12話:裏通り
朝。甘草を削った。今日の分。
布の中の残りを見た。目で量る。
(九日分)
昨日は十二日と思った。十二日は甘く見すぎた。クラウスの体調が安定しているから量を減らそうとしていたが、減らす根拠がない。安定しているのは今の量で飲んでいるからだ。
鞄に入れた。
***
クラウスの屋敷。
居間に入ると、クラウスが立っていた。窓際。外を見ている。
(立ってる)
椅子に座っている姿は見慣れた。立っているのは久しぶりだ。背筋が伸びている。痩せてはいるが、一ヶ月前の危うさがない。
「おはようございます」
「ああ」
振り向いた。今日の顔色もいい。
脈を取った。安定。もう毎日確認しなくてもいいくらいだが、やめる理由もない。
甘草の水を渡した。飲んだ。顔をしかめた。いつも通り。
「フリッツさんは」
「出ている。街に用があると」
「傷の具合は」
「本人は治ったと言い張っている。あんたが聞けば別の答えが返るだろうが」
(聞きたいことはそっちじゃない)
「交易商の件、何か動きは」
クラウスの表情が変わらなかった。変わらないのが答えだった。
「フリッツが二件当たった。どちらも甘草の扱いはないと。三件目に書を出したが、返事は来ていない」
「……そうですか」
「他国の商人なら可能性はある。だが北部に入ってくる交易路が限られている。扱いのある商人が通るかどうかは——」
「運次第、ですか」
「時期次第だ。秋の交易市なら顔ぶれが増える」
(秋。まだ二ヶ月以上ある。九日分では——)
「量を減らす必要があるかもしれません」
「減らして持つのか」
「日数は伸びます。ただ、症状が戻る可能性がある」
「どの程度」
「倦怠感。立ちくらみ。今の生活が維持できなくなるかもしれない」
クラウスが窓の外を見た。
「……秋まで持たせろ。多少のことは我慢する」
「多少がどの程度かは、あなたじゃなくて私が決めます」
「相変わらずだな」
「医者なので」
椅子から立った。
「量の調整は考えます。急には変えません。少しずつ、様子を見ながら」
「任せる」
屋敷を出た。通りに出る。南に向かって歩いた。
途中、裏通りへの分かれ道の手前で足が止まった。
道の脇。溝を掘っている男たちがいた。三人。スコップで土を掻き出している。
(排水溝の工事? こんなところでやってたっけ)
見覚えのない作業だった。昨日まではなかった。気にせず通り過ぎた。
***
診療所に戻った。午前。患者が来ている。
扉を開けると、リーナの声が聞こえた。
「——じゃあ、お薬代の代わりに何かできることってありますか?」
患者の男が面食らった顔をしていた。四十がらみ。手が大きい。指に木屑がついている。
「でき、ること?」
「お金じゃなくて! お仕事で使ってる技術とか、余ってるものとか!」
「いや、俺は大工だけど——」
「大工さん! ちょうどいいです! あの、実は棚がぐらぐらで!」
奥から見ていた。
(もう始めてる。昨日話したばかりなのに。——しかも交渉が下手すぎる)
患者の男は困惑している。薬をもらいに来たら棚の修理を頼まれている。
「えっと、棚って、どの——」
「あっちの! 薬瓶が乗ってるやつ! 先月から傾いてて、いつか全部落ちるんじゃないかって!」
「まあ、棚くらいなら……」
「ほんとですか! じゃあお薬代はそれで!」
「いいのか? こんなんで」
「全然いいです! 助かります!」
男が棚を見に行った。揺らした。確かにぐらぐらだった。
「……釘が二本抜けてるだけだ。すぐ直る」
「やった!」
リーナが振り返った。こちらに気づいた。
「エリカさん! 聞いてました!?」
「聞いてた。棚の修理と薬代の交換は割に合わないと思うけど」
「え——」
「棚の釘を二本打つのは五分の仕事。薬草の煎じ薬は材料費だけで三銅貨。あなた、損してるわよ」
リーナが固まった。
「……あ」
「ベッカー先生が言ってたでしょう。その人が何を出せるか知っておけって。大工なら、棚の修理より大きな仕事もできる。窓枠の入れ替えとか、床板の補修とか。次に何か壊れた時のために取っておく手もあった」
「…………」
「まあ、初回だからいい。始めたのは偉い」
リーナの顔がぱっと明るくなった。
「次はもうちょっと考えます!」
大工の男が釘を打ち終えた。棚が真っ直ぐになった。
「先生方、他にもガタが来てるとこあったら言ってくれ。うちの嫁もここに世話になってるし」
「ありがとうございます」
男が帰った後、リーナが小さくガッツポーズをした。
(損してるのにあの顔。……まあ、最初はこんなものか)
***
昼過ぎ。
扉が開いた。
カイルだった。
「先生。来たぞ」
「どうぞ。——一週間、どうでした」
カイルが椅子に座った。先週とは顔が違う。目の下の隈が薄い。
「腹、壊してねえ」
リーナが顔を上げた。
「一度もですか」
「一度もだ。西の井戸に替えてから、ぴたっと止まった」
腹に触れた。張りがない。
注視したが何も浮かばなかった。
「……やっぱりか」
「やっぱりって。本当に水だったのか」
「東の井戸を使わなくなって、症状が消えた。それが答えです」
カイルが自分の腹を触った。
「でもよ、あの井戸はみんな使ってるぜ。俺だけ西に行ったって——」
「分かってます。これからどうするかは、もう少し考えさせてください」
「先生がそう言うなら。——しかし、水なあ。普通に透き通ってるのに」
「見た目じゃ分からないんです」
カイルが帰った。
リーナがこちらを見ていた。
「エリカさん」
「うん」
「水が原因って、分かったんですよね。じゃあ、東の井戸を使うなって言えば——」
「言うのは簡単。でも、あの井戸を使ってる人間が何人いると思う? 全員に西に行けって言える? 距離が倍になるのに?」
リーナが黙った。
「それに、井戸を止めたところで、原因が消えるわけじゃない。何が井戸の水を悪くしてるのか。それを見ないと」
ベッカーの言葉が頭にあった。雨の後に増える。夏に悪化する。裏通りだけじゃなく、東寄りの長屋街にも。
井戸だけの問題じゃない。井戸の周りに何があるか。何が流れ込んでいるか。
「午後、南の裏通りに行ってくる」
「一人でですか?」
「リーナはここにいて。午後にも患者が来るかもしれないから」
「分かりました。……気をつけてくださいね」
「大丈夫。見に行くだけ」
鞄を置いた。記録帳だけ持った。ベッカーの記録帳から写し取った住所の一覧。どの家が、どの年に、何の症状で来たか。
南の裏通りへ。
***
診療所から南へ。石畳の通りが途切れると、道が土に変わった。
建物が低くなった。壁が傾いているものがある。洗濯物が通りの上に渡されている。子供が二人走っていった。
東の井戸は通りの中ほどにあった。石造り。蓋はない。周りに水たまりがある。
覗き込んだ。水面は見えない。深い。
周囲を見た。
井戸から十歩ほどの場所に排水の溝がある。浅い。水が溜まっている。灰色。匂いがする。生活排水だ。台所の水、洗濯の水。どこにも流れずに溜まっている。
(この溝と井戸の距離。近すぎる)
地面を見た。土。石畳ではない。雨が降れば泥になる。溝から水が溢れれば、この土を伝って——。
(井戸に流れ込む。表面の水が地中に染みて、井戸水に混じる。雨の後に症状が増えるのはこれだ)
立ち上がって、もう少し歩いた。
長屋が並んでいる。軒先に干した肉。虫がたかっている。隣の家の前に野菜の屑が積まれている。腐りかけている。
道の端に、魚の内臓が捨ててあった。猫が一匹、その上にいた。
(食品の扱い。ゴミの処理。排水。全部だ。井戸だけの問題じゃない。この一帯の生活環境そのものが、病気の原因になっている)
記録帳を開いた。ベッカーの記録。この通りの住人の名前が並んでいる。腹痛。下痢。発熱。毎年。同じ名前が繰り返し出てくる。
三十年間、ベッカーはこの人たちを治し続けた。治して、また壊れて、また治して。
(治すだけじゃ終わらない。リーナが言ったことが正しい。「それって、治ってるって言うんですか」。——言わないよ。治ってない)
記録帳を閉じた。
帰り道、さっきの溝を見た。あの灰色の水が雨のたびに溢れて、あの土に染みて、あの井戸に入る。
(環境を変えなければ終わらない。でも環境を変えるのは、医者の仕事じゃない。——いや、そうだろうか。患者が病気になる原因を断つのは、医者の仕事じゃないのか)
答えは出なかった。
通りを戻った。さっきの分かれ道。朝見た工事の男たちはもういなかった。掘りかけの溝だけが残っていた。
診療所が見えた。
「おかえりなさい! エリカさん、大工のハンスさんが来て、棚の反対側もついでに直してくれました! タダで!」
「……そう」
「どうしたんですか? 難しい顔して」
「ちょっと考えることが増えた」
「お茶淹れますね!」
椅子に座った。
井戸。排水。食品。ゴミ。
目の前の患者を治す。それは今まで通りやる。でも、その先がある。その先をどうするか。
一人では無理だ。医者だけでは無理だ。
(誰に、何を、どう伝えれば——)
茶が来た。薄い。いつもの。
飲んだ。考え続けた。
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