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懐古堂奇譚  作者: りり
12/19

第十一章

「咲乃の様子はどうなっているの?」

 祖母の声だ、と廊下を通りがかった四宮(よつみや)瑞穂(みずほ)は慌てて物陰に身を潜めた。

 進路調査票に印を貰うために母屋へきたのだが、祖母にうっかり見つかれば厳しい叱責が待っている。瑞穂を始めとした三姉妹は原則として、祖母の許可がなければ母屋へは立ち入れないことになっていたからだ。

「それが‥想定外の情況が起きました。夜鴉でも葛城でもない別のモノが咲乃に付いているようです。」

「別のモノ‥? では鼠は失敗したの? 咲乃と葛城を連れて夜鴉の巣へ行ったと聞いたはずだけど?」

「連れていったのですが失敗したようです。鼠は葛城に始末されたかもしれません。‥‥お母さん。それより紫はどんな具合ですか? 万が一、記憶を取り戻したりすればあれのことですから、またどんな勝手な振舞いをするかしれません。」

 祖母は小さな吐息をついた。

「そんな心配は不要です。紫の過去の記憶などとうに消滅しているのですよ。今の紫は生まれたての赤子のようなもの。」

 祖母と話しているのは父だ、と瑞穂は眉間に皺を寄せた。

 世間的には当主と呼ばれ、公けの場に出ることも多いというのに、実質的に父は祖母に頭が上がらない。それもそのはずで、四宮家の男には霊力はないからだ。

「そんなことより咲乃についているモノをさっさと排除しなさい。夜鴉は葛城に一族の者を何羽も殺されて相当頭にきているはず。今がいい機会なのだから。‥‥いったい咲乃には何がついているの?」

 祖母は苛々しているようだった。答える父はいつもどおりに抑揚のない、何の感情も感じられない平板な声だ。

「若い男らしいのですが‥。夜鴉の頭領が一目(いちもく)おくほどの力の持ち主だそうで。未知の霊能力者かもしれません。」

「若い‥男‥!」

 軽蔑しきった調子で祖母は吐き捨てた。

「母が母なら娘も娘だ‥! 家を出てまだみ月余りだというのにもう男ができるとは!」

 さっさと排除しなさい、と祖母は繰り返して、足早に奥へと立ち去っていった。

 瑞穂は間をはかってからそうっと物陰から出た。そして立ちつくす父の背中に無邪気を装い、声をかける。

「お父さま。学校へ出す進路調査票に印鑑をいただきたいのですけど。」

 父は振り向いて穏やかな微笑を娘に向け、いいとも、と返事をした。

「お祖母さまに見つからないうちに、わたしの書斎に行こう。おいで。」

 瑞穂は微笑んで、父に従った。

 頭の中にはたった今漏れ聞いた話がたくさんの疑問符とともに渦巻いていたが、父に問うわけにはいかなかった。成年に達しないうちは、たとえ跡取りの瑞穂といえども口を挟むことは許されないのだ。

 印を押してもらい、礼を言って母屋を出た瑞穂は、携帯を取り出して花穂(かほ)早穂(さほ)にメールを送った。外で待ち合わせして会おうという内容だ。今しがた聞いた会話について妹たちと話し合うつもりだった。

 どう考えてもあの会話の内容は胡乱(うろん)だ。

 瑞穂個人としては臆病な咲乃に彼氏ができたらしいという事実にいちばん興味大だったけれど、何の力もないから外に出されたはずの従姉をどうやら利用しようとしているらしい祖母に腹が立っているのも確かだった。更にそれに協力している父にも。

 四宮瑞穂は咲乃に愛情を抱いたことはない。気弱で自分の意志をはっきり言えない臆病な性格にはどちらかというと軽蔑を感じている。

 けれど人を人にあらざるモノから守るのが、四宮に生まれた者の使命であると教えられて育ってきたのだ。ならば一般人である従姉は守られるべき存在であって、利用するのは四宮にあるまじき行為ではないのか。祖母の権高な物言いに普段から反発を覚えているだけに、瑞穂は腹立たしくてならなかった。

 しかも紫とは―――? とっくに亡くなったはずの叔母の名前がなぜ今頃出てくるものか、どうにも理解できない。何か後ろ暗い行為が行われているのだ、という直感が胸にあふれてくる。

「絶対、つきとめなくては‥。でもその前に咲乃の彼氏をこっそり見にいこうっと‥。」

 瑞穂は門を飛びだしていった。


 金の鈴をつけた黒い仔猫を手提げ鞄に入れて、茉莉花は黒達磨に留守を頼んだ。

 若頭領との約束もあるし、仔猫が咲乃に会いたがっているのでこれから咲乃を訪ねるつもりなのである。

 仔猫は護符ならぬ護鈴をつけてやったおかげで人語が喋れるようになったけれども、残念ながら鼠の姿でいた間の記憶はほとんど失われてしまった。おかげで彼からは咲乃に関する本家の陰謀については何も聞き出せなかった。

 代わりに彼から知り得た事実―――それは二十年前の咲乃の出生に関するものだ。

 茉莉花は早急に咲乃と話し合うべきだと考えた。むろん庇護者である黒鬼とも話をしなければいけない。

「ちょっと待ってよ。俺も行っちゃだめ?」

「堂上さん。‥行きたいの? なぜ?」

 背後から走り出てきた玲を振り返って、茉莉花は一応訊ねてみた。理由などないのだろうとは思ったけれど。

 案の定、彼はにっこりと笑って面白そうだから、と答える。

「‥構わないけど。好奇心は猫を殺すと言うの、知ってる?」

「皮肉、それとも忠告?」

「警告。」

 彼は肩を竦めた。

「いい子にしてるよ。口も閉じてる‥‥できる限りね。」

 そう言うと玲は、手提げ鞄を茉莉花の手から取って、仔猫を撫でた。

 仔猫は首を伸ばし、嬉しげに喉をならしている。昨夜から彼と桜にミルクを飲ませてもらったりした恩を忘れていないらしい。彼はどうやら妙に物の怪に好かれる性質とみえる。

 行きましょう、と茉莉花は先に立って歩き始めた。

 鳥島は吉見達也を連れて朝のうちに出ていった。

 昨日のようにぐずぐずしているとまた、夜鴉の闇につかまって出られなくなると考えたようだ。吉見を病院へ連れていき、警察に保護してもらうつもりだとも言っていた。

 鳥島さんは、とぎこちなく訊ねた茉莉花に、彼は微笑とも言えなくない程度に柔らかい視線を向けて、大丈夫だと答えた。

「事務所に戻って所長に話をつけてからまた来る。俺よりあんたはどうなんだ‥明日の晩までに突きとめる目算はあるのか?」

「説明はできないんですけど‥。たぶん。」

 鳥島はじっと茉莉花を見ていたが、信じるよ、とひと言だけつぶやいて立ち去った。

 その言葉はなぜか、茉莉花の胸の真ん中にでんと居すわっている。


 咲乃は前回と同じように大学構内の人気のないベンチで黒鬼と一緒にいた。

「彼女が四宮咲乃さん? ‥可愛いなあ! 清楚でうぶな感じがバリ好みなんだけど。」

「命が惜しいなら口説こうなんて思わないこと。隣にいる彼に一瞬で消されちゃうわ。」

「あれ、彼氏? ‥‥ふうん。また人じゃない人の規則違反的美貌ってヤツか。物の怪って超絶美形ばっかりでやんなっちゃうな‥。自分のアイデンティティを見失うよ。」

 玲は溜息まじりでつぶやいた。茉莉花は呆れる。

「あなたのアイデンティティって‥顔なの?」

「他に何がある?」

 真顔で問い返されて思わずたじろいだ。

 言われてみればないかもしれない。良くも悪くも彼は―――白紙の人だ。

 だが茉莉花はそうは言わなかった。

「他人が決めることじゃないもの。だいたいあなた、アイデンティティなんてその場限りだと言ってたでしょう? 堂上さんと佐山さん、名前の数だけあるんじゃないの?」

「よく憶えてるね。ま、そうなんだけどさ。」

「‥‥行くわよ。」

 黒鬼は茉莉花の気配を察知していたようだった。二人が近づいていくと咲乃をしっかりと抱えて、やはりあんたか、とつぶやく。

 茉莉花は黒鬼の霊圧に気圧されて、立っているのが精一杯だ。

 玲はと見ると彼はまったく感じていないようで、けろりとしていた。それどころか桜は彼の懐から出てこないし、仔猫もなるべく彼に寄り添って避難しているみたいに見える。不思議な人だと茉莉花はあらためて思った。

 挨拶をして、玲を紹介すると、咲乃は丁寧に頭を下げた。

「あの‥。『懐古堂』さん。わたし、ちょうど今日あたり伺おうと思っていたんです。そうしたら煌夜(こうや)が‥‥あの、彼がもうすぐあなたが来るって‥。」

 咲乃ははにかんだ笑顔を茉莉花から黒鬼に向ける。

「ほんとうだったわ。どうしてわかるの?」

「おまえだって集中すれば気配を見分けられるようになる。特にこの女みたいに特異な気配は簡単にわかるもんだ。」

 咲乃の笑顔が再び茉莉花を向いた。

「そう、それでわたし、あなたにいろいろ教えてもらえないかと思って‥。そのう、力の抑え方とか。」

 茉莉花は微笑み返した。

「制御のしかたを教えるのは構いませんけど、抑える必要はないのでは? その方と一緒にいられなくなりますよ。正直なところ、わたしでもこうして立っているのがやっとなんです。傍にいて平気な人間は咲乃さんだけでしょう。黒鬼さん、できれば霊圧を少し弱めていただけませんか? お二人に話があるのです。」

 黒鬼は冷ややかにこちらを見遣った。

「できないな。この間のようにあんたの鈴で調節すればいい。話があるってんなら尚更その方がいいぜ。近くにあんたや咲乃に似た気配が近づいてきてる。敵意はなさそうだが‥この間のあんたの話を信じるなら、咲乃に似た気配は咲乃を利用しようとしてる奴らってことだろ?」

 四宮本家の人間が近くにいるということか。茉莉花は緊張した。

 黒鬼の霊気が強すぎて、他の気配は探れなかった。だが彼の言葉を疑う理由はない。

 リーンと低く鈴の音が響き渡った。

 瞬く間にあたりは結界の白い靄に包まれていく。音の余韻が同心円を描いて隅々まで行き渡る感覚を確かめ、茉莉花はふうっと息を吐いた。

 気がつくと、玲が茉莉花のシャツブラウスの背中を握りしめていた。

「‥‥何してるの?」

「こうしてれば安全かなって‥。」

 まあ用心するのはいいことだ―――意味のない場合もあるが。

 茉莉花はあらためて二人に向き直った。

「お話は‥‥咲乃さんのご両親に関することなんです。」


 四宮(ゆかり)は本家の中でも、幼い頃より異色の存在だったそうだ。

 その霊力は当主であった母の四宮(いずみ)を大きく凌ぎ、人というより妖しに近いと噂されていたほどだった。しかし身に余る力のせいか病気がちで、学校へもろくに行かずに本家の敷地内からほとんど出ることがなかった。

「温和しくてお優しい方でした。ご両親やお兄さまに口答えをしたことなどなかったのです。あの男に出会うまでは。」

 黒猫は茉莉花に作って貰った自分サイズのハンカチで涙を拭った。

 分家筋の遠縁だという男が見習いとして本家に入ってきたのは、紫が十六の時だった。

 誰もが彼女の霊力の大きさにたじろいで近寄らない中で、その男だけは平気な顔で近づき、親しげに話しかけてきた。世間知らずの深窓の令嬢にとって初めてできた友人であり、友情はやがて恋に変わった。

 紫の母で、実質的な当主である四宮泉は激怒して娘を幽閉し、男を叩き出した。結婚させてほしいという若い恋人たちの哀願は聞き入れられなかった。

 男との仲を引き裂かれて一年ほどして、紫はひっそりと咲乃を産んだ。どうやら並外れた霊力を使い、小妖怪や小動物を使役して恋人と連絡を取り合っていたらしかった。そしてまもなく赤ん坊の咲乃を残して出奔し、行方がわからなくなった。

 四宮本家は彼女を表立って探しはせず、数ヶ月後に紫の死を確認したとだけ発表した。

 黒猫の言うには紫はどこかに閉じこめられて出られなくなり、黒猫と化鼠から墨染鼠を生み出すと最後の力を振りしぼって逃がし、咲乃を守るよう言い遺して死んだそうだ。

「きっとあの男が殺したのです。初めから紫さまの霊力だけが目当てだったから‥。」

 猫の小さな手の中でハンカチはくしゃくしゃになった。

「母を死なせた人が‥‥あたしのお父さんなの?」

 咲乃は茫然とした様子で訊ねた。

「わたしめにはわかりません。紫さまは男に咲乃さまの存在を隠しておられました。利用されないためだったと思います。泣く泣く本家に置いていらしたのも同じ理由で、咲乃さまが姫だったからです。男の子だったら連れて出るのに、とよく申されていました。」

 黒猫はしくしく泣きながらわたしめにはわかりません、ともう一度繰り返した。

「それで‥その人の名前は何て言うの? 今も生きているのかしら‥。」

「はい。生きているのです。鼠と同化していた時の記憶は曖昧なのですが、わたしめは確かにあの男に会って‥情けないことに操られていたのです。」

 黒猫はしょぼんとうつむいた。

 茉莉花は急いで言い添えた。

「恐らく紫さんの霊力で惑わされたのでしょう。その人はどうも、紫さんの霊力を水晶珠に封じて使用しているようですから。‥そうなのでしょう?」

 はい、と猫は大きくうなずき、茉莉花を振り向いて首をかしげた。

「ですが‥わたしめにはどうも腑に落ちません。あの男は二十年前、体の弱った紫さまを生かしておくため魂を霊力とは別に封じたのです。先日鼠の体で会った時、紫さまの霊力を封じた珠は持っていましたが、魂を封じた珠はどこにやったのでしょうか‥?」

「その答は‥‥すぐにわかると思うわ。」

 茉莉花は静かに言った。

「それからどうしても聞きたいのだけれど‥。墨染鼠さんは咲乃さんを守れるのは夜鴉の若頭領だけだ、鬼人は怖ろしいものだからと言っていたけど、今のあなたもそう思う?」

 黒猫は背中の毛を逆立てて震えながら、黒鬼をおずおずと窺った。

「おまえのような小物の言にいちいち腹を立てたりはしない。だから正直に言え。」

 黒鬼は凍りつきそうなほど静かな瞳を黒猫に向けた。

 猫は尻尾をふくらませて、がたがた震えている。

「も、申し訳ありません‥。鬼人は怖ろしいです‥。あなたさまがどうこうではなく‥。そ、そのう‥。黒い角が二本光って‥人がばったり倒れて‥。」

 黒猫は顔を伏せた。茉莉花が背を撫でてやると、少しずつ震えはおさまってきたものの、息も絶え絶えという風情である。

 不意に玲が、黒猫を茉莉花の手から抱き取って撫で始めた。

「きっとこいつ、どこかで見たんだよ。鬼人が人を襲うのを。」

 黒鬼がキッと顔を上げる。はらはらする茉莉花を後目(しりめ)に、玲はにっこり微笑んだ。

「あんたは人を襲ったりしないんだよね? だったら別の鬼人がどこかにいるんだ。」

「‥‥鬼人は人を襲わない。人の精気や魂を喰らう物の怪とは違う。誇り高い種族だ。」

 黒鬼の怒りが、茉莉花には風が頬を叩くかのようにばしばしと響く。咲乃が心配そうに彼の腕に指をかけた。

 だが当の玲は涼しげな顔で微笑を浮かべ、話し続けている。

「動機は何も喰うためだけとは限らないし、被害者が必ずしも善意の弱者であるとも限らない。プライドが高いなら尚更、消すべき存在だと判断すれば人なんか容赦なく殺すんじゃない? でもさ。当面の問題はそこじゃなくて、あんたの他にも鬼人がいるかもしれないって点だと思うんだけど。」

「‥‥何が言いたい?」

「こいつが鬼人を見たとすれば墨染鼠だった時だ。だったらどこで見たと思う? 考えられるのは二箇所しかないけど、どっちにいたとしても咲乃さんの身に関わってくるのは間違いないよ。あんたは物の怪や人相手じゃ比較にならないほど強いらしいけど、同じ鬼人相手に咲乃さんを護りきれるのか? 今考えなきゃいけないのはその点だろ?」

 黒鬼は怒りを抑えた冷ややかな視線を玲に向け、咲乃をぐっと抱き寄せた。

「誰が相手でも咲乃は俺が護る。‥それより二箇所とはどこだ? はっきり言え。」

 玲はちらりと茉莉花に視線を走らせる。茉莉花はぐっと唾をのみこんだ。

「一つは咲乃さんの育った四宮本家。もう一つは『御霊(みたま)の会』教団本部。」

「『御霊の会』? 何だ、それは。」

「宗教法人ですけど‥。そこの教祖、葛城(かつらぎ)真生(まさお)という人が紫さんの水晶珠を持っているらしいのです。」

 玲が再び口を挟んだ。

「あとさ。さっき君が言ってた、夜鴉の若さまについてだけど。‥‥紫さんて人が咲乃さんを若さまに保護してもらえって命じたんだって。ね?」

 彼の手の中で黒猫がしきりにうなずいている。

 さっぱり話の展開が読めていない様子の咲乃はぽかんとしたが、黒鬼は険悪な表情を浮かべた。

「誰も彼もが咲乃を利用しようとしているってことか‥。むかつく‥!」

 茉莉花はうつむいて考えこんでいたが、しばらくして咲乃に向かって訊ねた。

「咲乃さん。あなたが本家を出た時の情況を話してもらえませんか?」

「情況って‥。二十才になったら出るというのは、物心ついた時から伯父に言われてましたから‥。今のマンションとか、家具とかはみんな伯母が用意してくれたので、あたしは挨拶をして出てきただけです。」

「ご自分ではなくて、伯母さんが? それは当たり前なんですか。」

「ええ‥。それまでもずっと、学校選びも手続きも制服や何やら揃えるのも、いつも伯母がしてくれていたから‥。」

「‥なるほど。それで他には?」

「‥‥伯父には二度と四宮に足を踏み入れるなと言われました。何があっても頼ってくるなとも‥。」

 恥じ入ったような表情でうつむいた咲乃を見遣って、茉莉花は微かな溜息をついた。

 それから今彼女が住んでいる部屋の向きや間取りを訊ねる。予想どおり、鬼門に開口部があって物の怪を呼びやすい造りになっていた。

「早急に引っ越しなさった方がいいでしょうね。‥‥あと、小さい頃からずっと持っていた物で、本家を出る際に置いてきたか紛失したものはありませんか?」

 咲乃はびっくりした顔で茉莉花を見つめた。

「そう言えば引っ越す時に大事にしていた手鏡を失くしました。掌くらいの大きさで、背に縮緬の綺麗な布が貼ってあって‥。母の形見だったのに。」

「そうですか‥。」

 茉莉花は知らず知らず眉間に深い皺を寄せていた。

「あ‥あのう‥。あたしは‥どうしたらいいんでしょう?」

 咲乃は必死な表情で茉莉花を見つめていた。顔を上げて見返すと、だって、と続ける。

「あたしは‥もしかして、生きているだけで周りじゅうにとんでもない迷惑をかけているんじゃ‥?」

 茉莉花はゆったりと微笑んだ。

「あなたは宝玉です。あなたが選んだ人の傍を決して離れないでください。‥肝心なのは心なんです。心を強く持って、何にも惑わされないように。」

「強く‥?」

「何があろうと黒鬼さんを信じるんです。迷ったら彼だけ見ればいい。できますね?」

 咲乃はぽおっと頬を染めて真っ赤になった。そして黒鬼を見て、うなずく。

「それから‥。念のため、大学もしばらくはお休みしてもらった方がいいかも。」

 大学を選んだのも手続きをしたのも咲乃ではないのなら、ここにも何か仕掛けがあるかもしれないからだ。

 黒鬼は先刻から黙って遠くを見ているが、たぶん話は聞いていただろう。恐らく茉莉花の懸念は理解しているはずだ。それに咲乃が彼以外を選ぶ可能性は、見たところ万に一つもなさそうだった。ならば彼らは大丈夫だろう。

「では‥。お手間を取らせました。わたしたちは帰りますが、近くにいる四宮本家の方はどうなさいますか?」

「‥‥迷っているようだ。敵意はない。俺は咲乃を連れてすぐにここを去る。あんたに任せるよ。」

 そう告げると返事も待たず、黒鬼は咲乃を抱えてふうわりと跳びあがった。

 茉莉花は急いで鈴を鳴らし、黒鬼が乱した周辺の空気を調える。それからもう一度、今度は低く鳴らし、結界を解いた。

 靄が徐々に薄れ、キャンパス内の中庭の風景が目の前に戻ってくる。

 玲が大きく息を吐いて、へたへたとベンチに座りこんだ。

「ああ、疲れた。足の力が抜けちゃったよ。‥若さまといい、君の知り合いってさ、爪を隠さなきゃって気は全然ないのかな?」

「平気な顔に見えたけど。」

「平気なわけないじゃん。ノーマルなんだよ、俺は。空気が体にびんびん響いて、気を張ってないとバラバラになりそうだったよ。」

「‥大袈裟ね。」

 口は閉じてると言いながら、黒鬼相手にはらはらするほど能弁だった先刻の様子を思い起こせば、思わず忍び笑いが漏れる。

 黒猫をそっと抱き取ると、先に立って歩き始めた。

「待ってよ、もう行くの? もう少し休んでからじゃだめ?」

「‥‥ご勝手に。」

 やれやれと立ち上がって追いついた玲は、肩ごしにあの子はどうする、と囁いた。

 木蓮の木陰に隠れている制服姿の少女のことである。

「あの子はたぶん、咲乃さんの従妹の一人。そこそこ力があるから話を聞いていた可能性は高いけど‥。どうもできないわ。こちらが急ぐしかないでしょう。」

「口止めしなくていいの?」

「‥‥できないと思う。四宮の女は霊力の導くまま、成りゆきに任せるしかないの。自分の意志は二の次にしないと、かえって物事を歪めてしまうから。彼女がここに来合わせたのも縁があったからだけど、その縁がどう転がっていくのかはまだわからない。わたしにできるのは今は急ぐことだけ。」

「急いで‥君は何をしようとしてるの。」

 不意に玲の声音が真剣味を帯びて低くなった。低い声は重ねて言う。

「交渉屋の介入する余地なんか、もうどこにもないよ。そうだろう‥?」

 茉莉花は立ち止まり、静かに彼を見返した。

「ほんとね‥。交渉屋の仕事を超えてる。四宮本家はもとより葛城教祖も‥とっくに戦争状態だものね。」

 そしてすぐにまた前を向いて歩き始めた。

「わたしが未熟だから迂闊に流れにまきこまれてしまったんだろうけど‥。とにかく少しでも犠牲を減らすために、どこかにまだ交渉の余地がないかどうか探してる、といったところかしら。」

「本末転倒じゃない?」

「仕方ないわ。さっきも言ったように霊力の導くまま、流れの中でできることを探さなきゃならないのよ。」

「自分の力にまきこまれちゃうってわけ? でも所詮は他人事なんだから、放りだしちゃえば簡単なのに‥。そういう選択肢だってあるだろ?」

「あなたが言う? その言葉、そっくりお返しするわ。」

 玲はからからと笑った。

「そうだねえ‥。好奇心は猫を殺す、だったっけ。‥‥ついでに白状しちゃおうかな? 『御霊の会』に関する追加情報とリズによく似た女の情報。どっちが知りたい?」

 呆れてすぐには言葉が出なかった。茉莉花はつい、眉間に皺を寄せる。

「‥‥どっちも。『懐古堂』に戻ったらきっちり聞かせてほしいんだけど。」

「報酬はさ、君の作るだし巻き卵でいいよ。桜がものすごく美味しいって言うんだ。一度食べたいと思って‥。今朝のオムレツも美味しかったけどね。」

 まったくくえない人だ、と茉莉花は心の中でこっそり溜息をついた。

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