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懐古堂奇譚  作者: りり
19/19

終章

 茉莉花は夏草のそよぐ土手に一人でぽつんとすわっていた。

 温かい微風が頬を撫でていく。今年はわりと空梅雨だったな、とぼんやり思った。

 川面をふわふわとした影が漂っているのが見えた。あれはまた人ではないモノだ、と霞のかかった頭で思う。両親にも、兄や弟にも、級友たちにも見えないモノ。

 ごく小さい頃、茉莉花には人と人でないモノの区別がつかなかった。

 人でないモノたちは遊び相手になるような無邪気なモノから、隙あれば取って喰らおうという危険なモノまでさまざまだったが、例外なく人よりも人懐こく寄ってくる。だから幼い茉莉花にとっては単にとても身近な存在で、人でないモノだから避けようという感覚は皆無だった。

「四宮の血は女に濃く出るからなァ‥。やれ、困ったもんだ。」

 苦笑いをしながら祖父は、茉莉花の頭を撫でて言い聞かせた。

「いいかい、茉莉花。見えるからってうっかり話しかけるんじゃあねェよ。目を合わせるのもだめだ。人も物の怪もおんなじだ、知らないヤツには気をつける。特に言葉は遣っちゃなんねェ。言葉は道具だから、必要な時に必要な言葉を選んで遣うんだよ。」

 生来寡黙なたちだったので、言葉をむやみに遣うな、との祖父のいましめを守るのは難しくなかった。逆に難しいのは『必要な時に必要な言葉』を見つけることだ。

 玲が月夜見の神の力を呼びだした時、茉莉花は正直なところほっとしたのだ。

 鬼人より格上の存在に動いてもらい、闘いを回避する。交渉屋として当然、茉莉花こそが思いつくべき策だった。なのに怒りの感情のままに動いて、鳥島を危険な目に遭わせてしまった。交渉屋失格だ、とうなだれる。

 だから迷子になっている。為すべきことを見失ってしまったせいだ。

 ふと傍らに人影が落ちた。

 見上げると祖父が懐手をして立っていた。顔は逆光でよく見えないが、茉莉花には祖父だとわかった。

「お祖父ちゃん‥。」

「どうしてこんな場所にぐずぐずしてるんだい?」

「‥‥帰れないの。迷子になっちゃったみたい。」

 祖父は隣に腰を下ろし、煙管をふかした。

「茉莉花‥。ここはおまえの心の中なんだぜ? 今の俺はおまえの記憶にある残像だ。だから助けてやるこたァできねェのさ。‥‥わかるか?」

 うん、と茉莉花はうなずいた。

「わたしが自分で道を探さなきゃいけないと言う意味でしょう?」

「探すも何も道は目の前にあるんだよ。ただ立ちゃあいい。それができねェってのは‥‥おまえ、自分を信じきれなかったのかい? それでさまよってんじゃねェのかえ‥?」

 茉莉花は唇を噛みしめた。

「だって‥。わたしは結局何もできなかった。力任せに霊力を遣っても、事態を好転させられっこないってわかっていたのに‥わたしは力で適わない相手に力を遣うことしかできなかったの。お祖父ちゃんのようにはできなかった‥。」

「何も俺の真似をする必要はねェやね‥。おまえにはおまえの遣り方があるはずだよ。自分の気持ちの在りようと霊力の在りようを重ね合わせることができりゃ、物事は在るべき場所に落ち着く。そういうもんだ。‥‥もっと自分を信じてやんな、茉莉花。」

 煙管をぱんぱんとはたいて、祖父は腰を上げた。

「お祖父ちゃん‥。待って、これだけ教えて。わたしは『懐古堂』二代目を名のってもいいんですか‥?」

 茉莉花の頭をしわしわの掌が優しく撫でた。

 好きにしなよ、と微かな声を残して祖父の残像は消えていく。すっかり消えてしまうまでずっと、茉莉花は影でしかないその姿を見つめ続けた。

 それから頭に残る温もりを両手で確かめ、茉莉花はゆっくりと立ち上がった。

 生温かい夏の風が体じゅうを吹き抜けていく。いつのまにかすっかり黄昏につつまれた土手の向こうに、『懐古堂』の軒行灯の放つ仄かな光が見えた。

 茉莉花は手を伸ばし、その光をぐいと引きよせた。


 目覚めたのは自分の部屋の布団の中だった。

 障子ごしに傾いた西日が揺れている。枕元にいた桜が嬉しそうに頬笑んだ。

「姫さま‥お目覚めですか‥? 良かったです、桜はたいそう心配いたしました‥。何しろ二日もお目を覚まされなかったのですから‥。」

 襖が開いて、黒達磨がほっとした表情を浮かべる。

「顔色もずいぶんとよくなりやしたな。何はともかく重畳でやんす。」

 既にまる二日過ぎたらしい。

「‥わしは夕餉の支度をしてまいりやす。」

 黒達磨はにっこり微笑んで、そそくさと出ていった。

「ところで‥桜はどうしてここに? 堂上さんと一緒じゃないの。」

「ご主人さまが、しばらく姫さまについているようにと‥。」

「そうなの‥。」

 玲には黒猫がついているそうだ。黒猫はやはり彼を新たな主人に選んだらしい。

「‥赤子の知恵しか持たず、舌足らずの片言しか喋れない状態なのですよ。とてもご主人さまをお守りできるような力はまだありません。早くお役に立てるように鍛えねば‥。」

 桜は可愛らしい顔を先輩ぶってしかめる。

 茉莉花は伸びをして、両袖のない長襦袢姿なのに気づいた。

「ちょっとお風呂に入ってくる。達磨のおじさんにそう伝えて。」

 はあい、と桜はふわふわと歩き回り、着替えを出す手伝いをしてくれる。平穏無事っていいものだ、と茉莉花は久しぶりにくつろいだ気分になった。


 あっという間に一週間が過ぎた。

 梅雨が明けて、朝の日ざしにも夏の気配が立ちこめている。

 桜はいつのまにか消えてしまった。たぶん玲の元へ戻ったのだろう。

 玲と言えば彼は一度も訪れない。用事がない時にはやたら顔を見せるくせに、話を聞きたいと待ち構えている時にはさっぱり来ないのだから、面倒臭い人だと心底思う。

 尾崎亜沙美の遺体は、動けない鳥島に代わって咲乃が荼毘に付したそうだった。

 昨日訪ねてきた咲乃はすっかり明るくなって、自然と霊力を調節できるようになっていた。亜沙美については、母の面影として思い出すのは彼女の顔だから、としんみり話して

いた。亜沙美は身寄りがないので、遺骨は鳥島が引き取るそうだ。

「迷惑かもしれないけど‥。これからもお友だちになってもらえませんか。」

 引っ越し先の住所を書いたメモを座卓に置き、咲乃ははにかんだ笑みを浮かべておずおずと口にした。友人を持ったことのない茉莉花は少々戸惑ったけれど、これも縁だと思い、うなずく。よかったと微笑む咲乃の隣で、霊力を抑えている黒鬼が穏やかな雰囲気を漂わせていたのが印象的だった。思い出せば、優しい気分になる。

 鳥島の見舞いには目覚めた翌日に行った。

 鳥島は顔を合わせてすぐに、無事でよかったと安心した表情を浮かべた。

 術後麻酔から醒めた頃合いをみはからったように、長谷部遼一が見舞いに来てだいたいのところは説明していったそうだ。ついでに長谷部の本名が堂上玲であることも。

「堂上玲ってアンジュのマネージャーの‥?」

 驚く鳥島に玲は、コンタクトレンズを漆黒から青に替えてみせた。

「‥‥佐山徹もあんたなのか‥一人三役? なぜそんな面倒なことを‥?」

 呆れた鳥島に玲は再び長谷部の顔に戻って、品の良い微笑で答えた。

「職業別にキャラクターを替えてるうちに、いろいろ派生してできちゃって。ここ一年ほどは佐山と長谷部の二人をメインで使い分けてたんですけど‥。企業秘密ですから、内緒にしておいてくださいよ。知ってるのは税務署と鳥島さんだけです。」

 そう言って彼はすぐに帰ったそうだった。

 鳥島は茉莉花に向かって、知っていたのかと訊いた。茉莉花は嘘もつけないので、仕方なくうなずいた。すると鳥島はなぜかとても穏やかな顔で頬笑んだ。

 茉莉花は店先の掃き掃除をしながら、その時の彼の笑顔を思い浮かべていた。

 彼との縁はこれで切れてしまったのかもしれなかった。そう思うとちょっと寂しい。

 箒を片づけて、桶に水を汲んできた。

 柄杓を手に、乾いた地面に打ち水をしていく。

「わっ‥!」

「え?」

 人の気配に気づいて顔を上げると、ちょうど茉莉花の撒いた水にGパンの裾を濡らして、玲が跳び退いたところだった。

「ひどいな‥。声かけても返事しないと思ったら、水かけるなんてさ‥。そんなに俺が嫌い?」

「声をかけた‥? ごめんなさい、ちょっと考えごとをしていたので‥。今、拭くものを持ってくるから。」

「あ、いいよ、大丈夫。大した濡れじゃないから。それよりさ。荷物運ぶの手伝ってくれない?」

 店の中へ向かいかけた茉莉花を呼びとめて、玲はにまっと笑った。

「荷物って‥何?」

「俺の。ベッドとかソファとかの大きい家具は処分してコンパクトにまとめたつもりなんだけど、箱に詰めたら結構あってね。‥‥ま、ほとんど服だけどさ。」

 見れば店の横手に、ダンボールで一杯の大型のワゴン車が横付けされている。

「どういうことなの‥?」

「あれ? 達磨さんから聞いてない? 二階に間借り人を置くつもりだと聞いたから、俺が借りようと思って。」

「あ‥。」

 そう言えば黒達磨が二、三日前にまた二階を貸す話をしていた。そんな酔狂な人がすぐに見つかるはずがないと高を括っていたのだけれど―――なぜ、彼が?

「あの‥。」

「ここって結構都心に近いし、裏に車庫もあるって聞いたからね。このごつくて可愛くない車はレンタカーだよ。俺のはもっと小さくてシャイだから大丈夫。」

「いえね‥。」

「それに君や達磨さんの近くだと、桜もノワールも喜ぶしね。」

「‥ノワール?」

「紫さんの黒猫だよ。名前、つけたんだ。」

 ダンボール箱を二つ重ねて抱え、玲はすたすたと裏手の入口へ向かう。

「そうじゃなくて‥。まだわたし、あなたを置くとは‥。」

「月に十万て聞いたけど、俺なら十五万払うよ? 食費は別に入れるし、光熱費も持つ。どう?」

 茉莉花はぐっと詰まった。

 それは―――ものすごく助かる。けれど。

「‥‥やっぱりだめ。だってお風呂もトイレも一つしかないし、シャワーもないの。あなたの住んでいる高級マンションとは違いすぎるから‥。」

「あそこにいたのは一年ちょっとだけ。その前は取り壊し寸前の月七千円て部屋にいた。線路がすぐ横で、電車が通るたびに物が跳んでくるんだ。ちょっとしたアトラクションみたいだったよ。」

 裏口では黒達磨が出迎え、箱を受け取っている。

「君が欲しいならさ、バスルームにシャワーつけてあげようか?」

「わたしは‥要らないけど。」

「じゃ、このままでいい。問題ないよ。」

 茉莉花は深々と溜息をついた。

 諦めて、ダンボール箱を二階に上げるのを手伝うことにして、階段を上がる。

 二階は六畳間が二つと四畳半、それに三畳の布団部屋がついている。押入もたっぷり二間のが二つあるし、襖を取り払えばまあまあ広い。加えて腰高窓が三方にあるから風通しはいいけれど―――ブランドのスーツを身につける人には全然似合わない。

 掃除がきっちりしてあるところを見ると、黒達磨は今日彼が来ると聞いていたのだろう。というより、黒達磨が玲に話を持ちかけたに違いない。桜や黒猫だけでなく、黒達磨も妙に彼を好いているのを茉莉花は知っている。

 ま、いいかと割り切って考えることにした。

 気紛れな人だから、そのうちに飽きて出ていくだろう。それまで月十五万はとっても有難い収入だ。それでいい。

 箱を運び終わると、玲はワゴン車を返しにいった。帰りに自分の車を持ってくるというので、黒達磨はずっと使っていない裏の車庫を片づけにいく。

 その間に茉莉花は桜と一緒に台所に向かった。昼食の支度をするためだ。

「また姫さまのおそばで暮らせることになって、桜はとっても嬉しいです‥! どうかご主人さまと末長く仲良くしてくださいまし。」

「あのね‥桜。末長くって‥。その表現、変よ。」

「そうですかぁ‥? ご主人さまと姫さまは前世からの許婚ですし‥。夜鴉の若さまも、ご主人さまが姫さまと『懐古堂』の二代目になるのをお認めになったのですよ。ですからやはり、末長く仲良くお暮らしになるのが‥‥」

 ―――二代目?

 茉莉花はびっくりして手を止めた。

「ちょっと待って、桜。若さまが認めたって話、何? 聞いてない。‥どういう意味?」

「それはそのう‥。月夜見の神さまが‥ご主人さまをお気に召して‥。お許しください、姫さま。桜にはうまく説明できません‥。」

 桜は困った顔で口を噤んだ。

「嬢ちゃん。月夜見神社の御札は、『懐古堂』主人にだけ許された特権なんでやんすよ。札を貼った場所に月夜見の神さまの神通力を一度限りで呼びこめる、ってもんでやす。」

 いつのまにか戻ってきた黒達磨が、桜に代わって説明し始めた。

「鬼人をどうにかするには月夜見神社の御札が入り用でやんした。それで彦市っちゃんが旦那にお頼みしたんでやす。神さまに頼みごとができるのは人だけですし、月夜見の神さまの御札は『懐古堂』しか貰えやせん。更に厄介なことに‥‥」

 黒達磨は声を低めた。

「月夜見の神さまは女嫌いで‥ていうより、若い綺麗な男がお好きだそうで‥。」

「はあ? 神さまなのに‥?」

「神さまも久しく都会においでになると、だいぶ世俗にまみれるようでやんすよ。まあ‥こちらにおわすのはあまたの分身のうちの一つでございやすしね。」

 茉莉花は呆れきって、眉をひそめた。

「つまり‥。堂上さんを『懐古堂』二代目と偽ったわけ? 御札を貰うために?」

「神さまを偽るなどできないこってすよ、嬢ちゃん。」

 黒達磨はすまして答えた。

 茉莉花は戸惑っていた。どう考えていいかわからなかったのだ。

 確かに神さまを欺くなんてできるはずはない。ではどのように筋をつけたのだろう? それから―――約束とは? あの時確かに玄兎は約束を忘れるなと彼に言った。

 茉莉花は黙りこんで、昼食の支度を続けた。

 しばらくして玲が戻ってきて、二階に上っていく足音が聞こえた。

 逡巡した末に、直接話を聞くことに決めた。もしや彼が何もわかっていないまま責任を背負いこんだのならば、何とかするのは自分の義務だと考えたからだ。

 上がってすぐの桟戸は開いたままで、玲は足の踏み場もないほど洋服やアクセサリーを広げていた。

「あのう‥。ちょっと訊ねたいことがあるんだけど‥。」

「何? わっ、そこ踏まないで。仕分け中なんだよ。」

「仕分け中って‥。もしかして名前別に‥?」

 テイストの異なるいくつかの山に分けられているようなので、思わずそう訊ねた。

 うん、と答えて玲は器用に洋服の間を移動しつつ、山に分配していく。

「いったいいくつ名前があるの‥? 見る限り、三個や四個じゃないみたい。」

「うーん‥。十以上あるかも。だいぶ減らしたんだけどね。」

 とりわけ高級品ばかり積み上げた上に、『長谷部遼一』の名刺が置いてあった。四宮本家で会った品の良い物腰と柔らかい声をしたスーツ姿の男の名前だ。

 膝をついて屈みこみ、名刺を手に取る。

「長谷部さんて‥。あの時助けに来てくれた人よね。」

「ま、中味は俺だけど。」

 そこが信じられない、と茉莉花は思った。

「‥この名前は二度と使わないと誓ったんじゃなかった?」

「まさか。長谷部はいちばん成功してるキャラなんだよ? 捨てるわけないじゃん。」

「それ‥危険すぎるわ。白鬼が契約をつたって、また来てしまうかもしれない。」

「怖い?」

「真っ先に危険なのはあなたでしょ。」

「心配してくれるんだ?」

「そりゃあまあ‥。」

 玲は仕分けの手を止めずに、くすくす笑った。

「白鬼に教えた名前はずいぶん前に使ってたやつで、長谷部じゃない。関連のものは全部廃棄済みだよ。それくらいの用心はしてるから、安心してよ。」

「‥わかりました。心配するだけ無駄なのよね。」

 茉莉花は溜息をつく。

 いつもこんな調子なのだから、まったくいちいち面倒臭い人だ。

「実は月夜見の神さまとした約束って何、と訊きたかったのだけど‥。素直に答えてくれるはずないわね。‥お邪魔しました。」

 立ち上がろうとした時、不意に手をつかまれた。

「神さまとの約束はね。毎月一のつく日にお詣りすること。‥嘘じゃないよ。」

「それだけ‥?」

「うん。それだけ。代理はだめだと言われたから、十日以上留守にできないのがちょっと不便だけどね。」

 すわり直すと、彼は手を離して再び作業に戻った。

 茉莉花はちょっと深呼吸してから次の質問をした。

「じゃ、あなたを月夜見神社に御札を貰いにいかせたのは‥誰?」

 彼はあっさりと答えた。

「そりゃもちろん、『懐古堂』の先代。君のお祖父さんだよ。紹介状があったからこそ、神さまは交渉に応じてくれたんだ。」

「‥‥祖父に会ったの?」

「それに関しては何も話せない。」

 玲はごめん、と顔を背けた。

 そう、と茉莉花は下を向いて、つい泣きそうになったのを隠した。

 そして息を調えて、頭を下げて謝った。

「わたしこそ‥ごめんなさい。わたしが未熟だったせいで、とんでもなく重い責任を負わせてしまったようで‥。まだすぐには思いつかないけど、何とかして解放されるように尽力するから‥。」

 一瞬戸惑った顔をしたようにみえたが、彼はすぐにいつもの軽い調子で微笑った。

「そんなに堅く考えなくても‥。今言ったとおり、大した約束じゃないんだから。」

「‥御札を貰うためにあなたを仮に『懐古堂』の二代目としたと聞いたわ。方便とは言え、そのせいでこの店に縛られる結果になって引っ越してきたのでしょ?」

「『懐古堂』二代目だなんて俺自身は一度も口にしてない。札を貰いに行って、神さまと一つだけ約束をした。それだけだよ。縛られてるとは思わないけど?」

「でも‥。あなたが引き受けなきゃならない理由はなかった。ほんとにごめんなさい。」

 茉莉花はうつむいたまま、唇を噛みしめた。

「‥君のお祖父さんは俺にしか頼めないと言ったんだよ。だから引き受けた。」

 え、と顔を上げると玲は珍しく正直そうな顔でまっすぐこちらを見ていた。洗いっぱなしのさらさらした前髪は瞳と同じく薄茶色で、陽ざしに透けて光っている。純朴な大学生みたいだ。それがかえって―――胡散くさい。

 案の定彼はすぐにいたずらっぽく笑った。

「なんていっても前世で約束を交わした仲だもんね。夜鴉の若さまに言い寄られて困ったら、婚約者だって言ってもいいよ。」

「あのね‥。人じゃない存在相手にうっかりしたことを言ったら、冗談ではすまないのよ。あなたがどう思おうと『懐古堂』の名前を背負う立場になってしまったわけだから、今後は嘘つくのは人間相手だけにして。そうじゃないと危険なの。」

「嘘でも冗談でもないけど? 桜は君が俺の姫さまで間違いないって言ってる。それに桜が見えるのは君だけなんだよ。」

「それはわたしが見える体質だというだけよ。」

「だけどね、佐山徹に会った四宮花穂には、肩の上の桜がまったく見えなかったんだ。」

「‥え?」

「四宮本家に行ったあの日も、長谷部遼一は門を四宮瑞穂という女の子に開けてもらったんだけどさ。彼女も妹たちも桜の存在が認識できなかった。もちろん、咲乃さんも桜に気づいてないよ。今のところ、君だけが桜を見て触れて話をすることができるんだ。」

「‥‥嘘。」

「事実。」

 茉莉花はどっと脱力して、頭を抱えた。

 確かに桜はずっと、茉莉花が姫さまだと主張し続けていたけれど。

「わからない‥。それがほんとうなら前世で何が起こったのかしら? 信じられない。」

 来世を縛るなど、能力者としては決して犯してはならない禁忌だ。

 前世では霊力はなかったのだろうか。いや、桜を生み出すくらいなのだからその姫にはかなりの霊力があったはずだ。ならば何の教えも受けなくても、感覚的に他人の魂を縛るような行為には怖れを抱くものなのに。なお敢えて禁忌を犯すとは―――

 茉莉花ははたと気づいた。

 では前世の自分の霊力が―――今生の玲をこの店に縛りつけてしまったのか。

 思わず嘆息が洩れた。

「そんなにがっかりした‥? 君はよほど俺が嫌いなんだね。」

 玲は茉莉花の嘆息を違う意味に取ったようで、苦笑いを浮かべた。

「そういう意味ではなくて‥。」

「まあ‥とりあえず記憶にないのはお互いさまだし。今回は今回で一から始めればいいじゃないか? 好きになれとは言わないからさ。むろんなるなとも言わないよ。」

 軽い口調に逆にほっと救われた気分になった。確かに記憶にない約束を悔やんだところで、どうにもならない。

 ふと仕分けの山に無造作に放りだされた運転免許証に目を留めた。 

「‥‥あの。これ、本物‥よね?」

「あたりまえじゃん。免許証なんか偽造したらそれだけで捕まるよ。ちゃんと本名が記載されてるだろ。何か疑問?」

「この生年月日。わたしと二年違いで、同じ十一月十一日‥。」

「へえ。そりゃすごい。やっぱり運命感じる?」

 顔を上げて、彼は皮肉めいた視線を向けた。

 茉莉花は思わず眉をしかめる。

「‥驚いたのはまだ二十だってほう。もっと年上だと思ってた。‥正直なところ、あなたは名前と一緒に気配まで変わるから、どこまでが真実でどこからが嘘なのか、いつもさっぱりつかめないの。不思議な人ね。」

「君にも見抜けないモノがあるなんてさ、その方が不思議だ。」

 ふふっと揶揄するように笑う。

「ね。年が近いとわかったら、気持ちも近くなるかな? ためしてみようか。」

「ためす?」

 玲はいきなり茉莉花を胸に抱きよせると、頬にキスした。

 反射的に思い切り引っぱたいて、憤然と立ち上がる。

「顔はよせって‥商売道具なんだからさ。」

「‥‥油断ならない人!」

「いいじゃん、ほっぺくらい。」

 茉莉花はこのうえなく冷ややかな視線を向けて見下ろした。

「‥死にたいわけじゃないでしょう?」

「キスしたら前世の記憶がよみがえるかと思って。」

「ふざけないで! やっぱりありえない、こんな人と約束するわけないのよ。」

 茉莉花は髪に結んだ小さな鈴を低くリーンと鳴らし、全身を仄かな光で包みこむ。

「怪我をしたくないならわたしに近づかないで。容赦しないから。」

 大袈裟に肩を竦めてうなずいたけれど、彼の瞳はまだ可笑しそうに揺らめいていた。

 心中で溜息をつき、茉莉花はくるりと背を向けて部屋を出た。

 階段をトントンと降りかけて、ふと立ち止まる。

 ためらった末にもう一度振り返ると、玲は窓に顔を向けて、涼風に微笑していた。桜は階下にいるのだから何かが見えるわけでもないはずなのに。

 不思議な人だ―――あらためてそう感じる。

 窓の外には夏の光があふれるほど輝いていた。

 まもなく昼食にするから、と言葉を残して、茉莉花はゆっくりと階段を下りていった。


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