第0章 プロローグ
タイトルでもお分かりかと思いますが、「あらすじ」で注意喚起している通り、この作品はニッチで読み手を選ぶ内容です。
了承の上お読みくださる方、ありがとうございます。
少しでもお楽しみいただけるよう頑張ります。
アンドリア・カロリーナ・トゥスクルム・ディ・ランペドゥーザは大陸西側に存在するエノトリア王国の公爵令嬢である。二年後の冬に北の隣国エスターライヒで開催される宮廷御前舞踏会でのデビュタントが控えている十五歳だ。
教育修道院を予定よりも早く修了した彼女は、トゥスクルム家のパラッツォへ家紋付きの馬車で向かっていた。パラッツォとは一族の権威を示す堅牢且つ豪華な大邸宅や宮殿を指し、エノトリア王国成立の背景上、南部貴族は首都だけでなく自領にも先祖伝来のパラッツォを持つ。ランペドゥーザ公を含む南部貴族にとっては自領のパラッツォこそが本拠地であり、西の隣国ガリアから海峡を渡った先にある王国ブリタニアの言葉で表すならば領都のパラッツォがカントリーハウス、首都のものはタウンハウスだ。彼女が向かっているのはタウンハウスに当たるパラッツォの方だった。
ここからはデビュタントに二年の期間をかけて備えていく。首都の方のパラッツォへ帰還することになったのは、宮廷御前舞踏会に先駆けて自国の首都エテルナでお披露目を済ませるためだ。
デビュタントはエスターライヒの宮廷御前舞踏会とブリタニアのコート・プレゼンテーション――こちらは舞踏会ではなく、宮廷献納式という儀式である――の二つが格式において最も高い。ただし、いきなり他国へ渡りデビュタントを済ませることはマナー違反のため、国内でお披露目を終え他国の社交界に前評判を届かせておく必要がある。
加えてアンドリアの場合、二年早い修了が父ランペドゥーザ公を通じてエノトリア国王ジャンカルロに伝わっていた。
「フェデ、そなたの娘がそれ程までに優秀とは聞いておらぬが」
ジャンカルロ・ステファノ・チェーザレ・リウトプランド・ペル・ラ・グラーツィア・ディ・ディーオ・レ・デノトリアが目を細める。フェデリーコ・エットレ・ジュゼッペ・リウトプランド・ディ・スフォルツァ・ドゥーカ・ディ・ランペドゥーザはジャンカルロの臣籍降下した弟であり、兄王の私室に招かれていた。フェデリーコは神妙な顔で口を開く。
「確かにアンドリアは家での教育も順調でありましたが、二年前倒しの修了となりますと私も想定外でした。順調程度、いずこの子女も同じでありましょう。ゆえに陛下のお耳に入れる程のことではないと判断しておりました。ご気分を害しましたこと、誠に申し訳ございません」
「そなたを責めたわけではない。それよりも、人払いをしたというのにいつまでそうしている? 私室でくらい楽にせよ、私の気が詰まるではないか」
ローテーブルを挟んだ向かいで頭を下げるフェデリーコ。臣下として弁えた態度が煩わしいと言わんばかりに顔をしかめ、ジャンカルロは虫を追い払うかのように手を振った。極めて私的な場でしか見せぬ姿に、フェデリーコは苦笑を漏らす。彼が求めに応じたことで満足した兄は、口許を緩めて続けた。
「ならば披露目も早めて良かろう。久方ぶりにアンドリアの顔を見たくなった。披露目は王宮で行なうと良い、私が招く」
王が直々に招く。それは王家が後ろ楯となることを示す。アンドリアはジャンカルロと血の繋がった姪であり、現在スフォルツァ王家と最も血が近い貴族令嬢だ。王家の後ろ楯は自然な成り行きと言える。そしてトゥスクルム家と分家筋は政治的に王室派閥であるが穏健派で、中立派と友好関係、対立派閥からも割合に敵視されていないという稀有な家門である。家格も公爵家の序列筆頭であるため、アンドリアが王宮でお披露目を行なうこと自体は何の問題もなかった。
しかしトゥスクルム家が南部貴族であることにより別の問題が生じる。南部貴族は総じて王室派閥だが「家族の名誉と女性の純潔」を過剰なまでに重視する文化が根強い。デビュタント前の令嬢を親族以外の男性の目に触れさせることは、家門の恥とみなされているのだ。
派閥としても貴族家としても筆頭であるトゥスクルム家令嬢のデビュタントは宮廷御前舞踏会またはコート・プレゼンテーションのどちらかであり、国内での披露目が正式なデビュタントにならないことなど、アンドリアが生まれた時点で全貴族家は解りきっている。にも拘らずデビュタントの二年前から披露目を皮切りに社交を開始するというのは、南部貴族からの反発を招き派閥分裂に至る恐れがあった。
仮に南部貴族の反発や派閥への悪影響がなくとも、対立派閥はトゥスクルム家がこれ以上力を付けることを良しとしない。フェデリーコの顔が僅かに曇るが、ジャンカルロは片眉を上げ弟の懸念を笑い飛ばした。
「南部家門には些か稀なことであるが、私が召す以上そなたであっても逆らえぬと皆納得するであろうよ。南部には、それすら解らず罵る愚か者がいるのか?」
「いえ、そのような方はいないと信じておりますが……兄上もご存じの通り、南部は保守的です。たとえ彼等が兄上や私に含むところがなくとも、アンドリアはその限りではありません。まして貴族派閥ならばなおのこと」
眉を下げ訴えるフェデリーコ。だがジャンカルロは肩をすくめて続けた。
「二年早い出院の話は、何もせずとも広まるぞ。私の姪でもあるのに『トゥスクルムの娘は二年も早く教育修道院を出された』と囀ずる輩は必ずいる。そのような輩は理由も、事実か否かすらもどうでも良いのだ。ただアンドリアとトゥスクルムを貶め引きずり下ろしたいだけよ。こちらに何の非がなくとも勝手に妬み嫉むなど、人間とは恐ろしいな」
恐ろしいと口にしながら、その顔は皮肉げに歪められている。人間の醜さに倦んでいることが、ありありと伝わる笑みだった。
「それは……存じています」
王家に次ぐ権勢を誇る名門家当主ながら、野心がなく温厚で知られるフェデリーコ。だが伊達に貴族社会を生き抜き派閥をまとめ上げてきていない。貴族達がどのような生き物であるかなど知り尽くしている。ジャンカルロの言葉は現時点で起きてもいない話であるが、起きない筈がないことをフェデリーコもよく分かっていた。だからこそ彼は兄の提案に感謝しつつも悩んでいる。
「再来年まで外に出さずにおくより、アンドリア自身が優秀さを今のうちから知らしめ噂を払拭する方が良策だと私は思うがな。フェデの娘だ、弱くはあるまい。信じてやれ」
力強く笑い掛けジャンカルロが告げた言葉は一見、弟を思いやりその背を押すものである。だがフェデリーコはじとりとした眼差しを向け、恨めしさを隠さずに言った。
「兄上の考えなどお見通しですよ、使えるものは早いうちから使ってしまえということでしょう」
「流石は我が弟、この兄をよく解っている。私は嬉しいぞ」
瞳を輝かせ破顔するジャンカルロ。フェデリーコは溜息を漏らすと、顔を俯けてぽつりと呟いた。
「子を政治の道具に使わないでほしいと……使いたくないと願うのは、甘さなのでしょうね」
彼は目を閉じ、弱々しい笑いをこぼす。滲んでいるのは自嘲だ。
ジャンカルロはソファの背に身を預ける。行儀作法としてみっともない姿勢であるが、今だけはそうしたかった。
フェデリーコの煩悶は真っ当な親ならば当然のものであり、ジャンカルロも第一子が生まれたとき同じように苦しんだ。だが二人がそれを表に出すことはなかったし、立場上許されない。だからこそ弟は、こうして自分の前でのみ胸の内を吐露している。彼はアンドリアが十五になった今でも昔と変わらずにおり、そのことがジャンカルロには好ましくも羨ましい。
(私はどうであろうか)
自問するまでもない。王太子の頃から割り切っていたし、割り切らざるを得なかった。それは弟も同じ筈であるのに、今のジャンカルロが〝割り切った己〟を自嘲することはない。自分だけがまるで異なる生き物に変容していた事実を改めて突きつけられた気がして、やるせなさに何かが攫われていく心地を覚える。だが王として何が変わるわけでもない。変えるつもりもない。
(栓なきことに心揺らすとは)
ジャンカルロは身を起こすと、フェデリーコを見据えて言った。
「父親としては当然の思いだな。だが私もそなたもアンドリアも、政治を含め王侯貴族としての柵からは逃れられぬ。アンドリアが優秀であればなおのこと」
兄が姿勢を崩したとき、失望ゆえの反応だとフェデリーコは感じた。だがジャンカルロの諭すような声音と視線は静かで、それらには共感が含まれている。弾かれるように顔を上げ、知らず詰めていた息を吐き出した。ジャンカルロの声が続く。
「闘う力を今のうちから付けさせることも、親の愛だと私は思うぞ」
兄の言葉は正しい。アンドリアのあまりに早い教育修道院修了は変わらぬ事実であり、フェデリーコが懸念し想定する事態の最善策もほぼ決まっていた。寸秒瞑目の後、彼は言う。
「そうですね。いずれにせよ、私が腹を括るしかないだけのこと」
「そなたなら根回しも上手くやるであろう。全くの無事とはいかずとも、悪いことにはなるまい。私の弟と姪は優秀だからな」
兄の激励に、ようやくフェデリーコの表情が緩んだ。
「ありがとうございます、兄上」
「礼にはまだ早い」
「それでも言わせてください」
そうか、と笑いながら返したジャンカルロは、給仕されてそのままだったティーカップを初めて口に運ぶ。フェデリーコもそれに続いた。
風味から、茶葉と淹れ方が今も変わっていないことを知る。味の好みにうるさいところがあるジャンカルロは、自身と弟に提供される紅茶には昔からこの銘柄と淹れ方を指定していた。フェデリーコが味に然程こだわりがないのなら丁度いいとばかりに、兄は同じ味を共有したがったのだ。今思えば、それはジャンカルロが僅かに許された、弟とのお揃いを望むささやかな我儘だったのだろう。
(懐かしい)
唇を湿らせた二人によってティーカップは音もなく戻される。先に口を開いたのはフェデリーコだった。
「アンドリアは首都のパラッツォへ戻らせます」
頷きを返し、ジャンカルロが話をまとめに入る。
「披露目について話を詰めるのは後日にしよう、そなたもアンドリアや夫人らに伝えねばならぬからな。それに披露目の準備に向け、先にすることがある」
フェデリーコによる根回しは、言わば〝表の段取り〟と言えた。根回しなのに表であるのは、訪問にせよ書簡でのやり取りにせよ、フェデリーコがその顔や名を曝すからだ。一方ジャンカルロの言う先にすることとは、噂雀等を使ってアンドリアの評判を制御する裏工作を指す。こちらは当然ながら王家主導の事実が秘匿されるし、トゥスクルム家によるものと疑われぬようにも調整される。まさに〝裏の段取り〟である。兄の言葉の意味を正しく理解しているフェデリーコは顔色を変えた。思わずソファから身を乗り出す。
「兄上……! 兄上がそのようなことをする必要はありません。万一の場合、損失が大きすぎます」
「案ずるな、臣下の優秀さはそなたも知っているだろう」
「ですが」
裏工作が露見した場合を危惧し、眉をひそめて翻意を促すもののジャンカルロは笑って取り合わない。
「アンドリアを使うことへの詫びだ」
聞き入れられそうにないことは明らかで、フェデリーコの眉が下がった。
「兄上はいつも強引で困ります。周りの身にもなってください」
「自覚はあるが生憎性分でな」
「なお質が悪いではないですか」
呆れる弟に向かって、ジャンカルロが口の端を上げてみせる。その表情は悪戯が成功した子供だった。だが一瞬でそれは消え、室内の空気が変わる。二人は居住まいを正し、再び君主と臣下に戻った。
徐に国王が立ち上がる。ほぼ同時にランペドゥーザ公も立ち上がった。
「この件は追って余の使者に連絡をさせる。下がって良い」
公爵は一礼し、退室前の挨拶を返す。
「御意のままに、陛下。謹んでお沙汰をお待ち申し上げます」
深い一礼を捧げる彼に王は軽く顎を引いた後、窓へと振り返り視線を投げた。人払いにより室外で待機していた侍従が、正面を向いたまま後ずさってくるランペドゥーザ公の衣擦れを察知し扉を開ける。公爵は扉の前で足を止めると、再度深く一礼の後その身を翻して退室していった。
このようなやり取りの結果、アンドリアはエテルナのパラッツォに帰還するよう認められた父からの書簡を受け取り、迎えの馬車に乗せられたのだった。
【登場人物】
アンドリア
└主人公。
ランペドゥーザ公爵令嬢でトゥスクルム家長女。15歳。
教育修道院(修道院の寄宿学校)を2年早く修了した。
国王の発案で、限定的ではあるが社交を開始することになる。
フルネームは「アンドリア・カロリーナ・トゥスクルム・ディ・ランペドゥーザ」。
フェデリーコ
└エノトリア王国南部にあるランペドゥーザ領を治める筆頭公爵であり、トゥスクルム家当主。
アンドリアの父で国王ジャンカルロの弟でもある。
王家に次ぐ権勢を誇る大貴族ながら、傲ることなく穏和で公正な人物。
ジャンカルロに振り回されがちだが、公私共に兄を支えている。
兄からの愛称はフェデ。
フルネームは「フェデリーコ・エットレ・ジュゼッペ・リウトプランド・ディ・スフォルツァ・ドゥーカ・ディ・ランペドゥーザ」。
ジャンカルロ
└エノトリア国王でフェデリーコの兄。
飄々としており大胆な性格だが、家族への愛情深い人物。
一方で、統治者らしく身内に対しても冷徹でシビアな面を併せ持つ。
フルネームは「ジャンカルロ・ステファノ・チェーザレ・リウトプランド・ペル・ラ・グラーツィア・ディ・ディーオ・レ・デノトリア」。




