第3話:風と勝利を掴む時
燕巣のメインコース、”嘆きの石窟”。 すり鉢状に掘り抜かれた巨大な石切場跡には、早朝から無数のスラムの連中が集まり、鉄格子の観覧デッキから唾を飛ばしながら罵声と歓声を上げていた。
スタートラインに並ぶのは、ツギハギの義翼を背負った男たち。 その中で、異彩を放つ一人の青年がいた。
整えられた艶やかな黒髪に、スターチスの花のように澄んだ紫の瞳。
───スターチスだ。
彼の背にある義翼は、精密なギアと上質なジェネレータが組み込まれた品。無駄な装飾を削ぎ落としたシルエットは一級品だ。
だが、その洗練された佇まいとは裏腹に、縹に向けられた薄笑いには、スラム育ち特有の鋭く荒々しい毒が隠しようもなく混じっていた。
「……またその粗大ゴミの延命治療か? 健気で反吐が出るぜ、縹」
スターチスが鼻で笑い、縹の機体を底意地の悪い視線で見下ろす。
「前回の走りも見たが、相変わらず頭の悪い真っ直ぐ走りだな。なぁ、物理法則ってお前の熱苦しいクソみたいな精神論に配慮して曲がったりしてくれねぇんだよ。このコースの3番コーナー『悪魔の漏斗』は気流がクソみたいに巻いて速度が殺される。減速以外の選択肢がねぇことくらい、まともな頭があればバカでも分かるはずだろ。お前のその足りねぇおツムじゃ、俺の排気風を拝むことすら計算に入ってねぇようだがな」
荒い口調の端々に知性と嫌味を込めた皮肉。スターチスはすでに頭の中で、縹が惨めに敗れ去るレースの結末まで完璧に計算し尽くしているのだ。
「計算、ね……」
縹はスロットルを握り直し、隣のスターチスを鋭く睨み返した。
(前までのオレなら、お前のその嫌味に呑まれてた。……けどな)
頭に浮かぶのは、今朝まで死ぬ気で叩き込んだ『風のライン』。そして、観覧デッキの端で退屈そうに欠伸を噛み殺している無精髭の男――鶺鴒の姿だった。
『用意――っ、ドン!!』
ブ───!!
合図が轟くと同時に、爆風が吹き荒れた。
ガツンッ! と石畳を蹴り、無数の義翼が宙へと跳ね上がる。 スタートダッシュから抜け出したのは、やはりスターチスだった。一分の無駄もない翼の羽ばたきで最適な加速ラインに乗ると、見る見るうちに後続を引き離していく。
縹はそのすぐ後ろ、二番手に喰らいついた。
(ついていける……!軽い……っ!)
鶺鴒の改修によって電気伝導率が跳ね上がった義翼は、縹の身体の動きへ過敏なまでに応答していた。だが、前を走るスターチスは冷ややかな横顔で口元を歪める。
「必死についてきたところで無駄なんだよ! 見苦しい足掻きはやめとけ! 次が『悪魔の漏斗』――お前の足りねぇ頭の限界を教えてやる場所だ!」
前方にそびえ立つのは、巨大な石柱が乱立し、す
り鉢状に巻き込む強烈な下降気流が渦巻く難所。
スターチスは正確無比な旋回軌道を描き、減速しながら安全かつ最小限の旋回半径でコーナーへ進入した。まさに完璧な『最適解』の走りだ。
(あいつは安全なラインを通るために減速した……!)
スターチスの冷ややかな紫の瞳が、チラリと後方の縹を捉える。 『これ以上つっこんだら壁のシミになるだけだぞ、ドブネズミ』と言いたげな、蔑むような視線。
だが───縹はスロットルを緩めなかった。
「なぁにやってんだあのガキ! 減速しねぇぞ!?」
「死ぬ気か!? あの下降気流に突っ込んだら一発で壁に激突するぞ!」
観客席から悲鳴が上がる。 スターチスの顔から皮肉めいた余裕が消え、初めて驚愕に見開かれた。
「ハッ……正気かよ!? 減速の計算すらできねぇほどの救いようがねぇバカだったのかお前は!!」
縹は恐怖で硬直しかける身体をねじ伏せ、気流の渦、その最も深い『底』を見つめた。
(まだだ……まだ翼を開くな……! 気流の底まで自分から堕ちろ……!)
直進する機体。目の前に迫る巨大な石灰の岩壁。 激突まで、あと数メートル。
(今だ……掴めっ!!)
ガツン───ッ!!
極限まで引きつけて開かれた義翼が、暴虐な下降気流の渦を真正面から捉えた。 全身を叩き割るような強烈な衝撃。だが、落ちていくエネルギーの全てが、改修された可動軸を通じて一気に前への推進力へとバツンと変換される!
「なに……っ!?」
スターチスの眼下で、縹の機体が岩壁ギリギリを掠めながら、恐ろしい速度で跳ね上がった。 まるで風そのものが、縹の翼を前へと押し弾き飛ばしたかのように。
「計算通りに走ってんじゃねぇよ、スターチス───ッ!!」
爆風とともに、縹の影がスターチスの頭上を置き去りに駆け抜けていく。
完璧だった計算を打ち破られ、散々煽り散らしていたスターチスが、「なっ……ふざけんなっ……!?」と素の怒りを爆発させ、信じられないものを見たかのように紫の瞳を見開いていた───。




