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懐古堂奇譚  作者: りり
14/19

第十三章

 亜沙美は誰かに追いかけられる夢を見て、目を覚ました。

 障子の向こうはまだ真っ暗で、夜明けにはまだ間がある。背中を這う悪寒は消えず、恐怖で汗をびっしょりかいていた。

 夢の中では袈裟を着た男が彼女をユカリ、と呼んでいた。若いのか年寄りなのか、それどころか顔もよくわからない。ただ声だけがいつまでも追ってくる。

 だが怖かったのはその男ではなく―――別の何かなのだ。夢の光景に一緒に出てきた何か。人ではなく、動物でもなく、物でもない。何だろう、何があれほど恐怖を呼び起こしたのだろう?

 亜沙美は自分が尾崎亜沙美ではないとうすうす気づいている。

 しかし、ならば誰かと問われれば答えられなかった。この屋敷で目を覚ますまでの記憶は、すべてが曖昧で夢のような断片しか持っていない。何よりも腹のあたりがすうっと冷えるような欠落感が四六時中消えなかった。記憶だけではなく、何かが大きく欠けている。そう思えてならない。

 亜沙美はふらふらと起き上がり、水を飲もうと台所へ向かった。

 長いひっそりとした廊下を歩いていると、突然ぐらぐらと母屋が揺らいだ。慌てて手近な柱に身を寄せる。

 揺れがおさまったと思うまもなく、亜沙美の全身に先刻の夢の恐怖がよみがえった。

 思い出した。怖かったのは真っ暗な穴だ。奈落のような、底なしの―――穴。

 あっちだ。母屋の東側。亜沙美の体はがたがた震えながらも、引きよせられるようにそちらを目指して進んでいく。

 たどりついた場所で見つけたのは、はたして直径二メートル足らずの真っ暗な穴だった。

 見えない力が轟々(ごうごう)と渦巻いている。

 嫌だ、行きたくない、怖い―――涙がぽろぽろこぼれ出す。

 なのに体の中心が引きよせられてゆく。この穴の向こうで欠落した自分が呼んでいる、と強く感じてしまう。

 いけない、と背後で誰かの引き留める声が聞こえた。

 だが逆にその声に背を押されるように、亜沙美は穴に飛びこんだ。


 暁の静寂に微かに漂う不穏な気配を嗅ぎ取って、黒鬼は目を覚ました。

 ゆっくりと起き上がって、感覚をとぎすましてみる。傍らの咲乃が身じろいだ。

「煌夜‥?」

「静かに。何か‥近づいてくる。」

 黒鬼はいきなり霊力を全開にして、咲乃を背に仁王立ちになった。咲乃は吹っ飛びそうになって何とかこらえ、(つや)やかな黒い背中に寄り添う。

「ほう‥。ほんとうに黒鬼だ。何とも珍しい。」

 ベランダからすうっと入ってきたのは、真っ白な髪をした男だった。

「だ‥誰? どうやって窓から‥六階なのに‥。」

「初めまして。咲乃さんを連れてくるよう、ちょっと頼まれちゃってね。」

 男はにやっと微笑って、黒鬼を見た。黒鬼は険しい表情で黙って男を見据えている。

「咲乃さん。言うとおりにしてくれないかな? この坊やを傷つけたくなかったらさ。」

「どういう‥意味? 頼まれたって‥いったい誰に‥?」

 咲乃は黒鬼の背中にぴったりと貼りついて、おずおずと訊ねた。

「誰があんたを欲しがっているかは、一緒に来ればわかる。だいたい、だめだよ? 若い女が親に内緒で男を部屋に連れこむなんてね。」

 男のにやにや笑いがぐんと近づく。

 その時黒鬼が素早く動いた。咲乃を抱えてふうわりと舞い上がる。

「へえ‥?」

 男はバカにしきった声を出して、黒鬼を見上げる。

 黒鬼は構わずに跳びあがった。夜陰に紛れて闇から闇へと空間移動していく。数秒の後に着地した場所は河川敷の広い公園だった。

 咲乃を芝生に降ろして、黒鬼はちっ、と舌打ちした。

「残念だったね、黒鬼。‥次元移動ができるなんて、能力の高さは認めるけどさ。上には上がいるもんなんだよ。」

 背後からせせら嗤う声がした。

「誘導したのか‥。ここは何だ?」

「俺の霊力ポイント。人間界と俺の領域との境目になる場所だ。‥そう聞けば自分の置かれた状況がわかるだろ? 大人しくその女を渡しなよ。」

 黒鬼はまっすぐ男に向き直った。

「咲乃は俺のものだ。誰にも渡さない。」

 男はふうっと息をついた。

「やれやれ、青いねえ。‥あのさ、何もその女でなくてもいいだろ? おまえが契りを結んだ理由は理解してるよ。だがその女は都合が悪いんだ。素直に契りを解消して、別の女にしなよ。何ならちょうどいいのを見繕ってやる。‥‥俺も仕事とはいえ、同族殺しはしたくないのさ。」

 咲乃はびくん、と震えた。

「‥‥咲乃。動揺するな。耳を塞いでろ。」

「だって‥。」

 咲乃の心の揺れを察知してか、男はくすくす嗤う。

「彼女は別に取って喰われるわけじゃないよ? 父親の元へ送られるだけだ。たぶんおまえといるより幸せになれるよ、だって彼女は人間なんだからさ。」

 言葉の終わらないうちに凄まじい衝撃波が襲ってきた。墨色の川面が激しく波立つ。

 咲乃を抱えて(くう)を跳び、木立の中に着地すると、そこにいろ、と言いおいて黒鬼は瞬く間に白髪の男の元へ戻った。

 薄闇の中に雪のように真っ白な姿が浮かんでいた。

 踝まで届く白い髪、白い肌。金色の瞳。

 黒曜石のごとく輝く二本の角。

 白鬼(びやっき)だ。

「どうあっても闘う気かい? 物わかりの悪い坊やだな。格の違いがわからないわけ?」

「‥‥黙れよ。父親だろうが誰だろうが、あいつを利用しようとする輩は許さない。その手先だと言うなら、同族だろうがあんたも許さない。」

 黒鬼は左の(てのひら)を上に向けて顔の前に掲げた。

 ぼっと音を立てて燃えたった黒い炎の中から、漆黒の太刀を取り出すと、まっすぐ青眼に構える。

「おやおや‥。坊やのくせに見事なもんだ。」

 白鬼は嬉しそうににっこりと笑った。

「じゃ。ちょっとだけ、手合わせしてやろう。」

 そう言うと両手をぱんと打ち鳴らして自動拳銃(オートマチツク)を取り出し、ぴたりと照準を黒鬼の眉間に合わせた。

「どうする、坊や? 太刀と銃じゃ喧嘩にならないよ?」

「‥撃ってみればいい。」

 黒鬼は冷笑を浮かべる。

 動いたのは黒鬼が先だった。白鬼の銃が轟音とともに連続して光る。

 太刀が発する霊力波が目に見えない盾となり、光弾を弾きかえしながら、あっという間に間合いに入ると、黒鬼は大きく太刀を振り下ろした。

 白鬼は一瞬早く飛び退いたものの、雪のような髪が一房、はらりと空を舞った。黒鬼は間髪入れずに踏みこみ、返しの太刀で下から上へと薙ぎ上げる。

 至近距離で再び白鬼の銃が連射され、黒鬼は太刀を正面に構えて後ろへ跳びずさった。

「やるねえ、坊や。尚更、殺すのは惜しいな。‥‥わからないね、それだけの力を持っていて、なぜたかが人間の女一人に固執する? 女なら代わりはいくらでもいるだろうに。」

 確かにそうかもしれなかった。

 無自覚に霊力を持っている人間の女は案外と多い。傍に置くのに手頃な女などいくらでもいる。咲乃と違って、黒鬼の霊力で寿命を縮めてしまうだろうが、死んだら別の女を求めればいいだけだ。そんな理屈は白鬼に指摘されるまでもなくとっくにわかっている、と黒鬼は無性に腹が立った。だがそれでも。

「‥‥咲乃の代わりはない。あんたにはわかるまいし、わからなくていい。」

 黒鬼は再び太刀を振りかざし、激しく踏みこむ。

 ほんとうは自分にだってよくわからなかった。ただ、護ってやるとの約束を誇りにかけて貫きたい想いとそれだけではない何か、怒りに似た感情が、黒鬼の腹にふつふつとたぎってくるのだ。咲乃をみすみす利用させてたまるものか。黒鬼にとってこの闘いは、もはや契約事項ではない。

 白鬼は皮肉な笑みを顔に貼りつかせて、ひょい、ひょいとぎりぎりで太刀をよけていく。

 だが肩や腕をかすった刃が裂いた着物には、血がうっすらとにじんでいる。追いつめている手応えを感じた。

 不意に背後で底冷えのする気配を感じた。

 大きく後ろへ跳び下がって、咲乃の方へちらりと視線を走らせる。

 咲乃は木立の陰から思い詰めた顔で闘いを見守っていた。

 恐らく必死で黒鬼の身を案じているのだろう。そのせいで、自分の後ろにぽっかりと開いた黒い穴と伸びた二本の腕に、まったく気づいていなかった。

「咲乃‥! 後ろだ、逃げろ‥!」

 思わず振り向いて叫んだ瞬間、白鬼の光弾が黒鬼の右肩を貫通した。

 衝撃で前のめりになり、地面にばったりと両膝をつく。

 連続して放たれた弾丸は、続いて脇腹を貫いた。

 ぐっと腹に力をこめ、霊力波を放出して何とか次弾以降をふせいだ。だが利き腕が上がらない状態では満足に闘えない。

「煌夜、煌夜‥‥! 嫌あ‥!」

 咲乃の悲痛な叫び声が、明け始めた黎明の空に響く。

 助けなくては、と激痛の中で思った。太刀を支えにして立ち上がると、脇腹からどっと大量の血がこぼれた。

「だめ‥立たなくていいから‥。もうやめて、お願い‥。」

 咲乃は穴から出てきたらしい袈裟姿の男に腕をつかまれ、引きずられながら、一生懸命抵抗していた。手を振りほどいてこちらへ来ようとしている。

 男はいきなり咲乃の頬を張りとばした。

「くそっ‥! 咲乃‥‥」

「女の心配より自分の身を案じなよ。バカだねえ‥。ま、おまえにはどっちみち死んでもらわなきゃならないんだけどね。」

 白鬼の嘲笑がすぐ近くで聞こえ、霊力の塊が今度は背中に撃ちこまれた。

 支えにしていた太刀が消えて、地面に這いつくばる。喉に血が溢れてくる。

「お願い‥。あたしは何でも言うとおりにしますから‥。どうか、彼を助けて‥。殺さないで‥。お願い、お願いします‥。」

 咲乃の泣き声が遠く聞こえる。

「あんなこと言ってる‥。ふふ‥。はは、あははぁ‥!」

 白鬼は高笑いして、咲乃に向かって叫んだ。

「ほんとはねえ、初めからあんたの彼氏には死んでもらわなきゃいけなかったんだよ‥!あんたが悪いのさ。人間どうしと違ってね、契りを解消するには片方が死ぬしかないってわけ。わかった?」

 急速に意識が遠のいていく中で、なぜか咲乃の絶望に満ちた顔だけが脳裏にくっきりと浮かんでくる。彼女の心がまだ自分に寄り添っている証拠だと黒鬼は思った

 ―――まだ‥。まだだ。

 黒鬼は自分に言い聞かせた。咲乃の心が離れたわけではない。ならばまだ―――全部の力を失ったわけではない。

 希望を打ち砕くように白鬼が耳元に囁いた。

「あばよ、坊や。女の魂もすぐ送ってやるから安心しなよ。必要なのは霊力に満ちた、若くて健康な体だけなんだってさ。」

 させない―――声にならない言葉を血とともに吐き出して、黒鬼は喘いだ。

 立たなければ。今、この瞬間に立ち上がらなければ咲乃を永久に失うのだ。

 両手を地面について、黒鬼は片膝を立てた。

「へえ? まだ立てるとはね‥。潜在能力が凄いのか、それとも‥」

 煌夜―――咲乃の呼ぶ声が聞こえる。

 咲乃だけに許した名前。はにかんだ笑顔、優しい声。

 失いたくない、と黒鬼はありったけの霊力を搾りだし、もう一度太刀を作る。

「咲乃‥‥」

 再び口から血の塊を吐いた。それでも太刀を地面に突き立てて縋り、黒鬼は懸命に立ち上がろうと顔を上げた。

 その額に冷たい銃口がぴたりと当てられる。

「頑張ってるのに悪いけど。とどめだよ。一発で頭を吹き飛ばして、楽にしてやるね。」

 夜明けの一条の光が目蓋を射る。

 と、不意に夜よりも濃い暗闇があたり一帯を包みこんだ。ばさばさっと無数の羽音が響き渡る。

 ちっ、という舌打ちとともに、白鬼の気配がかき消えた。

 同時に咲乃の気配も、穴とともに消えていた。

 茫然と立ち竦む黒鬼には、既に彼女を探す力は残っていなかった。ざざっ、と崩れ落ちて、三度(みたび)吐血する。そして意識を失った。


 穴に引きずりこまれた咲乃は、人気のない座敷に放りだされた。

 手足を縛られ、猿ぐつわをはめられて転がされていても、咲乃には自分の身がこれからどうなるかより煌夜の怪我が心配でならなかった。涙が後から後からとめどなく頬を伝う。

 ―――あたしのせいだ。あたしを助けようと振り向いたから‥。

 いや。そもそも咲乃に関わり合ったりしなければ、彼が同族と闘う必要はなかったのだ。

 後悔ばかりが湧いてくる。すすり泣いてずっと彼の名を呼んでいた。

「すぐに、後を‥追わせてやる。泣く必要はない。」

 袈裟を着た男は顔に白い鬼の面をつけていて、くぐもった切れ切れの声しか発しなかった。だが咲乃はその男をよく知っているような気がした。

 この人が咲乃の父親なのだろうか。母を死に至らしめたという人なのか。

 顔を上げてキッと男を睨みつける。男はたじろいだふうだった。

 ―――あなたの言うなりにだけはならない。死んでも絶対、ならない‥。

 咲乃は生まれて初めて他人を憎いと思った。


 その少し前。黒猫は胸騒ぎに目を覚ました。

 思い出した記憶をすべて茉莉花に話したあと、なりゆきで『懐古堂』に引き取られることになったので、昨夜から店の隅に寝場所を貰っている。

 胸騒ぎは過去の自分にまつわる感覚だった。

 何かまだやり残している使命があるような。誰かが自分を呼んでいる―――否、助けを求めている。頼りない仔猫になってしまった自分に何ができるのか、と忸怩(じくじ)たる想いが胸を塞ぐが、それ以上の強い焦燥感に背中を押され、黒猫はそっと店を抜け出した。

 影に姿を変え、凄まじい闘気が二つ争っている場所へとまっすぐ飛んでいった。

 争っているのは黒鬼とよく似たもう一つの気配。感じ取っただけで恐怖のあまり、魂ごと消滅してしまいそうな怖ろしい気配。

 そのすぐ近くに咲乃ともう一人の存在を感じた。

 黒猫はそちらへ向かってすうっと飛んだ。

 袈裟姿の男が咲乃を無理矢理穴へ引きずりこもうとしていた。

 黒猫は薄闇にもぐりこんで男に近づき、ぴったりと背中に貼りついた。これは敵、紛うことなき仇敵だ。黒猫の胸に憎しみが燃え上がる。

 ぱっくりと口を開けた穴の向こうには、紫の気配がしている。無垢な、何の感情も持たない赤子のような魂の気配。いや、少し怯えているようだ。

 自分を呼んだのはこの穴の向こうの紫だ、と黒猫はやっと気づいた。

 涙が出るほど懐かしい感覚。切なくて悲しくて愛おしい―――けれどその感情に贖罪が色濃く混じるのはなぜなのか。

 考える間もないうちに、男が咲乃を穴に引きずりこみ、数珠を振り回して入口を閉じた。

 咲乃は髪を振り乱してすすり泣き、黒鬼の名を呼んでいる。

 男は再び咲乃の頬を張りとばして、両手首を紐できつく縛りあげた。そうして暗く湿った穴の中をずるずると引きずっていく。

 やがて出口が見えた。墨染鼠だった頃に何度か来たことのある、『御霊の会』教団本部内の教祖の部屋だ。

 黒猫は静かに男の背中から離れ、朝日の当たっている床柱の影にひっそりと隠れた。

 そして部屋の裡に立ちこめている紫の気配をたどって、魂のありかを探した。

 どこだろう? 確かにごく近い場所に紫の存在を感じるのだが、と影を伝いながら縁側に出て、素早く縁の下にもぐった。庭だろうか、それとも―――

「何をしているの‥?」

 いつのまにか広縁に女が一人、立っていた。

 黒猫は縁の隅に上がり直し、様子を窺う。

 女はパジャマに裸足という格好で座敷(ざしき)(うち)を覗きこんでいたが、縛られている咲乃を目に留めると障子を大きく開けて入りこみ、袈裟姿の男を正面から見据えた。

「顔を隠していたって、あなたが誰だか知ってるのよ。‥この女の子をどうするつもり? 警察を呼ぶわよ。」

「どうしてここへ‥‥わたしのあとをつけていたのか。」

「そうじゃないけど‥。誰だかはわかるのよ。それに‥その手の中にある水晶珠。わたしはそれを探しに来たんだわ‥。返してもらうために‥。」

 男はくく、と嘲笑った。

「どうかしているんだね。亜沙美、この水晶珠は君のじゃない。わたしのものだよ。」

 二人はぐっと睨み合って対峙した。

 黒猫は影を伝ってそろそろと近づく。

 袈裟姿の男が数珠を振り上げた瞬間、黒猫は影から実体に姿を変え、その手に飛びついて思い切り歯を立てた。

 男は小さな叫び声を上げ、数珠を取り落とした。

 黒猫はさっと数珠の傍らに降りたつと、紐をくわえて亜沙美と呼ばれた女の方へ放り投げた。そして男の手をすり抜けて、再び影に戻る。

「何だ‥今のは‥? 君の使役獣か。どうやら記憶を取り戻したんだね‥紫。」

 水晶珠は女の手の中で激しく瞬いていた。真っ白な光がすうっと立ち上り、みるみるうちに女の全身を包みこんでいく。

「わたしの‥‥欠けていた部分‥。霊力がわたしを呼んでいたんだわ‥。」

 男はそろりそろりと後じさりし始めた。

 黒猫は咲乃の背中にまわり、すっと実体化すると手首の紐を必死で噛み続けた。

 咲乃は振り向いて、あ、と声を漏らした。しっ、と黒猫は口止めする。(ようよ)う紐が切れた。

「隙を見て逃げるんです、咲乃さま。いいですね?」

 咲乃は震えながら微かにうなずく。少しずつ体を、光を放っている女の背後へとずらしていき、それから急いで足の縛めと猿ぐつわをほどいた。

 女の手の中で水晶珠は光を失い、終いには煤けた黒い珠になってしまった。彼女はおぞましげに数珠を見遣り、それから男へ凍るような視線を向けた。

「これほどの呪詛を溜めこむなんて‥。わたしの力を使っていったい何をしたの‥? この女の子は誰、どうする気?」

「‥亜沙美。何も知らない方が君のためだよ。命が惜しければ無知でいることだ。」

「わたしは亜沙美じゃないわ‥紫。四宮紫‥。ほんとうの亜沙美さんの魂はどうしたの? まさか‥殺したんじゃないでしょうね?」

「生体の波長がちょうどよかったので、少しの間体を貸してもらうだけのつもりだったんだが‥。自分で勝手に抜け出て、成仏してしまった。わたしのせいではない。」

「なんて言い草‥! 昔からあなたは少しも変わらない。何もかも自分のために都合良く解釈して‥。畏れを知らねば霊力は正しく使えないのよ? どうしてわからないの。」

 男は鬼面の下でくすくす笑い始めた。次第に笑い声が大きくなり、やがて哄笑になる。

「正しくだと‥? 正しい使い方なんて誰にわかるというのだ、紫? 大きな力を行使した者が正しいのだよ。世の中の条理はそう決まっている。」

 亜沙美の姿をした紫は軽蔑に顔を歪めた。

「ばかばかしい! ともかく、もうあなたは力を使えない。これ以上何もできないわ。」

「魂は実体を得ると急速に知恵がつくのだな、紫。つい先日まで赤子のようだったのに‥。残念だが君のその体は保ってせいぜい一週間だよ。だからそこにいる咲乃の体に君を移し替えてあげようと思っていたのだがね。」

 紫はすっと青ざめ、後ろを振り向いた。咲乃の顔をまじまじと見つめる。

「咲乃‥咲乃ですって‥。何てことなの‥‥。」

「母子ならば拒否反応も出にくいだろう。しかも咲乃の霊力はかなりのものだ。恐らく、朽ちることなく融合できるはずだよ。」

 紫は咲乃の両肩に手をかけ、咲乃、と嗚咽に似た呟きを漏らした。

「なんて‥ひどい‥。そこまでわたしが憎かったの‥? 答えてよ、ねえ‥兄さん‥!」

「兄さん‥? じゃあ‥あなたは‥」

 驚きに茫然と立ち竦んだ咲乃の視線の先で、面を取った四宮(よつみや)(ふひと)が微笑していた。

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