第六話
「ね、熱中症……?」
「部屋の中で?」
「ええ」羊は頷いた。
※熱中症による年間死者数は、1980年代は2桁だったのに対して、90年代に3桁に突入し、そして2020年以降はとうとう1000人を超え、年々増え続けている。
夏には全国で「毎週」10000人前後が熱中症で緊急搬送されている。そのうち4割は、なんと室内で熱中症にかかっている。
死亡者の約8割が65歳以上の高齢者である。東大大学院の調査によると、過去10年間、東京23区内の室内熱中症で死亡した1295事例のうち、エアコンがオフになっていたのが581件、エアコン自体が設置されていなかったのが381件あった。
さらに冷房を付けていたつもりが暖房になっていた、埃が溜まって上手く機能しなかった……などのケースが213件。実に6人に1人がエアコンの不具合で死亡していた。空調設備はもはや、現代の生命維持装置と言っても過言ではないかもしれない。
「……蛭間さんを殺したのは、蛇じゃない。見えなくとも、私たちの目の前に確かに存在するもの……気温。湿度。大気そのものが引き起こす病だったんです」
「そんな……」
「昨日の夜、被害者はお酒を呑んでいた。脱水症状も進んでいたことでしょう。アルコールと熱中症との相性は残念ながら良くありません。そのお酒を勧めたのは、清水さん、貴女だったんじゃないですか?」
「…………」
皆の視線が一斉に、横になっている清水明美に注がれた。清水は無言のまま苦しそうに目を伏せていた。羊が続けた。
「僕らが蛇を鑑賞した後、清水さん、貴女は一人被害者の部屋に行き一緒にお酒を飲んだ。その時、304号室のカードキーをすり替えて盗んだ。蛇は、『船の上で環境が不安定だから、定期検診する』とでも言って預かったんじゃないですか? 獣医の貴女が言えば素人は『そんなものか』と納得するでしょう。だからヴェルムは304号室にいなかったんです。ずっと清水さんの部屋に隠されていたんだ」
「……その時は殺さなかった?」香鳥が尋ねた。
「ええ。無事に蛇を連れ出し、それからお酒も入って寝てしまったタイミングを見計らって、303号室から壁越しに被害者の部屋のエアコンを切った。毎年興行に回ってると言ってましたよね? 清水さん、貴女は知ってたんじゃないですか? 部屋の構造を。壁が薄くて、隣の部屋のエアコンが誤動作してしまうことも」
「…………」
「一つ誤算があったとすれば、蛇を連れ出した後、蛭間さんがケージに鍵をかけて寝てしまったことです。そのせいで部屋の中にもう一つの『不自然な密室』が出来上がってしまった。いくら何でも、蛇がケージの鍵を自力で開けて脱出した、なんてナンセンスですからね」
「待ってくれ」
ようやく顔色を取り戻した神狩が、食い入るように質問した。
「確かにそりゃ、理論上は可能かもしれないが……『狙って熱中症にする』なんて、現実にあり得るのか? だって、症状の具合は人それぞれだろう。いくら高齢者だからって確実に死ぬとは限らない」
「確実に死亡……とまでいかなくとも、意識を奪ってしまえばそれで良かったんでしょう。一度、被害者に電話して、安否確認をしたのかも知れません。本当に死んでいるのかどうか。いえ……もしかしたら」
「……?」
羊はそこで言葉を切り、目を伏せた。
「もしかしたら……昨夜、被害者から清水さんに、助けを求める電話があったんじゃないですか? 医学の心得のある貴女を頼って……それで貴女は」
「……見殺しにした?」照虎が小さく悲鳴を上げた。
「計画が上手く行っていることを知った。僕らが304号室の鍵を開けた時、もしかしたら被害者はまだ生きていたかも知れない。脱水症状が進んで、意識を失っただけだったのかも……だけど近づけなかった。蛇がケージにいなかったから。あの時すでに、僕らはまんまと犯人の術中にハマっていたんです」
羊が少し悔しそうに声を絞り出した。
「なるほど、つまり」
膝を打ったのは神狩だった。
「物音と、空になったケージで、俺たちは勝手に蛇に襲われたんだと思い込んだ。蛇がまだ部屋にいると思わせる……心理的トリックってわけか!」
「仕方ないよ。誰だって、毒蛇なんて怖いもの」
森山が小さく震え、自分に言い聞かせるようにそう言った。羊は頷いた。
「部屋が封鎖された後、犯人はすり替えておいたカードキーで304号室に侵入。トリックに使ったスマホを回収し、新しいものと交換した。そこで改めて、ヴェルムに蛭間さんを噛ませた」
「え?」
「これならたとえ熱中症で亡くなっていなくても、後から確実に毒で殺せます。死因は明白。死体を調べられても、きっと蛇の毒が検出されるでしょう。死亡推定時刻が数時間ズレることはままあります。誰も他殺なんて疑わない。今回の事件は不慮の事故で処理される……」
「で、でもよ。それじゃあ……」
「証拠はあるの?」
冷たい氷のような声が響いた。皆がハッとしたように彼女に視線を向けた。清水明美は、額の汗を拭いながらも、不敵な笑みを浮かべて目を細めた。
「頭でっかちな名探偵さん。何だか随分回りくどいことを考えているようだけど……普通に考えて、蛭間会長は蛇に襲われたって思う方が自然じゃない? だって、貴方が自分で言ったんでしょう? 死体からは蛇の毒が検出されるだろうって……それとも私が殺したって、確実な証拠でもあるのかしら?」
「た、確かに……」
視線の矢が、今度は一斉に羊に向けられた。羊は少し頬が熱くなった。色々考えるのは好きだが、人前で演説するのはどうも苦手だった。
「貴女の携帯を」
羊もまた清水を見下ろし目を細めた。
「見せてもらえますか? 通信記録が残っていないかどうか」
「……無くしちゃったわ」
「何?」香鳥が声を上擦らせた。清水がクスクス笑った。
「だから無くしちゃったの。いつの間にか落としちゃったみたい……もしかしたら、今頃海の中かもね。オ・ホ・ホ……!」
「何……だよそれ」
「怪しすぎんだろ」
「Wi-Fiの記録は後で調べてもらうとして」
神狩がずいと清水に顔を近づけて凄んだ。
「どのみちアンタらは無断で蛇を船に乗せたんだからな。逃げられると思うなよ。警察に被害届出して、今回の騒動のことも、みっちり取り調べてもらうからな」
「……どうぞご自由に」
清水は、自分のトリックによっぽど自信があるのか、最後まで笑みを切らさなかった。担架で運び出される時、清水は羊を見上げて小首をかしげた。
「……何? その目は?」
「…………」
「そう気を落とさないでよ。証拠不十分で不起訴なんて、現実じゃ良くあることなんだから」
まるでそうなるとでも言いたげに、
「それともまさか、最後に『それでも殺人は良くない』だとか、探偵らしく月並みなこと言うつもりじゃないでしょうね?」
清水がほくそ笑んだ。
「おかしいわね? その理屈が本当に正しかったら、みんながそれを本当に理解してるんだったら、今頃この世から犯罪なんて無くなってるんじゃないかしら?」
「…………」
「それとも……この世から犯罪が無くなって困るのは、食いっぱぐれるのは探偵さんの方かしらね。オ・ホ・ホ……!」
「…………」
「これだけは覚えておいてね、探偵さん」
「……?」
「この世から悪意は無くならない。人と人が存在する限り、犯罪は、悪意は生まれ続けるの。気をつけてね。貴方の気づいていないすぐそばで、グツグツに煮え立った悪意が、今にも爆発してしまうかも……オホホ、オホホホホ……!」
清水はそう言って担架で病院に運ばれて行った。羊は言い返すこともなく、黙ってそれを見送るだけだった。