夏を駆ける
12、夏を駆ける
ヴィンセントは腕の中でまだ余韻から醒めやらぬ拓海に「辛くなかったかい?」と、聞いた。拓海はなにも言わず、ただ首を横に振った。
『そんなの…わかっているくせに。おれじゃ全然相手にならないって、わかってるくせに…あんまり優しいキスをくれるから、涙が止まらないんだ』
自分がもっと大人だったら…こんな駄々っ子ではなく…
ヴィンセントに抱かれながら、拓海は何度も思った。
一方的にヴィンセントからもらうばっかりで、自分はなにひとつ返せないばかりか、大好きな人を楽しませることすらできない。
「ごめんなさい」と、何度も謝った。その度にヴィンセントは「拓海は真面目すぎる。もっとリラックスして、楽しむことだけ考えると良い」と、微笑んで優しいキスを与えてくれるのだ。
一緒にシャワーを浴び、ベッドに横になった後も拓海は少しも眠くならず、取り留めのない話を続けていた。ヴィンセントは面倒臭がらず、拓海の話に耳を傾けた。
「ねえ、ヴィニーから、ばらの香りがするのは何故?」
「ローズグランブルー…。エクスマス家の庭でしか育たない薄青のイングリッシュローズの香りだよ。花弁をオイルやポプリにして使うのだが…、海の中でも香りが消えないから『グランブルー』と、呼んでいる」
「薄青色のバラ…ステキだ。咲いてるとこ、見てみたいな」
「拓海をエクスマスの城へ招待しようか?」
「え?…そんな…そこまでヴィニーに甘えるわけにはいかないよ。もっと…もっと大人になって、自分の貯めたお金でイギリスに行けるくらいになったら、その時は招待してください」
「また随分と先の話に聞こえるが、その時まで拓海の恋心が醒めなければいいものだな…」
「続くよっ!絶対に。…ヴィニーは信じてくれないの?」
「いや、そういうのも悪くない」
微笑んで頷くヴィンセントを見つめながら、拓海はヴィンセントの優しい嘘を嬉しくも寂しく思った。
ヴィンセントは拓海に好意を持ってはいても、愛情を感じているわけではない。
慰めのセックスでもいいと強請ったのは拓海の方であり、ヴィンセントはそんな拓海に同情しただけのことだ。
そんなことはわかっていた。
『おれがこのままずっとヴィンセントを思い続けたら、きっと本物の愛が育つはずだ。そしたら、何度でもヴィンセントに告白しよう。今のおれにできる事は、この想いを曖昧にしてしまうことより、一生懸命になることだ』
拓海が尚吾の家に帰宅したのは翌日の昼近くで、尚吾と乃亜が遅いブランチを始めようとした頃だった。
玄関の戸を開けた拓海は「ただいま」と、一言ふたりに言い放つと、返事も待たずに足早に二階の部屋への階段を駆けあがって行く。
その後に続くように、ヴィンセントがふたりの前に姿を見せた。
「拓海はひとりで帰れると意地を張るのだが、少し心配だったから、送り届けようと付いてきたんだ」
「ヴィニー!」
乃亜はヴィンセントの来宅を、相好を崩して喜んだが、これには理由があった。
昨晩、事前の連絡もなく、リオンが尚吾たちの家へ来て、今まで乃亜を守る為についてきた数々の嘘をばらし、真実の人魚の姿と、乃亜の父親とヴィンセントの関係を、尚吾と乃亜に話し聞かせたのだ。
「人間になってしまった乃亜には、もう人魚のことなど関係は無いんだろうけれど、こんなに尚吾に愛されている乃亜を育てたのは、ヴィンセントや僕たちだよね。乃亜ももう大人になったんだから、すべてを知ってもいいと思うんだ」
リオンに特段の計算があるわけではなかった。言うなればただの思いつきでしかなかった。だが、彼なりにヴィンセントや自分たちの経験したことや感じたことをこの末の弟に知って欲しいと願っただけだ。
リオンの話を聞き始めた時から、乃亜は泣きっぱなしで、尚吾から借りたハンカチでは間に合わない程だった。そんな乃亜をリオンも尚吾も愛おしいと感じていた。
一体これほど率直にかわいらしいとか、守ってやりたいと思う対象があるのだろうか。
乃亜は無条件に誰もが無欲に保護したいと願う人格だった。
「あのね、僕たちの本当の姿を知って、それを承知で友情や愛情を分かち合ってくれる者はとても少ないから、尚吾は僕たちを理解する特別な人間なのだと思う。だから、全部とは言えないけれど、出来る限り僕たちのことを知って欲しいと思うんだ」
「リオン、ありがとう。俺は乃亜が人魚のままであっても、愛し続けていたよ。そして乃亜の兄弟である君たちも同様に…愛しているよ。勿論、兄弟としてね」
「そこ、警戒してなくても、僕は尚吾に迫らないから、安心してよ」
「そうかい(十分迫ってくるじゃんよ)」
リオンの話は、尚吾がヴィンセントから聞いた話と違わなかった。いや、ヴィンセントの方がより一層複雑だったから、ヴィンセントはリオンにも話していないことを尚吾に語ったのだと、改めてヴィンセントの想いを深く受け止めた。
リ オンはひととおり話し終えると尚吾宅を離れた。
「今からねえ、この間知り合ったかわいい男の子とデートなんだ」
「…なあ、リオン」
尚吾は乃亜に聞かれないようにと、ひとりでリオンを見送り、車に乗り込もうとするリオンの腕を引き寄せ、耳元で囁いた。
「やっぱりおまえも人間とセックスしないと…力出ないのか?」
「…は?」
「人魚は人間とセックスすることで性的エネルギー…って生命力を得るって話を、ヴィンセントから聞いたんだが…」
「性的エネルギー…何の事?」
「…何って…」
「ああ、わかった。尚吾、ヴィニーに嵌められたね」
「え?」
「あんなアンニュイな顔してて、ヴィニーはデタラメな嘘をべらべらと吐くまくるからね。面白いからいいけどさ」
「う、嘘?なのか?」
「まあ、怒らないでよ、尚吾。わかってるって思うけどさ。ヴィニーが嘘を吐くほど、尚吾に執着しているってことなんだから。だから大目に見てあげて」
「見てあげて…って…」
「僕はねえ、ちょっと感動してるんだ。本気で誰かに惹かれているヴィンセントを見るのは久しぶりだし、とっても愛おしくなるんだよ。…長兄はさ、僕たちよりもずっと色んなものを抱えているから、時にはその荷物を降ろしたくなるんだと思う。その場所が尚吾であって、良かったなあ~って、僕は思っているんだよ」
「…」
「勿論、ヴィンセントの想いが叶っちゃ困るんだけどね。可愛い乃亜を泣かせたくないから。そこのところは…ヴィンセントもわかっていると思う」
「リオン…」
「きっとヴィニーは…僕もだけど、片思いが実らなくてもいいんだよ。大人だし、慣れてるからね。でも乃亜は…僕たちの育て方が良かったのか悪かったのか、天然の純粋温室育ちだから、尚吾に裏切られたらホントに死んじゃうかもしれないね。だから、尚吾の浮気は許すけど、乃亜だけはずっと愛してあげてね」
「胸に刻んでおくよ、その言葉。ありがとな、リオン」
「ホントに感謝してる?」
「勿論」
「じゃあ、お礼にキスしてよ。もちろん、口唇にだよ」
「おい」
「片思いのお駄賃だよ」
「変な日本語、覚えんなよ、馬鹿」
尚吾はリオンの気持ちに報いる為に、深く接吻をした。家族の情愛とほんの少しの欲情を込めて。
『思いやりは当然だろ。このキスの値打ちがそれに適うかどうかはわからないけれど…』
リオンが尚吾の家に来たとは知らないヴィンセントは、目の前でポロポロと涙する乃亜の姿に呆気に取られていた。
「一体…どうしたのだ?乃亜?…尚吾が何か悪さをしたのか?」
「するかよ、馬鹿。昨晩リオンがここに来て、色々と…あんたのこととか乃亜の父親のこととかさ…話し聞かせたから、乃亜はずっと感動しっぱなしで、今まで以上にあんたに敬服してるんだよ」
「リオンが…」
『昨晩、私と拓海を置いて、いそいそと出かけたリオンの後姿を見送ったが、あれはそういう計画を仕組んでいたのか…。それにしてもリオンは一体どこまで喋ったのだろう。乃亜が傷ついてないと良いのだが…』
「ヴィニー…」
乃亜はヴィンセントの胸に飛び込み、その背中を抱きしめた。
「乃亜。大丈夫か?」
「今まで何も知らないままみんなに甘えていた僕を許してね」
「許すも何も…乃亜は何も悪い事はしていない。リオンが何を言ったのか知らないけれど、乃亜が傷つくことなんかひとつもないのだよ」
「傷ついてなんかいない。僕はみんなに感謝しているんだ。お父さんやお母さんが僕を命がけで産んでくれたことに…。そしてヴィニーたちが僕を育ててくれたことに…。もっと一杯感謝して我儘言わない良い子であったらと、後悔もしてるけど…。でも、やっぱり嬉しくて…ヴィニー、ありがとう。ホントにありがとう…」
「乃亜…」
涙を流しながらヴィンセントを見上げる乃亜の片方の耳たぶにピアスが揺れている。
そのピアスはあの情事の後、ヴィンセントが尚吾に残したものだ。
ヴィンセントはハッとして、尚吾に顔を向けた。尚吾はその事を気づき、人差し指を口唇へ押し当て、じっと見返した。
その時、ヴィンセントは尚吾のヴィンセントへの応えを理解したのだ。
『強要したセックスの代償にと私が残したピアスを、尚吾は乃亜に与えた。と言う事は、私の想いを受け取る気はない…そういうことなのだろう…。当然と言えば当然だが…』
「ヴィニー、お礼が遅くなってしまったけれど、このピアスありがとう。これを付けてると、いつもヴィニーが傍にいて、僕を守ってくれてるようで力が沸いてくるんだ」
何も知らない乃亜の笑顔がヴィンセントには眩しすぎる気がした。同じように尚吾にも。
「そう…気に入ってもらって良かったよ」
ヴィンセントは自分がつけている片方のピアスを外し、それを何も付けていない乃亜の方耳に付けた。
「やっぱり両方揃っている方が、随分と良い。乃亜に似合っている」
「ヴィニー…」
「これで、これまで以上に乃亜を守ってやれるだろ?」
「うん…尚吾から貰った分とヴィニーから貰った分、二人分のお守りになるね」
これもまた純粋な乃亜の痛い皮肉でもある。ヴィンセントは乃亜の言葉に自分を嗤って自戒した。
「いいかい、乃亜。尚吾が嫌になったら、いつでも私の元に戻ればいい。私は乃亜を裏切らない」
「俺も裏切りませんからっ!」
「…人間は信用ならない」
「おまえ…」
嘘を教えたことを責めようと思ったが、乃亜の前では話せず、尚吾は拓海の様子を見てくると言い、二階へ駆けあがった。
どちらにしても今の乃亜には自分より、ヴィンセントへの想いが勝っている。しばらくはべったり甘えきった乃亜と、それにしたり顔のヴィンセントの抱擁が続くはずだ。
それを笑って許せるほど、尚吾も寛大ではない。あからさまに嫉妬するほど狭い自分も認めなくない。
元々あの兄弟たちは、乃亜を好き者にしたという無辜な罪がある。
尚吾は開け放たれたドアの向こう、窓枠に座り遠くに広がる海を眺めている拓海を見つけた。
尚吾にも気づかずに、一途に見つめるその視線の先は、先程までいたヴィンセントの別荘がある島なのだろう。
拓海の横顔は昨日までの未来を夢見ることを諦めた傍観者ではなく、生きることの喜びを味わっているかのように綻んでいた。
ロマンスに酔い、少々のセンチメンタルとメランコリーを味わい、愛する意味を知ろうとする探究者のように。
「拓海、ちょっといいかい?」
尚吾の声に拓海は振り向いた。
「尚吾さん…」
「願いが叶った気分はどうだ?…満足したかい?」
「…うん」
「どうした?嫌な目にでも合ったか?」
「ううん。…自分がガキすぎて嫌になっちゃうけどさ…きっとこういう自分も好きにならなきゃ、尚吾さんやヴィンセントさんに認められる大人にはなれないんだろうなあ~って思ってさ…」
「そうか…でもな、そう焦らなくても、そのうち勝手に大人になっちまうし、そんときゃ、やっぱりガキの頃が一番好き勝手出来て良かったなあって残念がるに決まっているんだぜ」
「…そんなもんなの?」
「そんなもんだよ。だから…今はガキの拓海でいりゃいいんだよ。泣いて悩んで、笑って、俺達に我儘ゆってさ。ガキはそれが許されるんだよ」
「…尚吾さん」
「だからさ、まあ…頑張れよ」
「うん。おれ、ヴィンセントさんのこと諦めねえから」
「…」
「無理だとわかっても絶対、諦めない。ガキなんだから許されるんだろ?尚吾さんそう言ったじゃん」
「…やぶ蛇だな」
「蛇の道は蛇って言うんだよ。良い見本がいるしね」
「まいったね、こりゃ」
少年は大人が知らぬ間に光明を探し出す。いつだってそうだ。誰も道を教えなくても、勝手気ままに走り回って、自分の道を切り開いていく。
「尚吾さん、おれ、夏休みが終わる前に家に戻ろうと思う。みんなから遅れた分を取り戻さなきゃ、行きたい大学に合格できないしね」
「志望大学決まったのか?」
「今から探すよ、イギリス留学できるとこ」
「…」
「ヴィンセントさんに会いに行きたいから頑張るって決めた。あ、反対しても無駄だよ」
「反対なんかするかよ。自分の人生だ。好きにしたらいいさ。餞別ぐらいは用意してやるから」
「うん」
青い空と蒼い海の境界が重なった景色を背景にし、輝く未来を背負った拓海を、尚吾は眩しげに見つめた。




