第七話 令嬢、魚釣りに参加する
翌日の早朝。普段の広々として柔らかいベットとは異なり、狭く硬いため眠りが浅く、自然と目が覚めたタリア。既にアティは起き出して身支度を整えており、タリアの目覚めを待っていた。
「お早うございます、タリア様」
「おはよう、アティ」
眠気眼を擦り、大きなあくびをする。さらに両手を上にして体全体を伸ばす。体の節々が痛い。
「村長夫妻は既に起きており、タリア様が起きられたら朝食にすると話しておりました」
「それじゃあ、行こっか」
乱れた髪のまま向かおうとするタリアを留め、手櫛で整えていく。母親譲りの青髪は癖もなく、簡単に整えることができた。
最低限の身支度を終えてから朝食の席へと付く。前日の夕食同様に、とても質素な朝食を夫妻と共に頂いた。味に慣れたのか、村で育てた野菜を使用したメニューは、普段屋敷のシェフが作るものとは違い、素朴な味付けだったが嫌いではなかった。
時間を見て約束の時間少し前に、村の門に向かう。村人も各々の仕事を始めているようで、段々と村全体が活気付いてきた。集合場所に到着すると、そこには既にレオン、レナ、そして子供達が来ており、レナが走り回る子供の世話をし、レオンは遠くへ行き過ぎないように見守っていた。そんな平和な光景に、タリアは自分の考え過ぎではないかと思ってしまう。しかし、それでも。予知でクリスの親と名乗った二人の姿と、女の勘を信じる。
村の門は既に開け放たれており、街へと続く道が遠くまで見渡せる。目を凝らすが、村に向かってくる人影は見当たらない。これでは出発する時間までに、誰かが村に辿り着く事はなさそうだ。ハルバートからの応援は期待できない。
「お早うございます、みなさん」
タリアが挨拶をすると、子供達は元気に返事をし、レオンとレナは共に一礼した。
「お早うございます、タリア様。昨晩は良くお眠りになられましたでしょうか?」
「はい、なかなか寝心地がよく、直ぐに寝入ってしまいましたわ」
「それは良かった」
「お早うございます、タリア様。レオンの妻であるレナと申します。本日はよろしくお願い致します」
「こちらこそ、お願い致します。無理を聞いて頂き、感謝しております」
思えば、レオンの妻であるレナと実際に言葉を交わすのは、これが初めてだった。昨日、レナは子供達の面倒を見ていたので、タリアは彼女の姿を見ただけだった。実際に話した印象は、物腰が柔らかく、子供に好かれる女性に見える。血の気が多く、争い事が日常茶飯事な冒険者のような職に彼女も就いていたとは想像もできない。尤も、レオンやその他の仲間をサポートする要員だったのかもしれないが。
「これで全員ですので、少し早いですが船に乗って釣り場まで向かいましょうか」
レオンの言葉を合図に、一同は村を出発した。
◆
結局、タリアの予想通り、ハルバートからの応援は間に合わなかった。何度も街へと続く道を振り返ったが、人っ子一人見当たらなかった。
夜にハルバート宛に出した密書は無事に届けられた。帰ってきたピーちゃんの足には、返信の手紙が括られていた。その内容は、諸々を承知したという言葉と、『お父様もタリアが大好きだよ』という本文よりもデカデカと追伸が書かれていた。
応援の人員に関しては、運が良ければ釣り場で合流できるかもしれないし、村で足止めとなる可能性もある。その人間が機転の効く人物であると非常に助かるのだが、ない物を強請っても仕方がない。切り替えよう。
今のメンバーはタリア、アティの他にレオン、レナ。そして、彼らが面倒を見ている三人の少年少女。さらに村人の子供達が十人前後。総勢が二十人程だ。子供達は走り回るので正確な人数を把握できないが、船に乗り込む際に、こっそりとカウントする予定だ。
レオンに先導されて川岸に向かうと、昨日見かけた船が繋留されていた。
「おーし、全員気を付けて乗り込めー。落ちるなよー」
レオンの言葉に嬉しそうに子供達が乗り込んでいく。その姿を数えていく。全部で子供が十七人。全員で二十一人ということだ。
子供が全員乗ったことを確認すると、アティが先に乗り込み、タリアの手を取って引っ張り上げる。船と岸の間には僅かな隙間があるが、そこは軽く飛び越えて乗り込んだ。そして最後にレナ、レオンが乗り込んだ。
「アティ、何人居た?」
他の人間から距離を取り、会話が聞こえない事を確認し、コッソリとタリアはアティに聞いた。
「全員で二十一人でした。子供は十七人です」
「同じだね。これで数が減れば直ぐに分かる」
レオンは操舵室で舵を取り、レナは船の帆を張っている。子供達は竿の用意をしたり、レナの手伝いをしたりと各々が好きに動いている。
「出発します!」
レナが声を張った。
無風のため、垂れ下がっている帆に対して両手を掲げるレナ。目を瞑り、小さく何かを唱えている。すると、彼女の髪が少しづつなびき始め、やがてそれは風となって帆を大きく張った。帆から船全体へと力が伝わり、船が動き始める。水の流れに逆らうようにして進む船は、やがて人が走る位の速さとなった。
「彼女は風の魔法を使えるようです。それも、なかなかの使い手です。これなら川上でも短時間で移動することができそうです」
少人数の船ならまだしも、ある程度の規模がある船には船員の中に風魔法の使い手が数人在籍するのが普通だ。無風の時や、時間を短縮したい時などに重宝される。今乗る二十人程度の船で、レナのように安定して一定以上の風を起こせる魔法使いがいるのは珍しい。さすがは名の売れた元冒険者というだけの事はある。
どんどん川上へと進み、村の姿も完全に見えなくなってから、しばらく経った。最初は物珍しそうに周囲を見回していたタリアだが、今では暇そうにしている。普段ならアティの膝枕で眠るのだが、今は他人の目がある。大人しく令嬢モードで過ごさなくてはならない。
「そろそろ着きますよ」
レオンに言われ、目を開けたまま意識を切っていたタリアが周囲を見渡す。川幅が村近辺よりも狭くなっており、木々も密集して周辺を見渡せる範囲が狭くなっている。普段は人の手が入らないことを証明しているかのように、遠目に見える動物や、得体の知れない植物などが確認できる。さすがのタリアも案内人なしでは歩き回りたいとは思わないような場所だ。
「おーし、着いたぞー」
レオンの言葉に子供達がワッと一斉に糸を投げ入れた。岸に降りて釣るものと思っていたが、レオン曰く子供が勝手に移動し、迷子になるのを防ぐため、敢えて船の上からのみ釣りをするらしい。確かに、子供がこんな場所で迷子にでもなれば、一刻も持たずに動物か捕食植物の餌になるに違いない。
それでも、この場所は絶好のポイントのようで、次々に魚を釣り上げていく。タリアは特に釣りには興味なかったので、誘われたが断った。食べることには貪欲でも、捕獲の過程には興味ゼロである。
見たことのある魚に、食べたことのある魚。そして、食べられないと記憶している魚など、千差万別だ。中には見たことも聞いたこともない魚がおり、非常に興味を惹かれた。
「こ、この魚、両端に頭が付いてますけど…」
指差した先には、本来なら尾がある場所に、もう一つの頭が付いている魚。二つの口を開閉して、激しくのた打ち回っている。正直、気色の悪い光景だった。
「双頭魚ですね。一部で珍味として扱われていたかと」
私も見るのは初めてです、とアティも興味深そうだ。
魚は通常、尾をバタつかせて水中を移動するのだが、双頭魚の場合はどうなるのだろうか。尾のように頭を振って泳ぐとなれば、非常に悪酔いしそうな感じがする。
実際は双頭魚の頭はそれぞれが独立して思考を行う。かつ、片方が活動している時はもう片方は眠りに入る交代制になっている。そのため、一匹の魚としては、眠ること無く活動を続ける事が可能だ。また、片方の頭を失っても生き続ける。その活動力と生命力から、命を張る冒険者がゲンを担いで食べることがある。味の方は一般的には微妙という評価を得ていた。
他にも釣り上げられる魚を見ていると、いつの間にか太陽が真上まで昇っていた。
「タリア様。本日はこれで村へと帰ることになります」
「えっ、もうですか?」
レオンの言葉に、昨日同様に夕方まで続けると思っていたタリアが面食らった。
「昨日よりも釣果が良いので、餌などが無くなりそうですし、魚を入れておく生簀も容量一杯になりました。時折、こういう日があるのですよ」
「分かりました」
結局、何も起こらなかった。
レオンとレナの二人も怪しい動きは皆無だった。子供達の中で姿が消えた者もいない。平和そのものだ。もちろん、タリアが秘めている疑惑が、完全に晴れたわけではない。が、これ以上この場での追求は難しい。
取り敢えず、ハルバートからの応援でこちらに来る人間には一言労って収めてもらおう。無駄足になるが給金は出るのだから、割のいい散歩と割り切ってもらおう。これが自分に甘い父ならば『ごめんなさい、てへ♪』で万事解決なのだが。と、邪な考えを浮かべているタリアの周囲では、撤収の用意が進んでいる。
釣り竿を仕舞う子供。まだ糸を垂らしている幼い子に言い聞かせるレナ。アティはタリアの横に常にいる。レオンは生簀を開き、小さい魚を選別して逃している。
バタバタと進んでいく撤収の様子を見ていると、突然タリアの胸の部分から、小さな赤い鳥が現れた。ピーちゃんである。幸い、アティ以外の人間は片付けに集中しており、気付かれてはいない。
「ピーちゃん?」
タリアの呼びかけに、ピーちゃんが空を見上げる。つられて同様に見上げる。青い空に白い雲が流れていく光景しか見えない。まさに晴天といえる。当然だが、力強く羽ばたくドラゴンやグリフォンの姿も見えない。そもそも、一生に一度も出会わないのが普通の生物だ。こんな場所にいるはずがない。
いよいよ訳が分からないと思っていると、視界が一瞬何かを捉えた。見間違えかとも思ったが、よく見ると小さく赤い点が空に浮かんでいるように見える。目を細めて見続けていると、段々と赤い点が大きくなっていく。大きく広げた翼。赤く見えた点は体全体が赤く、まるで炎のような色合いだった為だ。その姿は、タリアの手のひらに乗る小鳥に酷似していた。
「赤い鳥。しかも精霊のようです」
「ピーちゃんの親鳥かな」
「分霊の本体のようです。つまり、あれはメリッサ様からの使いかと」
アティの予想通り、近づいてくる赤い鳥は精霊のようで、羽を一振りする毎に火の粉が舞っている。時折聞こえてくる鳴き声は、村にいる家畜や、森のモンスターとも違う。神々しく触れ難い威圧感を感じる。
ある程度近づくと、流石に他の者も気付いたようで、騒ぎ始めた。
「何あれ、何あれっ!?」
「もんすたーだ!」
「帰りたいよー」
一斉に子供達が駆け出すが、狭い船の上では逃げ場がない。すると自分達を守ってくれそうな大人の元へと寄ってきた。アティ、レオン、レナはたちまち子供に抱きつかれて身動きが取れなくなる。事情を知るタリアとアティが落ち着くように声を上げるが、混乱しているため聞き入れられる様子はない。これ以上混乱すれば最悪、川に飛び込む者も出てきそうだ。
タリアは素早く判断すると、子供達からできるだけ離れるように船の端へと向かう。そして、ピーちゃんを手にして頭上へと高く掲げる。精霊は魔力を視認することが可能とメリッサから習った。念のため、ピーちゃんの姿も見せておけば、それを目標に飛んでくるはず。
そして、タリアの予想通りに、精霊は他の子供達から離れたタリアの元へと降り立った。羽ばたく度に炎を撒き散らすので、タリアもおっかなびっくりと近づく。
ピーちゃんが飛び、本体に擦り寄る。その姿は子が親に甘えている様に見える。しかしそれは、本体と分霊が各々経験した事の情報共有作業に過ぎない。本体と分霊は、互いに位置関係は把握できるが、経験までは接触しないと共有できないのである。
見ると、本体の足に昨晩アティがしたように手紙が括りつけられている。ハルバートの返信を受け取った後に、再び精霊を使いに出す必要性ができたという事だ。急いで手紙を足から外し、破れないよう注意して広げる。
短い文章。タリアの予想と異なり、その字はハルバートのものではない。だが、知っている文体だ。
『今、村にいる。村の子供数人行方不明。メリッサ』
振り向くと、目の前には手が伸びていた。反射的に逃れようと払うが、すぐにその手も取られてしまった。タリアを突然襲った人物―レオン。大の大人が容赦なく握る力に、タリアが苦痛で表情を歪めた。
子供達に纏わり付かれていた為、アティは出遅れてしまった。それでも、タリアまで数歩の位置まで詰めており、その手には護身用の短剣が光っている。常にタリアを守る立ち位置を保持していたが、タリア自身が離れてしまった事と、アティが子供達に囲まれていた事で、コンマ数秒始動が遅れたのだ。その結果、最悪の失態となった。
突然の出来事に騒いでいた子供達は呆けている。また、それはレオンの妻であり、元冒険者のレナも同様だった。
「ふっ、くく。おら、剣を捨てな」
タリアの喉元にヒンヤリとした感覚が生まれる。片手でタリアの両手を拘束し、もう片方の手でナイフを逆手に構えて、タリアの喉元に当てている。子供達と接していた時の優しげな雰囲気は一蹴されており、妙に落ち着いた、それでいて楽しげで冷徹な感情が見え隠れしていた。
「れ、レオン? どうしたの、そんな…その…」
仲間であり、夫でもあるレオンの豹変ぶりに、レナは混乱して言葉が続かない。その様子を見たタリアとアティは、予想が半分当たったと認識した。つまり、レオンが黒で、レナは無関係だと。
少しずつ距離を詰めていくアティだが、更にナイフがタリアに押し当てられた。動きを止める。二匹の精霊も静かに動向を見守っていた。
「ははっ、分かっていないようだな。なんなら、指の一本でも切り落としてやろうか?」
「…止めなさい」
「なら、後ろに下がりな。おらっ、うるせーぞ、お前ら! ガタガタ騒ぐんじゃねーよ!」
温厚で優しかったレオン。丁寧に指導してくれる大人の男性。中には、将来についても相談して貰っていた子もいる。そんな彼が、自分たちを怒鳴りつけている。悲しく、驚き、自然と泣き出す子供もいる。しかし、そんな子にも容赦なく罵声を浴びせるレオン。これが彼の本性なのだろうか。
アティは己の不甲斐なさと、レオンへの怒りに震える。そんなアティを見るレオンは、とても楽しげだ。まるで欲しかった玩具を買ってもらい、どのように遊ぶか困っている子供のようだ。それは、自分で自分を律することができない感情。タリアはそう感じ取った。
「とても楽しそうですね、レオンさん。しかし、これは悪手です。早く私を開放し、投降することをお勧めします。仮にも貴族の娘である私を人質に取るなど、捕まったらその場で打ち首ですよ? 今ならまだ多少は温情を与えることも可能です」
言いつつも、この手の輩が素直に投降するとは思えない。それでも交渉には意思疎通が必要だ。そこから、彼が何を望んでいるのか、何を恐れているのか。どこまでがボーダーラインなのかを探る。
「楽しそう? はは、そりゃあそうだ。ここまで俺の都合よく物事が進めば楽しくもなるさ。俺の望んでいたことが一気に叶うのだからな! 楽しくて嬉しくて、心の底から笑いたくなるものさ!!!」
「望み?」
「平和だ!」
「……はっ? 何言ってるの!?」
あまりにも予想外な言葉に思わず素で返すタリア。しかし、レオンは至極真面目だ。本気で言っているようだ。だからこそ、理解できない。
「貴族や王族の勝手で泣かされる民を救う。それが俺に与えられた使命。だからこそ、これは必要な事だ!」
「意味不明です」
「俺の崇高な考えはお前のような、親が貴族なだけの子供には理解できまい。それに、時間も稼げた」
その時、船が突然傾き始めた。見れば、生簀から次々と水が溢れ始めている。その勢いは強く、瞬く間にこの船は沈むと予想できた。川の流れはそれ程急ではない。泳げる大人なら岸まで辿り着けるだろう。しかし、混乱している子供では厳しいだろう。手助けできる大人の手も限られている。
そして、貴族令嬢のタリアは泳げない。泳いだ事すらない。お風呂以外で水に浸かるなど、しかもその水が流れているなど未知の経験だった。
「タリア様!」
混乱する一同を楽しげに見ていたレオンが、タリアを拘束したまま水面へと飛び込む。駆け寄ったアティだが、その手は届かずに宙を虚しく切った。
迫りくる水面に、為す術もなく吸い込まれていくタリア。出来る限り大きく息を吸い、目も瞑る。勢い良く飛び込んだ川の水は、想像よりもずっと冷たかった。
◆
完全に船が沈み、全員が川へと投げ出された。アティは周囲を見渡すが、先に飛び込んだレオンとタリアの姿は見えない。周囲で手足をバタつかせる子供が多いため、水しぶきで余計に確認が困難だ。
「み、みんな暴れないで! 体から力を抜けば浮かびます!!!」
手短な子供数人を掴んで岸へと運んでいくレナが叫ぶ。しかし、完全にパニックに陥っている子供には届かない。さらに最悪な事に、少しでも浮かんでいる物を求めて、別の溺れている子供を掴む子まで出てきた。当然、更に水を飲み暴れる。いつ誰かが命を落としてもおかしくない状況。それでも、アティの役目は決まっている。何を差し置いてもタリアを救うこと。何人もの子供を見捨て、レオンからタリアを救い出す。彼女に課せられた役目はこれだけだった。それさえ果たせれば、何人もの子供が命を落とそうとも、罰せられることはない。逆に、全員の子供を救ってもタリアを失えば、アティの処罰は逃れられない。もっとも、万が一タリアの命が失われる事があれば、アティは自らの命で償う覚悟はある。
まずは最も近い岸に上がり、レオンとタリアの痕跡を探す。大きく息を吸い、潜水で移動しようとした瞬間。小さな手がアティの服を掴んだ。
「た、たすけっ、がぼっ!?」
振り払おうとした手が止まる。運命の悪戯か。タリアと似た年頃の少女。必死に手足を動かして生きようと藻掻いている。その行為が自らを死地に追いやっているとは思ってもいないのだろう。その表情は必死で生きようと、生きたいと言っている。主と他人の子供。考えるまでもない。しかし、アティの脳裏に浮かぶのは、自分の為に他の子供が犠牲になったことを知り、人知れず心を痛めるタリアの姿。
その瞬間、アティは動いていた。少女を抱え、更に身近なもう一人を抱き寄せる。当然、掴みかかられたアティは水中に沈む。それでもアティは、子供を掴む手を緩めない。
(奥の手を行使します)
水中の流れが、本来ならばあり得ないものとなる。アティを中心に渦が発生していく。一瞬の溜めを作り、一気に爆発させた。水飛沫が上がり、まるで雨のように周囲に降り注ぐ。アティと抱えた二人の子供は勢い良く宙に飛び出し、そのまま岸へと静かに降り立った。
『久しぶりの召喚だってのに、我が主は水遊びの真っ最中とは。純粋だと喜べば良いのか、子供っぽいと嘆けば良いのか、迷うね』
「御託は良いので、さっさと残りの子供達を助けなさい」
『ほいほーい』
猫だ。茶トラで長毛。ピンと立った尻尾は先までフサフサの毛で覆われている。そして緑の瞳をしているが、その姿はまるでトラのように巨体だ。まさに虎のような猫。そんな生物がアティの隣に威風堂々と構え、一言鳴いた。
『な~ん』
力の抜ける可愛らしい鳴き声だが、再び川に異変が起きる。今度は川の真上に二つの風の渦が発生した。周囲を巻き込む風の流れは、規模の小さな台風のようで、川の水を巻き込み吸い上げていく。
『ほいっと!』
その風が二つ同時に川へと叩き込まれた。触れずとも、その強力な風で川の水は勢い良く爆発四散。上流から流れてくる水も例外なく弾き飛ばされていく。突然水が消失した川底では、魚が至る所で跳ねており、先程沈んだ船も力なく横たわっているのが見えた。
周囲から水が消えたことに呆然とする子、気付かずに未だに手足をバタつかせる子、水を飲んで気を失っている子。水という脅威が完全に消えた事で例外なく助ける事ができた。
『あとは自力で大丈夫でしょ』
「早く岸へ上がりなさい!」
叫び、もたつく子らを急がせる。今も継続している風の魔法による消耗ではない。姿の見えないタリアが心配なのだ。視認できる範囲で避難が完了すると、人数を数える。無事にアティとレオンを抜いた数が揃っている。気を失っている子がまだ何人かいるが、幸いにも息は止まっていない。しばらくすれば目を覚ます筈だ。
「レナさん、後はお願いします。私はタリア様を追います」
反論を許さない強い言葉でレナに告げる。彼女は未だに夫の仕出かした事を飲み込めないのか、複雑な表情をしていた。が、やがて神妙に頷いた。
「以前、レオンはこの先に古い遺跡があると話していたことがあります。ひょっとしたら……」
「分かりました」
レナの示す先には、ただの木々が立ち並ぶ光景しか見えない。しかし、それでも今のアティには少しでも可能性のある情報が必要だった。むろん、レオンの妻であるレナの言葉を完全に信じたわけではない。庇っている可能性もあるし、レオンが虚偽の情報を口にしていたことも考えられる。
だからこそ、可能性を補填する。
「スノトラ」
『なに?』
「タリア様の位置は分かりますか?」
『大雑把なら。確かに、あの先の方向にいるみたいだね。何か、よくわからない力が働いしていて、距離とか細かい所までは分からないよ?』
「十分です」
被った水飛沫を、体を震わせて弾く精霊スノトラ。その背にアティが跨る。
「タリア様に掛けた保険は?」
『絶賛稼働中だねー。問題ないよ』
「では、行きましょうか」
アティがスノトラと呼んだ巨大な猫の精霊が、靭やかな体と強力な後ろ足の力で駆け出す。さらに魔法で追い風を発生させ加速する。驚いたレナ達の姿は一瞬で見えなくなった。
猫の姿をした風を操る精霊スノトラ。タリアの従者であるアティの切り札。アティはタリアの保護と、討つべきレオンの排除に一切の迷いはなかった。