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バベル 第一部 契約の箱編  作者: 依田一馬
3.憤怒の橙の太刀
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第四章 4

 慶馬の左腕に橙のプラズマが走った刹那、それは最早“腕”と呼べる代物ではなくなってしまった。今は真っ赤な色をした液体が床に飛び散っているだけで、肩から下は何もない(・・・・)

 何が起こったのか分からず、慶馬は思わず足を止めてしまった。

「――ッ!」

 悲鳴すら出てこない。彼は瞳を大きく見開き、合口をその場に取り落した。震える右手で左肩を抑えるも、指の間からは今も多量の血液が流れ落ちている。この状態で立っていられること自体、とても正気とは思えなかった。

 慶馬は殺意の湧いた獰猛な瞳を“憤怒”に向ける。

「慶馬!」

 帯刀が叫び、彼に近づこうと一歩足を動かした。が、すぐに慶馬はそれを制した。

「来るな!」

 滅多に聞くことのない鋭い怒声に、帯刀は思わずひるんだ。大きく身体を震わせた後、まるで石膏像のようにその場に身を固くする。

「うわ、お前相当図太い神経しているな。普通『これ』で切られたらショック死するか発狂するかのどちらかなんだけど」

 感心したように、“憤怒”は首を二、三度横に動かし、ごきりと首を鳴らした。そして、残念そうに肩を竦める。

「神経図太い奴は好きだ。お前が『美袋慶馬』でなければ、もっと違うやりとりもできたろうに」

 それを耳にした慶馬が微かに眉をひそめた。猛烈な痛みに意識が途切れそうになっているが、その一言だけは何とか聞き取れたらしい。その口ぶりに違和感を覚えるくらいには、まだ慶馬の思考ははっきりとしていた。

 額から脂汗が零れ落ちる。

「やっぱり、お前たち二人が『終末の日』を迎えるには邪魔な存在ってことには変わりないか。もう一発、今度は頭から――」

 その時だった。

 慶馬と“憤怒”の間に突如氷の柱が立ち上った。鋭く尖った枝を張り巡らせ、まるで大木のような太い氷が、“憤怒”の行動を牽制したのだった。周囲の空気が急激に冷え、口元からは白い息がふわりと立ち上る。

 これは、と“憤怒”が瞠目した。

 帯刀の青い瞳が“憤怒”をしかと捉えて離さない。狂気に満ちた青い炎を宿したその瞳が、背筋が震えるほどの気迫を孕んで揺れ動いている。ほとばしる聖気は、おそらく彼が操る『釈義』によるものだ。後天性釈義がこれだけの聖気を放つことは、本来あり得ない。

 いよいよ意識が朦朧としてきた慶馬は、濁る思考の片隅で思った。

 彼はものすごく、形容しがたいほどに、怒っているのだ。

「『釈義(exegesis)展開・装填(eisegesis)開始』」

 霧のように霞む世界で、きらきらと輝いて見えるのはきっと水蒸気の粒。ダイアモンド・ダストだろう。

 きれいだ、と。確かに思った。

 “憤怒”が何か帯刀に向かって言ったのが聞こえた。が、具体的に何を言っているのか理解できない。どんどん視界が暗くなってゆく。

 ああ、待ってくれ。

 置いていかないでくれ(・・・・・・・・・・)

 帯刀の声がはるか遠くに聞こえる。

「俺の二つ名である『聖クリストフォルス』は、世界ひとつの重みを支え、激流を渡った聖人と聞く」

 己が吐き出した息すらも凍りつく。徐々に緞帳が降りようとしてゆく世界に、ただ一つ見えたものは、自分より幾分小さな背中だ。この背中に守られる日が来るだなんて、慶馬は夢にも思わなかった。

「『深層(significance)発動』」

 水蒸気を凍らせ巨大な雹を生み出した帯刀。その塊は彼の手により持ち上げられ、そのまま投擲された!

 恐ろしい運動エネルギーが“憤怒”に激突し、力を相殺できなかった“憤怒”そのまま氷の柱に倒れ込む。そう、その“尖った枝”に。

 身体は氷と云う名の凶器に貫かれ、見るも無残な姿と化した。だらりと垂れる血液が、ゆっくりと氷を溶かしてゆく。立ち上る湯気もまた、すぐに凍りつき瞬く宙の宝石となった。

 息を吐いた帯刀はすぐに釈義を終了させ、しばらく“憤怒”の姿を見つめていた。そして胸元で小さく十字を切ると、その青い瞳を閉じる。

「『釈義(exegesis)完了――Amen.』」

 これで少しは、時間を稼ぐことができるだろう。

 すぐさま帯刀は慶馬に駆け寄った。周りを充分過ぎるほど冷やしたおかげで、傷口は完璧に凍りつき、止血だけはできているように見えた。しかし、このままではいずれ組織を壊死させてしまう。それだけは避けたかった。

 帯刀は瞳を閉じたまま動かなくなってしまった慶馬の頬を二、三度叩き、無理やり瞼をこじ開け眼球を観察した。死んではいないらしい。しかし意識はない。……それにしても、彼はよく持ちこたえることができたと思う。その無駄に強い生命力を褒め讃えたくなった。

 帯刀は自分のタイを解き、破いた衣服で傷口を覆ってやる。そして、タイできつく縛りあげた。

「『釈義(exegesis)展開』」

 そして釈義を展開すると、帯刀はひょいといとも簡単に慶馬を担ぎあげた。

 帯刀の釈義は聖クリストフォルスの加護を受けた物理系釈義なので、展開している間は剛力になる。自分より体格もよく背も高い慶馬を生身で担ぐには無理があったのだ。

 彼を担ぎながら、帯刀は考えた。

 今回の“憤怒”の立ち位置がやっと確定した。彼は、『終末の日』肯定派なのだ。

 今までに他の“第一階層”から聞いた限りだと、前回までは“強欲”や“色欲”と共に行動していた『終末の日』否定派だったはずだ。何があってそんなことになったのかは不明だが、まずはここで“憤怒”の動きを封じることが出来たのが幸いだった。

 あのまま“憤怒”を放っておいた場合、こんな未来が待ち受けていただろう。

 まず、“憤怒”はこの後トマスから三善を奪う。そして『契約の箱』を手にするまで三善はどこかに幽閉しておき、『契約の箱』を得次第『契約の箱』を三善に開けさせる。そして『終末の日』が到来する――という、バッドエンドまっしぐらのシナリオだ。

 今まで“憤怒”が聖職者ばかりを殺害していたのは『契約の箱』の所在を知っている可能性が最も高い『帯刀雪』をおびき寄せるため。そして帯刀がまんまと“七つの大罪”のテリトリーに入ったところを狙い、美袋桂馬と引き換えに『契約の箱』の所在を聞く。所在さえ聞き出せればあとは用なし。彼の“太刀”で二人とも刺し殺す、という予定だったのだろう。

 となるとトマスのことも気になるが、それよりも先に慶馬だ。

 そう考えている帯刀の耳に、

「まったく、ゆっきーは何でもひとりでやろうとするんだから」

 心臓が跳ねた。女性の声だった。それに心当たりがあった帯刀は、きょろきょろと辺りを見回し始める。そんなことは、そんなこと起こっていいはずがない。

「こっちよ、ゆっきー」

 ようやく声のした方向を認識し、がばりと帯刀は振り返った。その声の主を発見するや否や、叫ばずにはいられなかった。

「は、春風姉(はるかねえ)……!」

「久しぶり。やっぱり来てよかったわ」

 その声の主は、青い瞳が特徴的な黒髪の女性だった。

 彼女は帯刀家次女、現在はスウェーデンに住んでいるはずの春風だ。

「な、なしてこっただとこに……!」

 帯刀はついつい矯正したばかりの方言が出るくらいには動揺した。しどろもどろしながら尋ねると、どうってことないといった表情で春風は答える。

「ゆっきーがしばらく慶馬君と行方不明だって、冬樹が泣きついてきたの。そうしたらホラ。慶馬の馬鹿がくたばってるじゃない。追いかけてよかったわ」

「なして、侵入、ええ? どっから入ってきた!」

「裏のダクトから」

 こういう行動力だけはずば抜けていることを帯刀は長年の経験で知っているので、それ以上何も言わなかった。ただ、神出鬼没とはこういう人のことを言うんだなあ、と思ったくらいで。

 道順とか、“封印(シール)”とか、そのあたりはどうした――と聞こうとして、帯刀は口を噤んだ。彼女にその手の能力は一切通用しないということを思い出したからだ。

 背中でおぶさっている慶馬が突然呻き、身じろぎした。帯刀の生ぬるい体温が伝わり、それで少しだけ意識が浮上してきたらしい。

「それで? 慶馬の左腕はどうしたの。なんで肩から下が行方不明なの」

「ああそうだ。姉ちゃん、慶馬をはやく病院に連れていかないと。救急車かな。ああ、タクシーの方が早いだろうか。それとも俺が運転する?」

「落ち着きなさい。ドクターヘリでもなんでもチャーターしてあげるから! それにあんた、免許持ってないのに何運転しようとしているのよ、莫迦じゃないの」

「だって!」

 帯刀が珍しく声を荒げた。「俺のせいなんだ。慶馬の腕がなくなったのは……」

 その声色で、表情で、春風はようやく状況を察したらしい。

 二人はすぐに駆け出し、出口を目指した。

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