう」

 トマスには、帯刀が無理やり話題を変えたように聞こえていた。しかし状況が状況なので、敢えてそれを指摘せず、帯刀のペースに合わせてやることにする。

 帯刀はいつもの凛とした口ぶりではっきりと告げた。

「『契約の箱』がどうなったのかは、もう知っているから説明は必要ない。しかし、元々は俺があれの情報を渡すという約束でいただろう。その条件をこちらの瑕疵で満たせなかった。申し訳ない」

「あー。しかし、今回お前さんには充分すぎるほど働いてもらったからな。報酬は出すよ」

 その発言に、帯刀はあからさまに難色を示した。

「それは、ちょっと」

「まあ受けとれよ。何万回もこの世界をやり直し続けるという見事なまでのチートっぷりを発揮するおっさんの言うことは、可能な限り聞いておいた方がいい」

 そう言うと、トマスは懐からメモ帳を取り出し、何かを走り書きにした。そして、メモ用紙を剥がすと帯刀の胸ポケットに押し込んだ。

「一つ目は、『美袋慶馬に打たれた“楔”を外す方法』。二つ目は『例の釈義(・・・・)を前回誰が持っていたか』。あくまで実績ベースだが、参考になるだろう」

 帯刀はのろのろとメモを開き、内容を確認する。

「これ……」

「三つ目はサービスだ。俺の昔の知り合いなんだが、アメリカで義肢装具士をやっている奴がいる。そいつに話はつけておいた。あれが目覚めたら連れて行ってやるといい」

 呆然とした顔で帯刀はメモとトマスを交互に見やり、気の抜けたような声色で言った。

「本当に、いいのか?」

「俺がしてやれることはせいぜいこれくらいだからな」

 トマスはにかっと気さくに笑い、帯刀の肩を叩く。

「お前たちはこれからが大変になる。せめてあれが目覚めるまでは、お前も少しくらい休んだらいい。お前がどんなに悩もうが苦しもうが、あれが起きるタイミングは本人しか知らないんだから」

 だから気張りすぎるな、とトマスはゆるゆると目を細める。彼なりに励まそうとしているのだ。

 帯刀は小さく頷き、メモを改めて胸ポケットにしまい込んだ。

「うん、それでいい」

 さて、とトマスは大きく伸びをし、ズボンのポケットに手を突っ込む。

「俺はそろそろ行くよ。悪いが、しばらくは会えないと思ってくれ」

「どこか行くのか?」

「ちょっと古巣まで。二、三年くらいで戻るつもりだ」

 なんのために、とは言わなかった。ただ、彼は一言、残された“第一階層”のことは頼っていいと付け加えた。

「それは、『そういう未来』だからか?」

 帯刀の問いに、トマスははっと瞠目して見せた。

「――うん、そう。そうだな。『そういう未来』、だからかな」

 しかし、とトマスは続ける。「先のことなんざ誰にも分からないさ。たとえお前がその『青い目』で未来を予測したとしても、その筋書き通りに行かないことだってある。そして、予想もしないことが原因で一見関係なさそうな範囲にまで影響が及ぶこともある。日本の言葉にもそういうのがあったろう。ええと、何て言ったっけ。『風が吹けば桶屋が儲かる』?」

「ああ、合っている」

「少なくとも、“強欲”と“色欲”はお前の力になってくれると思うぜ。あれらは何度も何度も、今とは違う時間軸でお前に助けられている」

 じゃあな、とトマスはひらりと身を翻し、帯刀へ背を向ける。

 彼が屋上の扉を閉めるまで、帯刀はその背中をずっと見つめていた。

「おれに、できるだろうか」

 呟いた刹那、ふと、寒さを感じた。空を仰ぐと、曇天から白い雪がちらつきはじめたところであった。


***


 帯刀が慶馬の病室に戻ると、彼は目を閉じたままベッドへその身を沈めていた。数十分前に部屋を出た時となんら変わらない光景がそこにはあった。

 ベッド脇にパイプ椅子を置くと、大きな音を立てぬようそっと静かに座る。

 本来なら、帯刀が近づく気配だけで彼は目を覚ますはずなのだ。それなのに、今はじっと目を閉じたまま動かない。これほど深く眠りについているところを、帯刀は今回の件で初めて見た。

「――早く、起きろ。慶馬」

 右手で頬をそっと撫ぜる。するりと頬から黒い髪が滑り落ちた。

 涙は出ないのに、不思議と掌に汗をかいてしまう。何を食べても味がしないから、自然と食事の量も減っていた。眠気などとうに忘れてしまった。数日前に見かねた医師が鎮静剤を打ち、それでやっと数時間眠りについたほどだ。

 春風が「誰か実家から人を呼ぼう」と提案したのだが、家の者にも、勿論美袋家の者にも合わせる顔がなく、すぐに帯刀は拒否してしまった。

 いつまでもこうしている訳にはいかないのだ。分かってはいる。しかし、どうしてもこの状況を受け入れられない。

 疲れたな、と帯刀はぽつりと思う。

 脇にあるサイドボードにそっと身体を預け、目をそっと閉じる。

 暗闇の中、ここ数日間の出来事がぐるぐると頭を巡る。何度も何度も、反芻するようにあの橙のプラズマが思考を焼いてゆく。まるで脳細胞のひとつひとつの結合力を弱めていくかのように、溶けて溶けてどろどろになっていく。

 ああ、と思う。

 どうして慶馬だったのだ。先に、自分がやればよかっただけだ。自分自身に憤りを隠せない。いっそのこと、今ここで釈義を展開し自身を氷漬けにしてやろうか。しかし、そうすると慶馬のことは一体誰が見てやれるのだ。ただの逃げでしかないのではないか。

 どうせなら、共にすべてを投げ捨ててしまおうか。

 その時、眼前で何かが動いたような気がした。

 帯刀がのろのろと瞼をこじ開けると、変わらない景色がそこにはあった。

 ――ただひとつだけ、慶馬の目が開いていたことを覗いては。

「けっ……!」

 思わず叫びそうになった。

 その声に反応し、慶馬はゆっくりと首を横へ向ける。数回ゆっくりと瞬きをし、乾いた唇をゆっくりと動かした。

「――、」

 慶馬は、帯刀は、ともに瞠目した。

 彼は何度も何度も、口を動かしている。しかし、喉からは空気が抜けるだけだ。

「けい、ま?」

 帯刀は静かに尋ねる。「慶馬」

 何度も繰り返したのち、慶馬は呆然とした様子で口を閉ざす。その表情には、絶望の色がありありと浮かんでいる。


 神はどこまで我々を試すのか。


「……もういい」

 帯刀の言葉に、慶馬の頬が微かに歪んだ。

「慶馬、もういいよ」

 帯刀は、ゆっくりと言った。枕元にぶら下がるナース・コールを探し、それを押す。

 ゆき、と慶馬の唇が動いた。


 帯刀は悲しげに微笑み、それから、まるで子供に言い聞かせるような声色で囁く。

「すこし、ほんのすこしだ。やすもう。おれたちは、いっしょに、やすむんだ」

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