序章
あなた方は「罪」と言ったら、一体何を連想するだろうか。
おそらく、窃盗であるとか、詐欺であるとか、そういうものではないかと思う。しかし私が言いたいのは、その意味での「罪」ではない。
前述で言う「罪」とは、一般的な社会概念的「罪」、つまり法律上の「罪」を指す。この場合の「ゆるし」とは、罰を与えないという社会的合意成立の意味における「許し」なのである。
そもそも「罪」とは一体どういうことなのだろうか?
「罪」の原義とは「的外れ」、すなわち「誤れること、迷いだすこと」とされている。基本的には、神に対する不従順、そして謀反ということである。すなわち、「罪」は人間の心の“状態 ”であり、心から進展した道徳的悪の“行動 ”ということなのだ。
その「道徳的」な観点、又はそれから派生された宗教的感覚からくる「罪」。私が言いたいのはこちらである。
この場合の「ゆるし」とは、罪を犯さなかった者として認める「赦し」のことだ。つまり「許し」と「赦し」の違いは端的に述べると「法的」なのか「道徳的」なのかというところにあるのである。
それを踏まえてこの話を聞いてもらいたい。
今日、「大聖教」は世界中に信者を抱える強大な宗教となっている。世界各地に支部が建立され、神に仕えるための礼拝をも欠かさない。日本に存在する本部では年に一度大々的な集会が開かれるほどで、その信者は今もなお増え続けている。
しかし、当然のことながらそれに反発する組織も存在する。
その名前は実のところ、はっきりとは分かっていない。今分かっている事実はといえば、この組織は七つのグループに分かれており、それぞれ「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」と呼ばれていることくらいだ。
このことから、大聖教では彼らをこのように呼ぶことにした。
――通称「七つの大罪」。
彼らの特徴はおおまかに分けてふたつある。一つ目は、それに属する者全てが人外と言える脅威の能力を持ち合わせていること。そして二つ目は、彼らは必ずしも『人間の姿をしている訳ではない』ということである。
長年冷戦状態にあった二大勢力は、ある時を境に変化する。「七つの大罪」側が、とうとう実力行使に出たのだ。
人々は混乱した。彼らにより住むところを奪われた者もいる。肉親を奪われた者もいる。
幾度も流された涙は、後に「かれら」の力になった。
「かれら」――大聖教が抱える最大規模の教団“エクレシア”の台頭。これが運命を変えたのだ。
エクレシアの中には「神の恩恵を受けた者」――“プロフェット”と呼ばれる断罪者が存在する。彼らはある代償を支払うことにより、「釈義」と呼ばれる特別な力を発動することができる。その力を以て暴走した「七つの大罪」を食い止めることが出来るのだ。
今、「七つの大罪」による暴動を止められるのは彼ら“プロフェット”しかいない。
さて、ここでひとつだけ謎かけをしよう。
「エクレシア」に「七つの大罪」――果たして、どちらが正しいのであろうか? どちらが「罪」を抱えることになるのだろうか?
ただひとつ言えるのは、この「聖戦」が、必ずしも「正解」ではない、ということだけである。
(ホセ・カークランドの手記より、抜粋)