十二話 Iter Sisyphi. 四
「陛下! 第八陛下ー!!」
エルディアス領、中心街の酒場にフェンネの声が上がった。普段は「リュウドウ様」と呼んでいるが、現在は二人きり故にしっかりとした敬称を使用している。
パタパタと足をばたつかせ、カウンターに駆け寄るフェンネを、当のリュウドウは横目で見やる。そして、クイっと『サゼラック』の入ったロックグラスを呷り、体を向けた。
「どうでしたか」
「やっぱり、流通と金融の動きが怪しいです」
走って来たというのに、彼女の息はそれほど上がっていなかった。
ポケットから、ゴソゴソとメモ帳を取り出す。灰白繊紙で作られた安い手帳だ。
「その、特に違和感なのが……」
ぱらぱらと捲り、小さな指でフェンネがメモされた数字を指さした。リュウドウは首を傾け、そのページを覗き込む。
「穀物……百袋、と?」
指で弾いた灰白繊紙が、乾いた音を立てる。
荷馬車一台の積載はせいぜい三十袋。三台で九十が限度だ。
それを百と書いている。
「二台で運んだ、と記録してありますね……馬を潰す気ですか?」
「何回か散見出来るんですよね……」
そう呟きながら、フェンネはページを急いで捲っていった。
「ここも、小麦が相場以上で買い取られた痕跡が」
「こんな辺境で、麦にセントラリア銀貨七枚とは。太っ腹も良いとこだ」
嘲笑するように、リュウドウは小さく笑みを零す。
「あと、……カルト教団についてですが」
昨日、フェンネが言っていた内容を今一度聞き、リュウドウは一瞬のみ眉を上げた。
「エルディアス家からの出入りが……」
「……………………。」
おぞましい何かを見たかのように、フェンネは肩を縮こませ、か細い声を漏らす。
「ちょっと失礼、すぐ戻ります……」
溜息を鼻から落とし、リュウドウはスタリと椅子から降りた。
ゆったりと、歩を進める。
「…………陛下? どちらに……」
突然、店を後にしようとしているリュウドウに、フェンネは頭を傾けて怪訝な表情を浮かべた。
彼は立ち止まらず、肩越しに薄ら笑いを向けているだけだ。
「……契約事項の、施行です」
「…………?」
そのまま、店を出て行ってしまった。
残されたフェンネは、頭上に疑問符を浮かべながら、その場に立ち尽くす。
「…………なんだろ」
しかし、ここは商人の性か、大人しく彼女はカウンターの椅子にちょこんと座った。
「……嬢ちゃん、まさかあの人って王族か?」
ボトルを磨きながら、鼻下に髭を蓄えた店主が恐る恐る質問する。
先程の、「陛下」と呼んだことへの疑問だろう。
「ああ、いや、まぁ近しいというか……」
ぎこちない苦笑いを湛え、はぐらかす。
店を出たリュウドウは、遥か遠方を睨むように、立ち止まっていた。
彼の人外的に卓越した聴覚が、町外れの森から漏れる剣同士が奏でる不協和音を捉える。
「…………場違いな中ボスが現れたようだ」
そう呟いた直後、
「おい待て」
背後から粗雑な男性の声が降りかかった。
肩越しに見ると、後ろには先刻ローディスを囲っていた匪賊のうち二人が並んでいた。
「てめぇあの大英雄の付き人で間違いないよな」
「どこ行く気だ? メスガキ」
片方はリュウドウの横に、もう一方は身体が触れる程にすぐ後ろへ回る。
「ちょっと来てもらうぞ。説明は後でだ」
「………………失敬、急いでいるので」
乱暴な口調とは正反対に、彼の声音は低くそして控えめだ。
「ダメだ来い」
後ろの男が肩を強く握り、横の男はリュウドウの胸の前に手を置いて制止させる。
「信徒とやらに、さっさと会わせねぇとな……」
横の男が、ボソリと呟いた。
その台詞に、リュウドウの瞼が僅かに動く。
「通してください」
言葉は平坦だ。抑揚に凹凸は感じられない。
肩を掴んでいる手に、一層力が込められた。
「ダメだつってんだろ」
「大人しく来いよ。合わせてぇ人がい――――」
一瞬にも満たない刹那に、声が、音が途切れた。
「……………………。」
リュウドウは何も唱えず、表情も一切動いていない。ただ、人差し指を軽く立てたのみ。
音もなく、2人の男の頭部が、"消滅"した。
まるで、そこに無かったかのように、何の痕跡も魔力もなく、彼らの頭が消え失せた。
ドサリ、と身体が地面に伏す。
首の断面からは、タラタラと鮮血が流れていた。
「さて、急がねば」
肩を手で払いながら、リュウドウは颯爽と足を運んだ。
*
「誰だ、貴様。何の用だ」
セラフィエルが、言葉を切りながら、冷静な声調でリュウドウに問いかける。
しかしながら、リュウドウは質問には耳を傾けず、ベアトリーチェの傍らに立っていた。
彼の視線が彼女に注がれたと同時に、その傷だらけの身体が薄い光に包まれた。
「契約でしてね。彼女だけは殺させないようにしないと」
至って穏やかな口調。だがその態度が、却って不気味さを醸し出している。
本能に訴えかけるような、恐怖。
――…………なんなのだ、このガキ。気配が、全く無い。魔力すら、一切感じない……。だが……。
その黄金色の瞳で、リュウドウを睨んだ。
――……凄まじい、謎の威圧感………………。
身を構え、険しい表情を浮かべるセラフィエルだったが、リュウドウは依然として薄ら笑いを消さなかった。
姿勢よく、その場に立っている。
「さて――」
その一言で、彼の雰囲気が、空気が変わった。
声は今まで以上の、落ち着きと厚みが含まれている。
「近頃は、腑抜けた輩とばかり顔を合わせていたゆえな」
表情は変わらない、態度も変化なし。
ただ、口調が変わっていた。
「少々、遊んでくれたまえよ」
楽しげ、と言わんばかりの不敵な微笑。
左手を前に出し、明らかな戦闘の構えだった。
「……………………。」
目の前の光景に、セラフィエルは最大限の警戒と懐疑を抱いていた。
――……こいつ。
更に眉間へ皺を寄せ、正面の美青年を測る。
――………………得体が知れなさすぎる。だが、大英雄の陣営ならば、排除……。
彼の魔力が揺らぎ、密度を増した。
右手を差し出し、スキルの構えを取る。
――……ここは様子見。初手から、出し惜しみは無しで行く……。
空気が張り詰めた瞬間、セラフィエルの指先が黄金に輝いた。
衛星のような、光球が三つ彼の背後に流れ出るように浮かび、光を放つ。
――負十三等星・朔望の軸線。
三つの光球が、一直線に凝縮され、網膜を焼き払うほどの閃光が光線となりリュウドウに照射された。
スピード、火力、大きさは先程までとは桁違いである。
バヂイイィ――――
だが、その光線はリュウドウが突き出した掌に当たり、散乱した。
拡散した光の線は、周囲の木の葉や草木に穴を点々と開ける。
「――!!?」
あまりの衝撃的な光景に、セラフィエルの眉が僅かに上がった。
――……素手で、弾いた…………!?
奇想天外な出来事だが、リュウドウは歯を見せて微笑んでいるのみ。まさに強者の風格を匂わせている。
光線を防いだ掌を眺め、口を開いた。
「ふむ、手が焦げてしまったな。なかなかどうして、良いスキルを持っている」
教諭が賞賛をするかのような口調。
彼の掌は黒く燻り、煙を漂わせている。しかし、それだけ。殆ど、ダメージを負っていない。
「それはどうも。生身で弾いたのは、貴様が初めてだがな」
言いながら、セラフィエルの背後に複数の光球が現れ始めた。
戸惑いを無理やりに飲み込み、次なる一手の準備をする。
リュウドウは未だに間合いを詰めようとも、攻撃を仕掛けようともしていなかった。楽しげな薄ら笑いを湛えたまま、セラフィエルを窺っている。
――………………畳み掛けて、様子を見るか。コイツのスキルさえ分かれば……。
右手を翳し、光を強める。
滑らかに、その右腕を振り払った。
――負七等星・漸近閃。
黄色の光線。
先刻にベアトリーチェに放った技が、しなるように辺り一帯を切り裂いた。
鉛筆スケッチに消しゴムで線を引いたかのように、周囲は消し飛び、焦げ臭い煙が立ち上がる。
「中々の火力だな。貫通力も満点だ」
「……?!」
反射的に、体を翻し後退する。
バサリと音をたてて、法衣が滑らかに揺らめいた。
技を出し終えるとほぼ同時に、セラフィエルの直ぐ背後から声が上がった。
見れば、学者のように好奇心を孕んだ視線で、顎を撫でているリュウドウがいた。
――……いつ移動した。全く見えない……。瞬間移動のスキルか……?
セラフィエルの額に、幾年ぶりの冷や汗が、一滴浮かぶ。
未だ光沢を示すリュウドウの革靴、その足元に視線を向けた。
僅かに、擦れた土の形。
空間転移ではなく、単に移動しただけ。
速度が異次元である。
「どうしたね。もっと畳み掛けたまえ」
両手のひらを掲げ、誘うような態度をリュウドウは示した。
「……………………。」
固唾を飲む音が、セラフィエルの喉奥から聞こえる。
「もっと、君の美しき魔導を見せてくれ」
まるで、矜持と好奇心を満たしている最中の研究者のように、笑みを浮かべていた。
細められた目は、恍惚に、艶やかだ。
何を考えているのか、何を求めているのか、何をしてくるのか、全てが未知。
――…………何者なんだ、コイツ……。
二
流星群――否、天空から降り注ぐ、世界を焼くような光背が一面を崩壊させる。
――負十八等星・光星嵐輻射通量。
高速で移動しながら、無数の光線がリュウドウに集中砲火された。
どれも火力、精度、速度が常軌を逸している。
しかしながら、その全ては、
「……チッ……」
尽く跳ね返され、打ち消され、流されていた。
今や周囲の森は更地と言っても過言ではない。
黒く焦げ、煙が上がり、近くの岸壁や岩盤すら抉り消えていた。
だが、リュウドウだけは無傷そのもの。髪の毛、服装に至るまで全く汚れてもいなければ、乱れてもいない。
「……………………。」
あろうことか、全く反撃の意図を示さなかった。
寧ろ手で招くように、静かな挑発をしてみせる。
セラフィエルの魔力が、一段と跳ね上がった。
――負二十等星・不変量。
身体付近に浮遊していた光球が、掌の一点に集まり、一直線に放たれる。
その光線は洗練の極み。
無駄の無い細い線が、空気を切り裂くように甲高い音を立ててリュウドウに炸裂した。
触れずとも、光線付近の土や岩が融解する。
「おっと……」
等のリュウドウは、またも手で防いだのか、真っ黒に焦げた手を見て、呟いた。ポロリと指が焦げ落ちる。
「やはり素晴らしい火力だ。油断していると怪我するな」
揶揄ではない、純粋な賞賛。
しかし、達観するような声音。
「本当に何者だ、貴様……」
苛立ちを隠し切れないセラフィエルは、顔に嫌悪感と皺を浮かべて、高圧的に問いかけた。
――……かなりの出力を当てている……、いい加減、有効ダメージくらい受けてくれ。
リュウドウが掲げている、黒く崩れ落ちた右手を見ながら、内心で悪態をついた。
「……………………?!」
セラフィエルの目が見開かれる。
ボコボコ、ミチミチ、という音をたてて、リュウドウの右手が一瞬で元通りになったのだ。
皮膚が泡立つように隆起し、真新しい皮膚が生まれ、血管や神経のような管が現れ、肉、骨が再生していく。
――……自己再生だと……?
信じられないような光景を目にしたように、セラフィエルの顔には更なる皺が刻み込まれた。
「猪口才な……。熟練の魔導師か、人外なのか?」
「……………………。」
彼の皮肉混じりの問いかけに、リュウドウは軽く相好を崩すのみ。
互いに、スタリと更地となった地面に着地する。
一帯の木々は焼け消え、開けた景色が広がっていた。
「何も答える義理は無いな」
愉快と言わんばかりに口端を吊り上げ、肩を竦めるリュウドウ。
「……ただ、貴様ばかり技を見せるのもあれだ。ここはフェアに、私の番といこうか」
「……!」
その言葉に、セラフィエルは即座に身構えた。
「ヒントと捉えたまえ。これが私の、"片鱗"だ。じっくり観察し、判断すると良い」
ゆっくりと両腕を広げ始める。
――…………どう出る……。
その様子を見て、セラフィエルは技を発動した。出力を上げた、様子見の技である。
――負八等星・漸近閃!!
光線が、放たれた。
しかし、リュウドウは未だゆったりと腕を動かしており、防ぐ気も、回避の行動すらも取らない。
ただ、笑みを貼り付け、両手を胸の前に何かを包み込むような形で構える。
魔力が蠢いた。
まるで大山が揺れたかのような、空気の振動が感じられる。
リュウドウの口が、薄らと開かれた。
「……――⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎式理論」
セラフィエルの耳に、彼の低く小さな声が捉えられた。
――なんだ、?、なんと言った……。
それは詠唱か、技の名前なのか、彼の脳は一部しか聞き取ることが出来なかった。
「……『重閾』」
次は、ハッキリと聞こえた。
彼の、何かを包み込むように構えられた手の中で、空気が、空間が、渦のように歪む。
その刹那――、
ヴォオン――
空気そのものが捻れ、摩擦しているかのような重低音と共に、セラフィエルの光線が、"巻取られた"。
触れてもいない。
ただ蜷局を巻いた蛇のように、即座に、高速で軌道を変え、リュウドウの掌に収まってしまったのだ。
「……ッ……?!!」
そのまま、光線は球体状に丸め込まれ、リュウドウが手を払ったと同時に霧散した。
一体何をしたのか。
何が起きたのか。
「…………何を……――」
疑問を浮かべる間もなく、リュウドウは下に向けた掌を、ストンと滑らかに"落とす"。
同時に、
「………………??!!!」
スドオォォォンッ――――
そんな轟音と共にセラフィエルと、周囲の地面が潰された。
焼け消えた後の切株、岩、地面、セラフィエルが地盤沈下のようにめり込む。
「……ッ、うっ、…………グッあ…………」
ビリビリビリと、空気がブレる。
凄まじい何かが上からのしかかるように、周囲は下へとめり込んでいった。
地面に埋まる程に潰されている、セラフィエルの身体はギシギシと軋みをたてており、鼻からは血が流れる。
その血すら、地面に吸い寄せられるように落ちて行く。
フッ――――
しかし、瞬間にしてその重圧が消え去った。
「…………カハッ…………」
息すら困難な状態であったセラフィエルは、激しく咳き込み、肋を抑える。
直ぐに立ち上がろうにも、身体中から軋むような音が聞こえて来た。
「……………………。」
だが、リュウドウは技を止めただけでなく、追撃すら行う様子が無かった。
必死に足を踏ん張り、何とか立ち上がる。
「……ハァッ、何をッ………………」
掠れる声で、喉奥から声を絞り出した。
リュウドウは沈黙のまま、右手を差し出し「来い」と言わんばかりにクイッと動かす。
その様子を見て、セラフィエルの顔に青筋が盛り上がった。
眩い光線を三連放ち、同時に地面を蹴る。
――……理解したッ……。コイツの固有スキルは『重力操作』ッ……。
まるで光線と同等のスピードと言える程に、一瞬で間合いを詰めた。三本の光線も、リュウドウを捕え着弾寸前である。
――魔導師ならば、間合いを詰める……! 重力に影響されない速度を保ち、そのまま殺すッ。
三本の光線と同時に懐へ飛び込む。
牽制と攻撃を一重に孕み、且つ一度に複数の攻撃を叩き込む、まさに戦闘慣れを体現する戦法。
だが当然、無為に終わった。
ヴィィィィイイン――
セラフィエルの視界が歪んだ。
否、世界が歪んだのだ。
リュウドウに触れる寸前、光線も、セラフィエルの体も一方向に吸い込まれるように歪んだ。
まるで潮汐力のように、無理やりに流される。
そして、超速度で身体は吹き飛ばされた。
「…………グァア゙…………ッ」
一秒もしないうちに、数百m近く遠方の岸壁に激突する。
「?!――」
目を開けると、自らが放った光線も飛んで来ていた。
そのまま、岸壁に着弾し、岩盤を融解させる。
――……空間が、歪んだだと……っ。
着地し、数滴の吐血をこぼした。
見れば、リュウドウが目の前に浮遊していた。
見下ろしている。
――空間を歪ませるほどの、出力……。
無理やりに笑みを湛え、立ち上がった。
法衣の乱れを直しながら、冷静に深呼吸をする。
「驚いた。……まさか重力魔法を使うとは」
どのような形態であれ、重力を扱う魔導は高等技術に該当する。
セラフィエルは鎌をかける意図も込めて、言葉を投げかけた。
しかしリュウドウは小さく笑みを零しただけだった。
「……不正解だ」
スタッと地面に降り立つ。
「………………。」
「勿論、空間でもない。厳密にはもっと別の物を扱っている」
「…………なんだと……」
「魔力で身体周囲を包んでの高速移動か、重力操作の対策としては満点だ。しかしながら、この技には無為。重力魔法の弱点である空間転移すら意味を成さない」
人差し指をクルクルと回しながら語った。
その指の付近は、渦のように景色がぐにゃぐにゃと歪み続けている。
「そうか。で、なんだと?」
「解説は以上ということだ。さて、番を譲ろう」
セラフィエルの言葉による挑発を意に介さないように、リュウドウは口角を上げた。
その台詞に、セラフィエルは怪訝な様子で顔を顰める。
「……番、だと?」
「自由に撃ってきたまえ。君の『結論』を、私が受け取ってあげよう」
両手を広げて、無防備な姿を見せた。
嫌気が刺してきたセラフィエルは、奥歯を食いしばり、手を前に掲げる。
プライドが、警戒よりも先に沸騰した。
「ならば、そろそろ死んでもらうッ」
声を荒らげて、魔力出力を格段に上昇させた。
上空へ飛翔し、見下ろす。
リュウドウの言葉が、積み上げてきた全ての矜持を逆撫でた。
全力を出すことへの逡巡が消えた。
もはや測る必要もない。全魔力の収束、一点への集中、空間そのものを抉る密度の熱線。
頭部よりも大きな光球が無数に現れ、凝縮される。
「消えろッ、クソガキが!!!」
――負三十等星・無窮光の夜空逆説
寸陰、頭上の青空一面が太陽のように光り輝いた。
恒星で天球が埋め尽くされるように、広大な空が閃光に染まった。
放出の瞬間、周囲の大気が弾き飛ばされ、真空に近い領域が発生する。
その真空が一瞬後に埋め戻される衝撃波が、地面を水面のように揺らした。
熱線の中心温度は、概念として「高い」という言葉が機能しなくなる領域にあった。
接触した物質は燃えるのではなく、燃えるという過程を省略して別の何かになる。
岩は光になり、光は歪んだ空間の皺に吸収され、その皺すらも熱の暴力に溶かされていく。
視界の全てが白に変わった。
リュウドウの輪郭が、光の濁流に呑まれる。
豪雨のように降り注ぐ光線。
「………………。」
セラフィエルは感じた。
確かな手応え。
熱線が何かの「核」に触れ、それを押し潰し、拡散させる感覚。
それは長年の戦闘で培った感覚であり、外れたことのない感覚だった。
視界を埋め尽くす閃光の中で、肺に溜まっていた熱い呼気が、声として溢れようとしていた。
閃光が収まる。
そこには、何も残っていなかった。
地面は溶けて滑らかな鏡面になり、空気は透明度を失って陽炎のように揺れている。
「…………………………。」
風が止んでいた。
完全な静寂。
完全な終了。
セラフィエルは、勝ったと確信したのであった。
ふわりと、その地面に着地する。
「………………やっとか」
短く溜息を吐き、目の前に転がる物を見た。
それは、焼け焦げ、鼻を突く異臭を放つ塊。
リュウドウの焼け残った肉体の残滓である。
一切の無駄を排した完成形の容貌は、今や真っ黒に染まり、ただの炭と化していた。
胴体と、頭らしき輪郭のみが視認出来る。
「チッ……中々に手こずらせる……」
喉の奥から、唸り声のような悪態を吐き出し、その肉塊をぐしゃりと踏みつけた。
ブワッと、オゾンの匂いが漂う。
既に内部まで炭化していた肉体は、簡単に崩れた。
勝利が、輝きを放つ。
*
「さて……、さっさと帰還を――」
砂のように崩れた炭を眺め、顔を上げた。
振り返り、法衣を翻した瞬間に、違和感を感じた。
喉の奥で言語が引っかかる。
言葉が出ないのではない。
言葉を発しようとするより前に、自分の声が「後ろから」聞こえてくるような感覚に、全身が支配された。
「…………?」
反響ではない。
こだまでもない。
自分がこれから発するはずの音が、既に発された音として耳に届いている。
因果の順序が、一秒だけ逆転したような感覚。
「…………なんだ?」
空を見上げた。
熱線の軌跡が、まだそこにあった。
残光ではない。
軌跡そのものが、空間に刻まれたように静止していた。
高温の光が大気を引き裂いた際に生じるはずの揺らぎが起きていない。
ガラスの内側に閉じ込められた泡のように、その線はそこに在り続けている。
「…………は?」
亀裂、という言葉が脳裏に浮かんだ。
世界の表面に、誰かが細い線を入れた。
パリン、と音がした。
耳ではなく、頭蓋の内側に直接響いた。
音が空気を伝わってきた感触がない。
振動が骨に走った形跡もない。
にもかかわらず、その音は確実に聞こえた。
「………………??!」
五感がズレたような感覚が走る。
一拍後、周囲の景色が静止したように感じた。
言語化の出来ない、謎の違和感と不快感。
「なにが………………」
その時だった。
視界の端で、色が動いた。
動いた、という表現も正確ではない。引かれた、が近い。
炭化した地面の黒も、空を裂いた熱線の残白も、滲んだ大気の青みすらも――それらの全てが、ある一点に向かって、ゆっくりと、しかし確実に流れ始めていた。
川ではない。
渦でもない。
ただ、世界の彩度が一方向へと傾いでいく。
セラフィエルは反射的に、その「一点」を目で追った。
一点が世界の色を呑んでいた。
光を反射しているのではなく、光ごと景色を手繰り寄せているような、そういう種類の深さ。
焦点が合っているのか合っていないのかも分からない。ただ、見るたびに、視界の情報量が一欠片ずつ削られていくような感覚があった。
パリン。
また、頭の内側で音がした。
今度は、景色に亀裂が見えた。
文字通りの亀裂ではない。
光の屈折が、あるべき角度からわずかにずれて、景色の一部が二重に重なって見える。
遠くの岩盤の輪郭が、一瞬だけ二つに分裂し、次の瞬間には一つに戻っている。
眼の問題ではないと、本能が告げていた。
世界の側が、剥がれかけている。
万象の色彩が、一点へと収束していく。
否、"瞳"に収束していた。
熱線の残光も、空間に刻まれた亀裂の軌跡も、セラフィエルの勝利の残響すらも――その深淵のような双眸に吸い寄せられ、音もなく、跡もなく、消えた。
その全ての景色も、事象も、瞳に反射した風景のよう。
リュウドウが、一度だけ瞼を閉じた。
それだけだった。
瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
世界は既に、入れ替わっていた。
「――????!!!?!?――???!」
「おや、終わりか」
頭上から声がした。
セラフィエルの身体は、地面に伏していたのだ。
――なにが、何がッ、一体なにがァッ………起きたっ……。
見上げることが、一瞬できなかった。
見上げるという動作を、自分の身体に許可することへの恐怖があった。
許可した結果として何が見えるかを、既に身体が知っているかのような恐怖が。
それでも、見上げた。
リュウドウが立っていた。
指一本、動かしていない。
直立不動。
首を僅かに傾げ、セラフィエルを見ている。
その眼に、戦闘の痕跡が何もなかった。
迎撃した者の顔ではなく、実験の経過を観察していた者の顔だった。
「……………あ゙ぁッっ………………、???!!」
セラフィエルは自分の右腕を見た。
焼けていた。
内側から。
皮膚の表面ではなく、筋線維の一本一本が、自分が放ったはずの熱量を吸収して崩壊していた。
炭化した組織が、動かそうとするたびに軋む。
――なな、何故ッだ…………!
自分のスキルの暴力を、自分の肉体が引き受けていたかのように。
「今の『景色』は、君の最高傑作か」
リュウドウの声は、相変わらず静かだった。
戦闘の興奮の欠片もない。
「ふむ、素晴らしい熱量だった。……だが、私の前で『勝利』という前提を立てるのは、おすすめしない」
「が、あ゙ァッ、なにが……っ、……一体、ッ何をした……!!」
確かに、焼き払った。広大な土地ごと。
確かに、彼の炭になった体を見た。
確かに、踏みつけた。
確かに、――勝った。
「良い、見させてもらった。全て現実だ。……私が、それを棄却しただけ」
ゴミ箱の中の、夢だったのだ。
「…………幻術っ、魔法かッ…………ッ」
歯を食いしばり、血の混じる息を吐きながら、セラフィエルはリュウドウを睨みつける。
その視線は鋭いはずだった。だが――焦点が、僅かに合っていない。
「大いに不正解だ。言ったろう、現実だと」
抑揚のない声。
だが、その一言が落ちた瞬間、空気がわずかに沈んだ。
「………………うっ、……フゥッ、クそっ………………」
肺が焼ける。
思考が、まとまらない。
現実という言葉が、妙に重く、頭の奥に引っかかって離れなかった。
リュウドウは、ゆっくりと片膝をついた。
その動作一つに、音がない。
ただ、距離が詰まる。
逃げ場が、消える。
妖しげに、口元だけが歪む。
薄い笑み。だが、そこに温度は一切ない。
顔が、近づく。
視界が、塗り潰される。
覗き込む瞳――
深淵だ。
底が、見えない。
右目の奥で、微かな光が瞬いた。
先程、確かに"現実"を取り込んだ、その残滓。
それは光でありながら、光ではない。
理解した瞬間に、思考が拒絶する。
「今回は見逃そう。――ただ、」
囁くように、だが逃げ場のない声音で。
それだけで、心臓が強く跳ねた。
「これ以上逆鱗を撫でるというならば」
ゆっくりと、言葉が落ちてくる。
一つ一つが、重い。
「直々に、貴様ら虫螻を踏み潰しに参ろう」
笑みは崩れない。
むしろ、僅かに深くなる。
美しい、あまりにも。
だが、その整いすぎた造形が、かえって異質で、恐怖だった。
生物のそれではない。
鬼神よりも、魑魅魍魎よりも――恐ろしい何か。
「あの大英雄とて、憎んでいるだろうて。じき、辿り着くぞ」
吐息が、耳朶を掠める。
冷たい――否、温度ではない。
触れた瞬間、内側から凍りつくような錯覚。
心臓が、遅れる。
拍動が、噛み合わない。
血流が、逆流するような違和感。
本能が、拒絶している。
それでも、目が逸らせない。
逸らした瞬間に、"終わる"と錯覚してしまう。
「化けの皮、剥いでくれよう」
囁き。
恐怖、生物として、生き物として抱く、純粋な恐怖。
圧倒的な、存在の違いか。
「楽しみに待っているといい」
四
「憐れな……。これでは、修行とは言えない」
既に傷は塞がっているものの、ベアトリーチェの衣服と鎧は血で汚れていた。
目元は泪を流した後がくっきりと残っている。
リュウドウは彼女を抱えたまま、ゆっくりと歩いていた。
エルディアス領に、静けさが沈み込んだ。
〜エルディアス家・邸宅〜
「クソァッ!! あのガキは、アウソルは何をしているんだ!!!」
広大な応接間に、中年の貴族の怒号が反響した。
周りに立っている、盗賊のように無骨な格好の男らが、肩を跳ねさせた。
傍らの、女性辺境伯がグラスを投げ飛ばした侯爵を宥める。
「止めなさい。やはり、怪しい宗教団体は宛にならなかったということですよ……」
「しかし、これでは……。聖七天が来国しているなど、誰が予想できるかッ……」
女性辺境伯にそっくりな、端整で濃い眉毛をガリガリと掻きむしる。
「こんな事なら、手を組まなければ良かった……! ただでさえならず者をバックに添えるだけで精一杯だったと言うのに……っ」
頭を抱え、目線のみで男らを睨みつけた。
「こうなったら、大英雄だけでも殺せ! 我々が、まだ有益だと――」
コンコン――
唐突に、ノックの音が響き渡った。
一瞬で静寂に包まれる。
侯爵は男らにアイコンタクトを送り、顎で扉を指した。
男の一人が、静かに頷き、扉に手をかける。
重い木扉が音をたてて、ゆっくりと開かれた。
「……………………。」
扉の向こうには、無表情のリュウドウが佇んでいたのだった。
*
夕刻、エルディアス領は騒がしかった。
広場に出た市民たちは、隣人と顔を見合わせ、あるいは誰に問うともなく宙を仰いだ。
不安と困惑が、波紋のように街路を伝わってゆく。 一方、邸を囲む兵士たちの表情は、それとは異なる色で染まっていた――焦燥。
事態の輪郭さえ掴めぬまま、上の命を待つしかない者たちの、乾いた緊張だった。
エルディアス邸の惨事。周辺の森の、跡形もない消滅。
この二つの報せは、すでに領内の隅々まで届いていた。
しかし、何が起きたのかを正確に語れる者は、まだ誰もいなかった。
人々はただ、燃えたわけでもない森の消えた方角を遠巻きに眺め、または邸の閉ざされた鉄門の前に立ち尽くし、それぞれの想像の中で最悪を育てた。
この騒ぎが、領の瓦解へ続く一歩となるのか。
あるいは、膿を絞り出すような痛みの果てに、何かが改善される端緒となるのか。
誰にも、分からなかった。
五
「……………………!」
小窓から穏やかに差し込む、昼下がりの優しい光が、ベアトリーチェの瞼を撫でた。
ゆっくり重い瞼を上げると、そこは、
「……?」
切り刻まれた森でも、匪賊と軍が下品に手を組む領地でもなかった。
古い家の中。
所々小さな罅が壁に走るも、丁寧な清掃が行き届いている家。
家屋らしい和やかな匂いが、鼻腔に満ちる。
「ここ、は……」
疑問を声にするが、喉元で掠れた。
腹に、肺に力が入らない。
上体を起こそうとすると、全身に激痛が駆け巡った。
見れば、バンテージやガーゼで身体が覆われている。木乃伊のように治療された跡は、医者が施したかのように整然だ。
掛けられた薄いシーツを捲り、痛みを我慢しながらゆっくりと体を起こす。
小さな部屋。
ベアトリーチェが寝かされている小さなベッドと、丸いテーブルのみ。
カチャ――
小さな音と共に、部屋の扉が開かれた。
「起きたようですね。良かった」
リュウドウだった。
安堵の声音を洩らしているが、その表情は薄い笑顔のみだった。
手には薬草粥の入った器を載せた木製のトレイが持たれている。
用意したばかりなのか、仄かに湯気と薬草の香ばしく優しい香りが鼻に届いた。
「………………。」
丸テーブルにトレイを置き、木製椅子に腰をかけるリュウドウを、ベアトリーチェは力なく見つめた。
その目には、疲労と消耗が滲み、何より絶望か悲愴の色がある。
この状況から、彼女はほぼ全てを悟った。
敗北、喪失。
思い出すまいと脳が警鐘を鳴らす。
「………………。」
普段食い意地の強い彼女が、粥に見向きもせず視線を落とし、シーツを握りしめている様子を見て、リュウドウは敢えて一瞬言葉を切った。
「……ここは、エルディアス領外縁の農地です。四日前に農家の方からお借りしています」
「……………………4日……」
つまり、その間はひたすら昏睡していたということである。
額に掌を当て、呻きのような溜息を深く吐いた。
「……エルディアス領は、何が…………」
何が起きていたのか、どれ程に腐り果てていたのか、という言葉が、喉で引っかかる。
ローディスとの会話と、謎の剣士アウソルとの戦闘。そしてその兄とやら。
事件と呼ぶに相応しい、不可解な出来事だった。
「辺境伯ぐるみの汚職だったそうです」
声音を抑えて、リュウドウが口を開いた。
「エルディアス一族は、私欲のために盗賊すら雇っていた。汚れ仕事は彼らに、表のカッコつけは正規軍に。そして、シンジケートは"カルト教団"に繋がっていたということです。私益を肥やすことだけを目指し、一族で近親相姦を繰り返して血の繋がりを強めていたとか。その結果、彼らの特徴的な眉毛が完成したそうで。
……何より不幸な事に、教団は貴女の殺害を目的としている。レイピアの剣士は匪賊と共謀。その兄とやらはエルディアス一族との繋がりは無いものの、信徒の一員です」
彼の説明を、ベアトリーチェは視線を落としたまま聞き入っていた。瞬間に強烈な吐き気と嫌悪感が、胃から迫り上がる。
「勝手ながら、信徒は追い払いました。領地のゴタゴタもある程度は掃除した後です。
療養が終われば直ぐにでも――」
「リュウドウ……」
語尾を遮るように、ベアトリーチェは名前を呼んだ。
初めて視線が向けられる。
「……3人は」
真っ直ぐに、彼を見つめて口端を引き攣らせた。
シーツを掴む手に、より力が込められる。
「アルヴィスと、ルル……、セレスさんは……」
無意識に、彼らの散華した瞬間の光景がフラッシュバックした。
胴体を、肩を切断され、心臓を焼かれた、あの景色。
掴めない、触れられないと分かっている一縷の望みを、無為に吐き出す。
「……………………。」
リュウドウは目を伏せ、小さく息を吐いた。
またもや言葉を切るが、直ぐに口を開く。
「……埋葬してあります。腐敗が進む前に、せめて綺麗なまま弔おうと……」
「……………………――――…………。」
希望は元より無かった。
分かっていた。
あの怪我は助からない。
目の前で散った、あの瞬間。
「…………そう、か……あ、ありがとう……。………………ゥっ」
しかし言葉を聞いた途端に、喉奥から熱せられた汚泥が溢れてくるような感覚に襲われる。
不自然に鼓動は遅く、大きく跳ね、目頭が熱くなった。脳裏に、彼らの笑顔が反芻されていく。
「……クソ……」
嘔吐のように、小声がこぼれ落ちた。
「………くっ……………畜生……」
唸り声が漏れる。
ベアトリーチェは顔を抑え、涙を塞き止めるように力を入れた。
そして、
「…………クっッソぁ゙、!!」
掠れた声にならない怒鳴り声を上げ、壁を叩いた。
その衝撃にガーゼが僅かに赤く染まり、部屋が揺れる。
「ぐっ……ゥウウウぅ、っ……」
両手で顔を覆い、呻き続けた。
只管に、ただ只管に、涙と嗚咽を洩らす。
リュウドウは目を伏せたまま、何も言わなかった。静かに、ベアトリーチェの肩に手を添えるだけ。
陽光が埃を煌めかせ、粥が湯気を失った頃、部屋には彼女の泣き声が響いていた。
*
「…………っ……」
容赦なく目を突く日光に、ベアトリーチェは眉間に皺を寄せた。
リュウドウの肩を借りながら、家屋から歩き出る。
雲一つ無い青空と、広大な農園。
小さな家屋の横には、菜園畑がこじんまりと構えられていた。
「…………あっ!」
その畑には、レタスや人参が植えられており、一人の老人がそれを収穫していた。その横には、土に汚れたフェンネが、鍬を持ったままベアトリーチェに気付き目を見開く。
しかし、敢えて駆け寄らなかった。
「…………うっ……」
「大丈夫ですか? 要安静とあれほど言ったのに」
足をよろめかせ、わずかに体勢を崩す。
傷が、遅れて主張してくるように脈打った。
支えようと伸びる腕。
リュウドウは半ば抱き寄せるようにして、その体を支える。
口調は呆れを含んでいた。
だが、その手つきは驚くほど静かで、乱暴さがない。
二人はゆっくりと歩き出す。
風が抜ける、ひらけた場所へ。
やがて――
「………………!」
視界が開けた瞬間、ベアトリーチェの足が止まった。
支えを、振りほどく。
よろめきながらも、前へ。
そこにあったのは、三つの簡素な、墓標。
土はまだ新しく、わずかに湿り気を残している。
その前に、白いサクラソウが供えられていた。
場違いなほどに、静かだった。
風が、花弁を揺らす。
それだけだ。いくら彼らの笑顔が反芻されようと、その笑い声は聞こえない。
ベアトリーチェは、ゆっくりと膝をついた。
土に触れる。
確かな重みが、そこにあった。
「誠に勝手ながら、このように……」
背後から、リュウドウの声。
低く、抑えられた声音。
弁明でも、言い訳でもない。ただの事実の報告。
「…………ありがとう、充分だ……」
かすれた声で、それだけを返す。
視線は、墓標から動かない。
名前を、刻む余裕すらなかった木片。
だが、誰のものかは、分かる。
「……………………。」
喉が詰まり、言葉が出なかった。
――…………すまない……本当に、すまない……っ。
何度も、胸の内で繰り返す。
だが、それを口に出す資格があるのかすら、分からなかった。
拳を、握る。
震えが、止まらない。
土に落ちた雫が、ゆっくりと染み込んでいく。
その痕跡だけが、確かに今を残していた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
風が、また一度吹く。
白い花弁が揺れ、ひとひら、地に落ちた。
それを、ぼんやりと目で追う。
「………………………………。」
濡れた視界に、終わったのだと理解する。
ゆっくりと、息を吸う。
肺が痛む。
それでも、吸う。
吐く。
もう一度、呼吸を整えた。
顔を上げることは、まだ出来ない。
だが、視線は、わずかに前を向いた。
指先で、土を軽く押さえる。
崩れないように、形が残るように。
それだけの、ささやかな動作。
背後に、気配がある。
変わらず、そこにいる。
何も言わず、ただ待っている。
ベアトリーチェは、わずかに唇を結んだ。
涙は、未だに止まらなかった。
震えも、絶望すらもとめどなく流れ出る。
墓標が、風に揺れていた。
ベアトリーチェは、その前から動かない。
拳は固く握られ、爪が掌に食い込んでいる。
痛みは感じなかった。感じる必要が、なかった。
守れなかった。
失ってしまった。
彼らの夢を、途絶えさせた。
その事実だけが、胸の底に沈んでいる。
言い訳の言葉も、嘆きの言葉も、浮かんでは消えた。
「…………………………。」
声は出ない。出し方を、忘れたように。
地面に視線を落としたまま、立ち尽くす。
墓標の影が、少しずつ伸びていた。
時間だけが、動いていた。
背後で、足音が止まる。
「――ベアトリーチェ」
いつもの、穏やかな敬語ではなかった。
低く、静かな声。
飾りを削ぎ落とした、芯だけの声。
「これは、荷物持ちとしてではない」
一瞬の間が落ちる。
「魔王として、其方に言う」
風が止む。
世界が、息を詰めたようだった。
「これが修行の旅だ」
淡々と。感傷を挟む余地のない、事実の告知として。
「理不尽は選べない。死は順番を守らない。覚悟の有無など、関係ない」
ベアトリーチェの肩が、わずかに震える。
反論の言葉を探した。しかし、見つかるはずも無い。
「いつまでも背後の屍を眺めるな」
冷酷にも聞こえる声音だった。
だがその奥に、微かな重みがある。
冷たさとは違う何か。
長い年月をかけて積み上げられた、重みだった。
「前へ進め」
短い命令。
「我らも、そうした」
そこで初めて、彼の声がわずかに沈む。
「失った。守れなかった。取り戻せなかった」
否定も、言い訳もない。ただ、置かれた石のような言葉だった。
「だが、進んだ」
静かな断言。
「進み、立ち続けたから、今がある。今の、王座をもぎ取っている」
ゆっくりと、彼は彼女の隣に立つ。同じ墓標を、同じ高さから見る。
「其方が背負うのは、後悔ではない」
ほんの一拍。
「意志だ」
「…………………………!」
「守れなかった者の分まで、強くなる。それが騎士だろう」
ベアトリーチェの喉が、かすかに鳴る。
こらえた。こらえようとした。
目の奥が、熱かった。
「泣くなとは言わん。忘れろとも言わん」
低い、威厳の感じる声。
「だが、止まるな」
わずかな沈黙が落ちる。
風が、また動き始めた。
サクラソウが揺れた。
「其方は、完成を越えるのだろう」
その言葉が、静かに胸を打つ。
責めではなく、問いでもなく。すでに決まったことを告げるような、確信の響きだった。
「ならば――進め」
命令ではない。
長い道を先に歩いた者が、後に続く者へ手渡す、託す声だった。
ベアトリーチェは、唇を結んだ。
答えなかった。答えられなかった。
だが、握りしめた拳の中で、何かが決まっていくのを感じた。砕けるのではなく、凝るように。固まるように。
墓標が、風の中で静かに揺れていた。
「背中を支えることくらいは出来る」
その声は、先程までの穏やかで優しげな声音に戻っていた。
生暖かい風が頬を撫でる。
サクラソウが揺らされ、落ち葉がゆっくりと舞って行った。
ベアトリーチェは視線を上げ、その青空を視界に収める。
まるで行き先は、道のりは壮大で過酷だと言わんばかりの、どこまでも続く空。
地面を踏み、立ち上がった。
足元は、揺れなかった。
「…………感謝する」
声は震えていなかった。湿ってもいなかった。
確固たる騎士の声だ。
「進む。只管に――歩みを止めるつもりは無い」
再び、風が吹いた。
髪が揺れる。墓標が揺れる。
「三人の分も、進んでみせる。絶対に、折れない」
低く、静かに、しかし岩が地を割るような確かさで、決意を声にした。
不屈を、不撓不屈を、そのまま音にしたような言葉だった。
仲間の死。
故郷に刻まれた十字架。
理不尽とは呼ばなかった。
嘆きには変えなかった。
ただ、それを胸の底に沈め、その重さごと、前へ向かう燃料にした。
絶望は、受け入れた。
だが、決意がある。決心がある。そして、曲げることのできない意地がある。
その三つが、ベアトリーチェの足を動かしていた。
巨岩に押し潰されても。
足が折れても。
それでも止まらないと、その背中が語っていた。
「………………。」
今一度手を合わせ、祈りを捧げるベアトリーチェの頬を、サクラソウの花弁が優しく掠める。
舞い散る花弁は、慈愛のように美しかった。
人物紹介:アルヴィス、ルル、セレス。
アルヴィス・レイナード
金髪と爽やかな顔立ちがチャームポイントの好青年。パーティーの良心と常識枠。
身長:177cm
年齢:25歳
誕生日:11月12日
種族:純正の人間。
物心つく前に親に捨てられ、セレスの孤児院で育つ。彼にとってセレスは育ての親であり、同時に守るべき「家族」そのもの。
昔から危なっかしいルルのブレーキ役を一手に引き受けていた苦労人。
竜の国に無事着いたなら、勇気を出して「これからも一緒に暮らしたい」とルルに伝えるつもりだったが、その言葉が彼女に届くことはなかった。
彼が最期まで肌身離さず持っていた旅の日記の最終ページには、叶わなかった「これからの予定」が静かに綴られている。日記はベアトリーチェのブリーフケースに大事に保管された。
※参考キャラクターという訳ではないが、『葬送のフリーレン』の「ヒンメル」を想像しながら書いてました。
ルル
小柄な体に底知れぬ怪力を秘めた混血の少女。タンクという役割を根底から覆す「超・攻撃型脳筋」スタイルで前線を駆け抜ける。
身長:153cm
年齢:19~21歳前後
誕生日:不明
種族:鬼、竜人、人間の混血
ボド爺から譲り受けた、身の丈の2倍はあろうかという巨大な斧を振り回す様は圧巻。
「一番硬いアタシが暴れれば、誰も怪我をしない」という独自の謎理論で仲間を驚かせ、そして何度も救ってきた。
天真爛漫で食いしん坊。魔王たちの武勇伝を語る時の目は、誰よりも輝いている。
どれほど遠い場所へ行こうとも、彼女の中では「アルヴィスとセレスの隣」こそが唯一の居場所。
竜の国に着いた後、二人に内緒で美味しい肉料理を振る舞う練習をしていたことは、今となっては誰も知らない。
※参考キャラクターは、『トリッカル』の「ベルベット」。性能までかなり似通ってます。
セレス・エルミア
孤児院の子供大好き監督修道士。二人の成長を一番近くで見守り続けてきたお母さん的人物。
身長:169cm
年齢:200歳以上
誕生日:12月3日
種族:エルフ
実はお酒好きという茶目っ気のある一面を持つ(修道士としてはよろしくないが)。
旧友ボド爺とは、シルヴァ小王国に定住してからの静かな飲み仲間だった。
魔導師としての腕は一流で、回復や援護で幾度もパーティーの窮地を救った。
二人が強くなるにつれ、自分の魔法が必要なくなる場面が増えていたが、彼女はそれを「親としての何よりの誇り」として微笑ましく見つめていた。
エルフという永い時間を生きる彼女にとって、人間たちの命は瞬きの光に過ぎない。しかし、アルヴィスとルルと共に過ごした日々だけは、彼女の200年の記憶の中で、どんな宝石よりも眩しく、愛おしい季節だった。
技解説:
セラフィエルの負三十等星・無窮光の夜空逆説は、実際に提唱されている『オルバースのパラドックス』を元ネタにしています。
場違いな程に強い技でしたが、場違い代表のリュウドウが訳の分からんスキルで無効化してしまいました。可哀想に。




